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297 朝になれない夜もある
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12月18日の午前8時。眠りから目を覚ました私は、ぐらつく頭を振った。窓から差し込む光を浴びて、失っていた理性を徐々に取り戻す。
「……これは、まずいことになったかもしれないーー」
今日初めてムーンバレットを知った方のために自己紹介を。
ムーンバレットではベーシストをしていて、時折モデル業もこなし、最近ではアニメーション映画の声優を務め、会社勤めをしているとき上司に、ビールは最初のひとくちが美味しくて、ワインは尻上がりに美味しくなると言っている人間を見るとイライラするかもしれないが、それはどんな酒でも最初から最後まで美味しく感じるようになってしまったお前が異常なだけであって、二度と元の一般ドランカーと意気投合できるとは思わないことだ。お前はいつか酔っぱらいのトップ・オブ・トップ、ゴッドドランカーになるかもしれない。これ以上の頂上がないと知ったときの虚しさと孤独は誰にも理解されないかもしれない。だが、本当にそばに誰もいないか胸に問いかけて欲しい。お前のそばにいつでも寄り添い、決して裏切らなかったのは誰だろうか。酒だろう。酒があっただろう。酒を飲め。酒に酔う自分に酔え。そして酒の泉に沈んでいく自分を想像しながら、最後は親指を立てて消えていけ。ターミネーター2のエンディングみたいに消えていけ。お前の生き様を俺は決して忘れない。さあ、お前に教えることはもう何もない。会社をやめても頑張れよーーそう言われてロックバンドに戻ってきた女。
それが私。
朝丘恵。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
日付は12月17日の夜にさかのぼる。宮森いさお監督の最新作「竜王」が完成し、今週はプロモーション期間に入っている。出演者も表に出て番宣を頑張っているが、主に稼働しているのは、主演の赤村朱人、二番手の山田辰範、三番手の藤澤樹里の3名だ。
私もそれなりに頑張ってきたつもりだけど、広く一般的な知名度でいったら全然だ。ムーンバレットを知っていても、ファンじゃない人にしたら、ボーカルの南野歌奈以外は知らなくて当然。表に出ていっても「お前誰やねん」と言われてしまい、逆効果になりかねない。
そんなわけで四番手以下のメンバーは、舞台の稽古に備えて準備期間に入った。 自分でも驚くべきことに、私は現在、酒を飲んでいない。断酒を決めたわけではなく「竜王」の舞台が終わるまで気は抜けないから。バンド活動であれば、オン、オフのスイッチ切替は比較的スムーズ。もちろんライブ前は控えていたし、オフにたんまり飲んでも支障がなかったーーと自分では思っている。
一番大きいのは、いざというとき頼りになる仲間がいないということ。他の共演者の力量は推して知るべしで、芝居に対する姿勢には、なんの疑念もない。ただし、知り合って間も無く、精神的に甘えられるほど関係性を築いていない。 ムーンバレットのときのような阿吽の呼吸は通じない。目と目では通じ合えない。
そんな周囲と打ち解けていない私を赤村くんは見かねたらしい。番宣をしないメンバーと親睦を深めるべく、食事会を設定してくれた。ついでに、自分の彼女である漫画家ーーマドモアゼル翡翠さんとも仲良くなってあげて欲しいと頼まれた。
しかし、夜集合だったので奏太くんは、欠席。真剣山さんは芸人のライブがあって欠席。金田さんは自分の劇団も見ないといけないので欠席。
集合したのは私と、声優の鳴智也さんと、マドモアゼル翡翠さん。すごい不思議な座組みになった。さらにマドモアゼル翡翠さんは未成年。居酒屋に連れていくわけにもいかず、丸の内のビルにあるお洒落なラーメン店で黙々と食事をした。会話は全然弾まなかった。トッピングの煮玉子美味しいね、くらい。
それでもマドモアゼル翡翠さんは私たちに「本当に楽しかったです。ありがとうございました」と深々と礼をして帰っていった。自分より若い子に気を遣わせてしまった。本当に申し訳ない。
よく考えたら、酒の入っていない私なんて、ガソリンの入っていない車みたいなものである。なにひとつ、くだけた冗談も言えない堅物なのである。
「はあ……仲間と酒に甘えて生きてきちゃったな」
ふと私の弱音が言葉に出てしまう。隣にいた鳴さんは不思議そうに尋ねる。
「彼氏には?」
「いえ、なんというか、侵しがたい聖域みたいな人なんで、つまらないことは言えないっていうか」
「あーわかる。好きすぎるとね、かえって寄りかかれないよね」
「鳴さんはそのへん上手そうですよね。なんでも相談できそう」
「まあね。大事にされるより、雑に扱われるくらいがちょうどいいのよ」
鳴さんは、自嘲するように笑って惚ける。
不思議なひとだと思った。どっしりとした懐があるようにはまったく見えないけれど、その手に掴まれば、気球みたいに、どこまでも連れていってくれそうな軽やかさがあった。
「鳴さんは、お酒は飲みますか?」
「飲むよ。次の日に何もなければね。むかしはガンガン飲んでたけど。それじゃ駄目だなって」
「プロ意識ってやつですか?」
「違う違う。盛り上がって、その流れでーーね?」
ああ、そうだった。この人は共演者キラーとして有名だった。今回の現場でも、樹里さんと私は、鳴さんと男女の関係になるんじゃないかともっぱらの噂だ。
鳴さんと関わらない人たちにとって、鳴さんは軽薄で女たらしでいい加減なひとに見えるだろう。事実、このひとはそうだ。その通り、軽薄で女たらしでいい加減だ。そう演じてる。そうしないと、自分の存在を保てない弱さを持っている。
私は鳴さんに訊いた。
「打ち解けるのも早いけど、別れるのも早いのはどうしてなんですか?」
「最初の設定がユルいでしょ。別にお互い気持ちがあったわけじゃないし、思い出もないし、そもそも続けていくつもりがないからこそ、そういう流れになったわけで」
「雑に慣れすぎると真剣になれない?」
「そ。何も生まれないけど、傷つかないでいい。だけどいつまでもぬるま湯に浸っていたら、熱いお湯には入れない。悪いお手本ですよ、俺は」
鳴さんはまた笑う。このひとは毎回同じ顔をする。本人は無意識かもしれないけれど、自分の中で表情パターンを決めていて、このときは「笑う」。このときは「怒る」。このときは「泣く」って、ボタンを押すみたいな作業をしている。それがわかると、本当の顔が見たくなる。本人が決めていない顔を知りたくなる。作られた「笑顔」でこれほど素敵に笑うなら、本当の「笑顔」はどれほど素敵なのだろうかと考える。
その笑顔を向けられる相手は、どれほど幸せなのだろうか。自分に向けられたらどんな気持ちになるのだろうかーーそう気になったのだ。
ああーーそうか。
私は、私の本質を知る。
私の心はこんなにも移ろいやすいものだったのか。
私は冬馬さんの最低保障になると誓った。 何があっても裏切らず、離れないと誓った。
恭子さんはカナちゃんが私の最低保障だと言ってくれた。何があっても、カナちゃんだけは裏切らないと言ってくれた。カナちゃんはずっと信じてくれていたのに、私は簡単に見捨てようとした。
ステージの上で血だらけになっているカナちゃんを。
ベッドの上で意識を取り戻さずに眠り続けるカナちゃんを。
どこまでも自分勝手だ。そんな自分が嫌になる。
ーーけど、こうも考える。
本当に自分勝手な人は自分勝手な自分に悩んだりしないし、苦しんだりしない。 好き放題適当に生きて、誰を傷つけても気にはしない。澄まし顔をして、のうのうと暮らせるはずだ。
中途半端に行儀よくして、自分が善意ある存在だと勘違いしてきたから、自分の本質が顕現すると、自分はこんな存在じゃないと拒否反応が起こる。
解決方法は簡単だ。
自分はただの阿婆擦だと認めればいい。人ずれして、あつかましくて、悪い女だと知ればいい。
「鳴さんは、悪いままでいいんですか?」
「一度ついたイメージは中々取れないんだよ。朝丘さんたちの業界でいえば、ゴーストライター事件の女の子がそうでしょ?」
「水無口さん?」
「そうそう、そんな名前。ひどいと思うけど、実際、ゴーストライター使った人ってイメージで覚えちゃってるのは、俺だけじゃないと思うよ」
やむを得ない事情があったとして、世間にとっては結果が全て。事実は事実だから、本人たちも強く否定できない。本当はこんな事情がありましたって言われると、余計に言い訳がましく見えてしまう。
私も鳴さんのこと、共演者キラーで紐付けて覚えていたし。
「鳴さんは、払拭しようと思わないんですか?」
「全然。かえって助かってる部分もある。俺のところに来る女は、気持ちを持ち込まない。後腐れがなくていい」
「虚しくはならないんですか?」
「虚しいですよ、それはもう」
「なのに、平気?」
「虚しさだけは、積み重ねても一定なんです。減りもしないし、増えもしない」
「じゃあ……そこに私が入っても平気ですか?」
鳴さんはまた笑う。作り笑顔だ。
「俺はけっこうひどいよ。後で彼氏が殴り込んできても、平気で言うよ。取られたお前が悪いんだろって。確実に関係を壊すよ?」
「それが目的です。いい人だから、少しくらいの間違いは許してくれちゃう人なんで、ちゃんとに嫌われる理由がないと、別れられないと思うんで」
鳴さんは困った顔をした。本当に困っている顔をした。作られていない顔をした。もっと本当の顔を見たかった。
少しずつ、自分が黒く染まっていくのがわかる。どうしようもなく、どうしようもない人間になっていくのがわかる。
闇に堕ちていく。
鳴さんは作られた笑顔で私に言う。
「わかった。その代わり、ちょっとだけ保険をかけさせて欲しい」
「なんです?」
「あくまでも、俺から誘ったことにしといて欲しい。一時の迷いにしてくれないか。何もかもを一度に捨てることはない」
「嫌です」
「どうして?」
「私が本気なら、あなたの虚しさを減らせるかもしれない」
私は、私の本当の顔を鳴さんに見せた。いま私が欲しいのは、あなただって訴えた。そうすれば、鳴さんは見捨てられないって、わかってしまったから。
鳴さんは一度両手で顔を覆って、その後で両手を頭の後ろで組んだ。どうしようもない私を見て、どうしようもないと諦めた。
鳴さんは私に向かって手を差し伸べる。
「わかった。いこう」
私は差し伸べられた手を握って、鳴さんの部屋についていった。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
そうして、日付は12月18日に戻る。朝になり、鳴さんの部屋で目が覚めると、そこらじゅうに缶ビールや缶チューハイやカクテルの空き缶が転がっていた。酒だけを奪う空き巣に狙われたみたいだった。近くには鳴さんが泡を吹いて倒れている。顔を近づけると、めちゃくちゃ酒臭い。無理やり誰かに酒を飲まされたみたいだった。
「鳴さん! いったい誰がこんなひどい真似を?」
鳴さんは虚ろな目で、震える手で、私を指差した。
はっとした私は周囲を見る。テーブルには何枚もコンビニのレシートが置いてあった。私はレシートを見る。
「なんてこと! 一時間おきに、鳴さんが酒を買いに行っている! いや、明らかに酔っぱらった私が買いに行かせている! パシりに使っている!」
ーーそうだった。ちょっと軽く飲むつもりが、ずっと我慢していたせいで欲望が爆発してしまったんだ。私の中のゴッドドランカーが覚醒してしまったんだ。
私はレシートを確認し、少し多めにお金を置いて鳴さんの部屋を出た。
こうして「朝丘恵浮気事件」は未遂に終わり、なぜか噂が転じに転じて、体調を崩して倒れた鳴智也を救出したという英雄譚に変わっていったのである。
私が秘密を隠そうとすればするほど、私の好感度は上がり、私は前よりも良いイメージを持たれるようになった。完全に裏目に出た。
私は、私が思っている以上に。
どうしようもない人間であり、手のつけられないドランカーだった。
【朝になれない夜もある・了】
「……これは、まずいことになったかもしれないーー」
今日初めてムーンバレットを知った方のために自己紹介を。
ムーンバレットではベーシストをしていて、時折モデル業もこなし、最近ではアニメーション映画の声優を務め、会社勤めをしているとき上司に、ビールは最初のひとくちが美味しくて、ワインは尻上がりに美味しくなると言っている人間を見るとイライラするかもしれないが、それはどんな酒でも最初から最後まで美味しく感じるようになってしまったお前が異常なだけであって、二度と元の一般ドランカーと意気投合できるとは思わないことだ。お前はいつか酔っぱらいのトップ・オブ・トップ、ゴッドドランカーになるかもしれない。これ以上の頂上がないと知ったときの虚しさと孤独は誰にも理解されないかもしれない。だが、本当にそばに誰もいないか胸に問いかけて欲しい。お前のそばにいつでも寄り添い、決して裏切らなかったのは誰だろうか。酒だろう。酒があっただろう。酒を飲め。酒に酔う自分に酔え。そして酒の泉に沈んでいく自分を想像しながら、最後は親指を立てて消えていけ。ターミネーター2のエンディングみたいに消えていけ。お前の生き様を俺は決して忘れない。さあ、お前に教えることはもう何もない。会社をやめても頑張れよーーそう言われてロックバンドに戻ってきた女。
それが私。
朝丘恵。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
日付は12月17日の夜にさかのぼる。宮森いさお監督の最新作「竜王」が完成し、今週はプロモーション期間に入っている。出演者も表に出て番宣を頑張っているが、主に稼働しているのは、主演の赤村朱人、二番手の山田辰範、三番手の藤澤樹里の3名だ。
私もそれなりに頑張ってきたつもりだけど、広く一般的な知名度でいったら全然だ。ムーンバレットを知っていても、ファンじゃない人にしたら、ボーカルの南野歌奈以外は知らなくて当然。表に出ていっても「お前誰やねん」と言われてしまい、逆効果になりかねない。
そんなわけで四番手以下のメンバーは、舞台の稽古に備えて準備期間に入った。 自分でも驚くべきことに、私は現在、酒を飲んでいない。断酒を決めたわけではなく「竜王」の舞台が終わるまで気は抜けないから。バンド活動であれば、オン、オフのスイッチ切替は比較的スムーズ。もちろんライブ前は控えていたし、オフにたんまり飲んでも支障がなかったーーと自分では思っている。
一番大きいのは、いざというとき頼りになる仲間がいないということ。他の共演者の力量は推して知るべしで、芝居に対する姿勢には、なんの疑念もない。ただし、知り合って間も無く、精神的に甘えられるほど関係性を築いていない。 ムーンバレットのときのような阿吽の呼吸は通じない。目と目では通じ合えない。
そんな周囲と打ち解けていない私を赤村くんは見かねたらしい。番宣をしないメンバーと親睦を深めるべく、食事会を設定してくれた。ついでに、自分の彼女である漫画家ーーマドモアゼル翡翠さんとも仲良くなってあげて欲しいと頼まれた。
しかし、夜集合だったので奏太くんは、欠席。真剣山さんは芸人のライブがあって欠席。金田さんは自分の劇団も見ないといけないので欠席。
集合したのは私と、声優の鳴智也さんと、マドモアゼル翡翠さん。すごい不思議な座組みになった。さらにマドモアゼル翡翠さんは未成年。居酒屋に連れていくわけにもいかず、丸の内のビルにあるお洒落なラーメン店で黙々と食事をした。会話は全然弾まなかった。トッピングの煮玉子美味しいね、くらい。
それでもマドモアゼル翡翠さんは私たちに「本当に楽しかったです。ありがとうございました」と深々と礼をして帰っていった。自分より若い子に気を遣わせてしまった。本当に申し訳ない。
よく考えたら、酒の入っていない私なんて、ガソリンの入っていない車みたいなものである。なにひとつ、くだけた冗談も言えない堅物なのである。
「はあ……仲間と酒に甘えて生きてきちゃったな」
ふと私の弱音が言葉に出てしまう。隣にいた鳴さんは不思議そうに尋ねる。
「彼氏には?」
「いえ、なんというか、侵しがたい聖域みたいな人なんで、つまらないことは言えないっていうか」
「あーわかる。好きすぎるとね、かえって寄りかかれないよね」
「鳴さんはそのへん上手そうですよね。なんでも相談できそう」
「まあね。大事にされるより、雑に扱われるくらいがちょうどいいのよ」
鳴さんは、自嘲するように笑って惚ける。
不思議なひとだと思った。どっしりとした懐があるようにはまったく見えないけれど、その手に掴まれば、気球みたいに、どこまでも連れていってくれそうな軽やかさがあった。
「鳴さんは、お酒は飲みますか?」
「飲むよ。次の日に何もなければね。むかしはガンガン飲んでたけど。それじゃ駄目だなって」
「プロ意識ってやつですか?」
「違う違う。盛り上がって、その流れでーーね?」
ああ、そうだった。この人は共演者キラーとして有名だった。今回の現場でも、樹里さんと私は、鳴さんと男女の関係になるんじゃないかともっぱらの噂だ。
鳴さんと関わらない人たちにとって、鳴さんは軽薄で女たらしでいい加減なひとに見えるだろう。事実、このひとはそうだ。その通り、軽薄で女たらしでいい加減だ。そう演じてる。そうしないと、自分の存在を保てない弱さを持っている。
私は鳴さんに訊いた。
「打ち解けるのも早いけど、別れるのも早いのはどうしてなんですか?」
「最初の設定がユルいでしょ。別にお互い気持ちがあったわけじゃないし、思い出もないし、そもそも続けていくつもりがないからこそ、そういう流れになったわけで」
「雑に慣れすぎると真剣になれない?」
「そ。何も生まれないけど、傷つかないでいい。だけどいつまでもぬるま湯に浸っていたら、熱いお湯には入れない。悪いお手本ですよ、俺は」
鳴さんはまた笑う。このひとは毎回同じ顔をする。本人は無意識かもしれないけれど、自分の中で表情パターンを決めていて、このときは「笑う」。このときは「怒る」。このときは「泣く」って、ボタンを押すみたいな作業をしている。それがわかると、本当の顔が見たくなる。本人が決めていない顔を知りたくなる。作られた「笑顔」でこれほど素敵に笑うなら、本当の「笑顔」はどれほど素敵なのだろうかと考える。
その笑顔を向けられる相手は、どれほど幸せなのだろうか。自分に向けられたらどんな気持ちになるのだろうかーーそう気になったのだ。
ああーーそうか。
私は、私の本質を知る。
私の心はこんなにも移ろいやすいものだったのか。
私は冬馬さんの最低保障になると誓った。 何があっても裏切らず、離れないと誓った。
恭子さんはカナちゃんが私の最低保障だと言ってくれた。何があっても、カナちゃんだけは裏切らないと言ってくれた。カナちゃんはずっと信じてくれていたのに、私は簡単に見捨てようとした。
ステージの上で血だらけになっているカナちゃんを。
ベッドの上で意識を取り戻さずに眠り続けるカナちゃんを。
どこまでも自分勝手だ。そんな自分が嫌になる。
ーーけど、こうも考える。
本当に自分勝手な人は自分勝手な自分に悩んだりしないし、苦しんだりしない。 好き放題適当に生きて、誰を傷つけても気にはしない。澄まし顔をして、のうのうと暮らせるはずだ。
中途半端に行儀よくして、自分が善意ある存在だと勘違いしてきたから、自分の本質が顕現すると、自分はこんな存在じゃないと拒否反応が起こる。
解決方法は簡単だ。
自分はただの阿婆擦だと認めればいい。人ずれして、あつかましくて、悪い女だと知ればいい。
「鳴さんは、悪いままでいいんですか?」
「一度ついたイメージは中々取れないんだよ。朝丘さんたちの業界でいえば、ゴーストライター事件の女の子がそうでしょ?」
「水無口さん?」
「そうそう、そんな名前。ひどいと思うけど、実際、ゴーストライター使った人ってイメージで覚えちゃってるのは、俺だけじゃないと思うよ」
やむを得ない事情があったとして、世間にとっては結果が全て。事実は事実だから、本人たちも強く否定できない。本当はこんな事情がありましたって言われると、余計に言い訳がましく見えてしまう。
私も鳴さんのこと、共演者キラーで紐付けて覚えていたし。
「鳴さんは、払拭しようと思わないんですか?」
「全然。かえって助かってる部分もある。俺のところに来る女は、気持ちを持ち込まない。後腐れがなくていい」
「虚しくはならないんですか?」
「虚しいですよ、それはもう」
「なのに、平気?」
「虚しさだけは、積み重ねても一定なんです。減りもしないし、増えもしない」
「じゃあ……そこに私が入っても平気ですか?」
鳴さんはまた笑う。作り笑顔だ。
「俺はけっこうひどいよ。後で彼氏が殴り込んできても、平気で言うよ。取られたお前が悪いんだろって。確実に関係を壊すよ?」
「それが目的です。いい人だから、少しくらいの間違いは許してくれちゃう人なんで、ちゃんとに嫌われる理由がないと、別れられないと思うんで」
鳴さんは困った顔をした。本当に困っている顔をした。作られていない顔をした。もっと本当の顔を見たかった。
少しずつ、自分が黒く染まっていくのがわかる。どうしようもなく、どうしようもない人間になっていくのがわかる。
闇に堕ちていく。
鳴さんは作られた笑顔で私に言う。
「わかった。その代わり、ちょっとだけ保険をかけさせて欲しい」
「なんです?」
「あくまでも、俺から誘ったことにしといて欲しい。一時の迷いにしてくれないか。何もかもを一度に捨てることはない」
「嫌です」
「どうして?」
「私が本気なら、あなたの虚しさを減らせるかもしれない」
私は、私の本当の顔を鳴さんに見せた。いま私が欲しいのは、あなただって訴えた。そうすれば、鳴さんは見捨てられないって、わかってしまったから。
鳴さんは一度両手で顔を覆って、その後で両手を頭の後ろで組んだ。どうしようもない私を見て、どうしようもないと諦めた。
鳴さんは私に向かって手を差し伸べる。
「わかった。いこう」
私は差し伸べられた手を握って、鳴さんの部屋についていった。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
そうして、日付は12月18日に戻る。朝になり、鳴さんの部屋で目が覚めると、そこらじゅうに缶ビールや缶チューハイやカクテルの空き缶が転がっていた。酒だけを奪う空き巣に狙われたみたいだった。近くには鳴さんが泡を吹いて倒れている。顔を近づけると、めちゃくちゃ酒臭い。無理やり誰かに酒を飲まされたみたいだった。
「鳴さん! いったい誰がこんなひどい真似を?」
鳴さんは虚ろな目で、震える手で、私を指差した。
はっとした私は周囲を見る。テーブルには何枚もコンビニのレシートが置いてあった。私はレシートを見る。
「なんてこと! 一時間おきに、鳴さんが酒を買いに行っている! いや、明らかに酔っぱらった私が買いに行かせている! パシりに使っている!」
ーーそうだった。ちょっと軽く飲むつもりが、ずっと我慢していたせいで欲望が爆発してしまったんだ。私の中のゴッドドランカーが覚醒してしまったんだ。
私はレシートを確認し、少し多めにお金を置いて鳴さんの部屋を出た。
こうして「朝丘恵浮気事件」は未遂に終わり、なぜか噂が転じに転じて、体調を崩して倒れた鳴智也を救出したという英雄譚に変わっていったのである。
私が秘密を隠そうとすればするほど、私の好感度は上がり、私は前よりも良いイメージを持たれるようになった。完全に裏目に出た。
私は、私が思っている以上に。
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