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女神の祝福
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宵闇にそびえ立つ15階建てマンションを見上げ、俺は大きく息をひとつついた。
天気予報は晴れ時々曇り。いまは曇りが優勢であるのか、雲が月を覆っている。
『どうだ、キイチ。いけそうか』
インカムから聞こえたしゃがれ声に、俺は、いや、と答えた。
「雲の流れが遅すぎる。風がないのは有難いが、月が顔を出してくれないことには――」
俺がそう言った途端、雲の隙間から月光が差し込み始めた。
『……どうした? 急に黙り込んで』
「寛治さんがいつも言ってる現象、いま起きたわ」
『女神が天の使いを甘やかしてる、ってやつか。雲が晴れたんだな』
晴れた、とまではいかない。まだらにできた雲間から、何とか顔をのぞかせている、という感じだ。
これはたぶん、急いだ方がいいだろう。
そう判断した俺は、クライミングシューズの靴ひもを締め直してから、各ギアの確認作業に入った。
リュックから伸びるロープは、腰に装着したハーネスにエイトノットで固定されている。その結び目近くを強く引っ張り、外れないことを確認してから、腰にぶら下げたバッグに両手を交互に入れてチョークボールを軽く揉んだ。手を合わせてはたき、余計な粉を落としてから上を見上げる。工具とロープの先が入ったリュックの位置を整え、軽く握った右手に強く息を吹きかけた。
「じゃ、行ってくる」
『おう。女神のご加護を』
屋上へ向かって伸びる雨水用パイプに手を当て、目を閉じる。自らに賜与された“女神からの祝福”を、そのパイプ全体に分け与えるイメージをした直後、俺は一気にそれを登り始めた。
一定間隔でパイプを固定している金具、いわゆる“でんでん”に手や足をかけて垂直に飛び上がりながら、ぐいぐいと上へと登っていく。
俺は細身な方ではあるが、それなりに筋肉は付けている。俺くらいの体重がかかれば、この乱暴ともいえる動きと相まって、パイプはすぐに折れるなりなんなりするだろう。それでもパイプは動かない。
がたつきも発生せずまるで時を止めたかのようであるのは、俺の“不老不死”のコピーが、一時的にこのパイプに移されているからだ。
「あと半分!」
自分を鼓舞するように声を上げ、さらに上を目指す。目的の場所はこのマンションの最上階にある角部屋。いま登っているパイプはベランダのある壁に設置されているが、俺が用があるのはベランダではなく、違う壁面にあるはめ殺しの小さな窓だ。
パイプの一番上まで到着したら、クイックドローを雨どいに固定する。そこにロープを通してから、屋上には登り切らずにわずかに出ている庇に指をかけてぶら下がり、そのまま沿うように横に移動していく。目標のはめ殺し窓めがけて一旦落下し、窓と同じ高さのところでちょうど発動するよう、ロープの一部にも祝福を移して……
「……!」
月がかげったのを感じた俺は、動きを止めた。不老不死の祝福とは違い、肉体の損傷を一切許さない“鋼の鎧”は満月の光の元でしか発動しない。今のように月光が遮られてしまった状態でこの高さから落下すれば、死にはしないものの、かなりの重傷を負うことになってしまう。
怪我をしてチャンスを逃すなんて、そんなダサイ展開を許すわけにはいかない。
俺はパイプにしがみつき、月が再び顔をのぞかせる時が来るのを待った。
天気予報は晴れ時々曇り。いまは曇りが優勢であるのか、雲が月を覆っている。
『どうだ、キイチ。いけそうか』
インカムから聞こえたしゃがれ声に、俺は、いや、と答えた。
「雲の流れが遅すぎる。風がないのは有難いが、月が顔を出してくれないことには――」
俺がそう言った途端、雲の隙間から月光が差し込み始めた。
『……どうした? 急に黙り込んで』
「寛治さんがいつも言ってる現象、いま起きたわ」
『女神が天の使いを甘やかしてる、ってやつか。雲が晴れたんだな』
晴れた、とまではいかない。まだらにできた雲間から、何とか顔をのぞかせている、という感じだ。
これはたぶん、急いだ方がいいだろう。
そう判断した俺は、クライミングシューズの靴ひもを締め直してから、各ギアの確認作業に入った。
リュックから伸びるロープは、腰に装着したハーネスにエイトノットで固定されている。その結び目近くを強く引っ張り、外れないことを確認してから、腰にぶら下げたバッグに両手を交互に入れてチョークボールを軽く揉んだ。手を合わせてはたき、余計な粉を落としてから上を見上げる。工具とロープの先が入ったリュックの位置を整え、軽く握った右手に強く息を吹きかけた。
「じゃ、行ってくる」
『おう。女神のご加護を』
屋上へ向かって伸びる雨水用パイプに手を当て、目を閉じる。自らに賜与された“女神からの祝福”を、そのパイプ全体に分け与えるイメージをした直後、俺は一気にそれを登り始めた。
一定間隔でパイプを固定している金具、いわゆる“でんでん”に手や足をかけて垂直に飛び上がりながら、ぐいぐいと上へと登っていく。
俺は細身な方ではあるが、それなりに筋肉は付けている。俺くらいの体重がかかれば、この乱暴ともいえる動きと相まって、パイプはすぐに折れるなりなんなりするだろう。それでもパイプは動かない。
がたつきも発生せずまるで時を止めたかのようであるのは、俺の“不老不死”のコピーが、一時的にこのパイプに移されているからだ。
「あと半分!」
自分を鼓舞するように声を上げ、さらに上を目指す。目的の場所はこのマンションの最上階にある角部屋。いま登っているパイプはベランダのある壁に設置されているが、俺が用があるのはベランダではなく、違う壁面にあるはめ殺しの小さな窓だ。
パイプの一番上まで到着したら、クイックドローを雨どいに固定する。そこにロープを通してから、屋上には登り切らずにわずかに出ている庇に指をかけてぶら下がり、そのまま沿うように横に移動していく。目標のはめ殺し窓めがけて一旦落下し、窓と同じ高さのところでちょうど発動するよう、ロープの一部にも祝福を移して……
「……!」
月がかげったのを感じた俺は、動きを止めた。不老不死の祝福とは違い、肉体の損傷を一切許さない“鋼の鎧”は満月の光の元でしか発動しない。今のように月光が遮られてしまった状態でこの高さから落下すれば、死にはしないものの、かなりの重傷を負うことになってしまう。
怪我をしてチャンスを逃すなんて、そんなダサイ展開を許すわけにはいかない。
俺はパイプにしがみつき、月が再び顔をのぞかせる時が来るのを待った。
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