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第六夜
義兄は過去と再会する
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「カオルくん、昨日のこと何か言ってた?」
「いや、特に何も」
「何もなかったって?」
「そうじゃなくて、何も教えてくれなかったんだ」
「ああ、やっぱりそうだよね……」
「……」
「知りたい?」
「そりゃあ気にはなるだろ。ふたりして泣いてたんだから」
「でもなー、カオルくんが言わなかったんだから、私も言わない方がいいよねー?」
一条は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。聞き出すには何か対価を差し出す必要がありそうだ。
無理に聞き出したいとも思わないし、聞き出す必要性も感じていない。一条とカオルが今日普通に会話をしていたのだから、大したことではない可能性が高いからだ。それに他者がふたりだけの秘密に介入するのが良いこととも思えない。
しかし一条が楽しそうなので、少しだけそのノリに付き合うことにした。
「何が望みなんだよ」
「んー? なんだと思う?」
「……ハチミツか?」
「あははっ、何それ。それじゃ私がクマさん見たいじゃん」
一条が楽し気な声をあげた。
「間違ってないだろ。何にでもハチミツをかけて、最終的には直で飲んでたって言ってたじゃないか」
「あれ、ちゃんと聞いてたんだ。一人だけ除け者にされてむくれて聞いてないと思ってた」
「甘党の義弟を持つ身として、今後の参考にするために一言一句漏らさず聞いてたよ。聞いてるだけで胸焼け気味だけどな」
「ふふっ、でも今はハチミツはいらないかな。自分で買えるしね」
どうやら一条はプライスレスな貢物を所望しているらしい。
タダより高いものはない。年を取って大人になる過程で学ぶこの世の真実の一つだ。
「なんだよ。この家には非売品なんてないぞ」
「……鹿島くんさ、あさひのこと名前で呼んだよね」
「そうじゃないと一条と被るだろ」
一条と一条ちゃん。区別はつくが避けるのが無難な選択だろう。
「私を名前で呼ぶ選択はなかったの?」
それは問いかけというよりも、問い詰めのようだった。
「一条だって同じだろ。カオルを名前で呼んで、俺を苗字で呼んでる」
「それじゃあ、私が変えたら鹿島くんも変えるの?」
「……さあな」
「ケン君」
心臓が跳ねた。
昔、一条が真剣な眼差しで俺を見つめていたあの日。一条の告白を受けたあの日から、一条は俺をそう呼び始めていた。
それは過去を想起させる音だ。俺の隣を歩いていた彼女を思い出させる、声音自体が意味を持つ呪文のような。
「どうしたの? ケン君」
「止めろよ……もう、そういう関係でもないだろ?」
「そういう関係じゃないカオルくんにもそう呼ばせてるでしょ?」
「っ……まあ、そうだけど」
「知りたいんじゃないの? 昨日の私とカオルくんのやり取り」
「……」
「ねえ、ケン君?」
名前。個体を識別する記号。それ以上の意味はない、ただの固有名詞に敬称をくっつけただけの言葉。
それなのにどうして。名前を呼ばれているだけでこんなにも心がざわつくのか。
「ほら、ケン君」
まるで責められているような気分だ。胸が苦しくて、顔が熱くて仕方がない。
今は何でもない友人のはずだった。元彼女でも、今はただの友人だと思えていたはずだった。そのはずなのに、一条の女性な部分が気になって仕方がない。視界が、思考が、彼女にどんどん浸食されていく。
俺の名前を呼ぶ唇が。
俺とはかけ離れた小さく細い体格が。
大きく膨らんでいる胸が。
楽になりたい。ただその一心で。俺の心は一条の名前を呟き始めていた。
「……夕美」
口にしたことなんて数回だけ。彼女の名前を呼ぶことが恥ずかしくて、極力避けていたから。
しかし言い慣れていないはずなのに、滑らかにその音を発することができたのはなぜなのだろうか。
「よくできました」
目の前に座っていたはずの夕美がいない。
俺を褒める声は、真後ろの上の方から聞こえてきていて……。
「……っ!」
後頭部に柔らかい物が当たった。
それは俺にもカオルにも持ちえない、女性だけの柔らかな感触だった。
「いや、特に何も」
「何もなかったって?」
「そうじゃなくて、何も教えてくれなかったんだ」
「ああ、やっぱりそうだよね……」
「……」
「知りたい?」
「そりゃあ気にはなるだろ。ふたりして泣いてたんだから」
「でもなー、カオルくんが言わなかったんだから、私も言わない方がいいよねー?」
一条は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。聞き出すには何か対価を差し出す必要がありそうだ。
無理に聞き出したいとも思わないし、聞き出す必要性も感じていない。一条とカオルが今日普通に会話をしていたのだから、大したことではない可能性が高いからだ。それに他者がふたりだけの秘密に介入するのが良いこととも思えない。
しかし一条が楽しそうなので、少しだけそのノリに付き合うことにした。
「何が望みなんだよ」
「んー? なんだと思う?」
「……ハチミツか?」
「あははっ、何それ。それじゃ私がクマさん見たいじゃん」
一条が楽し気な声をあげた。
「間違ってないだろ。何にでもハチミツをかけて、最終的には直で飲んでたって言ってたじゃないか」
「あれ、ちゃんと聞いてたんだ。一人だけ除け者にされてむくれて聞いてないと思ってた」
「甘党の義弟を持つ身として、今後の参考にするために一言一句漏らさず聞いてたよ。聞いてるだけで胸焼け気味だけどな」
「ふふっ、でも今はハチミツはいらないかな。自分で買えるしね」
どうやら一条はプライスレスな貢物を所望しているらしい。
タダより高いものはない。年を取って大人になる過程で学ぶこの世の真実の一つだ。
「なんだよ。この家には非売品なんてないぞ」
「……鹿島くんさ、あさひのこと名前で呼んだよね」
「そうじゃないと一条と被るだろ」
一条と一条ちゃん。区別はつくが避けるのが無難な選択だろう。
「私を名前で呼ぶ選択はなかったの?」
それは問いかけというよりも、問い詰めのようだった。
「一条だって同じだろ。カオルを名前で呼んで、俺を苗字で呼んでる」
「それじゃあ、私が変えたら鹿島くんも変えるの?」
「……さあな」
「ケン君」
心臓が跳ねた。
昔、一条が真剣な眼差しで俺を見つめていたあの日。一条の告白を受けたあの日から、一条は俺をそう呼び始めていた。
それは過去を想起させる音だ。俺の隣を歩いていた彼女を思い出させる、声音自体が意味を持つ呪文のような。
「どうしたの? ケン君」
「止めろよ……もう、そういう関係でもないだろ?」
「そういう関係じゃないカオルくんにもそう呼ばせてるでしょ?」
「っ……まあ、そうだけど」
「知りたいんじゃないの? 昨日の私とカオルくんのやり取り」
「……」
「ねえ、ケン君?」
名前。個体を識別する記号。それ以上の意味はない、ただの固有名詞に敬称をくっつけただけの言葉。
それなのにどうして。名前を呼ばれているだけでこんなにも心がざわつくのか。
「ほら、ケン君」
まるで責められているような気分だ。胸が苦しくて、顔が熱くて仕方がない。
今は何でもない友人のはずだった。元彼女でも、今はただの友人だと思えていたはずだった。そのはずなのに、一条の女性な部分が気になって仕方がない。視界が、思考が、彼女にどんどん浸食されていく。
俺の名前を呼ぶ唇が。
俺とはかけ離れた小さく細い体格が。
大きく膨らんでいる胸が。
楽になりたい。ただその一心で。俺の心は一条の名前を呟き始めていた。
「……夕美」
口にしたことなんて数回だけ。彼女の名前を呼ぶことが恥ずかしくて、極力避けていたから。
しかし言い慣れていないはずなのに、滑らかにその音を発することができたのはなぜなのだろうか。
「よくできました」
目の前に座っていたはずの夕美がいない。
俺を褒める声は、真後ろの上の方から聞こえてきていて……。
「……っ!」
後頭部に柔らかい物が当たった。
それは俺にもカオルにも持ちえない、女性だけの柔らかな感触だった。
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