月日荘の妖美人

近衛樹里杏

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ジャスミンの誘惑

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 月日荘の前庭にはみごとなジャスミンの茂みがあり、入り口の横の壁にへばりつくように生えていた。五月のはじめにはむせかえるような香りとともにしろいはなが咲き乱れる。白い小さな花の群生は風に揺れてなまめかしい。
 連休中ミルカは故郷へ帰っていた。僕はゼミのレポートが出来てなかったので残って仕上げるつもりだった。しかしミルカがいないのはなんて自由なんだ。と、僕は嬉しかった。好きなときに食事ができるし、夜更かしも出来る。僕は結婚には向いてないなとつくづく思う。
 徹夜した翌朝、ぼぅっとした頭を冷やそうとアパートメントの外に出た。ジャスミンの香りが風にのって頬を撫でる。大きく深呼吸した。その時その後ろから声がした。
「遅くまでおきばりやしたなぁ」
 妖子が微笑みながら立っていた。
「お、おはようございます」
 穆は慌てた。ヨレヨレのスウェットのままだ。
「もう十時どすえ」
 妖子は笑って僕の背中をぽんと叩いた。
「お茶でもどうどす?」
 穆は雷に打たれたかのように背中が痺れるのを感じた。そして無意識のまま妖子に促され管理人室へ入った。入り口までは知っているが入るのは初めてだ。
 赤い花柄の壁紙にぎょっとした。何かお香の香りもかすかにした。こんな古いアパートメントに似つかわしくないどっしりとした年代物の応接家具がドンと置かれていた。
「おかけやして」
 妖子の京言葉は舐めるように僕の五感を刺激した。僕は深緑の天鵞絨の椅子に腰を下ろした。体が包み込まれる感覚がした。妖声がが部屋を出た後、部屋を見渡した。古いカケドケイ、赤いカーテン、中国風のボンボリのような照明、壁に掛けられた額には人形の油絵、目の前のテーブルには金色の煙草セットが置かれてる。外の古びた象牙色のペンキのアパートメントの中にこんな部屋があるとは。
「どうぞ」
 妖子がいつの間にかカップ・ソーサーを持って背後に立っていた。
「ジャスミンティーどす」
 ふわっと香りが立ち上った。それだけで僕は気が遠くなった。後のことはよく覚えてない。気がつくと僕は上半身裸だった。天鵞絨ソファーの上で横たわり唇が火のように熱かった。
 いったい何があったのだ?目の前に妖子が立っていた。その真っ赤な唇が、ほんの数分前に僕の唇に重ねられたのだと、僕はおぼろげに記憶を呼び戻した。驚きよりも何故か喜びが大きかった。ほんの少し甘い恐怖もあったけれど。
 その後のことはほとんど覚えてない。足元にあったスウェットの上着を拾って管理人室を出た気がする。妖子が何か言っていたが記憶の中に消えている。あれが夢なのかさえわからない。ひとり自分の部屋でシミのついた天井を見上げて寝転んでいた。唇が熱い。そして部屋の中まで漂うジャスミンの薫り。夢か幻か?その日夜中まで僕は悶々としていたのだ。夜の闇にジャスミンの白い色が怪しく揺れていた。
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