一陣茜の短編集【ムーンバレット】

一陣茜

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009 透明な存在

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 硝子がらすのように、彼女は透明な人だった。

 色白な肌だから、なんて安易な理由じゃない。佇まいが凛としていて、不純物を全て弾いてしまいそうな強さがあった。

 待ち合わせに遅れていないのに、必ず待たせてゴメンと謝る。寒いと言っていないのに寒そうだと思ったら勝手にマフラーを巻いてくる。夢の中のどうでもいい話の結末まで気にして明日の夢まで物語をつくってくれる。

 なのに、いまとなっては、彼女の顔を思い出せない。思い出は残っているのに、もやがかかったように、彼女の肖像だけが消えていく。重ねた指先の冷たさは、鮮明に覚えているのに。

 幸せの定義は人それぞれ違う。

 満たされていく欲望に意義を見出だす人間もいれば、欠けていく感情に酔いしれていく人間もいれば、はなから、何も求めない人間もいる。

 彼女はきっと、ルーレットでその日の幸せを決めていた。今日は笑いたい気分だから居酒屋に。今日は泣きたい気分だから悲しい映画を観に。今日は怒っているからあなたとは何も話したくない。原因は絶対にこちらにあったけれど、沈黙に耐えられなくなって謝るのはいつも彼女からだった。

 なぜこうまで無味乾燥な自分に時間を割いて付き合ってくれるのか、俺は理解できなかった。それでも、彼女が繰り返し言っていた言葉に気づかされた。

「急に、いなくならないでね」

 矮小な自分でも、彼女の寂しさを埋められていたのだ。

 幽霊じゃあるまいし、俺はここにいるよ。そうじゃない、と彼女は言った。俺の魂がどこか別の人に飛んでいったり、盗まれてしまうのが怖いと言った。それはお互い様で、俺だって怖いよと言った。

 誓い合った愛は、時間に埋もれて、風に飛ばされて消えていく。強そうに見える硝子でも、砕け散るときは一瞬だ。

 硝子の破片を握りしめて血を流しても、そこにあるのは痛みだけで、胸を締めつける苦しさはない。広がっていく赤を、呆然と倒れながら見ていた。

 時間は止まる。

 俺は彼女をまだ観ていられる。ただし、思い出の中の彼女だけを。顔も消えかけている彼女と過ごした日々を。

 彼女から俺は見えない。たぶん見たくもないのだろうけど、彼女の意思で見ないようにしている。

 急にいなくならないでと言われたのに、急にいなくなったから。

 だけど、どうにもならなかったんだ。

 今日という日は、あまりに無慈悲に、俺を世界から消し去った。

 そろそろ限界がきている。

 思い出せる記憶は数を減らし、彼女の未来を祈ることもできなくなる。

 炎は肉体を包み、誰とも知らない腕が俺の魂を抜き取った。

 俺はまだ、此処にいたい。

 彼女の側に、いたい。

 ずっと、一緒に。

 だけど、やっぱり、彼女を忘れていってしまう。それでいいのだと、俺は思う。

 身勝手な想いで彼女の時間を束縛するのは良くない。

 何処の誰でもいいから、は最低限の願い。

 最大限の願いは、彼女の背中を押せるような誰かに、彼女を守ってもらいたい。

 俺の代用品ではなく、一人の人間として彼女を愛してほしい。

 できれば、彼女が透明な存在を忘れられるように。

 どうか。

 どうかーー。

 彼女に、安らぐような、ひとときを。



【透明な存在・了】
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