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31 地出づる風神

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 芹の顔から、自然と笑みがこぼれた。
 昔語りに聞かされた古の伝承。巨大な凧に身体を預ける恵五郎は、少しも動じず、むしろたのしんでいる。

「怖くないのでござろうか?」

「あなたは高いところも苦手ですものね」

「高いところ以外は、得意でござる」

 軽口を叩き続ける高平に、芹はひそかに感謝していた。
 滝川家を裏切ると決めたとき、高平は二つ返事で芹についていくと言ってくれた。赤忍の面々を説き伏せたのも高平である。

「猿将・恵五郎は、命懸けでござるな」

「最初から、一族の存亡を懸けて戦ってきたのよ」

「ですが、あんな竹と布で作った凧に乗ってしまうとは、よほどの胆力にござる。しかも、芹さまが本当に内応するかどうかわからぬと言うのに……普通の感覚でできることではありますまい」

「……誉めてるの? けなしてるの?」

「むろん、手放しで誉めておりまするぞ。腹を割って話したわけでもない芹さまを、信じてくれたのでござる。悪い気はしませぬ」

「私を信じたのではなくて、黒井半左を信じたのよ」

 芹は赤面しながら答えた。
 敵方の忍衆を率いる芹、羽柴方の間者である黒井、恵五郎は清濁を丸呑みして、己の側へ引き寄せた。懐の深い男である。

「ああいう肝の据わった男が先陣におれば、軍勢は強くなるのでござる。親しみのある将が命を懸けてるところを見て、奮起せぬ兵はおりませぬ」

 高平の言葉には、津田小平次や山上兵内への揶揄が込められている。
 津田は督戦のため、海老川を渡っているはずだ。たまたま前線に近いところにいるだけで、ずっと川背の里の屋敷に居住してきた。寒さと降雪に苦しむ兵が、津田のために奮起することはあり得まい。
 山上には、将兵に対する気遣いがあるものの、慕われているかと問われれば首をかしげてしまう。北勢の狼将は、孤独を好み、他人を寄せつけない。

「凧が落ちてきてござる」

「出るわ」

 芹は片手をあげた。

 周囲の草木がわずかに揺れる。
 井戸曲輪を放棄した赤忍は、隠密の移動で石積みの墓地近くまで接近した。芹と高平も、身を隠している。機を見て、陣地内へ侵入すると通達してある。
 部下がどこに潜んでいるか知らないが、芹の手が見えるところだ。

 合図を出してから、芹と高平は姿を見せた。
 陣地の出入り口。墓地をぐるりと柵で囲っており、20の出入り口を設けて、番兵を立たせている。

「赤忍の芹よ」

「おなじく副頭領の高平。山上どのに呼ばれて参った」

 取り次ごうとして背を向けた番兵は、そのままうつ伏せに倒れた。

「お見事」

「行くわよ」

 匕首ひしゅについた血糊をふき取り、芹は陣内へ入った。
 混乱と動揺が広がっている。
 一方で、下がってきた凧に長槍を向ける兵がおり、恵五郎の矢が集中していた。

「幻惑」

 芹がつぶやき、片手をあげる。
 高平が傍を離れた。

 兵の中にまぎれていた赤忍が姿を現し、芹を中心にして広がっていく。
 足を刈ったり、胸を突いたり、肩を押したり、敵兵に触れながら、円を大きくする。あちこちで、敵兵同士がぶつかったり、転んだりした。水面に広がる波紋のように、取り乱す敵兵が増えていく。

 ある大きさまで広がると、また円を縮めた。
 円を保ちながら移動する。混乱の渦が動いているようなものだ。

 敵兵からすれば、姿の見えない何者かに触れられるが、そう思ったときには赤忍の者は別の場所へ移っている。
 いくさで気が立っており、押した押さないの些細なことでも、いさかいがはじまる。
 隊伍も、統制も、乱れる。

「櫓」

 芹の声を受けて、高平が一つの櫓に近づく。
 墓地には、十の櫓がある。里の家々を壊して持ち込んだ木材を組み上げ、昼夜問わずのかがり火が焚かれていた。

 高平が櫓の下にいる何人かを斬り伏せた。
 敵が高平に群がる。赤忍からも五名ばかりが高平を支援する。

 芹はその隙に、騒ぎの反対側から櫓を登った。見咎めた敵兵は、大声を出す前に飛びくないを喉に受けて倒れた。
 上へ。
 高さは一間半ほど。上の広さは十畳ほど。中央に薄い鉄板があり、その上に薪が組まれて火が燃えさかる。欄干の脇には、運び上げられた雪が押し固められている。

 そこにいた敵兵二人を、やはり飛びくないで倒し、近くにいた一人は背後から飛びついて、首を掻き切った。
 懐から陶器の小瓶を取り出す。中には、とろりとした黄色い液、菜種からしぼった油である。芹は、小瓶を放り投げ、火の中に割り入れた。

 炎が、怒ったように大きくなり、一瞬にして鉄板から広がり、欄干に燃え移る。
 こうなったら、熱冷ましの雪は一時の効果はあっても、鎮火させるほどの役には立たない。紅蓮の炎は欄干を燃やし、床板が崩れ、骨組みの丸太も呑み込む。

 芹はすでに飛び降り、次の櫓へ向かっている。
 部下たちも同様に動き、四半刻もしないうちに十の櫓は炎上した。櫓の丸太をいぶしながら燃やすため、黒と白の煙が充満する。

「わしには、意味がわからぬ。これでどうして凧がふたたび浮き上がるのでござるか?」

「あなたは考えなくて良いわ」

 芹とて、半信半疑である。
 いまや石積みの墓地の陣内は、櫓の炎の熱気が渦巻いていた。
 そのとき、吹き込む風が増した。

  大地より風神を召喚し、堂舎大厦を薙ぎ払う

 渦巻く炎は、地から天へ向かう風を起こした。
 さらに、吹き込む風も、炎に吸い寄せられるようにして増した。

 ――これは!

 芹は目を見張った。
 熱風が激しくなり、陣内を駆けめぐる。

「撤収」

 芹は球状の焙烙を火の中へ投げ込む。櫓が燃える黒い煙の中から、赤色の煙が立ち昇った。
 集合場所は、風神山とは反対側。小さな祠のある林だ。

「炎が、石積みの間を抜ける風に乗っておる」

 高平が顔の煤を拭きながら言った。
 赤子の鳴き声がするとささやかれていた石積みの墓地。あれは、風が石積みの間を抜けるときの音だ。櫓の炎上で吹き込む風が増し、その風は迷路のような石積みにぶつかることで乱れ、不気味な音を立てた。
 いまは、その風によって、炎があおられ、予想できないところへ次々に飛び火している。

 陰鬱いんうつでしかなかった石積みの墓地から、炎の巨人がむっくりと起きあがり、横へ、上へと腕を伸ばす。その正体が風である。渦巻く旋風が、炎を操り、その身にまとい、ふくらんでいく。
 地より喚び起こされた風神が、炎の鎧をまとい、あたり一面を呑み込もうとしていた。

 撤退した後、芹はその光景を見て、言葉を失った。
 炎は、天へも伸びている。
 熱風が上昇する風となり、恵五郎たちの凧はふたたび舞い上がった。

 雷のような矢の雨と、風神の怒りを思わせる炎によって、滝川勢は潰走する。
 そのころには、山を下りてきた風ノ里の本隊も、いくさに加わり、墓地を飛び出した敵兵を討ち果たした。女房衆も追撃に加わっている。
 里の民が、一丸となって滝川勢を攻め上げる。

 地では炎が暴れ、空には凧に乗った風使い。古文書にあった災厄の絵図が、現出していた。
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