132 / 299
132 信じることがつらくても
しおりを挟む
もう二年前になる。嘘だろ、と北浜悠一は思った。北川友美の遺体が自宅のマンションから発見されたとニュースで知った。
友美は悠一と同じ漫画家で同期デビュー。悠一のペンネームは「北狐るるる」。友美のペンネームは「北川ともみ」。同じ北から始まる名前を持ち「北北コンビ」として対談やイベントで何度も一緒に仕事をした盟友だった。
友美の所属しているレーベルは、少女漫画を主に扱っていた。作風はオーソドックスな恋愛ストーリー。若手の頃はヒットメイカーとして活躍するも、次第に人気は翳りを見せ始めていた。
とはいえ、友美はプロの漫画家である。一時期のような爆発的ヒットはしていなくても、漫画を描き続けていた。一定の収入は得ていた。経済的な困窮はしていないと、悠一は勝手に思っていた。
しかし友美のアパートから発見された現金は609円。家賃は3年前から滞納していて、部屋は大量のペットボトルを含む生活ゴミだらけ。清掃業者が5時間かけて3トンのゴミを処理した。
何より切なかったのは、友美は当時5歳の息子、奏太を一人残して逝ってしまった。
「黛さん。どうしてこんなことに?」
悠一は担当編集の黛真弓に尋ねる。黛は、自分が責められているように目を泳がせて、けれど神妙な顔だった。
「仕事面は順調だったので、気づけませんでした。北川先生、私生活のことまったく話しませんでしたから」
黛の話では、友美は旦那が末期の癌だと診断されて、その治療費に多額の財産を注ぎ込んだ。しかし、治療の甲斐なく夫は他界。そこで友美の中で何かが折れてしまったらしい。
友美の死因は餓死だった。
「だけど子どもは生きていた。どうやっていままで生き抜いたんです?」
「実のところ、友美さんは最後まで息子さんの世話は放棄していなかったんです。なんとか息子さんだけは生かそうと必死に仕事をして、息子さんに食事をさせてーー自分のことを忘れてしまった。セルフ・ネグレクトだったんです」
Self neglectーー自分自身の世話を放棄すること。友美は死ぬつもりなんてさらさらなくて、最後に残った気力を息子に傾けるあまり、我を忘れた。
「息子はーー奏太くんはどうなるんですか?」
「栃木県に北川先生のお父様が一人暮らしをしているらしいですが、ご高齢かつ年金生活をしていて、奏太くんを育てられるか不安らしいです」
いまになって考えれば、勢いでしかない。けれど悠一は、盟友が最後の力を振り絞って残した命の火を、消したくなかった。
「わかりました。俺がトモのお父さんと話をつけます。奏太くんを俺の養子にします」
ーー◇◇◇◇◇◇◇ーー
2025年7月5日。栃木県某所。
悠一は奏太を連れて、友美の実家を訪れていた。悠一は友美の父、敬三に挨拶をした。
「お義父さん、すみません。今夜はお世話になります」
「いやどーも、悠ちゃん。かまわねぇっぺや。東京からわざわざ来てくれてあんがとね」
悠一は安堵した。76歳になる敬三は、特に持病もなく健康そうだった。
奏太の頭を撫でながら、悠一は言う。
「奏太の行きたがっていたムーンバレットの東京公演チケットがとれなくて。じゃあ栃木公演のチケット取れたら、泊まりがけでお義父さんにも会いにいけると思ったんですよ。そしたら、なんとなんとチケット取れちゃって。な? 奏太」
悠一に言われて、奏太は黙って頷いた。たまげたな、と敬三は驚く。
「おめぇ、むうんばれっとっつったら、いま一番人気の歌手さんだっぺよ。そんで昨日も昨日おとといもえれぇ天気だっつうのによ、あちこちから観光客来てたべ」
へぇ、と悠一は胸中で意外に思う。普段家にこもって漫画を描いていると娯楽はラジオくらい。どの番組もやたらアポロニオスの曲ばかり流すけど、実際のローカル人気はムーンバレットが圧倒している。
どうもムーンバレットのリーダー南野歌奈は、地方のテレビ局、ラジオ局の出演オファーは断らないらしい。きっと、その宣伝効果も大きいのだろう。
いままでアポロニオスも全国ツアーをやっているが、大都市しか回っていない。さらに現在はワールドツアーで日本を留守にしている。
少しずつバンドを支持するファンの勢力差は逆転しつつある。
そろそろアポロニオス王朝も終焉のときかな、と悠一はなんとなく思った。
ちなみに、敬三は「おととい」のことを「昨日おととい」と言うし、「あさって」のことを「明日あさって」と言う。これが敬三の癖なのか栃木独特の方言なのか、悠一にはわからない。
「線香、あげても?」
「もちろんだべ」
悠一は仏壇の前で、マッチを擦って線香に火をつけた。香炉に線香を立てて、合掌。友美の遺影を眺める。
笑う友美の写真を見つめながら、悠一は呟くように敬三に謝罪した。
「すみません。俺がもっと早く気づけていたら……」
敬三は悠一に声をかけた。
「おらぁ、悠ちゃんには感謝してる。友美の旦那は、その、残念だったけどよ……向こうの親戚筋は誰も奏太を引き取ろうとしなかった。友美は自分の全財産使ってでも旦那を助けようとしたのによ、あんまりだ」
悠一は黙っていた。友美から義理の家族との関係性は薄々聞いていた。
友美の旦那はそこそこ由緒正しき家系のお坊ちゃんらしく、家族は友美との結婚を反対。ほぼ駆け落ちみたいな感じで結婚してから絶縁状態になったとか。
相手の家からすれば「漫画家」という職業が大層気に食わなかったらしい。友美はいつも悠一に愚痴を言っていた。
なかなか認めてくれないの。歴史に名を残した画家よりも稼いでるんだけどね、と。
敬三は拳を握りしめ、震えながら言う。
「おらは、友美は殺されたと思ってる。向こうの家族が自分の息子家族をちょっとでも支えてくれたらーー」
すかさず悠一は、敬三の言葉を遮った。
「お義父さん……やめましょう。トモの前ですよ」
敬三は眉を八の字にして、おでこに手を当てた。すまねぇ、と一言添えて。
仏間にある襖を一枚隔てた和室に、7歳の奏太はいた。
奏太は悠一と敬三の話を黙って聞いていた。
母によく似た、飲食店の女性経営者を思い浮かべながら。
ーー◇◇◇◇◇◇◇ーー
栃木県総合文化センター、メインホール。キャパ1600。
本日も満員御礼のムーンバレット全国47都道府県ツアー、栃木公演。
ちょうどセットリストの半分、10曲が終わったところだった。
ボーカルの南野歌奈が会場を煽る。
「とちぃぎーーーーーー! ちゃんとギョーザ食ってエネルギーチャージしてきたんだろーな! アタシたちは食ってきたぞー! めちゃくちゃ美味かったぞー!」
「おおおおー!」と悠一と奏太は拳を突き上げる。歓声を浴びた歌奈は、満足そうに笑顔を浮かべた。
歌奈の衣裳はクリーム色のスーツだった。左肩の繋ぎ目あたりから袈裟にかけて、波うつヒラヒラした布がついている。歌奈考案のギョーザ・スーツだった。
「いつもはこのへんで、Tornを歌うんだけど……今日はね、いつもとちょっと違う歌をね、やろうと思うんだ」
なぁーにぃー? と客席から質問が飛ぶ。歌奈は手のひらを見せて、まあまあ落ち着け、と口端を吊りあげる。
「今週ね、千葉公演やって。久しぶりに実家帰って。久しぶりにママと会いましたよ。アタシは、生まれたときから父親がいなくて、片親で育ちましたよ。正直言う。さみしいときもあった。友だちが両親に挟まれて手を繋いでいるのを見てうらやましいと思ったこともあった。けどね、それだけ。たまにちょっと心がチクッとするだけ。痛いけど、痛みを抑える薬はたくさんあって、歌もそのうちのひとつだと思う。アタシを支えた歌ーー歌います」
Natalie Imbruglia.
Smoke.
「My lullabyーー」
私の子守唄
「Hung out to dryーー」
涙が乾くまでは
「What's up with that?ーー」
それがどうしたというの?
「It's over」
もう終わり
「Where are you dadーー」
パパ、あなたはどこにいるの?
「Mom's looking sadーー」
ママは悲しそう
「What's up with that?ーー」
それがどうしたというの?
「It's dark in here」
此処に闇はある
「Why,ーーbleeding is breathing」
どうしてなの?
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the room」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I used to」
あの頃の私もそうだった
「My mouth is dryーー」
私の口はカラッカラで
「Forgot how to cryーー」
涙の流し方忘れちゃった
「What's up with that?ーー」
それがどうしたというの?
「You're hurting me」
私の心を傷つける
「I'm runnig fastーー」
私は逃げている
懸命に速く
「Can't hide the pastーー」
だけど過去からは逃げられなくて
「what's up with that?ーー」
それがどうしたというの?
「You're pushing me」
私に無理強いするの
「Why,ーーBleeding is breathing」
どうしてなの?
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the roomーー」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I used toーーI used to」
あの頃の私もそうだった
そうだったのよ
「Why,ーーbleeding is breathing」
どうしてなの?
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the roomーー」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I saw you crawling on the floor」
私には見えた
あなたが床を這っている姿が
「Why,ーーbleeding is breathing」
どうしてなの?
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the room」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I saw you crawling to the door」
私には見えた
床を這ってでも扉に進む
あなたの姿が
「Why,ーーbleeding is breathing」
どうしてなの
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the room」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I saw you falling on the floor……」
私には見えたの
床にごろっと横になる
あなたの姿が
ーー歌奈の透き通った歌声が会場を包み込む。冷たい雨に打たれているのに、そこから動けないようなーー胸が苦しいのに、聴きいってしまうようなーー奇妙な魔力が観客の心を揺さぶった。
悲しい理由がわからない。
自分がなぜ泣いているのかわからない。
理由のわからぬまま、奏太は隣にいた悠一の手を握った。
ベースの朝丘恵とドラムの倉持里子はいつものポジションから離れて、一段せりあがっているドラムセットの前に腰かけた。
歌奈はエレキギターからアコースティックギターに持ち替える。
「今日はね、栃木ということで、栃木出身のミュージシャンの曲もやろうと思っております。多くのミュージシャンがカバーし、とてもとても、愛されている曲です」
斉藤和義。
歌うたいのバラッド。
「嗚呼ーー唄うことはーー難しいことじゃない/ただ声に身をまかせーー頭の中をからっぽにするだけ」
単純に、悠一は友美の絵が好きだった。きっとたくさんデッサンをこなしてきたんだろうな、とすぐわかるキャラクターの骨格。どうしてそんな風に描けるんだと訊けば、友美は答えた。何も考えず、思い描くの、と。
「嗚呼ーー目を閉じればーー胸の中に映る/懐かしい思い出やーーあなたとの毎日」
自分の原稿だって忙しいくせに、悠一の誕生日には祝福メッセージだけじゃなくて、友美は必ず画像データをスマホに送ってくれた。イラストを贈ってくれた。キャラクターに吹き出しがあって、中には「がんばれ」って書いてあった。
「本当のことはーー歌の中にあるーーいつもならーー照れくさくてーー言えないーーことも」
旦那がいるなんて最初は知らなくて、悠一は友美を食事に誘おうとしてーー
「今日ーーだってあなたをーー思いながらーー歌うたいは唄うよ」
ちょっと出会うのが遅かったかもね、と左手の指輪を見せつけられた。
「ずっとーー言えなかった言葉があるーー短いからーー聞いておくれ」
それでも悠一はーー心の中では、ずっと想っていた。
「愛してる」
何かあれば、必ず助けるって。
「嗚呼ーー唄うことはーー難しいことじゃない/その胸の目隠しをーーそっと外せばいい」
中々連載デビューできなくて、悠一が愚痴っぽく嘆いたら、簡単なことを成し遂げたいなら、早く他の道に進めばいいと、友美に叱られた。
「空に浮かんでるーー言葉をつかんでーーメロディを乗せた雲でーー旅に出かけるーー」
題材はそのへんにいっぱい転がっていても、ストーリーのパターンには限りがある。絵の上手いひとはごまんといて、注目されるのは一握りのひとだけ。それでもあなたは漫画家を目指した。それは、なぜ?
そう言って、友美は悠一の顔にマジックペンを走らせた。堂々と落書きをした。
「情熱のーー彼方にーー何がある?ーー気になるからーーいこうよ」
描くことが生きること。
ーーだからでしょ?
友美は笑った。消えなかったらどうすんだよ、と悠一も笑った。
「窓の外にはーー北風がーー腕組みするーービルの影に吹くけれどーー」
いよいよ初めての単行本化。悠一のコミックスの帯には、先に売れた友美が宣伝文句を寄稿してくれた。
確かメッセージは。
「ぼくらを乗せてーーメロディーは続くぅぅーーーー」
これが私のベストフレンドだ!
「今日ーーだってーーあなたをーー思いながらーー歌うたいは唄うよ」
空にペンはあるのかな、と悠一は思う。紙なんて必要ない、空にそのまんま絵を描ける魔法のペンはあるのかな、と悠一は思う。そんなものがあるのなら、誰か友美にプレゼントしてやってくれないかな、と悠一は思う。
ペンを走らせている間は、苦しみや悲しみや不条理を忘れられるから。
「どうやってーーあなたにーー伝えようーー」
空にスマホはあるのかな、と悠一は思う。通話はできなくてもいいから、こちらから一方的に伝えられる迷惑電話みたいなものでもいいから、あってほしいな、と悠一は思う。
友美の尊敬していた水嶋先生の漫画がアニメ化するって、悠一は友美に伝えてやりたい。
できれば、喜ぶ声も聴きたいけど。
それは想像できるから別にいい、と悠一は思う。
「雨の夜もーー冬の朝もーーそばにいて」
何度も遠くから、願った。
どれだけ離れていても、祈った。
いつまでも思い描きながら、満たされた。
「ハッピーエンドのーー映画をいまーーイメージしてーー唄うよ」
幸せそうに笑う友美の顔を。
悠一は、絶対に忘れない。
「こんなに素敵なーー言葉がある」
悠一は屈んで、奏太の小さな身体を優しく抱き締めた。
「短いけどーー聞いておくれよーー」
友美の望んだ奏太の幸せは。
奏太の未来は、悠一が絶対に守る。
それが悠一の。
精いっぱいの。
「愛してる」
ーーだから。
なあ奏太、と悠一は耳元で囁く。
「奏太には……今井さんみたいな母親が必要なのかもしれないけど、俺は」
「ーーわかってるよ、お父さん」
奏太は悠一の胸に手を当てた。
「僕のお母さんは、お父さんの中にいる。もう……寂しくないよ」
そうか、と悠一は納得し、もう一度奏太を抱き締めた。
その後方では、二人の親子とはまったく縁も所縁もない東南アジア系の若い女性が号泣していた。
「No Love, No Life. (愛のない人生なんて考えられませんわ!)Love is All!(愛こそ全てですわ!)」と英語で叫びながら。
【信じることがつらくても・了】
友美は悠一と同じ漫画家で同期デビュー。悠一のペンネームは「北狐るるる」。友美のペンネームは「北川ともみ」。同じ北から始まる名前を持ち「北北コンビ」として対談やイベントで何度も一緒に仕事をした盟友だった。
友美の所属しているレーベルは、少女漫画を主に扱っていた。作風はオーソドックスな恋愛ストーリー。若手の頃はヒットメイカーとして活躍するも、次第に人気は翳りを見せ始めていた。
とはいえ、友美はプロの漫画家である。一時期のような爆発的ヒットはしていなくても、漫画を描き続けていた。一定の収入は得ていた。経済的な困窮はしていないと、悠一は勝手に思っていた。
しかし友美のアパートから発見された現金は609円。家賃は3年前から滞納していて、部屋は大量のペットボトルを含む生活ゴミだらけ。清掃業者が5時間かけて3トンのゴミを処理した。
何より切なかったのは、友美は当時5歳の息子、奏太を一人残して逝ってしまった。
「黛さん。どうしてこんなことに?」
悠一は担当編集の黛真弓に尋ねる。黛は、自分が責められているように目を泳がせて、けれど神妙な顔だった。
「仕事面は順調だったので、気づけませんでした。北川先生、私生活のことまったく話しませんでしたから」
黛の話では、友美は旦那が末期の癌だと診断されて、その治療費に多額の財産を注ぎ込んだ。しかし、治療の甲斐なく夫は他界。そこで友美の中で何かが折れてしまったらしい。
友美の死因は餓死だった。
「だけど子どもは生きていた。どうやっていままで生き抜いたんです?」
「実のところ、友美さんは最後まで息子さんの世話は放棄していなかったんです。なんとか息子さんだけは生かそうと必死に仕事をして、息子さんに食事をさせてーー自分のことを忘れてしまった。セルフ・ネグレクトだったんです」
Self neglectーー自分自身の世話を放棄すること。友美は死ぬつもりなんてさらさらなくて、最後に残った気力を息子に傾けるあまり、我を忘れた。
「息子はーー奏太くんはどうなるんですか?」
「栃木県に北川先生のお父様が一人暮らしをしているらしいですが、ご高齢かつ年金生活をしていて、奏太くんを育てられるか不安らしいです」
いまになって考えれば、勢いでしかない。けれど悠一は、盟友が最後の力を振り絞って残した命の火を、消したくなかった。
「わかりました。俺がトモのお父さんと話をつけます。奏太くんを俺の養子にします」
ーー◇◇◇◇◇◇◇ーー
2025年7月5日。栃木県某所。
悠一は奏太を連れて、友美の実家を訪れていた。悠一は友美の父、敬三に挨拶をした。
「お義父さん、すみません。今夜はお世話になります」
「いやどーも、悠ちゃん。かまわねぇっぺや。東京からわざわざ来てくれてあんがとね」
悠一は安堵した。76歳になる敬三は、特に持病もなく健康そうだった。
奏太の頭を撫でながら、悠一は言う。
「奏太の行きたがっていたムーンバレットの東京公演チケットがとれなくて。じゃあ栃木公演のチケット取れたら、泊まりがけでお義父さんにも会いにいけると思ったんですよ。そしたら、なんとなんとチケット取れちゃって。な? 奏太」
悠一に言われて、奏太は黙って頷いた。たまげたな、と敬三は驚く。
「おめぇ、むうんばれっとっつったら、いま一番人気の歌手さんだっぺよ。そんで昨日も昨日おとといもえれぇ天気だっつうのによ、あちこちから観光客来てたべ」
へぇ、と悠一は胸中で意外に思う。普段家にこもって漫画を描いていると娯楽はラジオくらい。どの番組もやたらアポロニオスの曲ばかり流すけど、実際のローカル人気はムーンバレットが圧倒している。
どうもムーンバレットのリーダー南野歌奈は、地方のテレビ局、ラジオ局の出演オファーは断らないらしい。きっと、その宣伝効果も大きいのだろう。
いままでアポロニオスも全国ツアーをやっているが、大都市しか回っていない。さらに現在はワールドツアーで日本を留守にしている。
少しずつバンドを支持するファンの勢力差は逆転しつつある。
そろそろアポロニオス王朝も終焉のときかな、と悠一はなんとなく思った。
ちなみに、敬三は「おととい」のことを「昨日おととい」と言うし、「あさって」のことを「明日あさって」と言う。これが敬三の癖なのか栃木独特の方言なのか、悠一にはわからない。
「線香、あげても?」
「もちろんだべ」
悠一は仏壇の前で、マッチを擦って線香に火をつけた。香炉に線香を立てて、合掌。友美の遺影を眺める。
笑う友美の写真を見つめながら、悠一は呟くように敬三に謝罪した。
「すみません。俺がもっと早く気づけていたら……」
敬三は悠一に声をかけた。
「おらぁ、悠ちゃんには感謝してる。友美の旦那は、その、残念だったけどよ……向こうの親戚筋は誰も奏太を引き取ろうとしなかった。友美は自分の全財産使ってでも旦那を助けようとしたのによ、あんまりだ」
悠一は黙っていた。友美から義理の家族との関係性は薄々聞いていた。
友美の旦那はそこそこ由緒正しき家系のお坊ちゃんらしく、家族は友美との結婚を反対。ほぼ駆け落ちみたいな感じで結婚してから絶縁状態になったとか。
相手の家からすれば「漫画家」という職業が大層気に食わなかったらしい。友美はいつも悠一に愚痴を言っていた。
なかなか認めてくれないの。歴史に名を残した画家よりも稼いでるんだけどね、と。
敬三は拳を握りしめ、震えながら言う。
「おらは、友美は殺されたと思ってる。向こうの家族が自分の息子家族をちょっとでも支えてくれたらーー」
すかさず悠一は、敬三の言葉を遮った。
「お義父さん……やめましょう。トモの前ですよ」
敬三は眉を八の字にして、おでこに手を当てた。すまねぇ、と一言添えて。
仏間にある襖を一枚隔てた和室に、7歳の奏太はいた。
奏太は悠一と敬三の話を黙って聞いていた。
母によく似た、飲食店の女性経営者を思い浮かべながら。
ーー◇◇◇◇◇◇◇ーー
栃木県総合文化センター、メインホール。キャパ1600。
本日も満員御礼のムーンバレット全国47都道府県ツアー、栃木公演。
ちょうどセットリストの半分、10曲が終わったところだった。
ボーカルの南野歌奈が会場を煽る。
「とちぃぎーーーーーー! ちゃんとギョーザ食ってエネルギーチャージしてきたんだろーな! アタシたちは食ってきたぞー! めちゃくちゃ美味かったぞー!」
「おおおおー!」と悠一と奏太は拳を突き上げる。歓声を浴びた歌奈は、満足そうに笑顔を浮かべた。
歌奈の衣裳はクリーム色のスーツだった。左肩の繋ぎ目あたりから袈裟にかけて、波うつヒラヒラした布がついている。歌奈考案のギョーザ・スーツだった。
「いつもはこのへんで、Tornを歌うんだけど……今日はね、いつもとちょっと違う歌をね、やろうと思うんだ」
なぁーにぃー? と客席から質問が飛ぶ。歌奈は手のひらを見せて、まあまあ落ち着け、と口端を吊りあげる。
「今週ね、千葉公演やって。久しぶりに実家帰って。久しぶりにママと会いましたよ。アタシは、生まれたときから父親がいなくて、片親で育ちましたよ。正直言う。さみしいときもあった。友だちが両親に挟まれて手を繋いでいるのを見てうらやましいと思ったこともあった。けどね、それだけ。たまにちょっと心がチクッとするだけ。痛いけど、痛みを抑える薬はたくさんあって、歌もそのうちのひとつだと思う。アタシを支えた歌ーー歌います」
Natalie Imbruglia.
Smoke.
「My lullabyーー」
私の子守唄
「Hung out to dryーー」
涙が乾くまでは
「What's up with that?ーー」
それがどうしたというの?
「It's over」
もう終わり
「Where are you dadーー」
パパ、あなたはどこにいるの?
「Mom's looking sadーー」
ママは悲しそう
「What's up with that?ーー」
それがどうしたというの?
「It's dark in here」
此処に闇はある
「Why,ーーbleeding is breathing」
どうしてなの?
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the room」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I used to」
あの頃の私もそうだった
「My mouth is dryーー」
私の口はカラッカラで
「Forgot how to cryーー」
涙の流し方忘れちゃった
「What's up with that?ーー」
それがどうしたというの?
「You're hurting me」
私の心を傷つける
「I'm runnig fastーー」
私は逃げている
懸命に速く
「Can't hide the pastーー」
だけど過去からは逃げられなくて
「what's up with that?ーー」
それがどうしたというの?
「You're pushing me」
私に無理強いするの
「Why,ーーBleeding is breathing」
どうしてなの?
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the roomーー」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I used toーーI used to」
あの頃の私もそうだった
そうだったのよ
「Why,ーーbleeding is breathing」
どうしてなの?
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the roomーー」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I saw you crawling on the floor」
私には見えた
あなたが床を這っている姿が
「Why,ーーbleeding is breathing」
どうしてなの?
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the room」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I saw you crawling to the door」
私には見えた
床を這ってでも扉に進む
あなたの姿が
「Why,ーーbleeding is breathing」
どうしてなの
生きることが苦しい
「You're hiding underneath the smoke in the room」
あなたは身を隠してる
この部屋に立ち込める煙の中で
「Try,ーーbleeding is believing」
がんばってみるの
信じることがつらくても
「I saw you falling on the floor……」
私には見えたの
床にごろっと横になる
あなたの姿が
ーー歌奈の透き通った歌声が会場を包み込む。冷たい雨に打たれているのに、そこから動けないようなーー胸が苦しいのに、聴きいってしまうようなーー奇妙な魔力が観客の心を揺さぶった。
悲しい理由がわからない。
自分がなぜ泣いているのかわからない。
理由のわからぬまま、奏太は隣にいた悠一の手を握った。
ベースの朝丘恵とドラムの倉持里子はいつものポジションから離れて、一段せりあがっているドラムセットの前に腰かけた。
歌奈はエレキギターからアコースティックギターに持ち替える。
「今日はね、栃木ということで、栃木出身のミュージシャンの曲もやろうと思っております。多くのミュージシャンがカバーし、とてもとても、愛されている曲です」
斉藤和義。
歌うたいのバラッド。
「嗚呼ーー唄うことはーー難しいことじゃない/ただ声に身をまかせーー頭の中をからっぽにするだけ」
単純に、悠一は友美の絵が好きだった。きっとたくさんデッサンをこなしてきたんだろうな、とすぐわかるキャラクターの骨格。どうしてそんな風に描けるんだと訊けば、友美は答えた。何も考えず、思い描くの、と。
「嗚呼ーー目を閉じればーー胸の中に映る/懐かしい思い出やーーあなたとの毎日」
自分の原稿だって忙しいくせに、悠一の誕生日には祝福メッセージだけじゃなくて、友美は必ず画像データをスマホに送ってくれた。イラストを贈ってくれた。キャラクターに吹き出しがあって、中には「がんばれ」って書いてあった。
「本当のことはーー歌の中にあるーーいつもならーー照れくさくてーー言えないーーことも」
旦那がいるなんて最初は知らなくて、悠一は友美を食事に誘おうとしてーー
「今日ーーだってあなたをーー思いながらーー歌うたいは唄うよ」
ちょっと出会うのが遅かったかもね、と左手の指輪を見せつけられた。
「ずっとーー言えなかった言葉があるーー短いからーー聞いておくれ」
それでも悠一はーー心の中では、ずっと想っていた。
「愛してる」
何かあれば、必ず助けるって。
「嗚呼ーー唄うことはーー難しいことじゃない/その胸の目隠しをーーそっと外せばいい」
中々連載デビューできなくて、悠一が愚痴っぽく嘆いたら、簡単なことを成し遂げたいなら、早く他の道に進めばいいと、友美に叱られた。
「空に浮かんでるーー言葉をつかんでーーメロディを乗せた雲でーー旅に出かけるーー」
題材はそのへんにいっぱい転がっていても、ストーリーのパターンには限りがある。絵の上手いひとはごまんといて、注目されるのは一握りのひとだけ。それでもあなたは漫画家を目指した。それは、なぜ?
そう言って、友美は悠一の顔にマジックペンを走らせた。堂々と落書きをした。
「情熱のーー彼方にーー何がある?ーー気になるからーーいこうよ」
描くことが生きること。
ーーだからでしょ?
友美は笑った。消えなかったらどうすんだよ、と悠一も笑った。
「窓の外にはーー北風がーー腕組みするーービルの影に吹くけれどーー」
いよいよ初めての単行本化。悠一のコミックスの帯には、先に売れた友美が宣伝文句を寄稿してくれた。
確かメッセージは。
「ぼくらを乗せてーーメロディーは続くぅぅーーーー」
これが私のベストフレンドだ!
「今日ーーだってーーあなたをーー思いながらーー歌うたいは唄うよ」
空にペンはあるのかな、と悠一は思う。紙なんて必要ない、空にそのまんま絵を描ける魔法のペンはあるのかな、と悠一は思う。そんなものがあるのなら、誰か友美にプレゼントしてやってくれないかな、と悠一は思う。
ペンを走らせている間は、苦しみや悲しみや不条理を忘れられるから。
「どうやってーーあなたにーー伝えようーー」
空にスマホはあるのかな、と悠一は思う。通話はできなくてもいいから、こちらから一方的に伝えられる迷惑電話みたいなものでもいいから、あってほしいな、と悠一は思う。
友美の尊敬していた水嶋先生の漫画がアニメ化するって、悠一は友美に伝えてやりたい。
できれば、喜ぶ声も聴きたいけど。
それは想像できるから別にいい、と悠一は思う。
「雨の夜もーー冬の朝もーーそばにいて」
何度も遠くから、願った。
どれだけ離れていても、祈った。
いつまでも思い描きながら、満たされた。
「ハッピーエンドのーー映画をいまーーイメージしてーー唄うよ」
幸せそうに笑う友美の顔を。
悠一は、絶対に忘れない。
「こんなに素敵なーー言葉がある」
悠一は屈んで、奏太の小さな身体を優しく抱き締めた。
「短いけどーー聞いておくれよーー」
友美の望んだ奏太の幸せは。
奏太の未来は、悠一が絶対に守る。
それが悠一の。
精いっぱいの。
「愛してる」
ーーだから。
なあ奏太、と悠一は耳元で囁く。
「奏太には……今井さんみたいな母親が必要なのかもしれないけど、俺は」
「ーーわかってるよ、お父さん」
奏太は悠一の胸に手を当てた。
「僕のお母さんは、お父さんの中にいる。もう……寂しくないよ」
そうか、と悠一は納得し、もう一度奏太を抱き締めた。
その後方では、二人の親子とはまったく縁も所縁もない東南アジア系の若い女性が号泣していた。
「No Love, No Life. (愛のない人生なんて考えられませんわ!)Love is All!(愛こそ全てですわ!)」と英語で叫びながら。
【信じることがつらくても・了】
12
あなたにおすすめの小説
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。大学時代のクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。屋敷で不審な事件が頻発しているのだという。かつての同級生の事故死。密室から消えた犯人。アトリエにナイフで刻まれた無数のX。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の6人は大学時代、この屋敷でともに芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。6人の中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる