SCRAP【完結】

Lucas

文字の大きさ
上 下
3 / 5

第3話

しおりを挟む
 観光地としても有名なこの街は、今はゴミで溢れている。ゴミ収集業者のストライキが始まったからだ。僕らのようにストリートで暮らす子どもたちにとっては、たいして障害にはならない。そしてそれは観光客にとってもだ。
 噴水へ投げ込むくらいの気安さで、コインを僕らへ落とすのがこの町の名物になっているのだから。旅先での善良な行いは最高の思い出になる。
 しかし、落としていくのは何もコインと小さな願いだけではない。


「今回のストライキの理由を知ってる? 観光地化反対だって」
「誰も彼らに、ゴミに埋もれる子どもが観光資源になりえることを教えてやらなかったんだね」
 夜になると、『彼』は必ず僕のもとへとやってくる。僕の答えに少し困ったように微笑む彼は、ストリートの子どもではない。
 ひんやりとした石畳に腰を下ろす。空気も冷たい。なのに、ねっとりとした悪臭をはらむ。彼はその空気を追い払うかのように、長くため息をついた。
「無理して来なくてもいいよ」
「きみと話がしたくて。夜の散歩のついでだよ」
 ゆっくり、ゆっくり、夜は更けていくことを、僕らは知っている。陽のあるうちは、追い立てられるように生きているから。そして、追い込むように、夜の時間が僕らを包んでいく。そこで、時間が止まったようになる。
 だから、彼は夜に現れる。
 僕と彼だけの時間だ。
 だけど、この悪臭は頂けない。僕ですらこうなのだから、彼はもっと辛いだろう。
 家を持たない僕にとっては喜ぶべきところなのかも知れないけれど、世の中そんなに甘くはない。優良なゴミは強いグループの縄張り内にある。物乞い一つにしろ、場所を選ばないとひどい目に遭ってしまう。観光客の気まぐれは、僕にとっては非常にありがたいというわけだ。
 僕は月灯りに照らされる彼の横顔を盗み見る。
 彼はとても綺麗だ。
 ゴミではないけれど、彼は優良だ。見栄えの良さは、孤児院では有利だ。だから彼は、お金持ちのおじいさんに拾って貰えた。でも、目を引くような美しさは路上では危険。とても。
「そろそろ帰った方がいいよ」
 ここでは、彼は『優良』すぎる。
「そうかもね。でも、せっかくだからもう少しだけ話をしようよ」
 帰るよう促すも、僕は彼の誘いを断らない。彼の話を聞くのは好きだ。まだ少女のような澄んだ声で話す彼が好きだ。あどけない笑顔で夢を語る。これから見る優良でいて善良な夢だったり、昨晩見た夢だったり。どちらにしても幸せそうに語る。
 見栄えも悪く、汚れた僕を相手にしても、彼は曇らない。 
 彼はいつもそう。
「最近は中々散歩に出られなくて。目の病気が進んでいるみたい。でも、街はこんな状態だし家の中の方が安全だから、仕方ないよね」
 今夜の彼は、一緒に住んでいるおじいさんの事を語っていた。昼間、彼があのおじいさんの手を引いて散歩をしている姿をよく見かけた。おぼつかない足取りは、年のせいだけではなかったらしい。
「目が見えないの?」
「ぼんやりとだけ見えるみたい。でも、ハッキリとは見えていない」
 だから、ぼくときみの区別もつかないかもね、と。彼は笑ってそう言った。僕らの差は天と地ほどもある。美しい、醜い。見えなくとも区別はつく。彼なりの気遣いは僕の胸に刺さるだけ。僕は肩をすくめる。
「ぼくの淹れるお茶を、美味しそうに飲んでくれるんだ。植物園があって、そこからハーブを摘んでくる」
「きみは物知りだよね。僕にはハーブと雑草の区別がつきそうにない」
「ぼくもだよ。だから、学習した。花の中にはどんなにいい香りでも毒を持っているものもあるからね」
 悪臭の中で、彼は花の香りを語って聞かせる。その話が、彼の持つ輝きが、僕の鼻を麻痺させる。今度一緒に行こうよ、と彼は誘う。見るだけなら、目の毒ではないよ、と。でも、それはできない。僕の姿が、彼にとっては目の毒だ。夜だから、月の灯りの下だから、僕は彼のそばにいることができる。
「ここに居過ぎるのは良くないよ」
 彼が言う。
「ここにしか居場所がない。それに、もしそれが危険だからという理由で言っているのだとしたら、きみの方こそもうここには来ない方がいい」
 ここにはゴミを漁りにくる連中が多い。この僕の縄張りであるここにすら、いや、ここだからこそ、狙われる。
「それはできない。きみが頷いてくれるまで何度だって来る」
 このやり取りも何度目だろう。結局、僕は彼との真夜中の密会を続けている。どうして? きっと、麻痺していたからだ。鼻も、心も。
 危険の匂いは、すぐそこまで迫ってきていたのに。
 路上の子どもたちがたまにいなくなる。街の住民の目が外に向けられている時は、特に要注意だ。ただでさえ住民たちはゴミの群れから目を背ける。ストの問題が、彼らの無関心を加速させる。
 いなくなった子どもたちは、二度とは戻ってこない。だけど、その原因、つまり『危険』は戻ってくる。何度も、何度も。優良なゴミ場だと認識すると、目をつける。     
 だから、彼がここに来るのはとても危険なんだ。
「僕ときみは違いすぎる。ずっと一緒にはいられないんだ」
「そんなことないよ。背丈も同じくらいで、声だって似てる」
 彼は微笑む。
「そんなの似ているうちに入らない。背は、きっときみの方がうんと伸びるし、声だってそのうち低くなる」
「そのうちね。でも、今はそうじゃない」
 埒が明かない。僕は深いため息をついた。吸い込みたくない空気を静かに吸う。彼からはかすかに花の匂い。それとも、さっき言っていたハーブだろうか。
「あの人は、優しい人だ。きみのことも気に入るよ」
「あのおじいさんのことを言ってる? だとしたらとんでもない話だ。誰が好きこのんで僕らみたいな子どもを引き取る?」
「そんなこと関係ないよ。それに、あの人には身の回りの世話をする人が必要になる」
「きみ一人で十分だろ?」
「そう思う?」
 僕は頷いた。そう。一人で十分なんだ。
「そう。だったら、そうかもね」
 彼は諦めたのか、話を変えた。帰るつもりはないらしい。よく通る声で植物園のことを語る。どの花が危険か、どのハーブで淹れるお茶が一番美味しいのか。細かく、詳しく、僕に聞かせる。
 夜が更けていく。
 僕らの時間が終わっていく。
 月が消え、空が明るくなり始めた頃、彼はようやく家路に着く。僕が居眠りをしてしまっても、彼はけして怒らずに、優しく僕を起こしてから帰る事を告げる。彼の背中を見送ったあと、僕は野良猫よろしく警戒心をむき出しにして行動を開始する。食料の調達をしなければいけない。また今日も追い立てられる一日が始まる。
 くん、と悪臭に鼻を鳴らす。
 あの花の残り香は消えてしまった。
 太陽の下では彼に会えない。
 僕はとても醜いから。だから、両親はゴミと間違えて僕を捨ててしまったのだろう。


 ゴミの群れが動き出す。僕はいつも群れには混ざらない。小さな群れがそこら中で活動する中、一際大きなチームがここには存在していた。
 彼らは、少し特殊だ。
 とても幼い子どもたちで構成されている。まだお母さんのお乳を恋しがるような幼児を、それよりもほんの少し成長しただけの子どもたちが面倒を見ながら活動していた。
「本なんか盗んできても意味ない。腹膨れないじゃん」
 可愛らしい顔をした少女が頬を膨らませる。
「意味はあるよ。あとで君にも貸してあげる」
 ダストボックスの上に座る少年が答える。その手には確かに一冊の本が開かれている。
「嫌味か。字読めねえの知ってるくせに」
「読めとはいってないよ。食べればいいじゃない」
「むかつく!」
 少女は少年の手から本を叩き落とすと、舌を出して群れの中へと走って行ってしまった。少年は怒りもせず、本を拾い上げると少女の背中を見送った。
 その眼差しは、とても暖かく。
「……やあ、ひとりぼっちのおチビさん」
 そして、僕へと向けられた途端、その温度を失う。
 僕は頷いて挨拶を返し、ダストボックスにもたれかかる。少年はまた同じ位置で読書を再開した。
 僕の縄張りと、少年たちの縄張りは近い。群れのリーダーである少年は、僕のことを警戒していたが、僕がひとりぼっちだと分かるとそれを緩め、チームへと誘った。
 今では、たまに会話をする程度の仲だ。お互い、深くは関わらない。暗黙の了解。
「どう?」
 少年が差し出してきたものを見て、僕は顔をしかめる。すると、少年は「ただの煙草だよ」と笑った。一部の子どもたちが好む『おやつ』ではなくてほっとしたが僕はそれを断った。
「意外だ。きみが煙草を吸うなんて」
「僕らはリベラルに育っていくんだ。新人類だよ」
 紫煙が僕らを取り巻く。軽くむせて横を向いた。
「息がふさがる」
「その心地よさが分からないなら君もまだまだ子どもだ」
 少しかすれたその声は、少年が『彼』よりも前を歩いて生きている証拠だ。ひどく痩せていて、青白くて、僕よりも背が低いけれども。その異様な肌の白さと、色素の飛んでしまった髪から、僕は少年のことを『しろいの』と呼んでいた。『おチビさん』と呼んでくる少年への意趣返しのつもりだ。
 しろいの率いるチームは、安全な餌場を確保していた。どこにでも野良猫に餌をやるのを生きがいとしている者はいる。
 しろいのは天国と地獄の境界線を見極めている。けしてあの子たちを危険な目に遭わせたりなんかしない。
 特別に大切な『あの子』は特に。
 明るい喧噪の中から、さっきの少女がこちらに向かって手を振る。手を振り返したりなんてしない癖に、溢れるほど愛情のこもった視線を送る。


 追い立てられる。昼間の僕は忙しい。今日一日生き抜くために、時間と体力と頭をうまく使って立ち回る。そんな毎日の中で、彼と、しろいの、二人との会話はささやかな清涼剤。
 しかし、彼の誘いも、しろいのからの勧誘も断る。
 僕は彼らとは違う。
 彼のように美しくもなければ、しろいのみたく賢くもない。
 いつも藪から睨むように昼間の世界を見ている。そのせいか、見なくともいいものに焦点が合ってしまったのだろう。
 観光客の為の泉になりながら、ぼんやりと佇む街中で、とある風景を見つけた。
 幸せの風景だ。
 芝生を敷いた庭ではためく洗濯物。そこから見え隠れするは、愛らしい我が子をあやす母親の姿。赤ん坊はよちよちと歩き、母親の胸に飛び込む。そこはどんな暖かさで、どんな香りがするのだろう。
 僕は、そこへ手を伸ばした。
 我慢できなくて、屋台から焼き立てのパンをくすねる時のように、洗濯物の一つを奪い取った。それは、赤ん坊の毛布だった。
 真っ白な毛布が街を駆け抜ける光景はそう珍しくはない。風のいたずらはどんな土地でだって起こるのだから。だけど、白い毛布と汚れた子どもという光景はあまりに目を引く。月の下でしか出会ったことのない彼に気づかれるほどに。
「きみ、一体どうしたの?」
 彼が目の前に立ちふさがるまで気づかなかった。雑踏の中で、僕らの周りにだけ不自然な空間ができたようだった。僕は自分の醜い姿を隠すように毛布を頭から被ってうずくまった。
 小さなパニックと、静かな恐怖がにじり寄ってくる。
「大丈夫? 具合でも悪いの?」
 彼の声はいつも通り優しい。だけど、その声に軽蔑の色が加わるのは時間の問題だ。姿だけでなく、心まで醜い僕を知ってしまっては。
「寒いの? ねえ、きみ」
「触らないで」
 視界の端に映った彼の手を避ける。毛布の隙間から、彼の手以外に知らない人々の足も見えた。皆が皆、僕らには無関心だった。トラブルの匂いは、観光客をも遠ざける。どうやら彼らは鼻がいい。
 そして、彼はそうじゃない。
「お願い、僕に構わないで」
「でも」
「僕のことを見ないで」
 そう懇願する僕を、簡単に見捨てていけるくらいなら、彼は真夜中にやってきたりはしない。しゃがんだままの僕の視界から外れたものの、まだ気配は消えない。柔らかいものが毛布越しに僕の頭に触れる。
「分かった。見ないよ、でも、聞かせて。きみはどうしてそんなに悲しそうなの?」
「悲しそうなんかじゃない」
 僕はささやくように答えた。行き交う人々の足音によって、あっという間にかき消されてしまうような声で。
 でも、彼は答えた。
「とても悲しそうだよ。今にも泣きそうに見える」
 僕は首を振った。
「僕は、泣いてはいない。泣いてはいけないんだ」
「どうして?」
「悪事を働いた人間が、泣くことを許されるような世界は訪れてはならないから」
 泣く権利は、本来善良な人間に与えられるべきものだ。
 そうではないから、この街も、世界も、ゴミに埋もれている。その筆頭は、きっと僕のような人間だ。
「悪事?」
「この毛布は盗んだものだ。赤ん坊と母親が庭にいた。僕は、その光景を奪った」
 だから、僕は泣いてはいけないとささやく。僕の声と共に、この悪事も風が攫ってくれればいいのに。
「そう。そうだね、だったら、きっと、ぼくも泣かない」
 彼がそう言って、僕の上から毛布が消えた。
「ぼくに任せて」
 彼は風のように走って行った。僕のことを一度も見ずに、白い毛布をはためかせて。
 フェルトの中折れ帽が僕の目の前に落ちてくる。僕は、自分の悪事をなかったことにしてはならないとでもいうように、その帽子を拾って自分の頭に乗せた。帽子の持ち主である紳士は手を引っ込め、口を曲げて去って行く。しらみでもうつされてはたまったものではないとでも言いたげに。
 僕は帽子を深く被って、顔を隠しながら、いつもの路地裏へと戻った。
「やあ、今日はおしゃれだね」
 しろいのが僕を見て笑う。僕は何も答えない。
「さっきの毛布よりもよく似合う」
 僕は驚いてしろいのを見た。いつもと同じようにダストボックスの上に鎮座している白い少年を。
「だって、君にとってのライナスの毛布は別にあるでしょ?」
 意味が分からない。僕はやはり何も答えなかった。
 その日の夜も、彼は何事もなかったかのようにやってきてお喋りをした。
「毛布? ああ、返したよ。風に飛ばされていたと言ったんだ。彼女は感謝していたよ」
 たいしたことでもないというように、彼は笑う。
 僕は聞きたかった。昼間の彼の言葉の理由を。
 でも聞けなかった。


 僕の日常の一部が、ある日突然変化した。
 しろいのが大切にしていた『あの子』が死んだ。
 ひどくあっけないのは、そのことが路上では日常茶飯事だからだ。ただ、しろいのの世界では違う。
 少年は壊れた。
 しろいのはいつも通り『あの子』に話しかけた。
 ダストボックスの上で、本を開きながら、まるで今もそこであの子が口を尖らせて文句でも言っているかのように、笑って、からかって、話を続けた。   
 チームの子猫たちは、徐々にしろいのから遠ざかり、そして、誰もしろいのに近づかなくなった。このささやかなホラーショーも、いつしか観光名所の一つとなるのだろうか。
「やあ」
 僕は狂った少年に近づいた。しろいのは、現実に対しては何の反応も示さない。
「彼女は元気?」
 ほんの少し顔を覗かせた意地悪な心が、僕にそう口走らせた。一瞬、少年の瞳が僕を捉えた。その目には、憐みの色が濃く映っていた。
 そして、少年はまた僕を視界から消した。今度は永遠に。
 僕は、少年との友情が壊れたことを理解した。


 そして、また真夜中がやってくる。彼を連れて。
「そろそろ、本当に見えなくなってるみたいだ」
 彼がそう切り出した。
「目?」
「そう。だから、病院に薬を取りに行かないといけないんだ。隣町まで」
「遠いね。でも、今街から出ようとするのは危なくない? デモに巻き込まれるよ」
「うん。だから、今から出発しようと思うんだ」
「今から? 真夜中だよ?」
 あまりに危険だと僕は止めるが、彼は首を縦には振らない。
「大丈夫だよ。だけど、朝までに帰ってくるのは無理だ。だから、ぼくが帰ってくるまでの間だけでいい。あの人についていてくれないか?」
「無理だよ。絶対にバレる」
「平気だよ。言っただろ? ぼくらは似てる。そして、あの人はよく見えていない。バレやしないさ。頼むよ。彼のそばにいて、お茶を淹れるだけでいい。ハーブの見分け方は教えただろ?」
 彼にしては珍しく強引だ。僕の両手を掴んで、真っ直ぐ目を見つめてくる。
「無理だ」
「大丈夫。ぼくを信じて」
 何の根拠もない。信じる方が馬鹿だ。それなのに、必死に頼み込んでくる彼を、めったに見ない強引な彼を、僕は信じてしまった。それほどまでに、おじいさんのことが心配なのだろうと。そう自分に言い聞かせて。
「分かった。でも、ほんの少しの間だ。それに、これっきりにして欲しい」
 これ以上顔を近づけられたくなくて、顔を見られたくなくて、僕は目を逸らそうとした。
 でも、この時。
 彼は、ありがとう、と微笑んで、さらに顔を近づけて、僕にキスをした。触れるだけの軽いキス。いつもの花の香りがした。麻痺しているはずなのに、ずっと強くまとわりつくように。
 ありがとう。彼はもう一度そう言って、僕に背を向けて駆けだした。
 僕は、いつも彼が消えて行く方向へと、ゆっくり歩きだした。何が起こったのか、何が起きようとしているのか、分からないまま。
 いつもの『僕』という『少年』の仮面を脱いで、『少女』の顔に戻って。
 この後、僕らはどうなったのか。
 結果から言うと、彼は戻らなかった。
 二度と。


 あの日、僕は朝方まで植物園で過ごした。おじいさんが起きて来るまで待つために。彼に教えてもらったハーブを摘むために。
 そこで、強く香る花を見つけた。彼と同じ香りの花を見つけた。彼から話を聞いていた危険な毒を持つ花を、見つけたんだ。
 僕は、彼に言われた通り、安全なハーブでお茶を淹れた。彼の言った通り、おじいさんは僕に気づかなかった。だけど、お茶の香りの違いには気づいたんだ。
 いつもより、香りが弱いね。おじいさんはそう言った。
 あの花は、悪臭の中でも分かるほどに、香りが強かった。
 彼は言っていた。
 学習した、と。花の中にはどんなにいい香りでも毒を持っているものもあるから、と。
 どうやって学習した? 
 答えは目の前にある。
 そして、彼は思いついたんだ。今回の作戦を。
 背丈がうんと伸びて、声が低くならないうちに決行しなければ、と。
『そのうちね。でも、今はそうじゃない』
 彼の澄んだ声が蘇る。
 彼は知っていた。
 僕に似ているのではなく、自分が『少女』に見えることを。
 だから、僕の『身代わり』になれることにも気が付いてしまった。路上では、子どもが突然いなくなる。奴らは僕らを商品として見ていて、いつも目を光らせている。
 僕が彼の香りに酔って、麻痺しているうちに、彼は危険を嗅ぎ取っていた。
 『僕』の仮面を見透かしている『危険』な者の香りを。
 おじいさんの身の回りの世話をする人がいる。そして、それは一人で十分だという僕の言葉に、彼は頷いた。
 彼は、僕にとってはとても善良だ。だけど、すごく残酷だ。
 おじいさんの光を奪い、僕に安全を与えた。
『そう。そうだね、だったら、きっと、ぼくも泣かない』
 彼は、あの時よりもずっと前から、泣かない覚悟をしていたんだ。
 彼が戻って来なくなってから、考えに考えて、ぐるぐる回って辿り着いた真実が、これだった。
 あの日、彼は僕の元から奪い去られてしまった。
 僕は、それからもおじいさんのそばに居続けた。彼との最後の約束だ。彼が戻ってくるまで、おじいさんのそばにいる。
 世界を恨みながら、僕はすっかりと少女になった。僕の声は低くはならない。肩まで伸びた髪を風が優しく撫でる。
 僕は、太陽の下を歩いていた。
 いつか、僕が毛布を被ってうずくまっていた場所へとやってきた。綺麗な服に身を包んで。そこに、一人の女性が倒れていた。どうやらすでに事切れているようだった。僕よりも上等な洋服を着て、コインのネックレスをつけている。
 平和な国の観光客だろうか。それとも、鼻の利かない住民か。強盗や浮浪者に、そういった人々が金だけでなく命も奪われてしまうのは稀ではない。
 ああ、なんだ。こんなにも立派な服を着た人間も、あっけなく死ぬのか。
 世界はなんて平等なのだろう。
 僕は人だかりを避けて、帰路へとつく。
 その途中で、とある家が目に入った。僕が毛布を盗んだあの家だ。
 あの時の赤ん坊は、少し成長して、やはりそこにいた。母親が、その赤ん坊の頬を張る。それが躾ではないことを、僕は即座に悟った。母親が始める恐怖のゲームの気配を、叩かれる前に赤ん坊は察知して怯えていた。
 まだまだ終わりそうにないそのゲームを見ながら、僕はその赤ん坊にエールを送った。
 生き抜け。
 どんなに今が地獄でも、君はいつか彼女より大きくなって、力も強くなる。そして、その時は、彼女は小さく老いているはずだ。
 そう、世界は驚くほど平等なのだから。

 夜になると、僕はあの場所へと出かける。
 優良なゴミ場に目をつけたやつは、何度も来る。だから、僕はそいつを見つけるために、毎晩赴く。そいつは、僕の縄張りから奪っていった。
 優良なゴミを。
 いや、善良で、残酷な、僕の光を。
 縄張りを荒らしたやつには報復を。それが路上で生きる者のルールだ。
 今夜も僕は向かう。あの穏やかな時間を失った、真夜中の戦場へと。
 覚悟を決めた少年兵のように。
 恐怖も、覚悟が揺らぐことも、絶対にない。
 だって、彼のいない世界に、未練などないのだから。
しおりを挟む

処理中です...