一陣茜の短編集【ムーンバレット】

一陣茜

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    緞帳どんちょうは、いまだ降りたままだった。舞台中央、暗闇を晴らすかのようにスポットライトが照らされる。円形の光線に当てられ、影の輪郭が浮かび上がる。

    人の形。名もなき狂言回しの男は、正座をして待っていた。

    親指、人差し指、中指の三つ指をついて、丁寧に礼をする。よく晴れた日に布団を干してはたくよりは速い、御見物ごけんぶつたちの小刻みな拍手が演芸ホールに響き渡る。

    狂言回しは日本在来の衣服、着物を身にまとっていた。色は、空五倍子色うつぶしいろ五倍子ふしで染めた仄暗い黒色。しっくりあわせて、自分に似合うよう、たくみにこしらえていた。

「えぇ、地図なき航海とは困ったもので、四つ文字の暗中模索あんちゅうもさくと同じ意味でございまして、地図のない海で船を進めさせてみても、どこに向かっていいか、わからなくなっちまうのは、つねひとつねで、暗いときに闇雲やみくもに足を動かして探し物なんてしちゃあいけません。とがった箪笥たんすかどにいつ小指をぶつけるとも限らねぇーー」

アイタタタ、狂言回しの痛みに堪える顔に御見物たちは鼻から息を漏らして、ふふ、と微笑を堪えた。

勧善懲悪かんぜんちょうあくたぁ、流行はやすたりで言えばすたりですな。善事をすすめ、悪事を懲らしめる。これが最近じゃあ悪には悪の理由があって、何事も片方側から描くのは良くねぇと言うんですな。誰が言ったかは知らねぇが、誰でも立場はひとつ。その身はひとつ。どちらかに傾かなきゃならねぇんです。ちとりぃ言葉を使うとーー」

    かぶく、とうんで。

    狂言回しはと口端を吊り上げて御見物たちに歯を見せた。

「自由奔放に勝手な振る舞いをし、異様な身なりをしやがる輩を、歌舞伎者かぶきものと申します。演目なんてのは一度観りゃあネタが割れちまう。如何に言わんや、出てくる配役はまったく同じ。にもかかわらず、物好きな御見物は毎度のことながら劇場に足を運ぶのでございます。それはあたしら演者と御見物との間に、ひとつの御約束事があるからでございますな」

    狂言回しは立ち上がる。

「この世に悪が蔓延る限り、そいつぁなにがなんでも許しちゃあおけねぇ、御見物の胸のうちにたかぶる正しき義侠ぎきょうの心がある限り、強きをくじき、弱きを助ける、そんな奴ぁいやしねぇと言うならば、見せてやろうじゃねぇか、なあ、白狐しろぎつねかしかされ幾星霜いくせいそう、情け無用の仕置人しおきにん白狐しろぎつね彦左衛門ひこざえもんといったら、奴しかいねぇ。奴しか演じられねぇ。さあさあ傍若無人ぼうぎゃくぶじん浪人ろうにんまかとおる頃合いでございますーー御見物の皆々様、あなた方が劇場に足を運ぶのは、当代屈指の千両役者、赤村朱人あかむらあけひと尊顔そんがんはいするためじゃあ、ございませんか?」

    再び御見物から拍手を頂き、狂言回しは深く頭を下げた。

    狂言回しを演じるは、四十八歳の俳優、金田かねだ幸之助こうのすけ。開演前に恩師の訃報を聞いたとは思えない明朗闊達めいろうかったつな語り口で御見物を暖める。金田の気がかりは緞帳の向こう側。多くの劇団員が悲しみに暮れたい気持ちを必死に抑えこみ、舞台に立っている。特に心配なのは主演の赤村朱人。赤村は本番前の通し稽古を欠席した。

    最も恩師の寵愛を受けた赤村は、どれだけ才に恵まれようと、まだ十六の少年に過ぎない。哀悼の意を表すあまり、暗然あんぜんたる面持おももちで沈んではいまいかーー金田は思いわずらいをひた隠して、顔をあげた。

「それでは御見物の皆々様、大変長らくお待たせいたしました。私の前説はこれにて仕舞いにいたしまして、劇団リリカルリリックの書き下ろし演目、白狐癲狂中元帖しろぎつねてんきょうちゅうげんちょうーーあ、始まりぃ、始まりぃいいい」  

    緞帳がゆっくりと巻かれて、いよいよ舞台は幕を開ける。御見物の拍手は次第に強く大きな破裂音となっていく。

    舞台袖の上手かみてからスッ転ぶようにして、枯草かれくさ色の襤褸ぼろを身に纏った女性が登場した。歳は若く、二十前後であろうか。銀杏返しのカツラを被り、顔にべったり白粉おしろいを塗っていた。

    彼女の名は、おきょう。近くの集落に住んでいる村娘である。

「ご堪忍かんにんを!    ご堪忍しておくんなまし、お侍様」

    お京は許しを乞うように叫ぶ。お京の視線は舞台袖に向けられていた。上手かみてからゆっくり歩いてくるのは黒い着物を身に纏った人相の悪い男だった。歳は三十。腰には刀と脇差しを差している。

    名を踊魔九郎時貞おどりまくろうときさだ。おかみの命を受け、怪しげな舞踊ぶようをしている者を取り締まる役人である。

「おうおう、調べはもうついてんだ。おめぇさんたちが夜な夜な集まって怪しげな踊りをしているのはな!」

「怪しくはございません。私たちはただ、コンテンポラリーダンスを楽しく踊りたいだけなんです。決してユーフォーを呼んだり、宇宙におわす神のメッセージを受信しようとしたりしているわけではございません。信じておくんなまし!」

「どうだかな、おめぇさんたちの中に、一年前にスカイプのサービスが終わると予言していた奴までいる。そのってのは、怪しげな妖術じゃないのか?」

「滅相もございません。コンテンポラリーは現代的な創作ダンスとして世界中で認知されているのでございます!」

    踊魔九郎は、腰の鞘から刀を抜いた。お京の首筋に刃を突きつける。

「十年前からおめぇさんたちは現代的とうたってるが、全然流行らねぇじゃねぇか。おめぇさんの言う現代は何年後だ?」

    おう、と踊魔九郎に脅されて、お京は必死に訴えかける。

「そ、それは、コンテンポラリーダンスのバッチリハマる楽曲が五年前に流行った香水以外にないからでございます!    お侍様、ネットの動画をご覧ください。市民レベルでは普及しております!」

    お京は襤褸のふところからスマートフォンを取り出し、踊魔九郎に差し出した。どれどれ、と踊魔九郎は刀を一旦鞘に納めて、スマートフォンをスクロールしていく。

    踊魔九郎の顔は渋みを増して、お京を憐れみの目で見た。悲しいくらいに同情していた。

「ヒップホップのダンスは何十万、何百万と回ってるのに、千回に満たねぇ動画ばっかだぞ。同じようにゆったり踊るバレエはジャンルを確立しているのに、どうしてだ?」

「そ……それはきっと、コンテンポラリーに決まった型がないからかと。踊り手が表現したいものを自由に、好き勝手に踊るので、同じコンテンポラリーダンサーでも比較ができず甲乙つけがたく、世界観の構築を観衆の想像力に委ねている部分があるからかもしれません」

    踊魔九郎は再び刀を抜いた。顔を真っ赤にさせて、唾を飛ばす。

「おう、てぇーと何か、ワシらの想像力がとぼしいから、コンテンポラリーの魅力がわからねぇって言うのか?」

    怯えるばかりだったお京は立ち上がった。ぐっと歯をくいしばり、お京は自分の中に存在している勇気を振り絞った。

「わからないと言う前に、お侍様はわかろうとしたのですか?   必死に何かを伝えようとしている人たちの髪の毛の先から足のつま先まで目を凝らして、踊り手の情熱を受け取ろうとしたのですか?」

    踊魔九郎はお京の頬を平手打ちした。頬を押さえながらお京はまた倒れ込む。踊魔九郎はお京の頭を踏みつけた。

「うるせぇ。ワシは芸術家ってのが大嫌いなんじゃ。よくわからねぇ落書きみてぇな絵を何百万って金額で売りつけようとしやがって。そういう奴が決まって言う、わかる奴にだけわかればいい、ってのがますます気にくわん。わかりやすく伝える努力を怠っているだけじゃねぇか、あん?」

    お京は頭を踏みつけられながらも、なんとか言葉を紡ぎ出す。

「それはお侍様の横暴でございます。お侍様、五百円のラーメンを食べて、あまりにも美味しくて、千円を払いたくなったことはございませんか?    誰かから何かを受け取って、その価値をどう決めるのかは、人々の自由でございます。お侍様はお侍様自身の価値観を崇拝し過ぎているあまり、それ以外の価値観が許せなくなっているのです。お侍様の世界はとても小さく、狭いものになっているのです。それはーー」

    あまりにも不自由でございます。

    そうお京に言われて、踊魔九郎の眼光は鋭くなった。

「おめぇさん。ついに三途さんずの川を渡っちまったな。そこまで言われちゃあ、ワシも堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れるってモンよ。あの世で閻魔の前でコンテンポラリーでも踊ってな!」

    大上段に刀を構えた踊魔九郎。お京はぎゅっとまぶたを閉じた。振り返れば、人生の思い出は走馬灯のように。くるくる回って、踊りに身を捧げた人生、悔いはないとお京は思い、襤褸の袖を噛んで斬られるのを待つばかり。嗚呼ああ、この世は仏の光より金の光。魑魅魍魎ちみもうりょう蔓延る汚泥おでいの井戸は、悲しき人のさがよりでる憎しみの水源すいげん。  命短し恋せよ乙女、朱き唇褪せぬ間にとうたうなら、なにはともあれ恋せる世の中を、全ての人に与えておくんなまし。怨みつらみはございません。どなたか、どなたか、どうか、どうかコンテンポラリーを世の中に届けて広めて踊っておくんなましぃ。

    お京がいよいよ覚悟を決めた、そのときであった。

    どこからともなく、儚げで繊細なピアノの音が聴こえてくる。

    曲は「ChopinショパンNocturneノクターンOp9ー2」だ。

    天井よりワイヤーで宙吊りになった小ステージが降りてくる。グランドピアノが置いてあり、しっかりボルトで固定されていた。椅子の脚も同じく固定されていて、奏者の腰にもきつくベルトが括りつけてあった。地上までは、まだ3メートルの距離がある。だが小ステージは一度ぴたりと止まり、今度は振り子のように前と後ろに揺れ動く。

    小ステージは空中ブランコよろしく客席に向かって飛んでいった。小ステージの下にはプロジェクションマッピングで、映像を投射していた。映し出された動画では、白い狐の面を被った和装の男性がコンテンポラリーダンスを踊っている。

    ピアノ奏者の着物は純白。仮に左前で着ていれば死に装束に見えなくもない。

    狐の面を被ったピアノ奏者、狐の面を被った映像で踊るダンサー。どちらもスタントマンは使っていない。

   その男、一度「なり果てる」と決めたからには、己の心すら捨て去り、誰かの人生を産声から墓場まで再現する。

    千年生きてみなけりゃ、わからない。万年生きてりゃ何人かはいるだろう。それでもなお、御見物が生きている百年において、これ以上の怪物は、やはり千年経っても現れる日はないだろう。

    俳優、赤村朱人の見参である。

    赤村は腰のベルトを外して、小ステージから観客席にダイブした。御見物から悲鳴があがる。しかし、それは一瞬にして大歓声に変わった。赤村の背にはさらにワイヤーがつけられていて、客席をフライングしながら舞台中央へ降り立つ。パッと暗転、二人の黒子は赤村からワイヤーを外し、小ステージは元の位置に戻って、再び上昇。しっかり収納されていった。

    スポットライトは当然、赤村に。

「誰が呼んだか、もう覚えちゃいねぇが、舌先三寸したさきさんすんで人を丸めこみ、物品販売業者とその商品を再販売する者とが次々に他の者を再販売組織に加盟させて、組織内での地位昇進から得られる利益を餌に商品の購入や取引料の支払いの負担を約束させる形でする商品の販売取引だけは絶対に許さないと決めてからというものの、化かし、化かされ、幾星霜。情け無用の仕置き人、白狐の彦左衛門たぁ、俺様のことよ。ようよう、そこの腐れ外道、その濁った両の目ん玉おっぴろげて、俺様の顔をよぉく見やがれぃ!」

    狐の面を外して、赤村演じる彦左衛門は素顔を晒す。お京は「来てくれたのね、彦左衛門様ぁ」と黄色い声をあげた。

    彦左衛門の相貌そうぼうに悲しみは宿っていなかった。きりっとした目元に、すっとした鼻筋。適度に膨らみのある唇には、口紅がさしてある。いちいち首を動かさずとも、ちょいと流し目で見てあげれば御見物たちをたちまちのうちに魅了する。

    踊魔九郎は、お京の頭から足をどけた。

「でけぇ口叩きやがって。ワシと斬り合おうってぇのか?」

御生憎様おあいにくさま。俺様は人を斬り捨てる趣味はねぇ。ほら、ご覧なすって。俺様は腰に刀は差さねぇーー俺様の刀はいつだって、心の内側にあるもんでな……」

    彦左衛門は自らの帯は叩いて、丸腰であると宣言した。お京が「きゃあー彦左衛門様ー」とまたもや素頓狂すっとんきょうな声をあげる。踊魔九郎は「うるせぇぞ、コンテンポ女ァ」とお京の尻を蹴飛ばした。お京は「痛い、痛いわ彦左衛門様、どうかこのモラハラ野郎に正義の鉄槌を!」と叫びながら、今日何度目かになる転倒芸を披露した。

「俺様の眼前で、無抵抗の娘っ子の尻を蹴飛ばすとは、ふてぇ野郎だ」

「じゃかましいやい、おめぇなんざ正中線からバッサリ真二つにかっさばいてやらぁ」

    踊魔九郎は刀を握りしめて、彦左衛門に斬りかかる。と同時に、なぜか舞台中央の下から、ポールダンス用の細長い鉄柱がせりあがってきた。彦左衛門はポールに掴まり、くるくる回りながら、踊魔九郎の刀をかわし続ける。BGMに山口百恵やまぐちももえの「ロックンロール・ウィドウ」が使われ、彦左衛門と踊魔九郎の殺陣たてを劇的に盛り上げる。彦左衛門は両手でポールに掴まり、両足を宙に預けた。まるで鯉のぼりのような体勢になって、右足と左足を交互に出したり、引っ込めたりする。

    ちょうどサビ手前の「かっこ」を連呼するフレーズと、リズミカルに繰り出される彦左衛門のキックが連動し、小気味良く御見物の憂さを晴らしてくれる。

    蹴られに蹴られまくった踊魔九郎は、悲鳴をあげつつ、仕込んであったメイクで顔に青アザをつくっていた。

「な、なんて、つえぇ奴だ。こ、こんなのにかまってられるか、このへんでオサラバさせてもらうぜ」

   よろめきながら踊魔九郎は舞台袖にはけていく。彦左衛門は倒れているお京の手を取り、起こしあげた。

「大丈夫かい、娘さん」

「はい。彦左衛門様……」

    お京は彦左衛門の手を両手でしっかり握って離そうとしない。彦左衛門は手を離そうとして、お京は離すまいとして、綱引きみたいに引っ張り合った。御見物の笑いが終わるのを待って、彦左衛門はお京の手を振りほどいた。

    お京は名残惜しそうに、彦左衛門に尋ねた。

「……彦左衛門様、もう行ってしまわれるのですか?」

「ああ。俺様は自由を求める人間のためなら、過去にも未来にも飛んでいかなきゃならねぇ。あんたはもう、自分の足で歩いていける。こんどはあんたが自分の信じる踊りを、コンテンポラリーを助けてやるんだ。あんたの踊りでな」

    するとお京は俯いて、申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんなさい。私、本当はコンテンポラリーダンスはそこまで好きじゃないんです。ただ友だちに誘われて、なんとなくやっていただけなんです……」

    彦左衛門はお京の頭をあげさせる。

「……そうかい。よく正直に言ってくれたな。じゃああんた、本当は何になりたいんだ?」

    お京は、銀杏返しのカツラと襤褸を脱ぎ捨て、顔に塗られていた白粉を忍ばせていたタオルで拭き取った。

「私は、歌手になりたいんです」

    御見物から驚愕と感激の悲鳴が同時に巻き起こった。

    黒髪のセミショート。白のノースリーブシャツに、茶色のレザーチョーカー。

    お京を演じていたのは、ロックバンド、ムーンバレットのボーカリスト、南野みなみの歌奈かなだったのである。

    白狐の彦左衛門ーー赤村朱人は言う。

「聴かせてくれねぇか、あんたの歌を」

「私の歌で良ければ」

    歌奈が選んだ曲は、山口百恵の「さよならのむこがわ」だった。

    御見物は、家族を失ったばかりの歌奈の想いを知らないし、演劇界の重鎮が亡くなったことも知らないし、ましてや、その重鎮が歌奈の祖父であることは、これからも永遠に知らされない。

    それでも、歌奈の歌声は御見物の心を打った。すすり泣く声が劇場のあちこちから聴こえてきたが、赤村朱人は眉ひとつ動かさず、舞台中央で主役の責務をまっとうした。



しばらく・了】
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