魔憑きの神子に最強聖騎士の純愛を

瀬々らぎ凛

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< 序 >

 序

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「森の湖に近づいてはいけませんよ。赤い目をした魔物が棲みついているんですから」
 これは伯爵領内の誰もが知ることだった。親は子に、子はまた自分の子に言い聞かせる。
「子どもを食べるのが大好きで、いつもよだれを垂らしてうろつき回っているんです」
 だから森の近くに住む子どもたちは、暗くなれば外を怖がってすぐに家に帰った。明るい光の灯る、温かい家庭に。
 確かに、森の中には湖がある。さほど大きくはない。そのことをこの少年は知っていた。水は暗く濁っていて、ツンとした匂いが鼻をつく。腐った水草が絡まる様子は魔女の髪の毛みたいだ、と少年は思った。
 日は沈みかけているというのに、どうして彼はひとりで湖を覗き込んでいるのだろう? しかもそこは近づいてはいけないと言われている湖だ。
 答えは簡単だった。少年には居場所がないのだ。屋敷にいるよりかは外のほうが数倍ましだった。
 湿気を含んだ夏の風が柔らかな金髪を揺らす。少年の瞳は木々の緑に空気を織り交ぜたような翡翠色をしていた。長い睫毛が伏せられる。
『ゥゥゥ……グガァァァァ……』
 低い唸り声。どこか切ない響き。
 領内の大人たちの言葉を信じるのなら、湖の魔物は元は人間に飼われていた鳥だったそうだ。だが捨てられた。愛され損ねたその鳥は魔物となって蘇り、恨みを晴らすべく人間に悪さをする。
 少年はそれを聞いた時、半分嘘で半分本当だと思った。おそらく魔物は人間に悪さをしたいのではない。ただ純粋に、愛されたいのではないだろうか。
 なぜだかはわからないが、初めて湖に近づいた瞬間から少年はそう考えた。華奢な体の内側に眠る孤独が共鳴したのかもしれない。
 少年は娼館で生まれ、娼館で暮らした。母親は名の知れた娼婦だった。美しかった。流行り病を拾って死ぬ最後の日まで、それはそれは美しかった。少年が十三を数える年の話だ。
 ひとり残された日に知った父親の名前を頼りに、彼は伯爵家に辿り着いた。引き取られることが決まったが、もの寂しい日々は消えないどころか色を増してゆく。屋敷の者はみな、そこに少年などいないように振る舞うのだ。少年の実父にあたる伯爵も、半分血を分けたはずの兄も、屋敷に仕える執事や侍女たちもみんなだ。伯爵夫人が「あの女とそっくりの見た目ね、忌々しい!」と言い放ったのを耳にしてからというもの、伯爵に似た容姿をしていれば違っていたであろう未来に彼は何度も思いを馳せた。
『ゥゥァ、アイ……ガホシ、イ……』
 魔物が生まれる理由も場所も様々だ。大陸の覇権を握るこの王国エルドラードでもそれは変わらない。大きく豊かな国家であったが、他国同様に魔物との戦いに頭を悩ませていた。
「俺は必ずエルドラード屈指の聖騎士になる」
 魔物を倒せるのは聖騎士しかいない。そしてこれが少年の兄の口癖だった。森が暗闇に飲み込まれる前に諦めて屋敷に帰った先、いつも耳に飛び込んでくるセリフだ。
 魔物の大きさ、色、見た目はさまざまで中には定まった輪郭を持たぬものもあるが、決まってそれらは体内に核を有していた。聖騎士は聖属性魔法をまとった剣で硬い核を一閃。そうしない限り魔物は姿かたちを変え、無限に湧き続ける。
 いつかはきっと湖の魔物も聖剣で貫かれるのだろう。
 愛を願う一匹の鳥が消滅するところを想像して、少年は人知れず苦しくなった。


 そんな彼を数奇な運命へと導く事件が起こる。伯爵家に来てから三回目の晩夏だった。
 兄に毒が盛られた。屋敷は騒然となった。犯人は侍女の一人で、すでに逃げおおせた後であった。
 少年は走った。衰弱していく兄を助けたいといった穢れない気持もあっただろう。だがそれよりも、ひたすらに自分の居場所を作るために走った。もしも兄を助けることができれば、周囲は自分を認めてくれるのではないか? 朝起きれば挨拶を交わし、笑って食事をして、麗らかな昼下がりに散歩に行き、良いことをすれば褒めてくれる。そういったささやかな幸せというものを自分も味わうことができるのではないか?
『ゥグガガガガガガッ!』
「っ……はぁっ……はぁ……っ」
 魔物は黒く、大きかった。姿を見たのは初めてのことだ。暗い森闇の中に赤い目がギョロギョロと動いている。鈍色のカギ爪が妖しく光る。広がる両の翼はボロボロだったが、風を巻き起こすには十分だった。
『来タ、カ……グルルゥゥゥ』
「き、来た! 取引だ!」
 少年にはずっと前から声が聞こえていた。魔物の声だ。しきりに少年のことを呼び、契約をしようと持ち掛ける。
「本当に力をくれるんだな?」
『アァ……。望ム、チカラ……ヤル……ゥゥ、ダカラ……ァ』
 ぞわりと鳥肌が立つ。荒々しく巻き起こった旋風に髪の毛が逆立った。心臓がどくどくと脈打ってうるさい。時間をかけ、ゆっくりと、魔物は地を這うような唸り声で言った。
 愛を寄越せ、と。
「……わかった」
 こうして少年は魔物と取引をした。瀕死の兄を救うだけの力を――エルドラードはおろか大陸中を探してもこれまで五百年と現れなかった癒しの力を――宿す者となったのだ。
「兄さん!」
 自分の兄をためらいなく呼んだのは初めてに等しかった。ぎょっと目を剥く屋敷の者たちをかきわけて弟はベッドに向かう。それからのことはあまり覚えていない。力の行使は体に大きな負荷をかけた。
 ただひとつ鮮明に覚えていることは、目覚めた時に兄が弟に放った言葉だ。
「よくやった」
 嬉しかった。
 たとえ、魔物が絶対悪とされるこの世界で、魔物にとり憑かれる身となったとしても。
 たとえ、癒しの力を行使するのに必要な魔力が、他人から愛されない限り溜まらないのだとしても。
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