Cat walK【完結】

Lucas

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渡瀬優菜【最終話】

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「ゴールデンウィーク、どっか行くん?」
 昼休みに、持参したおにぎりを頬張っていると、主任がお弁当を食べながら聞いてきた。
「んー、とりあえず祖母の家には顔を出そうかなってくらいです」
渡瀬わたせさん、彼氏とかは?」
「いないれふ」
 もう一度おにぎりにかぶりついて、もごもごと答える。
「ふうん……実は明日飲み会があって」
「……パスでーす」
 絶賛婚活中の主任がいう飲み会は、婚活パーティーに近い合コンだ。なんとしても回避せねば。
「もー、いっつも無理やん。ガード固いなあ」
「職場のみんなとの飲み会ならいつでも。ね? 夢野ゆめの先生」
 ちょうど休憩室に入ってきた夢野先生に話を振る。先生はコンビニで昼食を買ってきたようだ。
「え、なになに? 飲み会やるん?」
 初めて出会った時とほぼ変わらない姿の先生は、やはり大きめの白衣姿で私の隣に座った。
「やりたいなーって話です。ていうか、先生のゴールデンウィークのご予定は?」
「ちょっと主任、先生は既婚者ですよ」
 私は慌てて主任を止める。人妻を合コンに誘うのはまずいと思う。
「んー、ゴールデンウィークは家族サービス。子どもとな、遊園地行くねん」
 嬉しそうに首を傾ければ、ふわふわとショートボブの髪が揺れる。
 そう、夢野先生は実は結婚している。私と出会った頃すでに子どもがいたそうだ。現在、十一歳になる娘さんで、一度写真を見せて貰ったが、先生に似てとても可愛らしい顔をした女の子だった。
 何故教えてくれなかったのかと聞いてみたが「カウンセラーは秘密主義なんです」と、子どもみたいな顔でニンマリと笑っていた。内緒にされていたことはショックだったけど、カウンセラーがクライエントにプライベート情報を話してはいけないというのは本当らしいので、私はようやく引き下がった。
 当時の私に話せなかったのは仕方がなかったのだ。
 今は同じ職場で働く人間。こうやって、色々と話ができるのが嬉しかった。
「わたしに似てめっちゃいい子なんよね」
 幸せそうな先生。
 先生の物語は順調そうだ。
 私にも、いつかそういう未来が描けるかな。
 それとも、永遠に無理なのだろうか。
 あの恋の重さが、私にのしかかる。ああ、なんて未練がましいのだろう。
 先生と主任の話が、もう頭に入ってこない。
 ぼんやりと、別の場所から、もう一人の私がこの光景を俯瞰している感じ。この舞台はどう? この物語は、あなたにとってどう映る?
 そう問いかけてくるのは、十四歳のわたしだ。
 全然新しく始められていないぞ、渡瀬物語。
 まだまだ幕間で立ち止まっている。


 クリニックを出て、いつもどおり駅へと向かう。連休前と連休明けは混み合うので、今日もバッチリ残業だった。そして、休み前は駅も混む。とは言っても、大阪の真ん中を走るこの御堂筋みどうすじ線はいつだって混んでいる。
 人波をかき分けて改札へと向かう途中、誰かが私の名を呼ぶ。
「えーっと、わ、わたせ! そう、渡瀬! 渡瀬やんな!」
「へ?」
 間抜けな声を出して振り向いた私に、同い年くらいの男性が駆け寄ってくる。少し身構える。
 短い黒髪に、ラフな格好。大学生だろうか。どこかで見たような顔ではある。
「久しぶり! 覚えてる? 中学の時さ、一年と二年同じクラスやった横田よこたやけど!」
「え、ああ! 横田? 久しぶり! えー、よく私って分かったね」
 たくさんの人が行き交う中、私たちは通路の端に移動した。
「いや渡瀬全然変わってへんし! それにな、こないだたまたま同窓会あって、家にあるアルバムやら写真やら引っ張り出したとこやったから。ほんま変わらんよなあ!」
「同窓会?」
 そう言われると、横田も面影がばっちり残っていてどんどん記憶が甦ってくる。そう、あの体育祭でリレーのアンカーだった男子だ。クラス一お喋りの。よく喋るところは変わってないらしい。
 知り合いだと分かると、やや緊張もほぐれる。
「そうそう。渡瀬転校したやん? 誰も連絡先分からんくて、誘えんくてごめんやで。年内に第二弾する?」
「いやいや、そんなん気にせんといて。それより、同窓会って、みんな来たん?」
「うん、ほぼほぼ集まってたな。まあ、まだ学生の奴らが半々やったし。渡瀬は今何してるん?」
「私はもう働いとるんよ。横田は?」
「バリバリの大学生! でもいいなあ、渡瀬は社会人かあ。何かな、やっぱもう働いとる奴とおると気後れするっつうかタメやのに大人に見えるっていうか、そういやさあ、最近こうやって偶然の再会みたいなんが多くて! 同窓会するきっかけもなー」
 途切れそうにない話にどうしたものかと思った時だった。それが、飛び出したのは。
「たまたま阿久津あくつと会って! 懐かしいなーって話になって同窓会することになったんよ!」
 阿久津!
 思わぬところで、そちらから顔を出すとは。こっそり探りを入れようとしていただけに虚をつかれる。
「へ、へえ、そうなんやあ。懐かしい。阿久津元気やった?」
「うん! あ、いや、そうでもないか。何かくたびれたサラリーマンみたいな感じやった。それで思わず声かけたんやもん。リストラされたみたいに公園で黄昏とって、二次会にも来んと帰ってたし、何か変にはしゃいで悪いことしたかな……さらに追い打ちかけてもたし」
「追い打ち?」
「そうそう。俺、阿久津が渡辺わたなべと仲良かったなんて知らんかったからさ、あいつが事故って死んだことポロッとゆっちゃってんな。そしたらもうめっちゃ落ち込んで。そっから上の空よ」
「渡辺?」
「ほら、仏頂面で生物部の。覚えてへん? よう学校休んどったやん。まあ、付き合い悪いやつやったしなー。阿久津も別に一緒におるとこ見たことなかったんやけど……」
 渡辺。思い出せないけど、阿久津が落ち込んでいたということが気になった。
 どうして、今なんだろう。何故このタイミングで、私にそんな情報が舞い込んでくるのか。
 過去が浮上し始めている時に、まるで、上書きしようとしているのを止めるかのように。
「なあ、それより俺さっきまで飲み会やってんけど、早めにお開きなったから今から一緒に飲みにいかん? 積もる話もあるし! って、ええ? ちょお、渡瀬? ええぇ~、めっちゃつめたーい」
 その言葉を、最後まで聞かないまま、私は走り出していた。横田が悲壮な声で私を呼んでいたが、私は足を止めることができなかった。
 絶対に今上書きをしてはいけない。
 そう思った。
 だって、夢野先生は言ってた。すっぴんでも楽しめるのなら、そっちを選んでもいいって。
 今から地下鉄で天王寺てんのうじまで出て、あとは乗り換え……大丈夫。まだ全然間に合う。今日じゃなきゃだめだ。私が偶然夢野先生と再会したように、この横田との偶然の再会にも、きっと何か意味があるはずだ。私の、新しい物語のできごととして。
 はやる気持ちを抑え、電車に乗り込む。
 阿久津は、やっぱりまだあの家にいるんだ。
 一目でいい。どうしても会いたい。
 阿久津にとって、私は不要な思い出なら、すぐに消してくれていいから。そのまま上から塗りつぶしてくれていいから。
 込み合う車両から飛び出し、次の電車へ乗り換える。あの駅は快速が止まらない。普通電車の歩みがもどかしい。
 外の景色から、だんだんネオンの灯りが減っていく。南へ行くにつれ、夜空は高く広くなる。大きな川を越えた。
 あと少し。


 やっとのことで駅に着いた時には、もう十一時前だった。バスはもうない。団地は坂の上なので歩いて十五分ほどかかる。私はとにかく急いだ。さっきまでいた繁華街とは違い、夜の闇に包まれたこの町。とても懐かしい。坂の上にあるコンビニを過ぎると、私の通っていた中学校が見えてくる。黙々と足を動かす。
 でも、阿久津はもうその団地にはいなかった。
 空き室となった部屋の前に佇んでいると、向かい側の部屋の人が怪訝そうな顔を覗かせ、越したことを教えてくれた。いつ、どこへ、と聞いても教えてもらえなかった。時間も時間だし、不審がられても仕方ない。私はお礼を言って、団地を後にした。
 あっけない。
 さっきまでまるで運命でも感じたかのように舞い上がっていたのに。
 こんな風に終わってしまうなんて。こんなことなら、さっき横田に阿久津の連絡先を聞けばよかったんだ。それはそれで、別の意味で怪しまれるけど。
「でも、そんなんばっか気にしてるから、こうなるんよなあ」
 いつもそうだ。
 相手の気持ちを汲むのではなく、ただ勘繰る。見当違いの気遣いに、明後日の方を向いた努力。
 私は、一体どうすればいいのだろう。
 とぼとぼと坂を下る。
「終電、間に合うかなあ……」
 間に合わなければそれでもいい。そう思って、ゆっくりと薄暗い外灯の照らす道を駅に向かって歩いていた時だった。誰かが改札から出てきて、私の前を横切っていく。その横顔に、息を呑む。
「阿久津?」
 まさか。
 何故こんな時間にこんなところに。でも、あの前髪で目が隠れた横顔。阿久津に似ている。
 私は思わず後を追った。阿久津らしき人は、駐輪場の前も通り過ぎ、線路沿いを踏切に向かって歩いて行く。
 他に誰も通らない。
 暗い夜道。
 踏切が閉まる。
 すると、何を思ったのか、その人物は遮断機を越えて踏切の中へ。
 私は走り出す。
 電車の音が近づく。
 私は走る。
 マズイ。快速電車だ。この駅には止まらない。つまり、そのまま突っ込んでくる。
 息を止めて、とにかく大地を蹴る。
 電車のライトに照らされるその人物の顔が、ハッキリと浮かび上がる。
「阿久津!」
 気がついたら、私はそう叫んで、その人物の手を引っ張っていた。
 大きく見開かれた目と視線がぶつかる。
 次の瞬間、凄いスピードで電車が通り過ぎた。
 私とその人物……阿久津は、踏切の外側にいた。
 並んで、地面に倒れている。さっきまで自分たちがいた場所を、茫然と見つめながら。
 電車が遠ざかっていき、踏切が静かに開いた。何事もなかったかのように。
 そっと体を起こし、その場に座ったまま、私たちは、改めてお互いの顔を見つめた。
 少し細くなった顎、中学生の頃より広くなった肩幅、でも、うっすらと開かれた唇に、細い目、相変わらず長すぎる前髪に、パチパチ瞬きをしているそのあどけない顔は、あの時の、私の知っている阿久津のままだった。
 阿久津だ!
「渡瀬?」
 声は、低くなっている。でも、その声を聞いて、私の目から涙があふれ出した。両手で阿久津の肩をしっかりと掴む。
「何やってるんよ! 何で死のうとしてたんよ! 何で一人で死ぬつもりやったんよ!」
 ボロボロと涙も言葉も止まらない。息が上がったままで苦しい。でも、彼が幻じゃないことを確かめるように、消えてしまわぬように、肩を掴んだ手にさらに力を込める。
「私に死ぬことないってゆってた癖に、何で阿久津が死ぬ必要あるん? 私は、あの時、その言葉で救われたのに、どんなに辛いことがあっても、前を向いて、嫌なことは上書きして、頑張ろうって、それでも、阿久津との思い出だけは絶対に上書きせんかった。私にとって、ほんまに大事な思い出やったから。やのに……何で阿久津が消えようとしてるんよ!」
 結局こうだ。相手のことを慮ることなどできずに、自分しか見えてない。私に、阿久津のことを責める資格はないのに。
 黙っている阿久津は、泣きじゃくる私に困っているのか引いているのか。私は気持ちを落ち着かせるため、ゆっくりと深呼吸する。
 ごめん。そう言おうとした時。
「ごめん」
 先に、阿久津が謝った。顔を上げると、阿久津と目が合う。潤んだ瞳と。
「ごめん、渡瀬。ごめん。俺、渡瀬が、死んだって思ってた。ここで事故に遭ったって聞いて、それで、もう自分でもどうしたらいいか分からんくなって」
「事故? え? 阿久津、それって」
「それで、ここに来たら、その猫の死体を見つけて、お前が呼んでる気がしたから、俺……」
「猫の死体? 阿久津どうしたん? そんなんどこにもないよ?」
「あるやろ? そこに……」
 阿久津が踏切の方を指さす。そこには、捨てられたペットボトルが一つ転がっていただけだった。
「阿久津、前髪長いから目悪くなるってゆったやん」
「ちが、ほんまにあったんやって。それに、それじゃあ、え? あれ? どういうことなん?」
「……それな、人違い。事故に遭ったのは別の人。私は、生きてるよ。阿久津……私、生きてるんよ」
「人違い……」
 はあぁぁ、とため息をついて、二人して脱力。地べたに座ったまま、お互いの肩に額をぶつける。
「そっか……そうなんや。渡瀬、生きててくれて良かった。会いたかった、ずっと」
 阿久津の息が首筋にかかる。くすぐったくて、それをずらすように、私は阿久津の背中に腕を回した。額を乗っけていた肩に、顎を乗せて、ぎゅっと抱きつく。
 一瞬阿久津が身を固くした。戸惑いが伝わってくる。
 でも、すぐに阿久津も私の体を抱きしめてくれた。
 積もる話も、伝えたいこともたくさんある。ただ、今はこうやって、全身でお互いの存在を確認していたい。
 しばらくの沈黙。二人の鼓動が穏やかになっていくのが分かる。
「あれ?」
 阿久津が呟く。
「人違い……ってことは、誰が、ここで? ていうか、渡瀬は何で知って……というより、何でここに?」
 我に返ったかのように、ぱっと体を離す。かすかに紅潮した顔を隠すように横を向く。
「私、今日偶然横田に会って、同窓会でのこと聞いたんよ」
 私は成り行きを説明する。ちょっとした情報の行き違いがあったようだということ。
「渡辺?」
「うん、私は一学期の途中までしかおらんかったしよく覚えてへんのやけど、阿久津分かる?」
「いや……俺もぶっちゃけ、お前と横田以外あんま覚えとらん」
「えー、それはひどすぎひん?」
「ご、ごめん」
 しゅんと顔を伏せた阿久津を見て、相変わらずだな、と思う。クラスメイトの誰にも連絡を取らなかった私に偉そうなことは言えないが。
 でも、私はあの頃の阿久津の状況を知っている。ひどく視野が狭く、それでも、自分の手の届く範囲のものは、必死に守ろうとしていた彼のことを。
 その中に、私も入れてくれていたことを。
「別に責めてへんよ。でも……元クラスメイトやし、今度横田に詳しく聞いてみよう」
「そうやな」
 小さく微笑む阿久津。その温かい眼差しも変わっていない。
「あ、てか、立とう。人、来るかも」
 阿久津が立ち上がって手を差し出す。私はその手を取って隣に立ち、彼を見上げた。
「背、伸びたね」
 手は繋いだまま。阿久津は照れ臭そうに頷く。
「ごめん」
「また。何で謝るん?」
「いや、うん。家、どこ? 送る」
 中学生のように、ぶっきらぼうにそう告げる彼を見て、私は吹きだす。
「もう電車ないと思うけど?」
 人通りがないのをいいことに、ずいぶんゆっくりと再会を堪能していたのだ。とうに終電は出てしまっている。焦る彼の手を引いて、私は駅とは反対側へと歩き出した。
「あの公園、行かん? コンビニで飲み物とか買って、プチ同窓会しよう」
 明日は休みだ。構うものか、と半ばやけになって提案する。このまま帰ることなんて、今日はできなさそうだ。今、手を離すと、また会えなくなってしまうような気がする。
「……うん、分かった」
 しっかりと繋がれた手。阿久津も今、不安なのだろうか。
「阿久津も、引っ越したんやね」
 シャッターが閉まっている店舗の前を、のんびりと歩く。白い外灯の周りを虫が飛び回っている。
「うん、やから、俺も電車ないし」
「ふうん」
 今はどこに住んでいるのだろう。あの家族と一緒なのだろうか。
 疑問は後回しにして、私は彼が口を開くのを待つ。さっきとぼとぼと歩いてきた道を引き返す。坂道が見えてきた。車通りのほとんどない道路だ。
「ていうか、渡瀬、足速いよな。さっき、急に目の前に現れて、ビビった」
「元リレーの選手ですから」
「ああ、そういや、そうやったな」
 のんびりと、坂を上る。
「渡瀬、俺のこと怒ってへん?」
「なんで?」
「会いに行こうとせんかった。転校した後も、俺、連絡もせんと」
「そんなん私もやん」
「俺は、逃げてた。お前が死んだって聞いてから、そのことを後悔して、また逃げようとしてた」
「でも、捕まえた。呼んだら、阿久津はこっち向いてくれた。だから、怒ってへんよ」
「ごめん」
 彼は謝ってばかりだ。彼の横顔を見つめる。目は合わない。
 コンビニを通り過ぎて、私たちはそのまま公園へと向かう。虫の声しか聞こえない。団地は灯りのついている部屋がほとんどなく、まるで死んだように静かだ。うっすらと外灯に照らされた公園も、あの時から変わらず時を止めているように見えた。
 五月の夜風はほんの少し冷たくて心地い。でも、どこか寂しい。
 私たちは、いつもの場所に並んで座った。
「……阿久津、私の方こそ、ごめんな。あの日、ここに来られへんかった」
「うん」
「お父さんが、あの夜に、事故に遭ったのは聞いた?」
「副担から……学校で」
「そっか。うん、あんな、あの日な」
 私は、少しずつ、ゆっくりと、言葉を紡いでいく。 
 夢野先生のおかげで、上から塗りつぶすことのできた物語を、そっと剥がしていく。
 いつも以上に酔っていた父、タバコの火、大きな手が、私の顔を打つ。それから、私は初めて父と喧嘩した。畳の上に血を吐きながら叫ぶ私を見て、父は家を飛び出した。そして、事故に遭った。
 目を覚ました時、私は病院にいた。火傷と打撲。すぐに退院できるよ、と祖母が教えてくれた。それから、父のことも。
 祖母と警察の人が話をしているのを、私は病室からぼんやりと見ていた。担任の先生もきてくれたけど、何を話したのかは覚えていない。
 ただ、じっとして、耳を塞いで、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
「そうやったんや……そっか、そういうことやったんか……。ごめん、渡瀬」
「だから、謝りすぎ。阿久津が謝ること何もないやん」
「うん、でも、ごめん」
 阿久津が頭まで下げるので、私は慌ててその肩を押し上げた。
「やめて、ほんまに。私、怒ってへん。阿久津のこと怒ったことなんか、一回もない」
 顔を上げた阿久津との距離に、今度は私の方から目を逸らす。
 それから、ぽつりぽつりと話し始める。お互いのこと。笑っちゃうくらいあの頃と同じ。いつだって、話題は家族のことだ。そして、私は今の阿久津の状況を知った。
 阿久津が、たった独りぼっちになっていることを。
「なあ、渡瀬」
「うん?」
「俺、いまだこんな感じで、うじうじしとるというか、正直この先どうしたらいいか迷ってる。でも、こんな俺やけど、渡瀬が嫌じゃなかったら、これからも会いたい」
 私が頷くと、阿久津はさっきみたいに抱きしめてくれた。
 それでやっと分かった。男の人がダメなのではなく、阿久津じゃないとダメだったのだと。
 短いようで、長かった七年間。
 ごめんね、夢野先生。私はやっぱりあの頃のことを塗りつぶしてしまうことはできないみたいだ。そのまま、繋がったまま、第二幕、開幕だ。
「私も、ほんまはずっと会いたかったし、ずっと一緒におりたかった。でも、弱くて、私。だから、会いにこれんかった。やけど、もう誤魔化すのはやめる。上書きもせえへん。確かに、辛いこととか嫌な事とかめっちゃあったけど、上から消しても、それは残ってる。前は向けても、今度は振り返られへんようになるだけやもん。全部さらけ出して、弱かった頃の自分とかも隠さずに、そうやって生きていきたい。そんなん見せられるの、阿久津だけなんやからね。やから、阿久津もうじうじしとるとか、そんなん気にせんで。全部受け止めるから」
 お互いの体温が伝わってくる。心の震えも。
「ありがとう、渡瀬」
「うん、私も、ありがとう。覚えててくれて、上書きせんとってくれて、ありがとう」
「覚えてるに決まってる。上書きなんかできるわけないやん」
「うん、私もそうやった。阿久津だけは忘れたくなかった」
 偶然に懸けて良かった。
 こっちの道を選んでよかった。
 あの日、彼が私を救ってくれたように、私も彼を救うことができたのだから。
 私たちは、会えなかった時間を埋めるように強く抱きしめ合った。積もる話はたくさんある。
 でも、もう大丈夫だ。どんな話も受け止める。辛くて、目を背けたくなっても、何度上から塗りたくっても、落ち込んで逃げたとしても。私たちはこうやって強くなるから。いつか洗い流して、すっぴんで顔を合わせても、こうして二人でいれば向き合える。
 ねえ、阿久津。
 今度は私がきみを支えていくから。
 ここからが、私たちの本当の物語の始まりだから。

 END
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