一陣茜の短編集【ムーンバレット】

一陣茜

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071 旅人は梟の眼に留まる

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 私の名前はまゆずみ真弓まゆみ。29歳。某出版社で漫画編集者をしております。早口言葉みたいな名前ですね、とよく言われます。

 マユズミマユミ。マユズミマユミ。マユズミマユミ。3回連続で言うのは、私でも難しいです。今日はたまたま調子がよかったようです。

 私は現在、ある方の御宅にお邪魔しております。自己紹介をし、リビングに招かれ、菓子折りを渡し、ソファーに座り、お茶を頂くまではよかったのですが、いまはとっても気まずい空気が漂っています。

「どうか娘さんを漫画家としてデビューさせてください」

 私は眼前に御座おわ中井戸なかいど夫妻に頭を下げました。

 その理由は、中井戸夫妻の次女、16歳の漫画家、中井戸なかいど翡翠ひすいさんを弊社へいしゃからデビューさせるためです。

 ご夫妻の表情はかんばしくありません。そのお気持ちは私も痛いほど理解しております。漫画家は客の人気に成り立ってゆく、収入の不確かな商売です。週刊連載ともなれば、翡翠さんは多忙を極め、学業との両立は難しくなります。

 どうやらお父様は別の出版社で小説家をしているようで、多少の理解は得られそうですが、お母様は断固として反対というスタンスを崩しません。

「娘のやりたいことならやらせてあげたいですけど、別に今すぐじゃなくても。高校を卒業してからじゃ、駄目なんですか?」

 お母様はあと2年待って欲しいと私に告げましたが、私も毛頭折れるつもりはありません。

「翡翠さんの感性と情熱は、時間が経てば経つほど薄れていきます。失われていきます。いまでなければ描けないものがあるんです。そこを何卒なにとぞ

 私はもう一度頭を下げました。お母様は腕を組んで、深く嘆息しました。

 お母様は難攻不落の砦です。私は攻める場所を変えようと思いました。

「……お父様はどのようなお考えでしょうか?」

 お父様はお母様と違い、私に対して苛立つ様子もなく、落ち着いていました。

「黛さん。我々の仕事に疑問を感じたことはありませんか?」

 私には、お父様の質問の意図が汲み取れませんでした。

「どういう意味でしょうか?」

「そうですね……たとえば、街中を歩いていて、見知らぬ誰かーー年齢性別は問いませんが、本を買ってくれませんか、と頼み込んでくる。黛さんは買いますか?」

「いいえ」

「それはなぜ?」

「本の内容は当然誰にもわかりませんが、やはり、それにしても前情報がなさすぎます。貴重な時間を不確定な作品に割くわけにはいきません」

 お父様は私の回答に深く頷きました。

「そうです。私も学生時代から執筆をしていましたが、金を払うから作品を読ませてくれ、なんて私に言う人間は一人もいませんでした。なんなら仲の良い友人に無償で提供したところで、読んでくれるひとは中々いない。ところが不思議なもので、皆様本屋に並んでいる私の本は、手にとって読むのです。そしてお金を払って買っていくのです。それはなぜでしょうか?」

「私たち出版社の人間が面白いと認め、世間に喧伝するからです。お客様に損をさせないため、保証を果たす役割を担っているからです」

 私は率直な意見を申し上げました。お父様はこれにも頷きました。

「お客様にとって、これは大変喜ばしいことです。しかしこのお墨付きは、ときに作者側を慢心させます。私も新人賞をいただいたとき、勘違いをしました。これで誰にも読まれないという不安は取り除かれた。これからは作品そのものに集中して打ち込めるーーところが、それからの私はしばらく低迷しました」

 私はお父様の言葉を否定できませんでした。私の担当している漫画家先生たちでも、読み切りやデビュー作で結果を出しても、次の作品でヒットを飛ばせる方は稀です。

 気を抜いたわけではなく、ある種の達成感が燃え尽き症候群を発症させてしまうのです。私が側で見ている限りでは、毎回遺書を書きながら出産をしているようなものです。その生まれたばかりの子どもは、必ずしも祝福されるとは限らない。

 作品を生み出すことに躊躇い、精神的に病んでしまわれる先生たちを、私は星の数ほど多く見てきました。

 ……いけませんね。星などと美しい比喩を使うのは。

 真実は、死屍累々。死体がそのあたり一面に重なりあって、動かなくなった瞳孔でこちらを見つめてきます。

 ジャンルこそ違えど、お父様も創作者。反対されるかもしれないと私は覚悟していましたが、お父様の答えは意外なものでした。

「私は翡翠を応援したいと思っているし、あなたに翡翠を任せてもよいと考えています。しかし、ひとつだけ条件があります」

「……お聞かせ願えますか?」

「翡翠から全ての不安を取り除かないでやってください。私は翡翠に、路上で本を売る見知らぬ人間として、常に自分を追い込んで欲しいーー」

 傷つきもがくことで、得られる幸福に気づいて欲しいから。

 苦しみ貫くことで、描ける物語に出会って欲しいから。

 お父様は、そうおっしゃいました。

 私は、迷わず頷きました。

「任せてください。私は翡翠さんを甘やかしません。翡翠さんは常に自分の限界を超えようとしていますが、私はさらに上を目指して叩き上げます」

 私の編集部での異名は、刀鍛冶。漫画家先生の姿勢に鋼鉄の精神を感じとれば、躊躇わずに金槌を振り下ろす。

 熱々のに漫画家先生をぶちこみます。

 お父様はお母様に説得を試みました。

「ママ。翡翠はママが思い描くような幸せは得られないかもしれないけど、ママの思い描く幸せを得て、翡翠が笑顔になるとは限らない。苦しくても、辛くても、そんな状況の中でも、私は翡翠が笑顔でいられる未来を選ばせてあげたい。駄目だろうか?」

 お母様は両手で顔を覆いました。三分以上は沈黙が続きました。私も、お父様も、お母様の言葉を待ち続けました。

 お母様は「わからない」と一言残して、リビングから出ていかれました。

 お父様は私に頭を下げました。

「申し訳ない。妻は本当に教育熱心でね、翡翠をいまの高校に入れるために、相当尽力したんです。ほら、私の収入が不安定だから、自分がしっかりしなきゃって」

「いえ。無理を言っているのはこちらですから」

 お父様は不思議と、こちらを和ませる雰囲気を持っていました。後から思い返せば、私はこのとき、目の前のお父様が歴史に名を残す大作家だと知りませんでした。私に気を遣わせないために、私が自分自身を責めないように、謙遜しただけだったのです。

 そんなお父様の優しさにも気付かず、私は逆にお父様を安心させたいと思っていました。私は鞄から、翡翠さんの原稿が入った封筒を取り出しました。

「翡翠さんの原稿を見てもらえますか?」

 私は浅はかでした。翡翠さんの完成原稿を見せれば、お父様の心配を取り除けると思ってしまったのです。

 お父様はゆっくり首を横に振りました。

「その原稿は黛さんの目から見て、プロとして通用する原稿だと思ったのでしょう?    ならば、素人の私がお金を払わずにそれを見るのは、翡翠に失礼ですーー」

 原稿を見なくても、翡翠が原稿に何を捧げてきたかは、私にもわかります。

 そう続けて、お父様は私に一喝しました。

「翡翠を見くびらないでください」

 私はすぐに原稿の入った封筒を鞄にしまいました。翡翠さんの原稿ではなく、私自身の言葉でお父様を納得させなくてはならないと思いました。

「大変な失礼をしました。申し訳ありませんでした。私も漫画家を目指して、小さな頃から漫画を読んできて、この仕事についてからも漫画を読んできて、これからも漫画を読んでいきます。その多くの漫画の中に、どうか翡翠さんの漫画を加えさせてくださいーー」

 私は腹をくくりました。

「私が売ってみせます」

 お父様は私の瞳を覗いていました。睨み合うほど剣呑けんのん的ではなく、見つめ合うほど叙情じょじょう的でもなく、真実私に嘘がないかの事実確認でした。

 お父様はゆっくり目を閉じて、物思いに耽りました。どんな物思いぐさかは私にわかりません。しかし、これだけは言えます。私たち人間が未来に立ち向かおうとするとき、私たちは過去の中から対抗手段や解決手段を考えるしかないのです。

 お父様は目を開きました。

「ときどき思うのです。人生を何度もやり直せるなら。並行世界に行けるなら。どんな失敗も恐れずに挑戦させてあげられるのに。我が子にたくさんの幸せを用意できるのに、って」

 無限に続くトライアンドエラーができるならば、着実に、できること、できないことをひとつずつ潰していけばいい。ローラー作戦をすればいい。

 そうはさせまいと、誰かの意思が働いたなんて思いたくないけれど、私たちの一生は短くはかなく、二度と過去には戻れない。

 しかし結果が見えないからこそ、残酷なまでにほとんどの決断に失敗するからこそ、成功に価値が生まれる。信じ続けた人の強さと信念が証明される。

 私は、進みます。

 私なら、進んでいくのだと思います。

 最後さいごの、最期さいご

 命果てる、その日まで。

「死のない生は、素晴らしいけれど、美しくありません」

「……おっしゃる通り。少なくとも、たった一回の人生を何に使うか、翡翠は自分で決めたのです。妻には私が時間をかけて話してみます。翡翠のこと、どうかよろしくお願いします」

「かしこまりました」

 私はソファーから立ち上がり、リビングから廊下に出ました。扉のすぐ側に、お母様は立っていました。おそらくお母様は、私とお父様の会話を聴いていたのだと思います。浮かない顔をしていましたが、お母様は私に向かって深く頭を下げました。

「娘をよろしくお願いします」

 私はいつも漫画家先生、本人のみと向き合ってきて、彼らの背後にいる家族の存在など考えたこともありませんでした。

 売上が伸びなかったとき、心のどこかで、どうせ失敗しても作者の自己責任ーーそう考えていたのかもしれません。

 しかし、そうではありませんでした。

 私は漫画家先生たちだけではなく、ご家族の運命もねじ曲げてしまっているのです。

 私はお母様に申し上げました。

「私にお任せください」

 私の中に、やっと背骨が入りました。

 私はもう、ぐらつきません。

 私は自分の信じた先生たちを、誇りに思いながら胸を張って、世の中に推していこうと思います。

 届けようと思います。

 私は靴べらをお借りして、靴を履き、玄関を出ていこうとしました。

 そのときです。お母様は私に声をかけました。

「黛さん」

「なんでしょうか」

「娘はいったい、どんな漫画を描いているのでしょうか?」

 私の温まったはずの背筋は、瞬時に凍りつきました。

 私は決して動じずに、淀みなく振り返り、お母様に申し上げました。

「エンターテイメントです」

 では、と私はそそくさと中井戸邸から脱出。脱兎の如く走り出しました。

 お許しくださいませ、お母様。

 私はお母様の精神的な状況を踏まえて、正確にはお伝えできませんでしたが、まったくの嘘を申し上げたつもりは、これっぽっちもございません。

 エロ漫画は、立派なエンターテイメントなのでございます。少年少女の鬱屈した人生を薔薇色に染め上げ夢想の世界に酔いしれることのできる極上の甘い蜂蜜のようなものなのでございます。

 どうして言えましょうか。

 あなたのお子さんは1日になん十枚、なん百枚とパンツの絵を描いている、と。

 どうして見せられましょうか。

 おそらく妙齢の女性キャラクターのモデルはお母様である、と。

 翡翠さんの漫画が世の中に出回る頃、私はお母様に大変恨まれるかもしれませんが、仕方ありません。翡翠さんが世界一美しくパンツを描ける事実は絶対に覆らないし、漫画史にも翡翠さんの名前は刻まれていくでしょう。

 それこそ、パンツのしわのように。

 おっと、いけません。新たな連載漫画を決める会議に遅れるところでした。

 私は帰社し、今日も誰かを見極めます。



【旅人はふくろうに留まる・了】
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