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其れは連なる環の如く

美女連環の計 12

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「何やら病気だったらしいけど、そのまま来ない方が良かったんじゃない? まったく、育ちの悪さが知れると言うものよ」

 最初それは空耳かと思っていた。

 蓉はすっかり体調も良くなり、董卓の私塾にも再び通う様になった。

 蓉としては貂蝉から直接色々と教えてもらいたかったのだが、あの日以来貂蝉は姿を見せないでいる。

 噂では董卓から直接目をかけられ、今では董卓に仕えているらしい。

 一応立場の上で言うなら蓉は董卓の孫に当たるのだが、そうは言っても数十人いる孫の中の一人でしかないので、すぐに董卓に会う事は出来ず、当然貂蝉にも会えないでいた。

 率直な事を言えば、蓉はこの私塾が好きではない。

 こんな所に来るくらいなら、董卓の母親である悦のところで一緒に畑仕事をしている方が楽しいのだが、悦からも勉強は大事だと言われたので仕方無かった。

 勉強する事自体は、嫌いではない。

 ただ、集団行動が苦手と言うか、周りに合わせるのが苦手なのだ。

「無視? 良い度胸じゃないの」

「え? 何? 私に言ってたの?」

 蓉はようやく自分に話しかけられていたと知って、声の方を見る。

 偉そうにふんぞり返った姿勢で腕を組んでいる少女と、その取り巻きが数人ほど蓉を睨みつけていた。

 中央でふんぞり返っている少女は中々の美少女と言えるが、一目で気が強いと分かる逆立った眉とつり上がった目、小柄な方ではあるが輪郭は丸みが目立つので、この先太りそうな気配は漂っている。

「何か用があった? 私には無いけど?」

 蓉は不思議そうに首を傾げる。

「随分と態度が大きいじゃない」

「そう? そっちほどじゃないでしょ?」

 蓉はそれだけ答えると荷物をまとめて、席を立つ。

 しかし、少女達は蓉の行く手を遮る。

「何よ、この私に挨拶も無し?」

「朝、したよ?」

 蓉はとことん訳がわからないと言う様に、首を傾げている。

「何? 帰る挨拶の事? じゃ、お疲れ」

 しゅたっと右手を上げると、蓉は立ち去ろうとする。

「調子に乗らない事ね、呂蓉」

「乗ってないでしょ? で、何?」

 蓉がジロリと睨み付けると、中央でふんぞり返っている少女でさえ僅かに怯む。

 歳の割に大人びた外見の蓉は、『黙って座っていれば、長安で一、二を争う美女』と評される厳氏と、天下で最強の美男子である呂布の良いところを引き継いだ恵まれた容姿である。

 また、腕っ節の強さもよく知られているところであり、少女達であれば十人いても敵わない事は、声をかけてきた連中も分かっている。

 だが、それでも中央の少女は踏み止まった。

「ふ、ふん、いい気になっていられるのも今のウチよ。お祖父様に言いつければ、あんたなんてここにも来れなくなるんだからね」

「じゃ、よろしくと言う事で。お疲れ」

 蓉はしゅたっと右手を上げて立ち去ろうとする。

李玲りれい郭香かくこう

 ふんぞり返る少女に言われ、二人の少女が蓉の行く手を阻む。

 李傕と郭汜の娘である。

「何? 何の用なのよ。用があるなら自分で言えば? 董白」

 蓉は面倒そうに頭を掻きながら、中央の少女に言う。

「ふふん、強気じゃない。知ってるのよ? あんたの親父、一兵卒に降格したんでしょ? よく恥ずかしげもなくここに来れたものね」

 董白はふふんと鼻を鳴らして、勝ち誇っている。

 情報の遅さが失笑モノではあるのだが、当事者の娘である蓉と部外者の董白では、情報の早さにも正確さにも差があるのは仕方が無い。

 これまでも蓉が望んだ事では無かったが、董白と蓉の派閥争いじみた事は起きていた。

 蓉がゾロゾロと引き連れて歩くのを好まないのに対し、董白は自身の自己顕示欲を示す為にも取り巻きを多数連れて歩く事を好む。

 二人とも董卓の孫と言う立場ではあるが、董白は董卓の一族の血を引くと言う正当性を持っているので、蓉より多少の影響力を持っているのは間違いない。

 しかし、呂布が董卓の養子であり世間的には董卓の後継者の最有力候補でもあるのだから、蓉を完全に無視する事も出来ない。

 その上、蓉は実力行使に出た場合には誰よりも腕っ節が強いので、董白派の者達も表立って蓉と敵対するような事は無かった。

 そこに董白は呂布の一兵卒降格の情報を言いふらし、自分の勢力を確固たるモノにしたらしい。

 元々李傕の娘である李玲や、郭汜の娘である郭香とは気が合わなかったし、二人共董白派の代表のような者だったが、その他にも多くが董白派に流れたようだ。

 それでも全員が例外無く董白派になったかと言えば、当然そんな事は無い。

「あんた達、いい加減にしなさいよ」

 ゾロゾロと取り巻きを引き連れているのが鬱陶しいと思ったのか、口を挟む者がいた。

 皇甫嵩の一族の少女である、皇甫蓮こうほれんだった。

 彼女は特に蓉に肩入れしていると言う訳では無いが、とにかく董白の横暴振りに嫌悪していた。

 また、今では『暴君』董白が全てを牛耳っているのだが、本来であれば彼女こそが中心人物になるはずだった名家のお嬢様でもある。

「落ちぶれた家の奴が何か言ってるわよ」

 董白ではなく、李玲が皇甫蓮に向かって蔑む様に言う。

「私は規律を守れと言っているの。董白さんは呂蓉さんに用があるのでしょう? こんな大勢で脅す様な事は必要無いと言うのがわからないの? それとも、大勢でないと声もかけられないのかしら?」

 皇甫蓮は、気丈に董白に向かって言う。

 だが、怖くない訳ではない。

 拳を握り込み、恐怖に負けないように自分を奮い立たせている。

「身の程知らずほど大口を叩きたがるわね。泣かされたくなかったら、引っ込んでなさい」

 董白は犬でも追い払う様に手を振ったが、皇甫蓮は引き下がらなかった。

「色々言いたがるけど、結局貴女は祖父である太師の威光がなければ何も出来ない愚か者だと自覚しなさい。少しは自分の足で立つ努力くらいすれば? ま、貴女には無理でしょうけど」

 蓉を挟んで、董白と皇甫蓮の口論は白熱していく。

「あのー」

 蓉が口を挟むと、董白と皇甫蓮の二人から睨まれる。

「私、もう帰っていい?」

「はぁ? あんた、本当に良い度胸してるわね」

 董白が蓉に向かって噛み付こうとするかのように、睨みつけてくる。

「だって、挨拶はしてるでしょ? 朝はおはようって言ったし、さっきもお疲れって。私の中ではそれが挨拶だったんだけど、違った?」

 蓉は首を傾げる。

「一兵卒の娘がここに通う事自体、おかしな事なのよ。だとしたら、当然この私の許可を得るべきでしょう?」

「何で? 董白、別に偉い人じゃないよ?」

 蓉は本気で不思議がっている。

 この私塾はもちろん、都の中でも董白にこう言う態度を取れる人物は少ない。

 同年代の少女の中では、蓉一人だろう。

 董卓、呂布と言う強力な後ろ盾もそうだが、良くも悪くも空気を読まない態度が取れる事が大きい。

「一兵卒の分際で、この私に逆らっていけると思ってるの? お祖父様に言いつけて、あんた達一家全員罪人にしてもらうわよ?」

「ん? 罪を犯してないのに、罪人になるの? 李儒軍師に聞いてみる?」

 李儒の名前を出すと、さすがに董白もその一派も今までの勢いを保てなくなる。

 階位はさほど高く無いとはいえ、李儒は董卓政権における最重要人物の一人であり、特に刑法や司法に関する権力は董卓に次ぐ人物であるため、場合によっては董卓と同等の影響力を持っていると言える。

 董白やその一家と比べ、呂布の家族の方が李儒との距離は近いので、董白が一人大騒ぎしたところで李儒が出てきたら濡れ衣も着せようがない。

 それでも罪に問うとしたら、それこそ動かぬ証拠が必要になってくる。

「お祖父様に言いつけて罪人にするだなんて、下卑た下衆の考えね。底が知れるわ」

 皇甫蓮が董白に言う。

「落ちぶれた家の者同士、随分気が合うみたいね。私、知ってるわよ。あんたのとこの母親、不義の密通してるって噂よ」

 李玲がとっておきの情報だ、と言わんばかりに蓉に向かって言う。

「は? 何、まさかとは思うけど高順の事言ってる? 普通、護衛が一緒に行動する事は密通とは言わないけど。大体高順付けたの、父ちゃんだし」

 蓉が不思議そうに言うと、それだけで李玲の言葉は詰まる。

 そう言う噂や誤解は、確かにある。

 家人の中にもそう言う噂を聞いた者もいたが、高順はいかにも粗野な荒くれ者に見えて、実際には誰よりも義理堅い性格をしているので、厳氏に触れる事さえしていない。

 もしそう言う間違いをしようものなら、堅物の張遼から一刀両断にされる事になるし、何より武神とさえ言われる呂布を敵に回す事になる。

「ふふふ、その理論だと太師と呂布将軍も不義の密通仲間になりそうね」

 皇甫蓮があからさまに馬鹿にした様に、李玲を鼻で笑う。

「偉そうな事言ってるけど」

「言ってるのは、私じゃないし」

 郭香が何か言いかけたのを、蓉が遮る。

「言ってるのは蓮ちゃんだけどね」

「あんたなんて、所詮親殺しの娘じゃないの」

 郭香がそう言った時、蓉の目付きが変わる。

「あ?」

 蓉の雰囲気が変わった事は、誰の目にも明らかだった。

 基本的に明るく朗らかで、楽天的な蓉なのだが時として人格が変わったかのような変貌を遂げる事がある。

 以前、仲が良い少女が不良達に絡まれていた時、少女に対して不良少年が暴力を振るった瞬間に変貌し、より強大な暴力によって叩き伏せた事があった。

 今、董白の取り巻きに参加している者の中にはその現場を目の当たりにした者もいるのだが、その者達はまるで小動物かのように怯えて震えている。

「私は何と言われても構わないけど、これ以上両親の事を貶めると言うのであれば、いい加減私も黙ってられないのは、そろそろ分かってくれても良いんじゃないかな?」

 蓉の表情はさほど怒っている様には見えず、その声も口調もいつも通りであると言えた。

 だが、圧倒的に雰囲気が違う。

 蓉が立っているだけで大気が震え、呼吸困難になりそうなほどの威圧感が周囲に襲いかかる。

 すでに董白の取り巻き達は戦意喪失し、李玲や郭香でさえ怯えて董白に助けを求める様に目を向けている。

 董白も顔面蒼白になりながら、しかし人並み外れた自尊心によって踏みとどまっていた。

「な、何よ。もし私に何かしたら、それこそ反逆罪だからね」

「それがどうかしたの?」

 蓉は不思議そうに首を傾げる。

 これまでと同じ言葉、同じ態度ではあったが、この場合同じ受け取り方は出来ない。

「そ、それがって、貴女、わかってるの?」

「何が?」

 蓉はそう言って、一歩前に出る。

 その一歩で董白勢力は一気に瓦解し、ほとんどの取り巻きが逃げ出していく。

 董白の元に残ったのは李玲と郭香、その他逃げ遅れた少女達数名と言ったところである。

「と、董白様、ここは……」

 残ったと言っても、李玲はすでに戦意喪失しているので董白に撤退を進言している。

 敵勢力に対して戦力が伴わないと判断した場合、即座に撤退と言うのは戦術的判断としては間違っていない。

「……この私に歯向かった事、覚えてなさい」

「いや、別に歯向かってないでしょ?」

 蓉は威圧感を消して尋ねるが、董白は目に溢れんばかりの涙を溜めながらも、そのまま怒りに震えながら立ち去っていく。

 本来ならこの程度の子供の喧嘩以下、ただの口論で済んだ事であった。

 これがただの子供の口論で済まなくなったのは、この事を利用しようとする大人がいたからであり、その人数が多ければ多いほど問題は大きくなり事実は捻じ曲がっていく。

 董白は十歳にもならない歳でありながら、董卓から土地をもらった正式な領主でもあるので、彼女に従うのは私塾の取り巻き少女達だけではない。

 この騒動が董卓の耳に入った時には、まったく違う話になっていた。
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