SCRAP【完結】

Lucas

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第4話

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 タバコのように、彼らは僕を捨てた。
 まだ灰を落とす必要もないし、火もついていたのに。
 僕らは捨てられた。この路上に。熱い体は、冷たい道に打ちつけられたけども、灰のように散ってはしまわなかった。僕らはいまだここで生きている。
 一人になってはいけない。路上にはいつだってスプリ―キラーが潜んでいて、僕たちのような子どもを狙っている。だから、僕らは弱い者同士でコミュニティーを形成した。
 他の子どもたちのように、盗みを働いたりなんてしない。いつか世界がよりよくなった時のために、僕らなりに、品行方正に。
 観光客の荷物持ち、ガイド、それから花を売るのなんていいかも知れない。綺麗な花でなくてもいいんだ。売る人間が、どれほど幼く、憐れなのかが重要だ。善行に飢えた人間ならそこら中にいる。
 僕らのささやかなチームの中に、一際明るい少女がいた。僕よりも、一つか二つは幼いが、とても活発で愛らしい少女だった。幼いとはいえ、チームの中ではお姉さんだ。いつだって、チビたちの面倒をみて、全力で遊びにも打ち込んでいた。
 無邪気で、尊い存在だった。
 僕は、生まれつき肌も髪も異様に白く、誰がどう見ても不気味で。だから、彼らを統率しつつも、いつも距離を置いていた。異形の子どもは、善意の人間を遠ざけてしまうだろう。


「そんなことない。あなたは素敵よ。それに、とても頭がいい」
 一人の女性がそう言った。とても優しい女性だ。
 いつだったか、庭先を通りかかった僕を呼び止め、一枚のコインをくれた。ちょっとした一日の善行だったのかも知れない。その翌日には、一冊の本をくれた。
「世界が広がるわ」
 彼女はそう言った。
 確かにその通りだった。僕の知識はどんどん増え、世界は広がっていった。庭の花壇で草むしりをしていた彼女に「それはハーブだよ」と教えてあげると「雑草と見分けがつかない」と口を尖らせた。大人なのに子どものように純粋で、善良な人間らしくひどく無知だった。
 ほんの気まぐれの善意だったのかもしれない。だけど、僕らはどんどん親しくなった。
「どうしてコインを首から下げてるの?」
「いつでも祈りを捧げられるように」
 コインのネックレスには聖母が刻まれていた。まるで、彼女のようだと思った。


「本なんか役に立たないじゃん」
 それがあの子の口癖だった。食べられないものに価値などない。おいしいものと平和な遊びを愛する小人たちは、僕の話に聞く耳なんて持っちゃいないのだ。
「いつか、君たちが屋根の下で暮らせるような未来がきた時に、字が読めることはとても役に立つはずだよ。それに知恵だって必要になる」
 読み聞かせは彼らにとって子守歌と変わらない。今日も僕の授業は無駄に終わる。
 特にあの子は、僕の授業を嫌った。
「退屈。つまんない」
 その子の口から出る言葉は、僕を深く傷つけた。
 暗く、重い気持ちが積み重なる。それは、だんだん高くなり、ふとした時に雪崩を起こすんだ。そして、僕の育んできた友情を壊すことになる。


「今日はこれなんかどうかしら? とっても面白いのよ」
 彼女はそう言って、一冊のコミックを僕に差し出した。
「へえ、たしかに最高だ。犬が喋ってるとは。まだまだ僕の知らない世界もあるものだね」
 ページをパラパラとめくって肩をすくめる。僕の不機嫌を敏感に察知した彼女は、優しい聖母の手を差し伸べてきた。
「どうしたの? なにか嫌な事でもあった?」
「さあ? 家も家族も持たないこと以外で?」
「ねえ、お願い。辛いことがあるなら話して」
 その瞬間、雪崩が起きる。
「辛いこと? それって話せば楽になる? この不幸から救われる? だったら僕は歩くスピーカーにでもなるよ」
 街はデモ活動の真っ最中。僕は彼らを指さした。
「あの人たちのようにプラカードでも持とうか? 何か変わる? それで何が満たされる? あなたの自尊心以外に」
 この時の、彼女の悲しい瞳を、僕は生涯忘れない。
 彼女を悲しみの谷に突き落とした後、僕は逃げるようにその場から去った。
 善きラビを、僕は失った。
 でもこれでいいんだ。彼女のような人は僕らに関わらず、太陽の下で生きていくべきなんだ。その日以降、僕らは出会うことはなかった。僕の手元には、たった一冊のコミックが残った。


「いつもよりつまんない顔してるなあ」
 そう言いつつも、その子は僕の側から離れない。チラチラとコミックを覗き見ている。
「読みたい?」
「べっつにー」
 文字だらけの本よりも興味を示しているのは確かだ。可愛らしい犬のイラストのとりこになっている。そんな少女を見ていると、自然と顔が綻んでいくのが分かる。
「君は、いっつも遊んでばかりだね」
「そうかな?」
「そうだよ。少しは未来のことも考えようよ。知識を増やすことは遊ぶことよりも役立つ」
 いつもなら怒りだす少女が、その時は眩しい笑顔を見せた。目の眩むような。気持ちがぐらつくような。
「遊ぶのだって役に立つよ。うん。遊んでっと楽しいじゃん。もしもの時も、そうじゃない時も、楽しい気持ちや、楽しい思い出がまったくないのはやだよ、あたし」
 いや、違う。目の覚めるような笑顔だ。
「今楽しんだり、思い出作るのも、あたしらには必要だ。だろ? だって、明日はもう笑えないかもしれない。頑張らなきゃ、もしもの時もそうじゃない時も、生きていけない」
 もしもの時。
 そう、僕らの隣には常に死神がいる。
 能天気に見えた少女は、僕よりもしっかりと現実に目を向けていた。今、この時を懸命に生き抜くために。
 来るかどうか分からない未来に想いを馳せる僕とは違って、もしもの時を覚悟しながら、それでもこの子は笑っていたんだ。
 今日一日を、悔いなく生きること。そして、甘い幻想を抱かないこと。この子はそんなことを考えていた。誰よりも世界が残酷なことを知っているから。
 僕は、思わずその小さな体を抱きしめた。少女は、とても暖かかった。まだ火は消えていない。命のある体だ。
「……どうした? 泣いてる?」
 くしゃくしゃと僕の頭を撫でてくる少女が、どうしようもなく愛おしくて、尊くて、本当に泣き出しそうになってしまった。
「泣いてないよ」
「うん、泣くなよ」
「泣いてないってば」
 さらにきつく抱きしめると、少女もぎゅうっとしがみついてきた。どうしてこの強さに気づかなかったのだろう。僕は、心に誓う。この子は何があっても守り抜こうと。僕の中の小さな神様に祈った。どうか、もしもの時など訪れませんように。
 絶対に僕が守ってみせる。
 どんなことをしてでも、この子を生かし続けてみせる。
 必ず。

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