一陣茜の短編集【ムーンバレット】

一陣茜

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029 鬼鬼し、鬼威し

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 人は誰しも秘密を抱えている。

 私の場合でいえば、箸の持ち方が人とは違う。大抵の人は棒と棒の間に中指を差し込んで支点にするが、私はしない。親指と人差し指だけで棒を動かし、食べ物を挟めるからだ。小さな豆だって御手の物、いや箸の物である。

 私が不器用なのか、それとも逆に器用なのかは些細な問題だ。ともかく、私はこれまでの人生で箸をそのように扱い、食事を行い、生きてきた。

 正しき作法。美しきマナー。そういったマジョリティーに迎合するべく矯正しようと努力も試みた。だけど、やっぱり窮屈で息苦しくて、辛くて、食事の度に優越になり、何も食べられなくなった時期もある。

 ある日、私は不思議な出来事に遭遇した。

 ファミリーレストランでの出来事だ。

 私は中央のテーブルに案内され、私の右側に小さな子どもが二人いる四人家族。お父さん、お母さん、息子、娘。私の左には二人の日本人と二人の外国人。おそらく外国人はホームステイをしていたのだと思う。国籍まではわからないが、金髪碧眼の白人二人に、老夫婦が日本食を奨めていた。

 右側の世界では、箸の持ち方が違うと父親が娘を怒鳴りつけていた。

 左側の世界では、箸の持ち方が明らかに外国人が日本人の老夫婦に箸の持ち方を誉められていた。

 たとえば、外国人のトップスターが片言の日本語で「愛してる」と発声すれば、皆が歓喜の声をあげる。しかし、日本人の若者が「愛してる」と発声すれば、「それは、い抜き言葉だ。正しくは愛している、だろう?」と非難される。

 日本人なら、生まれた風土を大事にするなら、全ては決まりに乗っ取り、美しくあるべきだと主張する誰かを非難するつもりはさらさらないけれど、 日本人のポテンシャルの高さについていけない日本人もいる。

 それができないなら日本から出ていけばいい、と極論に走る日本人もいるが、いくつもの多国籍料理を受け入れておきながら、多くの異文化を受け入れておきながら、もはや日本独自の神秘性を維持し続けるには、いよいよ時代的にも限界に達しているような気がする。

 正しき型はあっていい。では型を一生かけても型にできない人間は排除するべきなのだろうか。どちらかといえば、私も排除されるかもしれない対象に含まれているので、他人との食事には毎回怯えている。

 生きていれば人生の先輩に食事をご馳走になる機会は、それなりにある。とても嬉しいし、とてもありがたいし、あけすけに言うならタダ飯だぜイヤッホウくらいの期待感を持ってしまう。けれど和食屋さんに連れていかれた日には、私はもう何を食べても砂を噛むようで味がしない。

 では、ナイフとフォークならどうか。私が中学一年生のときだった。とても裕福な家庭の食事会に招かれた。それまで米は茶碗によそって食べるモノだと私は思っていたのに、そこで出された米は真っ白で平らな皿の上にのせられていた。

 まわりの子どもたちは当然のように米をナイフですくい、フォークの背に綺麗にのせる。そのまま米を落とすことなく口元に優雅に運ぶ。私もチャレンジしたが、結局できなかった。私は周りにいた子どもたちに笑われた。それをみかねた裕福な家庭の奥様が私にスプーンを渡してくれたけれど、顔は半笑いだった。

 おそらく、私が人生で初めて誰かに対して明確な殺意を抱いた瞬間だった。必ずや、この場にいる裕福な家庭の子どもたちに復讐してやる。私は決意した。

 まず、両親に「これからお米をナイフとフォークで食べます。気が狂ったわけではないので安心してください」と告げてトレーニングを始めた。

 私は人間の科学力にある一定の信頼を置いているし、空を飛ぶために必要な原理も理解しているけれど、やっぱり飛行機に乗るのは怖くて仕方ない。高所恐怖症の前では100%の安心感は得られない。

 ーーそれでも。

 私は南半球の島国に二年間ホームステイをする選択をした。こうなれば本場の「ナイフとフォークを使って米を食べる技術」を身につけ、私を笑った奴らに、美しい「ナイフとフォークを使って米を食べる技術」を見せびらかしてやろうと躍起になった。

 私がお邪魔した家庭では、普段そんなに米を食べないそうだが、日本人の私に気を遣ってくれたらしい。時折、お米を食卓に並べてくれた。やはり外国の方のナイフとフォークさばきは見事なもので、呼吸をするように米をフォークの背にのせて、口に運んでいく。私はそれを完璧にコピー、俗にいう完コピし、技術を習得。晴れて日本に凱旋した。

 ところが人生とは無常なもので、私を笑った、裕福な家庭が経営していた会社は倒産し、私を笑った子どもたちも法に背くような行為を働いたようで、っくに学校をやめていた。

 私の磨き上げた技術は、日の目を見ることなく封印された。

 私がしょんぼり肩を落としていると、唯一友人と呼べる人が、私の名前を呼んだ。

ひいらぎさん」

 池田さんだ。

 池田さんは今日も優雅だ。真っ直ぐ切り揃えられた前髪は、日本人形みたいに美しくて、私に手を振る様子は、皇室の人間と見間違うほどに、ゆっくり丁寧で気品がある。私は思う。池田さんこそ「モデル」を大事にして体現している人だ。

「一緒に食事でもいきませんか?」

 他人には畏まった言い方に聞こえるかもしれないけれど、私と池田さんは敬語を織り混ぜたまま仲を深めて、いまも別に窮屈さは感じない。私は心地よく池田さんとの会話を楽しんでいる。

「うん。いきましょう」

 私は懐かしき日本のファミリーレストランの扉をくぐる。ああ、此処でライスを頼み、私を笑った人間に目に物見せるつもりだったのに。私は一抹の寂しさを感じてしまった。

 しかしまあ、折角海を渡ってまで習得した技術だ。池田さんにはなんの恨みもないけれど、ここで披露し、お蔵入りとさせてもらおう。

 私はハンバーグステーキとライスを。池田さんは、ネギトロ丼を頼んだ。

「わたし、柊さんがいなくて、とても寂しかったのよ」

 美しい箸の持ち方。池田さんは私にできない正しい箸の持ち方でネギトロ丼を優雅に食べる。

「そんな。池田さんは私の他にもたくさん親友がいるじゃない?」

 そう、私の友人は池田さんだけ。けど、池田さんの友人は私だけじゃない。それは私の人付き合いに問題があって、羨むのは筋違いだ。むしろ、そんな私にさえ話しかけて食事に誘ってくれる池田さんに、私は畏敬の念を抱かずにはいられない。

「親しい友という意味の親友しんゆうならたくさんいるけれど、心を許せる友という意味の心友しんゆうは柊さんだけよ」

 ハンバーグの肉汁があふれるように、私の涙腺にも込み上げるものがあった。

 私がナプキンに手を伸ばすより先に池田さんがハンカチを差し出す。

「柊さん。大切な涙はそれなりの布で拭ってあげなきゃ。涙が可哀想よ」

 私はその一言で完全に涙腺が決壊した。私はありがたく池田さんのハンカチを借りて涙を拭い去った。

「ありがとう。ずっと日本を離れて独りぼっちだったから、涙もろくなってるかも」

 私は嘘をついた。本当は夜になるとホームシックになり、毎日泣いていた。

「だけど、帰ってきてびっくりしたな。幼なじみだった人がほとんど学校からいなくなってるんだもの」

「そうね。皆、品行方正に見えていたけれど、裏の顔はわからないものね」

 私も噂レベルでしか耳に入れてないけど、男子の一人は宿泊学習で飲酒をしたらしい。しくも、その男子は私のナイフとフォークの使い方を笑った子どもの一人で、裕福な家庭の御曹司だった。普通なら数週間の停学で済んだのかもしれない。だけど有名企業の息子だったので、マスコミに記事にされて世間は大炎上。その子は自主退学し、ついには親の会社も傾いてしまった。

「私もあの子たちに良い感情は抱いてなかったけど、こうして綺麗さっぱりいなくなると、ね」

 私は彼ら、あるいは彼女らに復讐するつもりだったのに、すっかり毒気を抜かれてしまった。

 池田さんは私に尋ねる。

「さみしい?」

「いや、虚しい……かな。池田さんは覚えているかな、中一のとき、私がナイフとフォークの扱いが下手で笑われたコト 」

「覚えているわ」

 池田さんはネギトロ丼の上に乗っていた卵黄を箸で崩した。

「私はそれが悔しくて悔しくて、いつか見返してやると思っていた。でもよく考えれば、彼らも子どもだった。自分たちの家庭環境が恵まれていたと知らなかった。責任があるとすれば、両親のほうよね」

「ナイフとフォークの扱いの前に、教えなきゃいけないことを教えなかったのね」

 ふふ、と珍しく池田さんが微笑んだ。池田さんは落ち着いている。綺麗に箸を扱い、お米を食べている。とりわけ池田さんの態度が急変したわけではないのだけど、なぜか私は背中に寒気を感じた。

「柊さん。ナイフとフォークの扱い、上手になったのね。見違えたわ」

「……うん。これを彼らに見せつけてやろうと思ったけど残念ね」

 ハンバーグより先に、私はライスを食べ終えていた。よほど私は美技を披露したかったらしい。

「浅ましいよね、私は……」

 私は自分の心の卑しさに嫌気がさした。付け合わせのコーンもナイフとフォークで綺麗に食べれるようになったのに、私は私の心を上手く消化できない。

「池田さんは自分を嫌になるときってある?」

「どうだろう。わたしは自分の性能不足を感じて、もどかしくは思うかな」

「勉強もスポーツもできて、茶碗蒸しも上手につくれる池田さんが?」

 池田さんは、箸を止めた。

「ええ。私がもっと料理上手だったら、柊さんはずっと日本にいられたのにーーそう思うと、もどかしいわ」

 どういう意味だろう。私にはわからない。池田さんの瞳は、私の瞳の奥を覗き込んでいた。池田さんは私の深淵を覗き込めるかもしれないけれど、私に池田さんの深淵は覗き込めない。

 深淵にのぞんで薄氷はくひょうを踏むが如し。

 私は池田さんと話しているとき、誰の詩かは忘れたけれど、そんな言葉が浮かんでくる。慎重に歩かないと、薄い氷の道は割れて、私は深淵の底へ沈んでいくだろう。

「わたしね、柊さんの名前が好きなの。鬼威おにおどしみたいで。柊は素晴らしいわ。枝にイワシの頭を刺して戸口に立てたら、鬼を追い払えるのよ。葉の鋭いとげを思わす顕著な切れ込みに強い生命力を感じて、たまらなくいとしくなる」

 そういえば、池田さんが誰かの名前を呼んでいるところを見たことがない。もちろん行事などで必要に迫られて呼ぶときはあるけど、普段は「ねぇ」とか「キミ」とか「あなた」で済ましている。

「池田さんって鬼を怖いと思うの?」

「存在そのものというより、その在り方は怖いと思う。鬼は人に化けて、普段は本当の姿を偽っているのだからーー」

 誰が鬼なのか、よく見ておかないと、食べられてしまうわよ。

 池田さんの言葉は、私を金縛りにした。不動明王が本気を出しても、これほどの拘束力は持っていないだろう。

「鬼かーー私の中にも住んでいたのかな」

「大丈夫よ。柊さんの中に鬼が住んでいたら、わたしが捕まえて食べちゃうから」

 気づけば、池田さんのネギトロ丼はなくなっていた。私の冷めたハンバーグステーキの欠片だけが残されていた。

「池田さんなら、本当にできそう」

「それ、食べきれないなら、もらっていい?」

「うん。いいよ」

 ざん、と池田さんは箸を二本まとめて逆手に持ってハンバーグに突き刺した。あふれでる肉汁は、まるで血液のよう。池田さんは山賊にでもなったかのように、行儀悪く、豪快に、肉片を口に放り込んだ。

「わたしたちは人間である前に、獣。人間と付き合うために人間の振りをしているだけ。人間と獣。どちらが下等な動物なのかーーそれは結局、噛み殺して、むさぼり尽くして、飲み込んだほうが決めるのよ」

 そうでしょ柊さん、と池田さんは言う。私は返事もできずに頷いた。

「デザートはどうする?」

 池田さんはまた行儀の良い池田さんに戻って、私に尋ねた。

「私は……いいや」

「そう。じゃあ、お会計はわたしに任せてくれる?  わたしが柊さんを誘ったんだし」

 こういうとき、どちらが払うにしろ、何回か押し問答を繰り返すのがマナーかもしれないけど、私は素直に甘えられた。

 私は池田さんに言う。

「あの……ありがとう。池田さん」

「いいのよ。心友だもの」

 私は池田さんに秘められた狂気の一端を垣間見た。私はとても恐ろしい人と仲良くなってしまったのだと、今日初めて知った。

 だからといって、逃げたいワケじゃなくて。なぜかといって、正体を暴きたいワケじゃなくて。これといって、離れる理由は見つからなくて。マジかといって、驚く必要もないくらい、私は池田さんを頼もしく思ったのだ。

「……待って。たしか中一のとき、食事会に池田さんの姿はなかったような……私の気のせいかな?」

 池田さんは何処吹く風で言う。

「気のせいよ」

 風は風のまま、吹きすさぶ。




鬼鬼おにおにし、鬼威おにおどし・了】
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