ヴィヴァーチェ(vivace)

瀬雨

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ニコラ・デュランという男

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最初に言っておくが、決して私はフランス皇帝ナポレオンの顔に泥を塗ろうとしているわけではない。
歴史的英雄に唾を吐きかけるほど、私は暇じゃあないのだ。
ならばと問われるだろう。
「ならば何故、貴方が描くナポレオンは卑劣で傲慢で自己中心的な嫌な奴なの?」と。
答えは一つ。
「本人が自分でそう言っていた」からだ。
別に私も嘘をついているわけじゃあないのだよ。
……そんな目で見るな。
分かった、分かったよ。
見せれば、見せれば良いのだろう。
これはまだ執筆途中なんだが……まぁ、良い。

この本が完成する頃には、おそらくもう……。

すまんすまん、ついな。
話を始めようか。

ニコラ・デュランという男について。

**1800年、パリ郊外。**

大通りには馬車が往来し、連なる壮麗な建物がパリを彩っている。その気品は高潔を通り越して、ある種の自己陶酔に近い。誰もが「私を見て」と言わんばかりの装いをしているのは、この街の空気がそうさせるのだろうか。

まぁ、俺には関係のない話だが。

着飾った貴婦人の香水の匂いが、湿った石畳の泥と混ざり合い、鼻の奥を突く。
この街の喧騒はいつまで経っても慣れない。
女たちの甲高い笑い声や、遠くで聞こえる労働者たちの怒号。
実に奇妙な不協和音だ。

それもそのはず、最近の再開発とやらで、この街はひどく歪になった。
洒落たカフェや店が並ぶ大通りから一歩脇へ逸れれば、そこはもう欲望の檻だ。風俗や娼婦が客を引く路地裏が、網の目のように広がっている。

だが、俺はそのどちらの住人でもない。
俺が重い荷を背負って向かうのは、そのさらに奥。過密した労働者たちの居住地、いわゆる貧民街だ。

俺の仕事は運び屋だ。
ワイン樽や小麦袋を背負い、この歪な街を歩く。
そのついでに、たまに喧嘩屋という形で商売もしている。
金を払えば、どんな奴でも殴り飛ばしに行く。
大通りの気取った紳士たちを眺めながら、「あいつの顎なら、一撃で砕けるな」などと、無意識に隙を探してしまうのは職業病というやつだろう。
まぁ、今時紳士なんかより、商売敵や恋敵、単純に嫌いな奴といった具合の仕事しか来ないが。
どちらにせよケチな商売であることには変わりない。

「おーい、親父さん。小麦だ、届けに来たぜ」

ドスン、と重たい小麦袋を店の前に放り出す。毎週足を運んでいる馴染みのパン屋だ。

「おお、ニコラか。相変わらず重いだろうに、助かるよ。自分じゃもうこんなもん、持ち上げることすらできんわ! ガハハハ!」
「よく言いますよ。その腕、まだ現役で生地を捏ねてる職人のもんでしょうが」

パン屋の店主は、中年にしては筋肉質でガッシリとしている。ニコラは軽口を叩きながら、差し出された代金を受け取った。

「まいど。また来週な」

さて、次は……住宅街へワイン樽の配達か。
珍しいこともあるもんだ。あんな場所、俺たちみたいな汚れ仕事の住人には縁のない富裕層のテリトリーじゃないか。

「きゃああ!!!」

路地の奥から、突き刺さるような女の悲鳴が聞こえた。
「うるせえ! 黙れや! このアマ、ただで済むと……」
「おい」

短い一言とともに、俺は男の腕を掴んだ。ゆっくりと、だが着実に、指先に力を込めていく。

「あぁ? んだテメエ、誰だよ」
「誰でもいいだろうが。それよりお前……」
「手を離せっつってんだよ!」

男によって振り回された腕を、流れるようにいなす。

「今、女を殴ろうとしたな」
「だからなんだ! テメエには関係ねえだろ……!」

**『バキィィッ!!』**

乾いた音が路地に響き、男の巨体がドサリと崩れ落ちた。

「……っ、なっ……!」
「しっかり入るじゃねえか。さてはド素人だな。その恵まれた体格が泣いてるぜ」
「んだと……おまえ……ぁぅ……ぁ……おえぇぇ!!」

男がその場に胃袋の中身をぶちまけた。

「俺の拳はよ、入ればかなり痛いって評判でな。素人相手なら、ゲロの一つや二つや三つ、ってことよ」

男の目に明らかな恐怖が浮かぶ。(……なんなんだこいつの拳は、痛いとかの騒ぎじゃねえ、まずい!)

「わ、分かった。悪かったよ、見逃してく……」
「生憎だが、俺は男にはあんまり優しくできねえ質なんだ」

命乞いを遮り、男の眉間に二撃目を叩き込む。**『ゴリッ』**という不快な感触とともに、男は泡を吹いて白目を剥いた。

「おい、あんた……」
「ひ、ひぃ……! 殴らないでください! 助けて!」

血とゲロにまみれた男を冷ややかに見下ろす俺の姿は、彼女の目には助け舟ではなく、別の怪物に見えたのだろう。無理もない。

「バカ言っちゃいけねえ、俺は女は殴らな……」

言い終わるより早く、女は大通りの方へ向かって脱兎のごとく駆け出していった。

「……んだよ。一応助けてやったんだけどな」

呆れながら、ふと思い出す。そうだ、配達だ。

「んなことやってる場合じゃねえ! 急がねえと時間が!」

ニコラは再びワイン樽を担ぎ上げ、歪な街の迷路を、富裕層の住む「向こう側」へと走り出した。





「この家で合ってるよな……」

配達先は、この界隈でも一際目を引く屋敷だった。華美な外観に、広大な敷地。主人は貴族か、あるいは成り上がりの大富豪か。
だが、奇妙だ。なぜ俺のような路地裏の運び屋に直接依頼が来た? この手の連中なら、もっと「まっとうな」中継ぎを通すはずだ。

「配達の方でしょうか」
「!?」

気づかなかった。背後に、いつの間にか一人の老人が立っていた。
黒いスーツを着込み、背筋を真っ直ぐに伸ばした紳士――この屋敷の執事だろう。
「あぁ、こりゃどうも」

返事をしながら、背筋に冷たいものが走る。老人の目は、獲物を射抜く猛禽のように鋭い。元軍人か、あるいは……。

「そのワイン樽、この老体には少々重いようですな。中まで運んでいただけますかな」
「ええ、構いませんけど」

本気か、このじいさん。俺のような汚れを屋敷に入れて、主人に怒られないのか?
案内されたのは、巨大な地下倉庫だった。数十もの樽が整然と並ぶ中、老人は奥を指差した。

「そこの空いている場所に。主人は大のワイン好きでしてね。遠方の国からもよく仕入れるのですよ」
「へぇ……ここでいいですか?」

執事の言葉遣いは丁寧すぎて、かえって不気味だった。普通、俺のような階層の人間には、家畜に接するように淡々と命令を下すものだ。

「では、早いところお暇させて――」

 一瞬だった。
まさに、瞬きの間だ。老人の袖口から覗く、鋭い刃物の光を俺の動体視力は捉えた。

空気を裂く『シュッ』という音がした瞬間、俺の喉元に冷気が走る。
「……っ! 何すんだ、このジジイ――!」

間髪入れず、腹部に凄まじい衝撃が走った。
「っ……!」
体が宙に浮き、背後のワイン樽に叩きつけられる。
「……ハッ! 樽も持てねえ老体にしては、えらく重い蹴りじゃねえか」
「まだ立ちますか」
「理由は知らねえが……喧嘩を売られたなら、相手が老人だろうが容赦はしねえよ」
「容赦? 果たして貴方に、そんな余裕があるのでしょうか」

言うじゃねえか。
だが俺は丸腰だ。まずはあの得物をどうにかしねえと。

俺は老人の左側――ナイフを持っていない死角へ向けて蹴りを放つ。体勢を崩し、一気に距離を詰める算段だ。
だが、『グサッ』という肉を裂く音とともに、蹴りを出した足に激痛が走った。
「っ! なぜだ……」
「得物というのは、いくつあっても困りませんからな」

気づけば、老人の左手にもう一本の刃物が握られていた。出す瞬間すら見えなかった。
こいつ、素人じゃねえ。それどころか、俺が今まで路地裏で相手にしてきたどんな手練れよりも「深い」殺気を放っている。

(冷や汗が止らねえ……!)

俺は覚悟を決め、捨て身で踏み込んだ。右の拳にすべての力を込める。
「阿呆のように距離を詰めるとは。学習能力が乏しいようですな」

老人がナイフを構え、カウンターの姿勢をとる。その一瞬、俺はあえて体の重心を右に預け、致命傷を避ける軌道を作った。
「狙いは……」
「相打ちだよ! おらぁ!」

俺の右拳が、老人の脇腹を捉えた。
運び屋の筋肉が爆発させる、重戦車のような一撃だ。
「クハッ……!」
老人の体が初めてよろめく。

「一発入れば、こっちのもんだ……」
いかに達人でも、俺の拳を受ければ骨が砕け、内臓が揺れる。ましてやこの年齢だ。勝機は見えたはずだった。

だが。
「なるほど……これが」

(……嘘だろ。立て直しが早すぎる。間違いなく入ったはずだぞ!?)

老人は何事もなかったかのように姿勢を戻し、不敵な笑みを浮かべた。
「そこらのチンピラと一緒にされては困ります。一体何を学んできたのですか」
「……あんた、化け物かよ」
「まぁ、身体の使い方は段階的に覚えるとして……見込みはありますな」
「何の話だ……」

その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
前触れのない吐き気と目眩。立っていられない。

「ナイフに『仕込み』がないとは言っていないのですよ」

毒か。
まずい、こりゃあ……。

ニコラの意識は、地下倉庫の冷たい床に沈んでいった。

---

「彼は眠ったかい」

暗闇から、威厳のある声が響いた。

「ええ、旦那様。さほど強い毒ではありません。数時間で目を覚ますでしょう」

「『見込みがある』と言っていたね」

「ええ。動きは素人同然ですが、ポテンシャルは計り知れません。磨けば化けるでしょう。今はまだ、その資質が未熟なだけです」

「ならば、その身体に『慣らして』いけば良い。十分だ。よくやった」

椅子に深く腰掛けた男が、ワイングラスをテーブルに置く。

「ナポレオンの革命……いや、それ以前から兆候はあった。私の祖父がそれを発現させたのも、その頃だ。皆はそれを『神のギフト』と呼ぶが……」

男は、窓の外に広がる昏いパリの街を見つめた。

「いや、違うな。言うなればこれは、主への冒涜とも言える力だ」

「法皇であれば、この力をこう名付けるだろう」

 「『ヴィヴァーチェ(Vivace)』と」



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