SCRAP【完結】

Lucas

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第2話

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 黄金色に輝いている。僕の足場は、まるで天国だ。風は、足元の草を操って肌をくすぐる。空はいつもどおり頭上にあるけれど、地平線はいつもより遠い。ぼんやりと、靄がかかったようにはっきりとしない。
 僕は気づく。
 空に雲がない。
 僕は気づく。 
 蜃気楼のような地平線と僕の間に、一筋の川があることに。
 川へ目を凝らすと、鰐の群れが集まっているのが分かった。川の向こう側では、赤い服を着た人々が踊っている。その中の一人を、僕は知っている。
 それは、僕の兄だった。
 僕に背を向けたまま遠ざかろうとする。反射的に足が動いた。
「だめ」
 誰かが僕の手を引く。僕らは川とは反対側へ逃げ出した。この手は誰のものだ? 僕は何から逃げている? 手を引く人物の姿が上手く捉えられない。黄金色の草の背丈がどんどん高くなっているから、前を行く者が誰なのか分からない。その代わり、追ってくるものの姿ははっきりと感じた。僕はこの気配を知っている。弾丸のように迫ってくる、暗く恐ろしい影を。
 追いつかれてしまう。
 体を裂く冷たい痛みを覚悟して目を閉じた瞬間、僕の身体はふわりと舞い上がった。太く、たくましい幹が、僕の身体を支えている。暖かい木肌を感じて、そっと目を開けた。
 弾丸のような歯を持つ生き物は、草原を泳ぐようにしてその場を去って行った。堅い尾が、まるでオールみたいに動いている。
「鰐だ……」
 鰐の姿を見送り、僕は改めて辺りを見渡した。大きな木は、高さはそれほどでもないが、城砦のごとくしっかりとそこに立っていた。僕のいる枝より、ほんの少し高いところに、それはいた。
「君が助けてくれたの?」
 瞳の奥がうっすらと赤い。不思議な色だ。眩しいくらいの光をまとった長い髪は炎のように揺れている。ミルク色の肌をした、美しい少女だった。
「私が助けたの。無事に川を渡れるように」
「でも、川とは反対方向だ」
「そう。今は逃げなければならなかった。捕まると食べられてしまうから」
「鰐がいたね。でも、川の向こう側の人たちは何故鰐の群れに襲われないの?」
「あの鰐は川を渡れない。渡り切るまでが大変だけど。渡ってしまえばもう安全」
「向こうに兄貴がいるんだ。さっき姿が見えた。そんなはずないのにたしかにいたんだ」
 あの背中を僕が忘れるはずがない。彼は、僕ら弟に、その背中を追うように語っていた。彼は僕らの道標だった。
 目を凝らして、僕は兄の姿を探した。少女は表情こそ変えなかったが、明らかに不満を滲ませた声で無駄だと告げる。
「どうして? 僕らは鰐のことは熟知している。刺激しないように移動すれば大丈夫だ」
「無理。あなたにはまだ『匂い』が残っている。必ず気づかれてしまう」
「匂い?」
「そう。だから」


 夢は、ここで醒めた。
 どうかしてしまったのだろうか。失ってしまった左目に掌をあてる。じんわりと熱が伝わってくる。熱はまだ感じることができるのか。僕は自分が覚醒していることをしっかりと認識してから、慎重に体を起こす。
 おかしな夢だった。ストレスからだろうか。あんな夢を見るなんて。
 戦場においての精神的負荷は計り知れない。身体が壊れる前に心が破壊される。僕がこの塹壕に籠ってどれくらい経つだろうか。『弟』は無事なのか。
 僕らはとある森の外にいたはずだった。
 森の向こう側にかつては僕らの陣地であった町がある。真っ白で乾いた壁の、作り物のような建物が建ち並ぶ寂しい風景を持つ町だった。その町が敵軍の手に渡り、僕らは後退を余儀なくされた。
 森の外は地雷原だ。
 誰かが流したくだらない噂のせいで、敵も籠城せざるを得なくなったらしく、僕らは拮抗状態にあった。どこで戦いが始まってもおかしくない状況で、どちらも尻込みしているなんて。
「笑えない」
 僕の独白は、半分に減った世界に吸い込まれていく。
 始まらない戦い。業を煮やしたのか、誰かが飛び出した。
 森からだったか、こちらからだったか。それも覚えていない。まるで合図を待っていたかのように白兵戦が始まった。誰も望んでいない戦争のはずなのに、誰も退こうとはしない。
 激しい戦いの末、僕らは劣勢に。
 追い詰められ、追い込まれ、ちりぢりになって逃げだす。あまりに惨めで、屈辱的で、目も当てられない光景だった。仲間の屍を横目に、その死を悼むよりも、僕は逃げ惑う彼らの背中に侮蔑の視線をぶつけた。そんな僕の背にも、同じ視線を受けているのに。
 必死だった。
 死にたくなかった。
 自身すらも軽蔑して、それでも足を止めなかった。その時、僕は弟の存在を思い出した。あいつはどこにいるんだ。僕は立ち止まり、辺りを見回した。
 そんな僕の目に飛び込んできたのは、弟の姿ではなく、一発の弾丸だった。
「笑えない」
 今度の声は、僕に跳ね返ってくる。足元の冷たい土に触れる。こうして生きていることが不思議だった。その弾丸は確実に僕の眼球を破壊した。眼前に迫るその姿を覚えている。それはまるで、鰐の歯のようだった。
「だから、あんな夢を見たのかな」
「夢?」
 突如空から降ってきた声に、僕は慌てて顔を上げる。影が僕に落ちてくる。誰かがこちらを覗きこんでいた。
「そこに誰かいるの?」
 声が再度問いかけてくる。僕は息を潜めた。相手はこちらに気づいていないようだった。でも、おかしい。ほとんど機能していないような浅い壕だ。隠れられているはずがない。それでも、その人物には僕が見えていないようだった。
「そこ、危ないよ。昔戦争があって、その時作った壕の残りなんだって。危ないから近づいちゃだめだって牧師様がおっしゃるから」
 背後にある太陽のせいで、その人物の顔がよく見えない。僕は返事をせずに後ずさる。
「ねえ、もしよかったら話をしない? 夢ってなに? どんな夢を見たの?」
 頭上から手を差し出してくる。しかしそれは見当違いの方向へ向けられていた。合点がいった。この人物は目が見えないんだ。
「そろそろ出ておいでよ。ぼくは怖くないよ」
「誰がお前なんか怖がるか」
 お互いの、あまり低いとはいえない声が交差する。相手も『少年』だ。僕は少し位置をずらして光を避けた。少年の顔がはっきりと見える。真っ白な瞳を持つ少年。誰もいない空間へ手を伸ばしたまま微笑む。
「やっと話してくれた。ねえ、そこは本当に危ないよ」
「危なくなんてない。ただの穴だ。その牧師は子どもたちが遊び場にしないようそういったんだ」
「そうなの?」
 少年はきょとんとした表情を浮かべて首を傾げた。おそらく僕より年下だ。弟くらいだろうか。ああ、そうだ。弟を探さなければ。
 無我夢中で走って、僕はこの町を見つけた。あまりにものどかで、平凡で、静かで、それでいて、壊してやりたくなるような町だと思った。家畜の世話に、畑仕事。子供たちの笑い声。ここには争いなんて存在しない。人殺しという任務を背負う者なんて一人もいない。そんな町だったから。
「牧師という人物は生来嘘つきだと決まっているんだよ」
「そんなこといってはだめだよ。神様がお怒りになるよ」
「そんな気の短い神様がいるか」
 僕がそういうと、少年は小さく吹きだして慌てて口を両手で押さえた。その拍子にバランスを崩し、壕の中に転がり込んできた。微かに家畜の糞のような匂いがした。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ぼく、目が見えなくて」
「だったら一人で出歩くなよ。僕はもう行かなきゃいけない」
「どこへ?」
「弟を探しに行かないと」
 手探りで銃を探す。土を被っていたそれを持ち上げ、少年の隣をすり抜けようとしたが。
「待って」
 同じく手探りで、少年が僕の服の裾を掴んで歩みを妨げた。
「あなたの声は聞いたことがない。この町に住んでいる人じゃないんだよね? どうしてここにいたの?」
「目が暇だと口が忙しくなるのか?」
「そうだね。それから、耳も良くなる」
 僕の方を見ないまま、少年は口元に笑みを浮かべた。弱々しいその手を、僕は何故か振り払えない。仕方なく、とりあえず膝をついたままの少年を立たせてやった。
「怪我は?」
「ありがとう。大丈夫だよ」
 少年が目を丸くしている。
「僕が親切なことをするのがそんなに意外?」
「え? ううん、違うよ。親切にしてもらえたことが意外だっただけ。みんなぼくのことが荷物だから」
「それは目が見えないから?」
「ぼくが祝福されていない子どもだから。生まれつき目が見えないのは必要な人間じゃないから」
「必要じゃない人間なんていない。誰がそんな馬鹿なことを? それも牧師が?」
「違う。ぼくの家族、父や母、それに兄や姉、それから学校の友だち。牧師様は今のあなたと同じことをいってくれた。でも、みんなは牧師様のいうことは正しくないというから」
「それも、僕と同じことをいっているけどね」
 少年は目を細めて「たしかにそうだ。おかしいね」といった。なにもおかしいことなんてない。そんな風に笑わなければいけないことなんてない。そう伝えると、今度はとても悲しそうに俯いた。
「いいか? まず、間違っているのは、ここが危険な場所だということ。それから、お前は必要じゃない人間だということ。それ以外は正しい。今のところ」
「今のところ」
「ああ」
「ありがとう」
 この笑顔は嫌いじゃない。それは口に出さずに、僕は少年の肩を叩いた。
「じゃあ、僕はもう行かなきゃ。本当に。弟を探さなければいけないんだ」
「どこではぐれたの?」
「戦場。森の外だ。でも、僕にはここがどこだか、どうやって辿り着いたのか分からない。それでも行かなきゃ」
「戦場? まさか。戦争は終わったのだと牧師様はおっしゃっていたよ」
 僕は肩をすくめる。おおかた、少年を怯えさせないための嘘だろう。きっと、この町にはまだ戦争の被害がないんだ。ずいぶん遠くまできてしまったらしい。
「その牧師はたまに嘘をつく。でも許してやれ。それが仕事だ。そんなことより、森がどちらにあるか知らないか? 寂れた町を囲んでいる森だ」
 聞いた後で、僕は少年の目のことを思い出す。頭を振って息を吐いた。
「あなたは、本当に戦場からきたの?」
 少年には僕の姿が見えない。きっと、僕の顔は弾丸のせいで恐ろしいことになっている。手に持つ銃は、この町なんかには絶対にない代物だ。
「そうだ」
「そう。分かった」
「もう行くぞ」
「待って。あなたは今どんな格好をしているの?」
「どうしてそんなことを訊く?」
「遠い国では戦争をしていることくらいはぼくも知ってる。でも、ここはそうじゃない。だから、きっときみが出歩いて人の目につくとよくないことが起こるかもしれない」
「本当に戦争を知らないのか? ここに軍がきたことは?」
「ない。それは本当。信じて。だから、おかしいんだ。どうやってあなたがここにきたのか」
「それでも行かないと。僕はこの足できた。そこまで戦場から離れているとは思えない。一日、もしくは二日……そのくらい歩く距離があるかも知れないけれど、大地の繋がった場所にあることはたしかだ」
 少年の目は、やはり僕のほうに向けられないままだけど、その心はしっかりと僕に向けられて真剣に考えてくれているのが分かる。
「分かった。じゃあ、しばらくここで待っていてくれる? 牧師様に聞いてみるよ。あのお方なら、知っているかもしれない」
「あまり触れ回らないで欲しい。きみの話だと兵士が人の目につくのは不都合なんだろう?」
「うん。だから、牧師様だけに。牧師様は、若い頃戦場にいたんだって。だから、何か知っているのかも知れない」
「そうなのか?」
「うん。それに、牧師様なら誰にもいわないよ。誰も……彼には近づかないもの」
 どういうことか尋ねたかったが、少年はすでに歩き出していた。手探りで壁を探し当て、壕を這い出ようとする。僕はその身体を支えて上がるのを手伝ってやった。壕から出た少年が振り向いて、にこりと笑って礼をいう。


 少年が消えたあと、僕は壁にもたれかかるようにしてその場に座った。膝を抱えそこへ顔を埋める。痛みはない。麻痺しているだけだろうか。神経がやられたか。どちらにせよ、光が戻ることはない。安いものだ。命があるのだから。
 弟は今どんな状況だろうか。まだ戦場に取り残されているのか。戦況は? 僕らは負けたのか?
 故郷へ帰りたい。
 自然の溢れるあの村へ。
 川があった。夢の中で見たような川に比べれば、細く、弱々しいけれど、だからこそ子どもたちは川で遊ぶことができた。危険な場所へさえ近づかなければ大丈夫だと、そういわれていた。でも、大人たちのそういった忠告は、子どもたちにとって冒険への招待状だ。僕と兄と弟で、その招待を受けることにした。
 鰐と出会ったのは、その時が初めてだった。まだ成長しきっていない鰐だった。お互いに未熟だった。だから、数の多い僕らに軍配が上がった。最後の一撃は、兄のものだった。
 自分たちで作った槍を掲げ、歓声を上げる。でもその時に弟は顔に大きな傷を負ってしまった。今も引きつった笑みを見せるのはそのせいだ。それでも、弟は笑顔を絶やさなかった。けして。
 兄は僕たちに誓った。必ず守ってやると。自分の背中をいつも見ていろ、お前たちが後ろにいる限り、俺は必ずあらゆる危険から守ってやる。兄の言葉は僕らの支えであり、かけがえのない絆となった。この時のことを忘れないために、僕らは鰐の歯でチョーカーを作った。今も肌身離さずに持っている。
 それからも、僕らは兄の背中を追い続けた。
 彼が死んでしまうその時まで。
 軍に村が襲われ、僕らは半ば強引に兵士に仕立て上げられた。そして、兄は僕らに誓ったとおりに、あらゆる危険から僕らを守り抜き、死んでしまった。
 僕は、兄の背中に誓いを立てた。
 今度は僕が守る。弟は必ず僕が守り抜く。
 そう誓ったはずなのに、僕は逃げ出していた。痛みと恐怖に我を忘れ、気がついたらこのざまだ。僕は最低な男だ。絶対に弟を見つけなければ、今度こそ、誓いをまっとうしなければ。必ず守る。弟をこの腐った世界から助け出して未来へ連れて行く。


「それで、家畜の世話を押しつけられたと」
 最初に出会ったころより、糞の匂いが強くなっていた。転んだのか、半ズボンから覗く膝小僧に擦り傷を作っている。泥なのか糞なのか分からないものがブーツにこびりついていた。
「押しつけられたんじゃないよ。ぼくの仕事なのにうまくできなくて。ぼくだけが家の手伝いをしないわけにはいかないんだ。それに、兄や姉は優秀で勉強をしなければいけないから」
 少年は言い訳をまくしたてる。彼の持ってきてくれた林檎を手の中で遊ばせながら、僕は片目で彼の表情を窺った。そこに、悲しみや怒りはない。兄や姉への畏敬の念だけが現れている。
 不思議で仕方なかった。少年は、家族や仲間から虐げられている。不必要な人間だといわれても、腹が立たないのだろうか。
「兄や姉は、弟や妹を守るものだ。きみは不当な扱いを受けている。怪我までさせるなんて、僕ならそんなことは絶対にしない」
「そっか、あなたにも弟がいるんだったね。あなたは優しいお兄さんなんだね」
 その言葉に、ばつが悪くなり、僕は目を伏せた。傾いた陽の光が、壕の中を照らしていく。
「でも、安心して。この怪我は兄や姉にやられたんじゃないよ」
「だったら、誰に?」
「転んだんだ」
「今さら嘘をつくな。誰にやられた?」
「……牧師様」
「どうして? どうして牧師がきみをそんな目に遭わせるんだ?」
「違う。ぼくにひどいことをしたいからじゃないんだ。牧師様は、その、たまにだけど、ひどくお怒りになる。ぼくが悪いんだ。牧師様にとって、思い出したくないことだったのだと思う。牧師様も、戦場で大切な人を失ったんだって。彼にも兄弟がいたんだ。彼は兄弟を奪った神様を、とても憎んでいる」
「待った。どういうことだ? どうして神を憎んでいる人間が牧師に? それに、きみは悪くない。きみは僕のために話を聞きにいったんだ。そうだろ?」
 何も映さない瞳から、一筋の涙が流れる。あまりに綺麗で、僕は息を呑んだ。
「彼は、とてもとても悲しい思いをしたんだよ。大切な人が死んでしまったのだから。どんなに憎くても、恨んでいても、神様にすがらなければ生きていけないほどに」
 彼の顔がこちらを向く。見えていないはずなのに、しっかりと僕の方を見つめている。
「誰も死なない世界になればいいのに。そんな未来がくればいいのに。そうすれば、誰も悲しまずにすむ」
 少年にこの世界を愛する理由なんてないはずだ。そんなふうに誰かの悲しみを背負う義務もないはずだ。不幸な人生なのに、どうして?
「そんな未来がきたら、きっと世界は人で溢れて、満員になってしまうよ」
 少年がくすりと小さく笑った。胸の奥が、じんわりと暖かくなる。
「たしかにそうだね。常に誰かが隣にいてぎゅうぎゅうで、移動が大変だね」
「ぶつかって動けなくなるよ」
「でも、それもいいかも。だって寂しくないでしょう? 手を伸ばして、その手の届くところに必ず誰かがいる。ぼくの場合、手が届かないと、どこに行ってしまったのか見えないもの」
 僕はとっさに少年の手を握った。林檎が僕の手から転がり落ちる。
「僕はここにいる。今、ちゃんときみの話を聞いてるよ」
「ありがとう」
 僕は少年の手に、鰐の歯のチョーカーを握らせた。少年が小首を傾げる。
「これは?」
「お守りだ。兄弟の絆の証。これできみは一人じゃない」
 少年の細い指が、その感触を確かめるように歯を撫でる。
「ぼく、これを知ってる。触らせてもらったことがあるんだ」
「本当に? どこで?」
「牧師様のところで。彼が首から下げているものと同じだよ。ぼくは手や耳で記憶しないといけない。だから、忘れたりなんてしない」
 僕は軽く困惑する。同じものは、存在していたところで不思議ではない。鰐なんて、世界のどこにでもいる。でも、ひどく胸が騒いだ。
『牧師様は、若い頃戦場にいたんだって』
『牧師様なら誰にもいわないよ。誰も……彼には近づかないもの』
『彼にも、兄弟がいたんだ。彼は兄弟を奪った神様を、とても憎んでいる』
 どうして僕の思考は、こんなにも混乱する? どうして、突飛な考えにいきつこうとしている?
「聞いてもいい? きみは、誰も牧師には近づかないといったね? それはどうして?」
「みんな……彼を怖がるから」
「神を憎んでいるから?」
「そうじゃない。きっと、そういうことではないんだ。とても、怖く見えるらしいんだ、みんなには。いけないことだと分かっているけど、みんなそう話している」
「いけないこと?」
「笑ったり、馬鹿にしたり、怖がったりしてはいけないことだよ」
 僕は顔を覆った。こんなことが起こりえるのだろうか。
 だけど、すべてが腑に落ちた。いや、違う。本当は気づいていたんだ。あの夢を見た時から、弾丸の冷たさを感じた時から、痛みを感じないと気づいた時から。
「もう一つだけ、教えて。それは、牧師様の顔に傷があるということだね?」
「ぼくには、見えないけれど」
 僕はもう一度少年の手を握りしめた。僕の手の震えを感じたのか、少年が心配そうに「大丈夫?」と聞いてくる。
「大丈夫。もう大丈夫だ。弟は見つかる。どこにいるのか分かったんだ。戻るのは、とても怖いけれど。でも、大丈夫」
「そう、良かった。弟に会えるんだね」
「ああ。会える。それから、きみも大丈夫だ」
「え?」
「きみは、この世界に必要な人間だ。きみが、きっと牧師の助けになる。そして、牧師にはきっと、これから少し変化が訪れる。でも、彼は臆病だから、きみが支えになってあげて欲しい。そうすれば彼はきっときみを守ってくれる」
「それは、どういうこと?」
「すぐに分かるよ。僕は行ってしまうけれど、きみは何も気にしなくていい」
 もう、何も感じない。握っていたはずの少年の手の感触が消えた。そして、その代わりに、何かが僕の手のひらを包み込んだ。


 喧騒が耳に届く。
 聞き慣れた音だ。それから、それらのノイズをかき分けて、懐かしい声が僕の鼓膜を震わせた。
「兄ちゃん!」
 うっすらとまぶたを上げる。世界は半分のままだった。そこに、引きつった笑顔が入り込む。笑われて、馬鹿にされて、怖がられて、それでも絶やさなかったあの笑顔だ。
「兄ちゃん! しっかり! 大丈夫?」
「ここは?」
 弟の後ろに、月明りが見えた。夜。そして、外だ。僕はどこかに寝かされている。
「野営地だよ。一度撤退して、ここに集まった。今、怪我人の手当てを、他に生存者がいないか探してる。すごく人が減っちゃったよ、兄ちゃん」
 相変わらず臆病だ。べそをかく弟に手を伸ばそうとした。いつものように、頬に触れて安心させてやりたかった。けれど、僕の手はもうまったく動かなかった。衛生兵が「どうしてこの状態で生きていられるんだ」とぼやくのが聞こえた。僕は、かなりひどい状態らしい。弟の目からぽろぽろと雨粒のような涙が零れ落ちた。
「お願い、ぼくを一人にしないで。兄ちゃんまで死んでしまったら、ぼくは何のために生きていけばいいの?」
 そんな弱音を吐く弟を、僕は今から置いていかなければいけない。不安そうな彼を、こんなにも幼い少年を。
「大丈夫だ。お前は、未来を生きるんだ。兄ちゃんたちがいなくなっても、お前なら絶対に大丈夫」
「兄ちゃんがいない未来なんて、生きていく意味はない。そうでしょう? ひどく残酷で、救いのない世界だよ。神様はどうしてぼくらにこんな仕打ちを?」
 大丈夫だ。自分にもそう言い聞かせる。まだだ。まだ死ねない。身体が壊れても、心が動き続ける限り、僕は頑張れる。
「今はそうかもしれない。神を恨んで、世界を呪うかもしれない。だけど、僕らがともに生きた今までの時間が、絆が、揺らぐことはけっしてない。たしかにそれはこの世界にあったんだ」
 どんな運命に振り回されても、歩む道がどんなに過酷であっても、僕らは兄弟として生まれることができた。僕は、彼らと結んだ友情を誇りに思う。
「兄ちゃん……それでも、寂しいんだ。苦しくて、とても悲しい。兄ちゃんたちに会えなくなるのは本当に辛いんだ」
 彼が顔を傾けると、首から下げていた鰐の歯が僕の頭上で舞った。僕の首元にその感触はない。
「分かってる。だけど、お前は生き残ったんだ。だから、お前にはこの先の未来を生きる権利がある。頑張れ、頑張ってくれ。兄ちゃんは、お前に生きて欲しい」
 ゆらり、ゆらりと揺れるチョーカーの合間から、きらめく涙が降り注ぐ。
「だったら……頑張って生きていたら、いつか死んだ人が生き返る未来がくる?」
 落ちてきた雫が、僕の頬を伝う。その時、はじめて気づいた。あの牧師を、弟の未来を変えてしまったのは、今のこの僕だ。
 僕のこの言葉だ。導く先は絶望だ。彼が『希望』としている未来はけっして訪れない。彼にとっての生きる希望をないがしろにして、世界を恨み続けるしかない道を作ってしまったんだ。
 泣き続ける弟に、どう言葉をかければいいのか分からなかった。
 黄金色の草原に浮かぶ、兄の背中が脳裏を過る。
 塹壕の中で出会った少年の手の感触が蘇る。
 そうだ。僕は、兄だ。彼を守れるのは、もう僕しかいない。
「死んだ人間は生き返ることはない。だけど、お前が誰かを生かすことはできる。お前の存在が、この先、誰かにとって、希望になる日がくるんだ」
「……どういうこと?」
「一人の幼い少年が泣いている。お前は、きっとこの先、そういった未来に出くわす。自分は、世界に必要のない人間なのだと嘆いている。だから、導いてやるんだ。お前が、兄ちゃんたちの存在を、生きる希望と思ってくれたように、その子にも、そういった存在が必要だから、お前がなってやるんだ。誰かの希望に。お前ならなれる。だって、兄ちゃんたちの背中を見て生きてきたのだから」
「誰かの希望……」
「そう。最後に、兄ちゃんは情けない背中を見せてしまった。悪かった。守ってやれなくてごめんな。でも、お前が無事で、兄ちゃんは本当に嬉しいんだ」
 その心に嘘はない。死にたくなかったという気持ちにも嘘はない。だけど、弟を失う恐怖の方が、今は勝っている。彼の絶望は、僕の絶望でもある。
 死に近づきすぎた人間は、魂が彷徨いやすい。僕はきっとそういう状態だったんだ。迷って、迷って、辿り着いた未来。きっと、そういう場所だったんだと思いたい。彼に希望を持たせる、最後のチャンスを神様がくれたのだと、今はそう信じたかった。
「兄ちゃん。兄ちゃんは、守ってくれたんだよ?」
「え?」
「覚えてないの? 逃げる時に、後ろから撃たれた。兄ちゃんが、ぼくをかばってくれたから、だから」
 やっぱり弟は優しい人間だ。とても、とても優しい。
 兄貴が死んでから、弟は僕の背中を追い続けた。兄貴がそうしたように、僕は背中を向けて、弟を守ろうとしてきた。だから、背後からの攻撃を受けて、弟の代わりに目に銃弾を受けることはできないんだ。
 優しい嘘しかつけない弟に、僕は微笑みかける。うまく笑えているのかは分からないけれど。彼の愛情に、赦しに、正しさに、精一杯の敬意を払う。
「そうか、良かった」
「うん。うん、兄ちゃんはすごいよ、いつも、とても強くて、ぼくは、そんな兄ちゃんが大好きだった」
「だったら、伝えてくれ。僕らの勇気が、絆が無駄ではなかったことを」
「……分かった。兄ちゃんたちの想いは、ぼくが未来に持っていく」


「あなたから生者の匂いが消えたわ」
 ミルク色の肌をした少女が、木の上から音もなく降りてきて隣に立った。
「これで、良かったと思う?」
「分からない。未来は誰にも」
「きみは、天使?」
 そう問いかけると、天使は喉を鳴らして笑った。表情は変わらない。笑ったように思う。
「誰も死なない未来も、死んだ人が生き返る未来も、きっと訪れてはくれないのだろうね」
「分からない。未来は誰にも」
「それは、訪れることもあるかもしれないということ?」
「歩いたことのない道を正確に想像できる人なんていないということ」
「なるほど。たしかにそうだ」
 僕は、一歩前に踏み出す。視界を遮っていた背の高い草が、頭を垂れるようにして道を開けてくれた。その先に、あの川が見える。
「もう行くね」
「行けばいい。どうせあなたは迷わない」
「どうしてそう思うの?」
 少女は真っすぐと前を見た。その先には、懐かしい背中が見えた。僕の目指すべきものだった。彼女のいうとおり僕はもう迷わない。
「それじゃあ、行くね」
 そういって、もう一度彼女の方に視線を戻した時、すでにその姿はなかった。風だけが、名残惜しそうに木の枝を揺らしている。
 僕は、前を見て歩き始めた。鰐たちはもう追ってこない。
 胸を張って、兄のもとへ向かう。後悔はもうなにもない。
 彼から引き継いだものは、たしかに未来へと受け継いできたのだから。
   
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