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君が幸せになりうる世界
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空襲を知らせるサイレンも、町を、住まいを、命を守るためにやってきた防空演習も、もう意味を成していなかった。突如、雨のように降り注いだ焼夷弾は、あっという間に俺たちの町を火の海に変えてしまったのだ。
逃げる以外に手段は残されておらず、かと言って避難できる場所なんてどこにもない。それでも火の手から逃れようと、俺は走った。右の義足を引きずり、飛んできた瓦で頭を打って意識を失った藍を背負いながら、俺は必死で走り続けた。
「川だ! みんな、川の方へ向かえ!」
どこからともなく聞こえた叫び声が、唯一の羅針盤だった。
「藍、大丈夫だからな! もうすぐ川に着く、そしたら……そしたら助かるから」
ぐったりと背中にもたれ掛かる彼女からは、反応はない。だがまだその体から感じる温かさを信じ、俺は息を切らせながらも声を掛け続けた。
ようやくたどり着いた川に、人々は迷うことなく飛び込んでいく。が、そこは猛火が生み出す灼熱地獄から守ってくれる場所ではなかった。
「助けてくれ……!」
川面からこちらに手を伸ばし、喘ぐように叫ぶ男性。炎の明るさによって照らし出されたその表情は引きつり、膚色は血の気を失って真っ白になっている。
暦の上では春だが、気候はまだまだ冬のそれと遜色ない。川の水も当然の如く凍てつく冷たさなのだろう。
「頼む、だれか……!」
その男性は、後から追いついた幾つかの黒い流木に押されるようにしてどんどん下流へと流れて行ってしまい、いつしか声は耳に届かなくなった。
迫る炎をやり過ごすには川に入るしか方法はない。だが安易に飛び込めば、さっきの人のように凍えて溺れてしまうかもしれない。分厚い防火服が水を吸って重くなれば、殊更体は思うように動かないだろう。
「くそ、どうすれば……」
その時だった。背後から、ドン、というひときわ大きな音が鳴り響いたのだ。どうやら近くの工場のガスか何かに引火して爆発が起きたらしく、まだ少し距離があったはずの火の端が俺たちのすぐ背後まで押し寄せてきた。
迷っている暇はない。このままここでウロウロしていたら焼け死んでしまうのは目に見えている。
俺はいったん藍を川の土手に下ろすと、防火服を脱いだ。少しでも体を軽くして、溺れる可能性を低くしようと考えての行動だった。
「すまん、藍。寒いかもしれないが、ちょっと我慢してくれよ」
藍を前に抱え上げ、そっと川に足を浸す。尋常じゃない程の冷たさがそこから全身に伝わったが、俺は細く息を吐きながらゆっくりと川の中ほど、足の届くところまで歩を進めていく。冷たい、どころの話ではない。痛いのだ。水流はまるで全身を刺すようで、俺は思わず息を詰まらせた。
「く、そっ……」
とにかく生命活動を止めないようにと、残った息を無理やりに吐き出してから新しい空気を肺へねじ込んでいく。そうしながらも片手で藍を支え、義足の金具を緩めると、ソケット部分から足を引き抜いた。陸上では大いに頼りになったこいつも、水の中では無用の長物どころか足かせにしかならない。
軽くなった両足と片手を必死に動かして、流れに沿うようにして泳いでいく。火勢の弱いところに早く行きつきたかった。ここより更に下流に行けば避難できる場所が見つかるはず、根拠もなくそんなことを考えながら、まるで呪文のように、大丈夫だから、きっと助かるから、と呟き続けた。
「なんだ、あれ……」
目を凝らして流れの先を見据える。黒い塊が川底の岩か何かにひっかかっているようで、それを避ける形で新たな水流が発生していた。恐らくさっき男性を押し流していった流木と同じようなものだろうと思い、俺はそちらへ引き込まれないように手で水をかいて進路を少しずらした。
その塊の横を通り過ぎた瞬間、再び近くで爆発音が響いた。ひときわ明るく辺りが照らし出され、熱風が水面を激しく撫でつけたその直後。
「……!」
俺の目の前に黒い塊の一部が流れてきた。それが流木なんかではなく焼け焦げた人間の死体だと分かった瞬間、俺は戦慄を覚えて声にならない悲鳴を上げた。
辺りをよく見れば同じものが俺達を囲うように幾つも水面に浮かんでおり、どれもみな同じスピードで流れている。
「なんだよ、どうなってんだ……」
寒さからくるものではない震えが全身を這いずり回っている。そちらに気を取られた、ほんの一瞬のことだった。
「しまった! ……藍!」
絶対に離すまいと常に意識を向けていた手はいつの間にか緩んで開いており、俺の制御を失った藍の体はあっという間に俺の手の届かないところへと流れてしまっていた。
「藍! 待て、行かないでくれ!」
必死で水をかき分け、追いつこうと試みる。だが、体の震えが邪魔をしてうまく前に進めない。しかも爆炎が川の土手ぎりぎりまで迫ってきたせいで、川面から出ている体がその熱に耐えきれなくなってしまった。
「ぐっ……!」
一旦水中に潜ろうとして勢いよく吸い込んだ灼熱の空気が、俺の喉と肺を焼いた。酸素を求めてパクパクと口を動かすが、俺の呼吸器官は焼けただれて使い物にならなくなったようだった。熱風が皮膚を削っている。髪が燃えているのが分かる。もう目も見えなくなって、体のどの部分も動かせなくなった時、俺の心に強い思いが浮かんだ。
頼む、何でもする。だから誰か、藍を助けてほしい。
俺の手を離れて黒い濁流に飲まれていったあの姿が最後だなんて、そんなことがあってたまるか。藍は幸せにならなきゃいけない。俺のことはどうでもいい、だけど藍は、藍だけは……!
「願いを叶えてあげようか」
凛とした少女の声が、耳に響いた。その瞬間、息苦しさも痛みも寒さも熱さも感じなくなり、意識だけがふわりと浮き上がったような感覚に囚われた。
「私の望むものを集めて。そうしたら、あなたの願いを叶えてあげる」
その声に答えようと口を開きかけて、今の自分には口がないことに気付く。願いというのは何でもいいのだろうか、藍を助けることはできるのか、と考えた次の瞬間、
「時間を止めることならできるけど、戻すことはできないんだ。だから、死んだあの子を蘇らせるのは不可能だよ」
そんな答えが返ってきた。
どうやら俺の考えたことは、その声の主には聞こえているらしかった。
――藍は、死んだのか
「……うん。あなたが川に入る直前に」
――それなら水の冷たさに凍えることも、熱風に焼かれる痛みを味わうこともなかったんだな
「そう、だね。私がこんな風に言っても、あなたの心が救われるとは思わないけれど……少なくともあの子は大好きな人の背中で、安らかに眠ることができたはず」
――……
「ごめんね、あなたが本当に願っていることは叶えられない。でも、あの子が幸せに暮らすかもしれない時間軸をあなたにあげることはできる」
――どういうことだ?
「あの子があなたを選ばなかった世界。それを丸ごとあなたにあげる。これまでのようにあの子に触れられない代わりに、私の使いの者としてその行く末を見届けることはできるよ」
――そこでは藍は、幸せになれるのか
「分からない。でも、あなたは信じているんでしょう? 自分を選ばなければ、彼女は幸せになれたはずだって」
――……俺は、何をすればいい
「私の望みを受け入れてくれるの?」
――受け入れる。何でもする。だから……
「ありがとう。それじゃ……あなたの本来の体と名前は私が預かるから、代わりに新しいものをあげる。使命を果たすまでに寿命で死なないよう、新しい体の一部は時間を止めておくから」
――分かった。……俺も、ありがとう、と言うべきなのかな
「ふふっ、それは任せるよ。あと、あなたにあげる世界の時間も止めておくね。あなたが役目を終えた時、あの子は既に死んでいましたなんてことになったら申し訳ないもの」
――そうだな、よろしく頼む
「こちらこそ、よろしくね。1つ目を見つけたら、また会いに行くよ」
声はそこで途切れた。俺は真っ白だか真っ黒だかも分からない、この”場所”と呼べるかどうかも定かでないところに一人残されたが、不思議と恐怖心や不安は感じなかった。
藍が幸せになり得る世界。そんなもの、本当にあるのだろうか。それを「あげる」なんて簡単に言ってしまえるあの声の主は、神様か何かなんだろうか。俺がその使いの者だというなら、俺は天使になるんだろうか。どんな形で藍の人生を見届けられるのか、本来の俺という存在はどうなってしまうのか。あらゆる束縛から解放されたような心地よい浮遊感が続く中、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
次、あの声の主に会ったら色々と聞いてみよう。それにはまず1つ目を見つけて……いや、ちょっと待て。俺は何を探せばいいんだ。1つ目ってことは、2つ目3つ目があるってことか?
肝心なところを確認し忘れたことに気付いた瞬間、俺は何かの大きな流れに乗るのを感じた。そのスピードが上がるにつれて浮遊感はなくなり、重力はどんどん増していく。
――ああ、そうだった。生きるのって、重たかったんだ。
不愉快なこの重みが肉体のそれであることをはっきり認識できた時、俺はゆっくりとまぶたを押し上げた。
「やっと起きたか、キイチ!」
見慣れない薄汚れた天井から声のした方へと視界を動かすと、そこには見たことのない初老の男性がいて、俺のことを必死の形相で覗き込んでいた。
「ここは……」
「軍の病院だ。お前、艦から落ちたところを運よく助けられてここに運ばれたんだよ」
体を起こして辺りを見渡す。病室には俺以外にも何人かがいて、みんなどこかしらに包帯を巻かれて静かに横たわっていた。
キイチ、というのはどうやら俺のことらしく、その人は、良かった良かった、きいっちゃん、と俺の肩をぽんぽんと叩きながらむせび泣いていた。
「すいません、あの……あなたは」
「なんでぇ、よそよそしい物言いしやがってよう! さんざん世話になった向かいのおっちゃんのこと、忘れちまったってのか?」
「……ごめんなさい。俺、思い出せなくて」
くらくらする頭を抱えながらそう答えると、その人は愕然とした表情を浮かべて今度はさっきと違う涙を流し始めた。
「そうか、そうか……気の毒になあ……。だが命あっての物種って言うだろ? こんなこと言うと非国民だと思われるかもしれねぇが、生きて戦地から帰って来てくれたってだけでおっちゃんは充分うれしい。ヒサちゃんはお国の為に死んでこいなんて言ってお前を見送ってたが、きっと俺と同じ気持ちで迎えてくれるはずだよ」
「……」
ヒサちゃん、というのが一体誰のことなのか分からない。俺は曖昧な表情を浮かべて首を傾げた。
「自分のかあちゃんのことまで忘れたか。本当に……戦争なんてものは何もかもを奪っていきやがる」
「……すみません」
「お前が謝る事じゃねえ。若者の未来をつぶすような道を選んだ、この国がすべて悪いんだ」
憲兵が聞き耳を立てているかもしれない軍病院という場所にもかかわらず、その人は彼の生還を喜び、不遇を嘆いて怒りを露わにした。こういった言動が反軍的行為として見做されてしまうのは分かっていても、吐き出さなければ気持ちが収まらなかったんだろう。
「とにかく、今はゆっくり体を休めて養生することだけ考えろ。なあに、心配するな。記憶に障害があると分かれば、軍はお前を戦地に戻したりはしねえだろうさ」
「……」
「心配するなって言ってんだろ? お前が隊を外されて帰ってきたって、誰も咎めやしねえよ。集落に男手が戻って来たってんで皆大喜びすらぁな」
顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに話すその人の様子を見ている内に、俺はだんだん申し訳ない気持ちになった。
「……俺、帰れません」
「何度も言わせんなよ。なーんも心配ねえって」
「だって俺、キイチじゃない。自分の元の姿も名前ももう思い出せないけれど、俺は俺でしかないんだ。だから、だから……」
口をついて飛び出したそれが真実であったとしても、こんな突拍子もない言動なんて信じてもらえるわけはない。きっと、混乱して意味不明なことを言っている、くらいにしか受け止められなかっただろう。
それでもその人は、さっきと変わらない嬉しそうな表情で俺を穏やかに見つめながら、俺の頭にそっと手を置いた。
「たとえ別人だったとしても、構やしねえ。命が一つ無事に帰ってきたっていう事実は変わらねえよ。今までのことなーんも覚えてなくたってよ、これからまたみんなで新しい思い出を作ってきゃいいんだ、なあ、きいっちゃん」
その言葉が、何故かその時の俺の心に重く響いたことをよく覚えている。胸の奥からせりあがってきた言葉にならない感情を抑えることができず、俺は見も知らぬその人に肩を抱かれながら、声を上げて泣いた。
逃げる以外に手段は残されておらず、かと言って避難できる場所なんてどこにもない。それでも火の手から逃れようと、俺は走った。右の義足を引きずり、飛んできた瓦で頭を打って意識を失った藍を背負いながら、俺は必死で走り続けた。
「川だ! みんな、川の方へ向かえ!」
どこからともなく聞こえた叫び声が、唯一の羅針盤だった。
「藍、大丈夫だからな! もうすぐ川に着く、そしたら……そしたら助かるから」
ぐったりと背中にもたれ掛かる彼女からは、反応はない。だがまだその体から感じる温かさを信じ、俺は息を切らせながらも声を掛け続けた。
ようやくたどり着いた川に、人々は迷うことなく飛び込んでいく。が、そこは猛火が生み出す灼熱地獄から守ってくれる場所ではなかった。
「助けてくれ……!」
川面からこちらに手を伸ばし、喘ぐように叫ぶ男性。炎の明るさによって照らし出されたその表情は引きつり、膚色は血の気を失って真っ白になっている。
暦の上では春だが、気候はまだまだ冬のそれと遜色ない。川の水も当然の如く凍てつく冷たさなのだろう。
「頼む、だれか……!」
その男性は、後から追いついた幾つかの黒い流木に押されるようにしてどんどん下流へと流れて行ってしまい、いつしか声は耳に届かなくなった。
迫る炎をやり過ごすには川に入るしか方法はない。だが安易に飛び込めば、さっきの人のように凍えて溺れてしまうかもしれない。分厚い防火服が水を吸って重くなれば、殊更体は思うように動かないだろう。
「くそ、どうすれば……」
その時だった。背後から、ドン、というひときわ大きな音が鳴り響いたのだ。どうやら近くの工場のガスか何かに引火して爆発が起きたらしく、まだ少し距離があったはずの火の端が俺たちのすぐ背後まで押し寄せてきた。
迷っている暇はない。このままここでウロウロしていたら焼け死んでしまうのは目に見えている。
俺はいったん藍を川の土手に下ろすと、防火服を脱いだ。少しでも体を軽くして、溺れる可能性を低くしようと考えての行動だった。
「すまん、藍。寒いかもしれないが、ちょっと我慢してくれよ」
藍を前に抱え上げ、そっと川に足を浸す。尋常じゃない程の冷たさがそこから全身に伝わったが、俺は細く息を吐きながらゆっくりと川の中ほど、足の届くところまで歩を進めていく。冷たい、どころの話ではない。痛いのだ。水流はまるで全身を刺すようで、俺は思わず息を詰まらせた。
「く、そっ……」
とにかく生命活動を止めないようにと、残った息を無理やりに吐き出してから新しい空気を肺へねじ込んでいく。そうしながらも片手で藍を支え、義足の金具を緩めると、ソケット部分から足を引き抜いた。陸上では大いに頼りになったこいつも、水の中では無用の長物どころか足かせにしかならない。
軽くなった両足と片手を必死に動かして、流れに沿うようにして泳いでいく。火勢の弱いところに早く行きつきたかった。ここより更に下流に行けば避難できる場所が見つかるはず、根拠もなくそんなことを考えながら、まるで呪文のように、大丈夫だから、きっと助かるから、と呟き続けた。
「なんだ、あれ……」
目を凝らして流れの先を見据える。黒い塊が川底の岩か何かにひっかかっているようで、それを避ける形で新たな水流が発生していた。恐らくさっき男性を押し流していった流木と同じようなものだろうと思い、俺はそちらへ引き込まれないように手で水をかいて進路を少しずらした。
その塊の横を通り過ぎた瞬間、再び近くで爆発音が響いた。ひときわ明るく辺りが照らし出され、熱風が水面を激しく撫でつけたその直後。
「……!」
俺の目の前に黒い塊の一部が流れてきた。それが流木なんかではなく焼け焦げた人間の死体だと分かった瞬間、俺は戦慄を覚えて声にならない悲鳴を上げた。
辺りをよく見れば同じものが俺達を囲うように幾つも水面に浮かんでおり、どれもみな同じスピードで流れている。
「なんだよ、どうなってんだ……」
寒さからくるものではない震えが全身を這いずり回っている。そちらに気を取られた、ほんの一瞬のことだった。
「しまった! ……藍!」
絶対に離すまいと常に意識を向けていた手はいつの間にか緩んで開いており、俺の制御を失った藍の体はあっという間に俺の手の届かないところへと流れてしまっていた。
「藍! 待て、行かないでくれ!」
必死で水をかき分け、追いつこうと試みる。だが、体の震えが邪魔をしてうまく前に進めない。しかも爆炎が川の土手ぎりぎりまで迫ってきたせいで、川面から出ている体がその熱に耐えきれなくなってしまった。
「ぐっ……!」
一旦水中に潜ろうとして勢いよく吸い込んだ灼熱の空気が、俺の喉と肺を焼いた。酸素を求めてパクパクと口を動かすが、俺の呼吸器官は焼けただれて使い物にならなくなったようだった。熱風が皮膚を削っている。髪が燃えているのが分かる。もう目も見えなくなって、体のどの部分も動かせなくなった時、俺の心に強い思いが浮かんだ。
頼む、何でもする。だから誰か、藍を助けてほしい。
俺の手を離れて黒い濁流に飲まれていったあの姿が最後だなんて、そんなことがあってたまるか。藍は幸せにならなきゃいけない。俺のことはどうでもいい、だけど藍は、藍だけは……!
「願いを叶えてあげようか」
凛とした少女の声が、耳に響いた。その瞬間、息苦しさも痛みも寒さも熱さも感じなくなり、意識だけがふわりと浮き上がったような感覚に囚われた。
「私の望むものを集めて。そうしたら、あなたの願いを叶えてあげる」
その声に答えようと口を開きかけて、今の自分には口がないことに気付く。願いというのは何でもいいのだろうか、藍を助けることはできるのか、と考えた次の瞬間、
「時間を止めることならできるけど、戻すことはできないんだ。だから、死んだあの子を蘇らせるのは不可能だよ」
そんな答えが返ってきた。
どうやら俺の考えたことは、その声の主には聞こえているらしかった。
――藍は、死んだのか
「……うん。あなたが川に入る直前に」
――それなら水の冷たさに凍えることも、熱風に焼かれる痛みを味わうこともなかったんだな
「そう、だね。私がこんな風に言っても、あなたの心が救われるとは思わないけれど……少なくともあの子は大好きな人の背中で、安らかに眠ることができたはず」
――……
「ごめんね、あなたが本当に願っていることは叶えられない。でも、あの子が幸せに暮らすかもしれない時間軸をあなたにあげることはできる」
――どういうことだ?
「あの子があなたを選ばなかった世界。それを丸ごとあなたにあげる。これまでのようにあの子に触れられない代わりに、私の使いの者としてその行く末を見届けることはできるよ」
――そこでは藍は、幸せになれるのか
「分からない。でも、あなたは信じているんでしょう? 自分を選ばなければ、彼女は幸せになれたはずだって」
――……俺は、何をすればいい
「私の望みを受け入れてくれるの?」
――受け入れる。何でもする。だから……
「ありがとう。それじゃ……あなたの本来の体と名前は私が預かるから、代わりに新しいものをあげる。使命を果たすまでに寿命で死なないよう、新しい体の一部は時間を止めておくから」
――分かった。……俺も、ありがとう、と言うべきなのかな
「ふふっ、それは任せるよ。あと、あなたにあげる世界の時間も止めておくね。あなたが役目を終えた時、あの子は既に死んでいましたなんてことになったら申し訳ないもの」
――そうだな、よろしく頼む
「こちらこそ、よろしくね。1つ目を見つけたら、また会いに行くよ」
声はそこで途切れた。俺は真っ白だか真っ黒だかも分からない、この”場所”と呼べるかどうかも定かでないところに一人残されたが、不思議と恐怖心や不安は感じなかった。
藍が幸せになり得る世界。そんなもの、本当にあるのだろうか。それを「あげる」なんて簡単に言ってしまえるあの声の主は、神様か何かなんだろうか。俺がその使いの者だというなら、俺は天使になるんだろうか。どんな形で藍の人生を見届けられるのか、本来の俺という存在はどうなってしまうのか。あらゆる束縛から解放されたような心地よい浮遊感が続く中、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
次、あの声の主に会ったら色々と聞いてみよう。それにはまず1つ目を見つけて……いや、ちょっと待て。俺は何を探せばいいんだ。1つ目ってことは、2つ目3つ目があるってことか?
肝心なところを確認し忘れたことに気付いた瞬間、俺は何かの大きな流れに乗るのを感じた。そのスピードが上がるにつれて浮遊感はなくなり、重力はどんどん増していく。
――ああ、そうだった。生きるのって、重たかったんだ。
不愉快なこの重みが肉体のそれであることをはっきり認識できた時、俺はゆっくりとまぶたを押し上げた。
「やっと起きたか、キイチ!」
見慣れない薄汚れた天井から声のした方へと視界を動かすと、そこには見たことのない初老の男性がいて、俺のことを必死の形相で覗き込んでいた。
「ここは……」
「軍の病院だ。お前、艦から落ちたところを運よく助けられてここに運ばれたんだよ」
体を起こして辺りを見渡す。病室には俺以外にも何人かがいて、みんなどこかしらに包帯を巻かれて静かに横たわっていた。
キイチ、というのはどうやら俺のことらしく、その人は、良かった良かった、きいっちゃん、と俺の肩をぽんぽんと叩きながらむせび泣いていた。
「すいません、あの……あなたは」
「なんでぇ、よそよそしい物言いしやがってよう! さんざん世話になった向かいのおっちゃんのこと、忘れちまったってのか?」
「……ごめんなさい。俺、思い出せなくて」
くらくらする頭を抱えながらそう答えると、その人は愕然とした表情を浮かべて今度はさっきと違う涙を流し始めた。
「そうか、そうか……気の毒になあ……。だが命あっての物種って言うだろ? こんなこと言うと非国民だと思われるかもしれねぇが、生きて戦地から帰って来てくれたってだけでおっちゃんは充分うれしい。ヒサちゃんはお国の為に死んでこいなんて言ってお前を見送ってたが、きっと俺と同じ気持ちで迎えてくれるはずだよ」
「……」
ヒサちゃん、というのが一体誰のことなのか分からない。俺は曖昧な表情を浮かべて首を傾げた。
「自分のかあちゃんのことまで忘れたか。本当に……戦争なんてものは何もかもを奪っていきやがる」
「……すみません」
「お前が謝る事じゃねえ。若者の未来をつぶすような道を選んだ、この国がすべて悪いんだ」
憲兵が聞き耳を立てているかもしれない軍病院という場所にもかかわらず、その人は彼の生還を喜び、不遇を嘆いて怒りを露わにした。こういった言動が反軍的行為として見做されてしまうのは分かっていても、吐き出さなければ気持ちが収まらなかったんだろう。
「とにかく、今はゆっくり体を休めて養生することだけ考えろ。なあに、心配するな。記憶に障害があると分かれば、軍はお前を戦地に戻したりはしねえだろうさ」
「……」
「心配するなって言ってんだろ? お前が隊を外されて帰ってきたって、誰も咎めやしねえよ。集落に男手が戻って来たってんで皆大喜びすらぁな」
顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに話すその人の様子を見ている内に、俺はだんだん申し訳ない気持ちになった。
「……俺、帰れません」
「何度も言わせんなよ。なーんも心配ねえって」
「だって俺、キイチじゃない。自分の元の姿も名前ももう思い出せないけれど、俺は俺でしかないんだ。だから、だから……」
口をついて飛び出したそれが真実であったとしても、こんな突拍子もない言動なんて信じてもらえるわけはない。きっと、混乱して意味不明なことを言っている、くらいにしか受け止められなかっただろう。
それでもその人は、さっきと変わらない嬉しそうな表情で俺を穏やかに見つめながら、俺の頭にそっと手を置いた。
「たとえ別人だったとしても、構やしねえ。命が一つ無事に帰ってきたっていう事実は変わらねえよ。今までのことなーんも覚えてなくたってよ、これからまたみんなで新しい思い出を作ってきゃいいんだ、なあ、きいっちゃん」
その言葉が、何故かその時の俺の心に重く響いたことをよく覚えている。胸の奥からせりあがってきた言葉にならない感情を抑えることができず、俺は見も知らぬその人に肩を抱かれながら、声を上げて泣いた。
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