BL短編集

セイヂ・カグラ

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【お前の嘘が分からなかった】

【お前の嘘が分からなかった】上

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〈あらすじ〉売れっ子天才俳優になってしまった幼馴染に、恋をこじらせた男が幼馴染にそっくりの男と出会って不純な関係になってしまう話。売れっ子天才俳優✕サラリーマン




 その日、俺は24年間守り続けた貞操を捨てた。
 バーで出会ったばかりの男で。

 今日が明日になれば、日付が変われば俺は25歳。祝ってほしい相手が、自分のお気に入りのバーに来るはずもなく俺は独り寂しく25歳を迎えた。誕生日が来たところで、独りでちびちびと酒を飲むことに変わりはない。仕方なく、もう帰ろうと重い腰を持ち上げふらついた所で声を掛けられた。

「ダイジョーブ? お兄ぃーさん。」

 酔っていた俺は、酷く軽薄な声に無性に苛ついた。顔を上げて睨みつけると、そこには何度見ても慣れない美形が珍しくにこやかに立っていた。金髪が照明に反射してやけにキラキラしている。こいつの笑った顔なんてメディアの中以外で、もう何年も見ていない。ふざけるのだって、久々に見た。

 管田すだアタル、本名 中根なかねあたる は昨年デビューしたばかりの人気若手俳優だ。さらさらとした金髪がトレードマークでスラリとした高身長な体型と美しい顔立ちは、さながら白馬に乗った王子様だと乙女の心を鷲掴んでいる。掴んでいるのは乙女の心だけではない。アタルの演技力は世界も注目するほどで、初主演の映画では主演男優賞、新人男優賞を、同時に別の映画で助演男優賞を取り総嘗めした。そんな男が…、手の届かないところにいる高嶺の男が俺、野々村ののむら郁人いくとの幼馴染兼親友、そして初恋相手だ。そんでもって、その恋を絶賛こじらせ中である。

 一番、祝って欲しかった相手。
 会いたかった男。
 少し目が潤んで顔を伏せた。

 ぶっきらぼうで、いつも無表情。笑った顔なんてほとんど見たことがない。スカウトされたと聞いてはいたが、まさかここまでになるとは思ってもいなかった。たまたま付けたテレビに映されたコイツを見たときは、驚きでひっくり返りそうになった。それも、笑顔で女の人に触れるシーンだったもんだから俺は卒倒した。
 
「変な喋り方やめろよ、あたる。びっくりするだろー?」
「え?」
「え?じゃねーし。
 どうせ俺の誕生日なんて知りもしないくせに。ばーか。」

 いかん、やっぱり呑みすぎた。

 ふざけたようにそう言ったが、アタルの反応はイマイチだった。なんだか不思議そうに首を傾げる、薄情なヤツめ。いつも常に張り詰めたような空気で感情の波が皆無な男が今日はやけに表情豊かだ。直も酔っているのだろうか? だとしたら相当珍しい。

「お兄さん、誕生日なの?」
「そうだけど。知らなかった?」

 話しながら自然に横に座るあたるに鼓動が早くなる。てか、そのお兄さんって止めろよ!と言って染まった頬を隠すように酒を煽る。普段無口な男は、酒に酔うと表情が豊かになる上に饒舌になるらしい。これは、なんというか、俺に毒だ…。

「知ってるわけ無いじゃん。僕、お兄さんに会ったのだよ?」
「何言ってんの? もしかしてアタルめっちゃ酔ってる?」

 彼では、想像も付かない甘ったるくて人懐っこい話し方とニコニコ頬杖を付きながら優しくこちらを見る瞳にいよいよ郁人も不安になってくる。何か、変なものでも食べたか? もしくは具合でも悪いのか、はたまた酔い過ぎているのか…。とにかく、こんな直を郁人は見たことがない。

「さっきからアタル、アタルって言ってるけど…、それってもしかして管田アタルのこと?」
「管田アタルって、おまっ、!……自分のことだろうがっ。」

 真顔で聞いてくる直に、いよいよ本気で記憶喪失か何かではないかと焦る。けれど、そんな郁人を後目に返ってきたのは思っていたのと違う返事だった。

「あぁ~。最近、良く言われるんだよねぇ。って。この髪色にしてから、特にすごいの! 本人と間違えてサインねだってくる人とかいるし、あげく写真勝手に撮られて困ってるんだよ…。ちょっとうんざり。」
 
 眉を下げ、溜息を吐く男。
 そんなに似てるのかなぁ? と拗ねたように唇を尖らせながら、先程注文していた甘そうでプリティな酒を飲む。おいしぃ~と頬を綻ばせる姿は、女子顔負け。

「ねぇ! お兄さん、もしかして管田アタルの友達? 
 だったらお願い! アンタのせいで困ってますって伝えてよ。」
「へっ? あ、うん、知り合いっていうか、なんというか…。でも、そんな、。」

 突然、手を握られ郁人は動揺する。
 一体、どういうことだ? この人は直じゃないってことか? 
 うう、でも同じ顔!
 そんな近くに寄せられたらっ、ドキドキしちまう!
 いやいやいや!まさか!こんなに似ている人がいるわけっ…。
 で、でも立ち振舞や言動は全然似てない。
 むしろ真逆。アイツ、笑ったりしないし。
 こんな話し方なんて絶対しないし。
 てか、愛想悪いし!
 可愛いものとか甘いのは好きじゃないはず!  
 だいたい「ぼく~」とか言わない。

「ほ、本当に、アタルじゃねぇ…の?」
「うん! 僕はナオ。そっくりさん、って言うのはなんか癪だけど。
 でも、顔が似てるのは認めるよ。」

 そう言ってナオは、困り顔で柔らかく笑った。



   ■



「やめ、ぁっ…、もう、おわッ、てくれ、 ああっ!」
 
 腰を打ち付ける卑猥な音がやたらと派手な照明のホテルの一室に響き渡る。
 なんでこんなことになってるんだっけ?

「終わって? お兄さん慣れてるくせに。今までの男、全員童貞だったんじゃない?」
「はっ、ち、ちがうっああっ。」
 男となんてセックスしたこと無い。
 そもそもセックスそのものがはじめてだ。


 この状況になるには訳がある。
 何故、こんなことになっているのか
 それは遡ること二~三時間前。
 
「ほ、本当に、あたるじゃねぇ…の?」
「うん! 僕はナオ。そっくりさん、って言うのはなんか癪だけど。
 でも、顔が似てるのは認めるよ。」
 
 信じがたい事実だが…、幼馴染としてもう何年もあたるの側にいる俺ですら見間違うほどのこの男は正真正銘のそっくりさん。あたるとは別人らしい。正直まだ疑っている。

 ドッペルゲンガーごっこか何かか?
 いや、アイツがこんな事するわけない、よな…。

「その……、ナオ…さん?」
「んー?」

 微笑み返されて、やっぱりあたるではないような気がしてくる。
 あたると同じ顔で優しくされると、なんだか胸が苦しくなった。

「夢じゃ、ないよな?」
「ははっ、お兄さん面白いこと言うね。」

 声も、笑顔までそっくりだ。もう何年も見ていない彼の笑った顔が思い出されて泣きたくなる。郁人は慌てて酒を煽った。一人が寂しくてカウンターに座ってしまった今日、もうほぼやけ酒みたいになっている。手元の酒が無くなって、とりあえずぱっと頭に浮かんだDAIQUIRIダイキリを頼んだ。

「お酒、詳しいの? 僕、全然わかんないなぁ。」
「詳しいって、わけじゃない、です…けど。ちょっと好きなだけで。」
 直ではない赤の他人だと分かると、自然に敬語となる。
「ふーん。ねぇ、僕にオススメ教えて。
 一緒に飲もうよ、今日は独りだから寂しかったんだ。」

 ナオはとても話しやすく、自然と会話が弾んだ。久々に楽しいな、なんて感じながら酒もすすむ。おまけに聞き上手なものだから余計なことまでベラベラと話してしまったような気がする。
 酒は好きだがそんなに強くはない郁人は、段々とアルコールに思考が奪われていった。もともと一人で大分飲んでいたのに、そこからさらに飲んでいる。もう、椅子に座っているのもやっとだ。次第に呂律も回らなくなってきた。

「おれ、好きなひとがいてぇ。」
「……、恋バナするの? どんな人?」

 どんな話しをしても笑ってくれたり、真面目に聞いてくれるナオに郁人は何でも話したくなって、ついそう言った。一瞬、間があったような気もしたがナオはやっぱり聞いてくれる。酔っ払った頭で時々、あたると間違えそうになる自分が嫌になった。いっそのこと言ってしまえばいいんだ。この人は、あたるじゃない。

 でも、さすがにナオも帰ってしまうんじゃないだろうか。
 それでも、何故だが言いたくなった。
 今まで、誰にも話さなかった。
 24年間、貞操と共に守り続けた俺だけの秘密。

「もうずっと、何年も好き。」
「それって…。」
「……そいつ、男なんです。」

 言い切る頃には、グラスを持つ手が震えていた。引かれるのが怖くて、何よりも嫌悪感をあたると同じ顔で出されたらと思うと怖くて、視線を逸らした。流れる沈黙に耐えきれず、揺らしたグラスの中のブラウンを眺めて、失敗したと後悔した。せっかく、久々に楽しいと思えたのに。
 不意に震える手がそっと包まれた。自分の手よりほんの僅か小さな手が郁人の手をそっと撫でる。その指先は冷たかった。驚いて顔を上げると、そこには意外にも真剣で、それでいて剣呑な眼差しのナオが郁人を見ていた。好きな人にやっぱり似ている顔立ちに郁人はドキドキと心拍数が上昇していくのを感じた。

「お兄さん、明日は休みだよね?」
「へ? あ、ああ。はい、土曜ですから。」
「じゃあ、店変えようか。」

 ナオはそう言って立ち上がると、壱万円札を何枚か乱雑に置き郁人の手を引いた。 

 手を引かれるまま椅子から立ち上がる、そうしてナオを見ると自分より少しだけ背が低いのが分かった。まじまじと見ていると視線が合う、その感覚は身に覚えのあるものだ。郁人の視線に気不味さを感じたのだろうか、ナオが身長差による上目遣いで苦笑した。

「へぇ、お兄さん背高いね。意外。」
「背の高さまで、似てるんですね…。」

 お釣りも貰わず郁人の分まで払ったナオは、手を繋いだまま店の外に出る。ナオに声を掛けられる前まで飲んでいたので、金額が結構いってるはずだ。慌てて自分の財布を出して、乱雑に置かれたお札と同じ枚数を渡した。しかし、次の店で奢ってよとナオはそれをやんわりと拒否し、話を続ける。困惑しながらも次の店で奢れば良いかとぼんやり思った。どこの店に行くのだろうか、夜風が冷たい。会ったばかりの男にこんな簡単について行ってはまずいだろうか…、いや自分も男なのだから関係ないか。

「顔が似ていると、骨格まで似るらしいよ? それに声もね。」
「それって、本当にドッベルゲンガーみたいですね。」
「そうそうドッペルゲンガーといえば、全く血の繋がりのないそっくりな他者を集めてDNAを調べたって研究があるよ。」
「へぇ、どうだったんですか?」
「それが、双子並に似ているらしい。」
「双子! じゃあ、ナオさんとあたるも実質双子ってことですか!」

 おもしろい話に郁人は興奮気味に食いついた。ナオは、それに楽しそうに応える。歩きながら自然と郁人はナオの左側にならんでいた。あたると歩く時の癖がつい出てしまう。聞き上手な上話し上手、愛想が良くてイケメン…、非の打ち所がないそんな性格があたるとは別人であるということを強調させる。内面だけが嘘みたいに真逆。
 ふと、ずっと繋いでいた違和感に郁人はそっとナオから手を離した。すると、ナオがその手を追いかけて今度は指を絡ませた。その行為についドキドキしてしまう。郁人は、きっと耳までゆでダコのように赤くなっているだろう。その顔を俯かせながら、今が夜で良かったと郁人は思う。
 
 なんで、こんな、まるで恋人みたいな繋ぎ方をするんだっ。

「ねぇ、お兄さん。お兄さんの好きな人って男なんでしょ?」
「え…、あ、はい。」
 
 なぜ、今その話を掘り返すんだ。
 酔った勢いでついベラベラと自分の性癖を口走ってしまったことを今更猛烈に後悔する。

「その人とは、上手くいきそう?」
「……どういう意味ですか?」

 なぜ、そんなことを聞くのだろうか。
 上手くいきそう?
 上手くなんていくわけがない。
 何年も何年も、一人でこの恋の寂しさに苦しんでいるだけだ。 
 こんなの八つ当たりだと分かりながらも、少し苛立ちを含む郁人に、気が付かないのかフリなのか、ナオは軽い口調で言った。

「お兄さん、僕と遊んでみない?」
「は…?」

 言われた言葉の意味が分からなかった。
 それでも、夜風の涼しさで醒めてきた酔いで脳がじわじわとその言葉を認識する。
 まさか、これはセックスの誘いなのか?
 郁人はゴクリと生唾を飲み込んだ。しかし、一旦落ち着こうと深呼吸をする。いや、これはセックスの誘いではなく、単に今夜飲み歩こうという誘いの『遊ぼう』なのでは? ぐるぐると考え込んでいると、歩いていた足がピタリと止まった。なにかと周囲を見渡せば、装飾の激しいビルが立ち並んでいる、目に入る文字のほとんどがHOTEL。立ち止まった眼の前の光る看板にも『HOTEL』と書いてある。これって、まずいやつか…? 引き返そうかと足を動かすとナオが再び声を掛けてきた。

「お兄さん、明日、誕生日なんだよね?」
 唐突な質問に郁人は反射的に頷いた。
「男と経験ある?」
「…ない、です。」
「女は?」
「それも…、ない、ですけど。」
「そうだよね。じゃあ、記念にセックスしようよ。
 25歳の誕生日、僕に祝わせて?」

 セックス、その言葉が耳に残って反響する。何が『じゃあ』で『記念』なんだ。訳が分からない。彼に苛立つ反面、祝わせてと見上げる瞳は子犬のようでなんだか頷きそうになる。絆されそうだ。
 今まで、あたる意外の人にも何度か恋をした。それらの恋は全て男相手で、告げることなどなく何度も散っていった。それでも一度は経験してみたいとゲイバーやマッチングアプリを使ったことはあるが、結局すぐに怖気づいて何も変わらなかった。まあ、結局初恋の直に恋は戻ってきてしまったのだが。
 何よりも自分は、を望んでいる。けれどそれは、平均より背の高い自分には似合わない、こんなデカい男を誰も抱こうだなんて思わないだろう。郁人には自信が無かった。誰も自分を求めたりしない、心のどこかでそう思い続けてきた。

 これは、チャンスなんじゃないか? 男と経験できるなんて、臆病な俺には誘われた今しかない。それに相手は好きな人に良く似た男。この人を、あたるの代わりにしても良いって、神様が可哀想だと俺に出会わせてくれたんじゃないか? こんな出会いきっともう二度と無い。誕生日の奇跡、みたいなさ。

 都合よく考えて、郁人は、ようやく重い口を開いた。

「ナオさん…。」
「うん?」
「……アンタ、俺のこと抱けますか?」
 
 恐る恐る郁人が問うと、ナオはほんの一瞬、目を見開いた。
 それからすぐに、目を細めてあたるに良く似た唇をやわらかく持ち上げ微笑を浮かべた。

「はじめから、そのつもりだよ。」

 

   □



 先程の会話で大分むしゃくしゃしていた郁人は目の前に立ちはだかったホテルに半ばヤケクソに入った。先にナオにシャワーを譲ると「逃げないでね」と言われたので「そっちこそ」と言い返した。何か馬鹿にされているような気がしたから。シャワーを終えたナオは、備え付けのテレビを見ていた俺を見つけて、本当に驚いている様子だった。大方、俺が怖気づいて帰るとでも思ったのだろう。やけにシャワーが長かったのは、逃げても良いんだぞというナオからの施しだったのだろうか。それはそれで癪に障る。

 さっさと準備を済まそうと自分もシャワールームへ向かう。男同士のセックスにおいて必要不可欠な洗浄を行う。解しながら自らローションを仕込んでいると、次第に不安を感じてきた。危ない状況なのも、オカシイ状況なのも分かっている。こんなことで自分の所謂処女を失って良いものか。それでも、今まで何度も想像してきた行為への憧れと好きな人と瓜二つの男への欲望は拭いきれない。長いこと、自分の身体を一人で慰めてきた。つまり、郁人の身体はそれなりにというわけだ。

 シャワーが終わると、もしかしたらナオはもう居ないんじゃないか、と不安になった。
 いや、別に居なくなっていたら帰ればいいだけだ…。
 気にすることじゃない。

 緊張を紛らわそうと丹念に髪を乾かしていると、背後に気配を感じた。驚いて振り向こうとすると、身体に腕が回ってきた。それから、そっとドライヤーを止められ奪われる。鏡越しに映るナオがこちらを睨んでいた……、ような気がする。目が合うと、ナオはにっこりと笑って見せた。

「お兄さん、遅い。もしかして緊張してるの?」
「別に…、準備してただけです。」

なんかまた、馬鹿にされたような気がして郁人はムスッと言った。
 緊張してないわけがない、はじめてなんだぞ。
 分かってて言ってるのか、この人は。

「じゅんび~?」
「時間掛かるんですよ、どうしても。
 分かってるでしょ、ナオさんなら。」

 この人の口ぶりからして相当遊び歩いているだろう。誘い方も、挑発も、煽るのも、何もかもが慣れている。

「まぁ、いいけどね。そんなことより、早くお兄さんの処女ちょうだい?」

 可愛らしくねだるようにナオは郁人の腕に絡みつき、囁いた。あけすけな誘いが今の郁人には丁度いい。そんなことまで、ナオは分かっているのだろうと郁人は思った。大きめのベッドと趣味の悪い派手な照明、シャワールームから戻ってくるとテレビは消されていた。導かれるまま郁人は、そっと硬いベッドに腰掛ける。すると、ナオの顔が近づいてきて、唇が重なった。

「…んっ、ふ…。」

 唇を舌でなぞられ、恐る恐る口を開き、ゆっくりと深くなっていくキスに応える。水の濡れるような卑猥な音が室内に響く。はじめてのキスにしてはあまりに官能的だ。背中をゾクゾクとしたものが駆け抜けて、力が入らなくなる。とろりと蕩けた郁人は、ゆったりとベッドに押し倒されるまま沈んだ。

 気持ち…、良すぎる…。

「かわいいね、お兄さん。」
「かわっ…、男に言う事じゃないですよ。」

 欲を含んだ微笑みに、ついあたるを思い出して、脳がおかしな錯覚を起こす。危ない危ないと、郁人はナオから視線を逸らした。すると、突然甘やかな刺激が走り郁人は思わず小さな悲鳴を上げた。

「…へぇ、乳首気持ちいいんだ?」
「なっ、ちがっ、あぅっ!」

 羞恥心に耐えられず、咄嗟に違うと言えばやや強くぎゅっと乳首を抓られた。涙目で睨むと、ナオはクスクスと笑って左の乳首に舌を宛てがいチロチロと舐めはじめた。

「はぁっ…、それだめ、。」

 先程もちらっと言ったが、俺は開発済み処女だ。その開発には、そりゃもちろん、乳首も含まれるわけで…。快楽とエロへの探究心に抗えなかった俺の乳首は敏感だ。しかも、左が特に。

「あっ、あ、舐めちゃっ。」
 正直、夢にまで見た感覚だった。

「なんか、随分感じやすいね。」

 ナオが冷たく言った。
 快楽に流されていた意識が少し戻ってくる。
 ナオの視線が何故か怒りを含んでいる。

「どうか、した、か?」

 まさか、開発済みなのが不満だったのではないだろうか。もしかして処女厨…、初な反応を好むタイプだったのか?不安になり、ぐるぐるとアホなことを考える。

「うぁっ!」

 途端に後孔に触れられた。先程解していたそこは、すんなりとナオの指を受け入れる。じわりとローションが溢れ出た。

「……、経験ないんじゃなかったの?」
「…っ、な、ない。」

 やはり開発済みではダメだったのか⁉
 ナオの剣呑な眼差しに、しどろもどろになる。実際に男とセックスをするのは今日が初めてだ。でも、自分の中に何も入れたことが無いわけじゃない。それなりに立派な玩具を詰め込んできたし、前立腺で快感を得ることも得意になっている。

 玩具といえど、尻を開通させてしまった俺は、もはや処女じゃないのか…?

「やっぱ、処女厨だった…?」

 俺の一言にナオがキレた。
 指が一気に入り込み、やや雑に拡げられた。これでも処女だと抗議しようと思ったのも束の間、目に入り込んできたのは、とんでもない凶器だった。雄々しいそれは、今まで挿れてきたどんなディルドよりも大きくグロテスクだった。

 怖気づいた俺は、ベッドの上で逃げた。
 
 その逃げる俺の腰を掴んで、ナオは一気に奥まで入り込んできた。その質量感に息ができなくなって。それからは、もう意識が飛びそうになるくらい激しく抱かれた。



「いやぁっ…、もう、おわッてぇっ! ああっ!」
 
 腰を打ち付ける卑猥な音がやたらと派手な照明のホテルの一室に響き渡る。
 なんでこんなことになってるんだっけ?

「終わって? お兄さん慣れてるくせに。今までの男、全員童貞だったんじゃない?」
「はっ、ち、ちがうっああっ。」
 男となんてセックスしたこと無い。
 そもそもセックスそのものがはじめてだ。

 ナオは郁人の言葉を無視して腰を動かし続けた。きっと、自分の言葉なんてただの言い訳だと思っているのだろう。

 ただひたすら、抉られるみたいなセックスに涙を流しながら必死に快楽を追った。そうでもしてないと、怖くて、不安で、それから酷く罪悪感に駆られた。処女厨疑惑のナオにではなく、この場にはいないあたるにだ。だって、ナオの苛立った顔があたるに似ていたから。涙で濡れる視界と快楽で乱れる思考で、目の前で自分を抱く男がどうしてもあたるに見えてしまう。

 ごめん、ごめんなさい。
 好きでごめん。

 気を抜けば名前を呼んでしまいそうだった。罪悪感がせり上がってきて、苦しかった。ふざけた思考なんてとっくに消えて、長年ただの幼馴染という面で騙し続けているあたるに申し訳なくなった。

 お前に似てる人を見つけて、セックスしてる俺ってどうしようもないな…。

 だんだん涙ばかり溢れてきて、ズビズビ泣いているとナオが一瞬だけ少し優しく頬に触れてくれた。それが無性に嬉しくて、ふっと笑ってから郁人は意識を手放した。


    
  □

身体が酷くダルい。関節が痛い、腰が痛い、なんだか熱も出ているような感覚がして寝ぼけながらうんざりする。起きたくない、もう少し寝ていたい、だって今日は休みのはずだ。そう思いつつも、段々と意識ははっきりしてきてしまう。ふと、慣れない肌触りのシーツとマットレスの質感に違和感を持った。重い瞼を開くと眼前に広がったのは、薄暗く知らない部屋だった。郁人は慌てて飛び起きた。

 ここ、どこだ⁉

 寝起きの頭では状況がよく分からなかった。周りを見渡す限り、ここはホテルらしい。ゆっくりと昨夜のことを辿る。いつものバーでやけ酒をして、あたるに会った…、いや違う、あの人はナオと言う別人だったんだ。それで…、それで…。

「うわぁっ…、まじか。」

 思い出された記憶に郁人は頭を抱えた。酔っていたのでちゃんとしたことは思い出せない。ただ、尻や腰に感じる違和感が己の処女の喪失を物語っている。ヤッちまった…。

 野々村郁人、25歳。
 童貞よりも先に処女を卒業しました。

 ホテルには誰も居ない。
 昨夜のことが夢であって欲しいと願った所で、ベッドサイドの小さなテーブルに書き置きを見つけてしまった。

『25歳の誕生日おめでとう。
 昨日は楽しかった、ありがと♡
 また遊びたくなったら、あの店で僕を誘ってね。』

 メモの横には、壱万円札が置かれていた。
 バーの分も払って貰ったのに…。
 昨夜、自分も奢ると言ったような気がする。財布を確認すれば、中身は減っておらずスマホもそのまま、服に至っては畳んである。処女以外は何も奪われていない。むしろ、こんな自分に対してなのに待遇が良すぎる。

「お金、返すか。」

 ついでに飯でも奢らせてもらおう。

「あの店に行ったら、会える、のか…。」

 つくづく、自分は馬鹿な男だと思う。彼からすれば一度きりの相手で、気まぐれに抱いてみただけだろう。それでも、何年も焦がれてきた初恋の相手に似ている相手に優しく抱かれて、意識せずにいられるものだろうか? しかも郁人に限っては、昨日までセックスどころか男との駆け引きすらしたことがなかったわけで…。昨夜のナオの指先を思い出して、身体がゾクりと震えた。俺ってば、薄情だな。自分で自分にほとほと呆れる。
 郁人は、お金を返すのとお礼を理由に、その日のうちにあの店に行った。しかしその晩、ナオは店に来なかった。仕方がないので、また来週の休日に行くことにして諦める。正直、結構へこたれた。やっぱり、一夜限りだったんだな。そりゃそうか、あんな良い男が相手に困るわけがない。たとえ処女厨でも引く手数多だろう。

 少しだけ飲んで、郁人はすぐに店を後にした。
 落ち込みを引きずりながら、夜道を歩く。涼しい夜風が胸の中まで冷やすみたいだ。処女を失った所で、セックスで抱かれてみた所で人生は特に変わらなかった。愛されていると感じたのは抱かれている間だけで、今は虚しいばかり。ただ本物の男の欲望と人肌を知った身体が欲張りになるだけだ。

「ケツ、痛ぇ……。」

 じわじわと目頭が熱くなった。
 どうせ処女を守り続けたって、仕方がなかったんだ。
 アイツが俺を抱いてくれるわけじゃない。
 良い経験になったはずだ。
 きっと、そうだ。

 ゆっくりと近づく自分のマンション。家賃の安さで選んだそこは、けして新しくはないし、広くもない。あたるを追いかけて、東京まで来てしまったのだから恋とは盲目だ。階段を登って五階まで上がる、エレベーターがないからキツイ。呼吸を整えながら顔を上げると、一番奥の自分の部屋の前に人影が見えた。その男は、しゃがみ込みスマホを眺めていた。

「…っ、あたる。」

 美しく整いすぎた顔を上げ、直はこちらを見た。無表情のまま、こちらを冷たく見据えている。会えた喜びと同時に罪悪感が郁人の胸を占めた。

「遅かったな。」
「ご、ごめん。今、カギ開けるからっ。」

 いつもと変わらない態度と静かな声。それなのにどこか責められているような感覚がしてしまうのは、きっと自分の罪悪感のせいだろう。
 
 焦りながらガチャガチャと音を立てて鍵を開ける。あたるは時々こんな風に突然、郁人のマンションを訪れる。その度に何度も淡い期待を膨らませ、優越感に浸ってきた。
 
 ドアが開き、郁人が入ると直も入る。

「寒かっただろ、ごめんな。いつから待ってたんだ?」
「…別に、さっき来たし。」
「そか……。」

 気不味さに会話を試みたが素っ気なく返され、さらに気不味さが増す。忘れてた、こいつは全然喋んないんだった。ナオの余韻のせいで脳がバグを起こしそうだ。

「飯は?」
「食べる。」
「おけ。」

 いつもと変わらない会話。
 変わらない態度と空気、好きな人。
 いつものように自分が飯を用意してやる。
 まるで恋人みたいだと浮かれていた昨日までの俺は何処へやら。
 でも、あたるは変わらない。飯を食って風呂に入って寝ていく。
 そんで、明日の朝にはいないのだろう。

 変わったのは、俺だけ。
 自分だけがたった一人で変わったんだ。


  □


 郁人の作った夕飯を食べ終え、郁人の後にシャワーを済ませたあたるが腰にタオルを巻いたままの姿で出てくる。鍛え上げられた身体と濡れた髪、郁人はどうしようもなく視線を逸らす。身体の奥に小さな疼きを感じた。
 
「濡れたまま、裸で出てくるなよ。服着ろ、服!」
「めんどくさい。」
「風邪引くぞ、まったく…。」
「ん。」

 床に座って腰掛けるあたるの髪をベッドの上からタオルで甲斐甲斐しくわしゃわしゃと拭いてやる。ドライヤーを持ってきて乾かしながら、少しクセのある金髪に指を通す。いつも通り。でも、今日は何か違う。彼の髪に触れる度、喜んでいたはずなのに。郁人はあたるに触れていられなくなって、ドライヤーを止めた。少し長めの髪は、まだ濡れている。

「疲れた、後は自分で乾かせ。
 俺、もう寝るわ。布団敷くから、そこ避けろー。」

 あたるが来たとき、郁人は床に布団を敷いて寝る。来客用の布団は直が来始めてからすぐに買った。甘やかしすぎだという自覚はある。身体が妙にだるいのは、完全に昨夜の情事のせいだ。正直気まずいのもあるが本当に眠くて仕方がない。熱があるというのもあながち気の所為ではないのだろう。それに、少しとは言え酒を飲んでしまったから余計に辛くなっている。

「今日はベッドで寝ろよ。」
「へ?」
「具合、悪いんだろ。」
「そ、んなこと、、」
「あんだろ。
 別に俺が勝手に来てるだけだし、俺が床で良い。」
 
 乱暴な言い方、でも優しい。小さな体調の変化にすら気が付いてくれる。こういうあたるの些細な言動が郁人を魅了してきた。赤く染まっているであろう顔を俯かせると、あたるの少し冷たい手が首にそっと触れてくる。小さく甘やかな感覚に郁人は、ぴくりと反応してしまう。思わず、あたるから身を引いてしまった。すると、あたるが不機嫌な顔を見せた。その反応につい喜びが広がる。この男の小さな感情の変化に気がつけるのは身内以外できっと俺くらいだ、なんて調子に乗った考えが浮かぶ。いつも以上に過剰に意識しているのは分かっている。

「昨日、どこに居た?」
「はぇ⁉」

 予想もしていなかった突然の質問に郁人は素頓狂な声を出した。バレるわけがないのに、バレたんじゃないかと焦る。いやいや、これは至って普通の日常会話だ。昨日は何していたのか、くらい誰だって他愛もなく聞く。

「あー。昨日は、いつものバーで飲んでた。
 ほら、お前も行ったことあるだろ?
 今日もそこで飲んでから帰って来た。」

 お前が祝ってくれないせいで、お前のそっくりさんとセックスしちまったんだよ! と八つ当たりじみた馬鹿な文句が脳を走ったが心の中で留めておく。ついでに今日、帰りが遅くなってしまった理由わけを言う。

「昨日も行って、今日も行ったのか。」
「ん? ああ、会いたい人がいて待ってた。」
「…会いたい人?」
「昨日世話?になって、お礼したかったんだけど、会えなかった。
 また来週にでも行くよ。」

 嘘は言っていない。何故か気になるようで、ワケを話せと言いたげな直の視線に郁人は色々省いて説明をする。連絡先を交換しなかったから仕方がない、会えたらラッキーってくらいだ、と早口に言った。どこか言い訳じみていて内心苦笑する。同時に珍しく喋るあたるに違和感を覚えつつも、機嫌が良いだけなのだろうと思考を流した。

 また、あたるの腕が自分に伸びてくる。今度は驚いて身を引かないように気をつけながら、何だよと言って眉を潜めてみた。それでもあたるの表情は変わることなく、一貫して無を貫いている。腕が伸びてきて、長い指がスルりと首筋を撫でた。

「んっ…。」
 
 その小さな感覚に吐息のような声が盛れた。慌ててふざけた風にごまかそうと顔を上げると、思ったより近くに顔があって一瞬呼吸が止まった。ぼぅっと、綺麗な顔を眺めていると低い声が冷たく囁いた。

「ここ…キスマーク。」
「は⁉ はあぁ⁉」

 ばっ!と、なぞられた首筋を掌で覆い隠す。慌てふためきながら勢いよく立ち上がり、あたるから距離を取った。

 まさか! 昨夜か! 
 いやいや昨日のアレ以外何がある!
 やばい! いや、やばくないのか?
 どうする、どうごまかせばっ…。

 郁人は、パニック状態でワタワタと狭い部屋を動き回った。

「…嘘だけど。」
 小さく呟かれた言葉。
「は? なななななな、なんだよ!
 ばっっっかじゃねーの⁉ やめろよぉ!」
 
 何、変な嘘吐いてくれちゃってんの?
 馬鹿なの? ねぇ! 馬鹿なの⁉
 混乱して、ガキみたいな悪口をぎゃーぎゃーと言っているような気がするが、気にしない。だって、明らかにコイツが悪い!

「何? 本当にそういうことしてたわけ?」

 テレビの方を見ながら、素っ気なく言われて郁人は唖然とした。テレビのドキュメンタリーにもこちらにも興味なさげに微笑を浮かべていた。久々に笑ったかと思えば、それは嘲笑のようで…、正直、ムカついた。

「俺だって、たまには、遊んだり…すんだよ。」

 郁人は、ぼそぼそと小さく言ってベッドの布団に潜った。なんだか無性に虚しさが込み上げて、泣きたくなった。

 俺が誰とセックスしようが、この男には関係ない。
 この男にとって、どうでもいいこと。

 今まであたる相手に女の影をちらつかせたことなんてない。好みのタイプの女の子は、小さい・巨乳・可愛いの三点セット「理想が高すぎて彼女ができないヤツ」で通すことで、そういう会話で自分のセクシャリティがバレないように回避してきた。それはあたるに対しても周囲に対しても、それが自分自身の防衛だった。結局、高校大学と恋人ができずに生きてきた俺だが、あたるは違う。無口で無愛想なくせに常に彼女がいたし、そのうち彼女が面倒だとか言ってセフレを作りはじめた。本当に、いつか刺されると思う。
 はじめて、あたるに彼女ができた時は絶望だった。おめでとうと笑顔で返したが、その日はワンワン泣いて次の日学校を休む羽目になった。数週間後、その相手とあたるがセックスをしたという噂を聞いた日はさらに地獄で、あの手でどんな風に抱くのだろうかと想像して…。彼女が変わる度、そのうち慣れると言い聞かせてきたが結局、慣れることはなかった。何度も何度も苦しくなった。せっかく大学進学で離れたのに卒業間近で再会。たまに飯を作ってやってたら「郁人の飯、毎日食えたらな。」とボソリと呟かれて、馬鹿みたいに東京まで追ってきた。今でも、あたるに女性の気配を感じると女々しく泣いてしまう日もある。

 今日も彼から知らない女の移り香がした。

 布団越しに音量の下げられたテレビの音がざわざわと聞こえる。またナオに会って抱いて貰おう…、そんな考えがぼんやりと浮かぶ。この寂しさも虚しさも快楽の中で癒やして貰えば良いんだ。ひっそりと涙を流しながら、郁人は眠りについた。


 目覚めるとあたるはもういない。いつものことだ、直は気まぐれにやってきて勝手に帰る。だから、なんか追いたくなる。みんなきっと同じ理由で彼を追うのだろう。俺はきっと、何人もいる中の一人だ。きっと彼はフラフラと色んな人間の所を渡り歩いてる、渡り鳥みたいなものなんだ。だから、自分だけ特別だなんて思っちゃいけない。分かっている…分かっていても、勘違いしそうになる。いつものように期待して、苦しむ。

 カーテンの隙間から漏れる光で、今日は晴れているのだとわかる。伸びをして、ベッドから起き上がる。布団は粗雑に畳められ、クローゼット押し入れに押し込まれていた。

 アラームを止めておこうとスマホを探すと小さなテーブルの上にあったので手を伸ばす、ふとそこに箱が置いてある。青いリボンが結ばれた箱、側にはメッセージカード。

『郁人、誕生日おめでとう。』

 綺麗な字だった。大したことは書いていない。ただ、彼の字で丁寧に書かれた自分の名前とおめでとうといった祝う言葉があるだけだ。

 覚えてたんだ…、俺の誕生日。

 嬉しい、嬉しかった。祝われたのは高校生以来だ。プレゼントに至っては小学生以来、今更男同士でプレゼントを贈り合うなんてことは殆ど無い。性懲りもなく、また喜びと期待が胸を占める。そっと、あたるの字を指先で辿った。

 馬鹿だよな、俺って。こんなことですぐ泣きそうになる。
 
 優しくリボンを解き、破かないよう丁寧に包装紙を剥がす。シンプルな箱を眺めてから、ゆっくり慎重に中のモノを取り出した。現れたのは、リボンと同じ色の青いマグカップ。取っ手を持ってぐるぐると回しながらそれを眺める。コップの下をよく見ると青紫の紫陽花が小さく描かれていた。いつか、あたるが「郁人は青っぽい」と言ってくれたことがある。それ以来、自分は青という色が好きになった。単純すぎるだろうか? 恋に堕ちるのと同じで、好きになる理由なんていつも単純。
 郁人はマグカップをそっと箱にしまうと包装紙を綺麗に折り、それからリボンを小さくまとめた。それを大切なものをしまう、幼いころ亡き祖母に貰った見たこともない昭和なキャラクターの描かれた大きめのブリキ箱にしまう。その中には小学生の頃、アタルから貰ったキーホルダーや二人で写っている写真、借りるつもりが「やるよ」と言われて思わず受け取った普通の鉛筆などなど、やや犯罪臭の漂うものが入っている。ブリキ箱をまた元の場所に戻しておく。使って壊したり汚れてしまっては嫌なのだ。郁人は小さい頃から、大事なものは大切にしまっておくタイプで隠し事や秘密を守り、自分もまたそういうことが多かった。今の今まで誰にも自分のセクシャリティを告げられなかったのもこの性格が原因と言ってもいい。

 箱にしまって満足したアタルは顔を洗うと、着ていた寝間着を脱ぎ洗濯物と一緒に全自動洗濯機に投げ入れた。気管支の弱い郁人は柔軟剤を使わない。こだわりの無添加洗剤を雑に注ぎ、スタートボタンを押す。仕上がるのは三時間後。スーツに着替え髪を整え、昨日炊いた米をお茶漬けで食べる。常備菜のたくあんとキャベツの漬物を取り出し、涼しくなった気温に合わせて白湯を飲む。朝食を終え、かたづけたら今日は弁当を諦め昼食を買うことにし、仕事の打ち合わせの確認をする。書類のチェックを終えたら、鞄の中身を確かめて家を出て会社に向かう。これが郁人の日常だ。

 あ、そうだ。 
 あたるにお礼言わなくちゃな。

 スマホでアプリを開き、指先を動かす。青好きなの知ってたんだな、とか、誕生日覚えててくれたんだ、とか。いろいろ打ち込んでは消して最終的に「ありがと! 嬉しかったわ!」と入れておく。恥ずかしさを隠すため、変なスタンプを送信して電源を切った。

 郁人は本当は料理人になりたかった。しかしそんな夢を捨ててあたるを追いかけてきた。東京で入社したのは、わりと大きな企業の兄弟会社だった。給料はまあまあ、都内に住むとなると新しいマンションや広い部屋は選べないけど好きなものは買えるし、生活も安定している。恋以外は充実している、恋以外は。

 郁人の会社は偶然にもあたるの所属事務所の近く。だからときどきあたるを見かけることがある。はじめこそ分からなかったが最近では身バレ防止のフル装備でも見つけ出せてしまう。先に言っておくが、断じてストーカーとかではない。

 休憩の時間がやってきた、昼食を食べようと会社の外に出る。歩いていると、ふとカフェの前に見覚えのある姿を捉えた。あたるだ…。でもなぜか今日はフル装備ではなくオシャレなマスタードイエローのコートに身を包み腕時計を気にしている。それから顔を上げたあたるは、嬉しそうにニッコリ笑った。

「ゆいさん!」
「ごめんねっ! 待たせちゃった。」
「ううん、大丈夫。おれも今来たから。」

 そう言ってアタルは、ゆいと呼んだ女性を抱きしめた。見たこともないほど優しい笑顔で。本当にこのひとが愛おしくてたまらない、そんな感情が手に取るように分かる。郁人は自分の胸がギリギリと痛むのを感じた。イヤなモヤ付きが喉をせり上がってきてその場を立ち去る。昼食をとる気分にはなれなかった。

 よくよく考え思い出してみれば、あの場には通行人がおらず、しかもカメラが数台とスタッフが複数人居た。それでも、演技だと分かっていても目の前で見るのは苦しかった。テレビの画面で眺めるのとは圧倒的に違う。昨夜まで自分の部屋にいた男、なのにそんなことなんて無かったみたい。ツカツカと音を立てて早足に歩き会社に戻る。出てからすぐに手ぶらで戻ってきた郁人に同僚の浜路はまじけいがどうしたんだ、と言った。

「なんか、ドラマ撮影のラブシーンみちゃって。激しめのやつ。」
「ははっ、まじか。そんな激しいの?」
「胃もたれしたわ。」

 少しふざけながら、本当のことと嘘を織り交ぜ真実味を出す。よくやる郁人の手法だ。いつの間にか身についた上手な嘘の吐き方、隠し方。ケラケラと笑いながら嫌な言い方になってしまったと思いつつ備え付けのコーヒーを取りに進もうと歩き出す、途端に腕を掴まれた。

「わっ、なんだよ。」
「巨人くん、具合悪いの?」
「大丈夫悪くねぇよ。てか、その巨人呼びやめろ馬鹿。」
「なら良いケド? じゃ童貞巨人くんには俺のパンをやろう!」
「どっ……⁉ ばっ!でかい声でいうな‼」
「あ、否定しないんだ?」
「うるせー、こいつは俺が食っといてやる! お前のゼリーもな!」
「おうおう食え食え、でもみかんゼリーちゃんは返してもらうぜ!」

 会社の中でわーぎゃーと小学生のように追いかけ合う、そのうちに女子社員からこっぴどく怒られたのは言うまでもない。浜路は同じ年に入社した同僚で、背がそこそこデカいやつ。どうやら背の高さが自慢らしく、俺のほうがデカいのが悔しかったらしい。それからちょくちょくちょっかいを掛けてくるが、何だかんだ優しくて良いヤツだ。猫っ毛でくるふわな髪と愛想の良さと弟体質、女子社員に人気なわりに女の噂は聞かない。

 俺はパンにかじり付き、浜路お気に入りのみかんゼリーを奪うと三口ほどで全て飲み込んだ。その瞬間の浜路の絶望顔がおもしろすぎて大笑いした。



  ■



 週末金曜日、郁人は仕事を終えた帰り道を一人ご機嫌に歩く。今にも鼻歌を歌いだしそうなのは、先程、あたるから連絡が来たからだ。以前、来るなら連絡をくれと言ったのを覚えていたのか「今日行く。」と、短いメッセージが入っていた。ラッキーなことに仕事を早く済ますことができたので、あたりはまだ明るい。
 スーパーに寄ってから地下鉄に乗り、降りてすぐの湿った空気の薄暗い道を選ぶ。早く帰って堅苦しいスーツを脱いで夕飯の仕込みをしよう。今日は時間があるから甘いものを用意してやっても良い。日中人のいない近道は夜になると光出す繁華街、狭い道路の反対側はホテルが密集している場所でもう少し奥に行けばの店がある。最も、一度足を踏み入れただけで怖気づいたのだが。夜以外はほとんど人のいない道、なんとなく落ち着くのは自分だけだろうか。張り切って買い込みすぎたスーパーの袋は、この静かな繁華街にはあまりに不似合いだった。

「ーーーーーーーっ!ーーー‼」
「ーーー…。」

 奥の方で怒鳴るような高い声が聞こえる。段々鮮明になって聞こえてきたのは、女性の高い声と聞き覚えのある静かな低い声だった。声の方に視線を向ける、そこにはなんとなく見たことのある顔の女性と長身な金髪の男が居た。

「ねぇ! なんで? いいじゃん!」
「良くないですよ、困ります。」

 駄々をこねるような女の声が響いた。
 客とホストだろうか?でも…、この声。

「俺、これから行くとこあるんで帰らせて下さい。」
「どうして! この間、撮られたから?」

 向こう側の、ホテル街の方の道で女性の声がやたらと大きく反響する。歩きながら、その人達の横を通り過ぎる。

 女優の水瀬のぞみ…。

 横にいるのは…、どうみてもあたるだよな。

 水瀬は今、直がドラマで共演中の人気女優だ。ついこの間、マスコミに二人の熱愛報道が流れ、世間が大騒ぎしていたのを覚えている。けれども、事務所と本人達が否定。ネットでは、マスコミのでっち上げじゃないかという話と批判が入り乱れていた。

 郁人自身、正直、気になっていた。
 大きな見出しの週刊誌。あたるが芸能活動をはじめての熱愛報道。今までも、遊び相手の気配は感じていたが、いつも上手く隠していた。世間に出るのはこれがはじめて、心配だった。

 気になって振り返れば、アタルは宥めるように水瀬の髪を撫でキスをする。胸がざわつく、嫌な汗が伝って郁人はその場から走り出した。

 いやだ…。

 残り香なら耐えられた。
 画面越しの演技なら耐えられた。
 でも…、あの瞬間は演技じゃない。
 
 あいつは、あのひとを抱いてからオレの家に来るんだ。

 頭に浮かんだ言葉が自分を薄暗い闇に落としていく。

 家に着き、走ったせいで乱れた呼吸を、落ち着かせようと息を吸う。苦しい…、苦しい…。狭い部屋の狭い玄関にしゃがみこんだ。どうしようもなく濡れたぐしゃぐしゃの頬を拭う。それから、買ったものを冷蔵庫にしまっていくうちに頭がだんだんと冴えてきた。

 今日は、金曜日。
 今日あのバーへ行けば、ナオに会えるかもしれない。

 この間、会えなかったの男にまた会える保証なんて無い。むしろ会える確率のほうが低い。あの日、はじめて抱かれてから、体が妙に疼いているのは確かだ。何度か玩具を使って自慰を行ったが、思うような快楽を得ることはできなかった。

 郁人はスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。直とのやり取りを開いて、画面に指を滑らせた。

『ごめん、今日は予定がある。飯だけ作っておくから、持って帰って食べて。』

 予定なんてない。
 画面を閉じようとしたら、すぐに着信が鳴った。

「…もしもし。」
『予定って何?』
 やたらと冷たい声、何かに苛立っているような感覚さえある。

「この間の…、お世話になった人。先週会えなかったから。」
『明日で良いだろ? 俺、週末は今日くらいしか行けない。』
「あ、明日は明日で予定があんだよっ。」

 つい、声を荒らげて言った。

『どんな予定…『ねぇ…、誰と電話してるの』』

 不意に女性の声が聞こえた。
 やっぱり、そうなんだ。 

「じゃあな…。」

 それだけ言って通話ボタンを切る。
 
 のそのそと立ち上がり、私服に着替えて、だし巻き卵や肉じゃがを作る。弁当箱は一つしか無いので保存用のタッパーに詰め込む。テーブルの上において、メモ用紙に作ったもの、タッパーは返さなくて良いこと、持って帰って食べてくれ、と書いておく。郁人は合鍵を持って家を出た。部屋の鍵は郵便受けの中に入れてあるとメッセージをして足早に歩きだした。



  □



『じゃあな…。』

 ツーツーと無機質な音で、通話が切れる。

「チッ…。」
 苛ついて、舌打ちをした。

 今日は、ツイていない。忙しくて、会えていなかった幼馴染の家に行くはずが、この女、水瀬のぞみに捕まった。この界隈の女は、後腐れがなくて楽だと思っていたのに…。めんどくさい女に当たってしまった、とあたるはうんざりしている。纏わりついて離れない、一度抱けば満足して帰っていくので仕方なくホテルに入った。早く、あの男の待つ家で休まりたいのに…。

 ベッドで眠りに付く女を忌々しげに睨み、放置してホテルを後にする。広いだけで物の少ない無機質な自分の部屋に戻ると、虚しさが漏れた。

 センター分けの前髪を水で濡らしでぐしゃぐしゃと雑に乱す。軽く乾かせば、顔が上手く隠れる。俳優になりたての頃にもらった役、記念にと役で着た服やアクセサリーをいくつか渡された。なんとなく捨てずにいたその服に再び袖を通したのは、つい最近のこと。俺はまた、その服を着て、女に貰った趣味じゃない香水を付ける。鏡の前で笑顔を作る、卑怯で馬鹿な男が映っていた。いつか、女好きでお調子者の役を演じたのを思い出す。


 俺は今夜また、その男を演じる。
  
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