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第1話 親玉消失と、完璧な帳簿
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ルナ・グランデ公国の都は、白い大理石の回廊が続き、噴水の水面だけが青く揺れている。
噴水の水音はいつもと同じ速さで、都はいつも通りに見える。だからこそ、机の上の帳簿の空白だけが、鐘みたいに耳へ鳴った。
整備局監査官ヴァランは、机の上の帳簿を指先で撫で、背表紙の角を正した。整っているものは呼吸を楽にする。けれど今日だけは、帳簿が喉に引っ掛かった。
「……ない」
声が自分の耳に返ってくるまでが長かった。噴水の水音が、いつもより遠い。帳簿の紙が指先に貼りつくのに、掌だけが冷えていく。
失くしたのは石か、記録か。あるいは――都を回すために彼女が積み上げてきた「当たり前」か。ヴァランは息を整え、次に取る手順を心の中で並べた。
貸出記録。聖塔から文化祭「ルナ・フェスタ」に貸し出される品の一覧。その中に、月虹を散らす親玉ムーンジェイドが、あるはずだった。
昨夜、ヴァランは祭の準備責任者に指名された。ルナ・フェスタまで三十日。親玉が欠ければ、都の象徴が欠ける。
彼女は羽根ペンを置き、引き出しから小さな紙束を取り出した。今日の持ち物表だ。
「封蝋印、監査印、予備の監査印、筆記具二本、替え芯、針金……」
口に出して確認しながら、肩掛け鞄へ収める。紙束の最後に「感情は持ち込まない」と書いてあるのを見て、目を細めた。
扉がノックされる。
「監査官ヴァラン。聖塔の貸出室へ、至急だそうです」
部下の声がいつもより高い。ヴァランは「承知」と返し、廊下へ出た。
聖塔へ向かう通路は、月灯りで色を変える石が敷かれている。青、銀――そして、ふっと桃色に見えた気がした。
彼女は視線を上げ、聖塔の門をくぐった。
――そこで、道が塞がっていた。
黒い外套。肩に月紋の銀糸。影のように静かに立つ男が、回廊の中央にいる。護衛官シェルヴィ。
彼は礼もなく、ただ一歩、前へ出た。
「通して」
ヴァランが言うと、彼は短く返した。
「危ない」
「危ないのは、あなたの説明の少なさよ」
ヴァランは横から抜けようとする。だがシェルヴィは同じ角度で体をずらし、道を譲らない。
「私は整備局監査官。聖塔の貸出記録室に用がある。あなたは護衛官。職務が違う」
シェルヴィは視線をほんの少し下げ、ヴァランの鞄を見た。
「留め具」
「何?」
「外れてる」
ヴァランが鞄を見下ろした瞬間、留め具が外れ、紙束がひらひらと舞い出た。
「感情は持ち込まない」
「監査印、予備の監査印」
「靴裏の砂は落とす」
紙がシェルヴィの足元へ落ちる。彼は拾う。拾い方が丁寧すぎて、腹が立つ。
「返して」
シェルヴィは紙束を戻した。けれど最後の一枚だけ、彼の指に引っ掛かった。ヴァランが伸ばした手と、彼の指が触れた。
触れた瞬間、胸の奥で別の音が鳴った。
――夜。白い回廊。砕けた月の石。誰かの手を振りほどく自分。
息が止まる。
「監査官?」
シェルヴィの声が、耳の奥まで落ちてくる。ヴァランは手を引っ込めた。指先が熱い。
「……今、何かしました?」
「してない」
即答だった。彼は嘘をつくとき、瞬きが増える。だが今は増えない。
「なら、なぜ通さないの」
「今、貸出室に人がいる」
「誰?」
シェルヴィは口を開きかけ、奥の扉を顎で示した。扉の前に、見慣れない男が二人。片方は修繕師の道具袋、片方は上層街の書記が使う革手袋。
ヴァランの背筋が伸びる。
「……あなた、ずっとここで見張っていたの」
「うん」
短い返事が重い。
ヴァランは胸の内ポケットの紙束を押さえた。持ち物表の余白には、彼女の癖で小さく時刻が並んでいる。だが今朝だけ、その時刻が少しずつずれて見える。彼女はそれをごまかすように、シェルヴィへ言った。
「次から返事を『うん』だけで済ませないで。報告書に書けない」
「書ける」
「どう書くのよ」
「『うん』」
真面目な顔で言うから、腹が立つのに、笑いが喉まで上がった。
ヴァランは修繕師の袋と革手袋の位置関係を頭の中で並べ替えた。貸出記録が消えた。親玉の項目がない。今必要なのは、感情ではなく手順だ。
「シェルヴィ。私が中へ入る。あなたは扉の右。私は左。逃げ道を切る」
彼は頷いた。動きは正確だ。
二人は同時に歩いた。石畳の色が青から銀へ変わる。四つの靴音が、扉の前で止まる。
扉の隙間から、紙をめくる音。封蝋を剥がす爪の音。
ヴァランは扉を押し開けた。
「監査官だ。手を止めなさい」
机の上に貸出記録の写しが広げられ、親玉の項目だけが切り取られたように空いている。その空白が目に刺さった。
革手袋の男が上層街の笑い方で言う。
「監査官殿。点検です。聖塔の書類は古い。祭に向けて――」
「点検なら整備局に申請がある。申請番号を言いなさい」
男の笑みが薄くなる。修繕師の方が一歩引き、袋を抱える手が微かに震える。
ヴァランはその震えを見た。
「親玉ムーンジェイドの貸出記録から、項目が消えた。あなたが消したの?」
返事が遅れた。遅れの間に、シェルヴィが室内へ滑り込み、扉の内側へ背をつけた。逃げ道が消える。
革手袋の男の視線が月紋へ吸い寄せられ、苛立ちを隠すために笑い直した。
「箱だけです。石など、初めから――」
その瞬間、シェルヴィが壁の木箱の蓋を開けた。中には空の外箱。親玉の外箱だ。封印札が剥がされ、糊の跡が新しい。
彼は箱を掲げ、ヴァランへ見せた。
「これ」
ヴァランの喉が冷える。石そのものはない。
「嘘。封印札の糊が新しい」
自分でも驚く。数ではなく匂いで判断した。糊の匂いが、まだ立っている。
修繕師が小さく言った。
「……違うんです。盗んだんじゃない」
「なら、どこへ移した。誰の指示だ」
修繕師は答えない。革手袋の男が机の端を叩く。
「都のためだと言ったら?」
その言葉で、ヴァランの視界の端が白く滲んだ。
――都の灯りが落ちる。止めなければ。急げ。誰かの手が伸びる。振りほどく。振りほどいた手の温度。
ヴァランは唇を噛み、現実へ戻った。
「都のためなら、なおさら整備局へ申請が必要。都は段取りで回る」
言い切ったところで、シェルヴィが短く言った。
「無理するな」
ヴァランは彼を睨んだ。護衛官が監査官の心配など、順序が逆だ。
だがシェルヴィは言葉を増やさない。代わりに、彼女の鞄の留め具を迷わず留めた。金具がカチリと鳴り、奇妙なほど心が落ち着く。
修繕師が震える声で言った。
「……地下です。聖塔の、地下の装置へ」
ヴァランの背筋が、氷で撫でられたように冷えた。地下の装置――都の灯りを支える古い仕組み。
「……誰が、そうしろと言った」
修繕師は目を伏せたまま、涙を一滴落とす。
ヴァランは深く息を吸い、吐いた。
「シェルヴィ。地下へ行く。今すぐ」
「一緒」
短い。けれど頼もしい。
ヴァランは頷いた。
「遅れたら、私が怒る」
「怒っていい」
その返事で、ヴァランはふっと息を漏らした。笑いになり損ねた息だ。
廊下へ出ると、ヴァランは自分の紙束の表紙を見た。そこには「留め具、確認」と確かに書いてある。彼女は眉を寄せ、紙束の端を指で強く押した。
「私は、確認したはずなのに」
シェルヴィが歩調を落とし、落ちていた一枚をいつの間にか持っているのを見せた。そこには余白があり、彼の筆跡で小さく一行だけ足されていた。
『留め具は、他人が留める場合もある』
ヴァランは思わず足を止めた。そんな項目、表には存在しない。存在しないはずのことが、今朝から増えている。
月灯りが回廊の石を金に染めた。二人は同時に歩き出す。帳簿の空白を埋めるために。
噴水の水音はいつもと同じ速さで、都はいつも通りに見える。だからこそ、机の上の帳簿の空白だけが、鐘みたいに耳へ鳴った。
整備局監査官ヴァランは、机の上の帳簿を指先で撫で、背表紙の角を正した。整っているものは呼吸を楽にする。けれど今日だけは、帳簿が喉に引っ掛かった。
「……ない」
声が自分の耳に返ってくるまでが長かった。噴水の水音が、いつもより遠い。帳簿の紙が指先に貼りつくのに、掌だけが冷えていく。
失くしたのは石か、記録か。あるいは――都を回すために彼女が積み上げてきた「当たり前」か。ヴァランは息を整え、次に取る手順を心の中で並べた。
貸出記録。聖塔から文化祭「ルナ・フェスタ」に貸し出される品の一覧。その中に、月虹を散らす親玉ムーンジェイドが、あるはずだった。
昨夜、ヴァランは祭の準備責任者に指名された。ルナ・フェスタまで三十日。親玉が欠ければ、都の象徴が欠ける。
彼女は羽根ペンを置き、引き出しから小さな紙束を取り出した。今日の持ち物表だ。
「封蝋印、監査印、予備の監査印、筆記具二本、替え芯、針金……」
口に出して確認しながら、肩掛け鞄へ収める。紙束の最後に「感情は持ち込まない」と書いてあるのを見て、目を細めた。
扉がノックされる。
「監査官ヴァラン。聖塔の貸出室へ、至急だそうです」
部下の声がいつもより高い。ヴァランは「承知」と返し、廊下へ出た。
聖塔へ向かう通路は、月灯りで色を変える石が敷かれている。青、銀――そして、ふっと桃色に見えた気がした。
彼女は視線を上げ、聖塔の門をくぐった。
――そこで、道が塞がっていた。
黒い外套。肩に月紋の銀糸。影のように静かに立つ男が、回廊の中央にいる。護衛官シェルヴィ。
彼は礼もなく、ただ一歩、前へ出た。
「通して」
ヴァランが言うと、彼は短く返した。
「危ない」
「危ないのは、あなたの説明の少なさよ」
ヴァランは横から抜けようとする。だがシェルヴィは同じ角度で体をずらし、道を譲らない。
「私は整備局監査官。聖塔の貸出記録室に用がある。あなたは護衛官。職務が違う」
シェルヴィは視線をほんの少し下げ、ヴァランの鞄を見た。
「留め具」
「何?」
「外れてる」
ヴァランが鞄を見下ろした瞬間、留め具が外れ、紙束がひらひらと舞い出た。
「感情は持ち込まない」
「監査印、予備の監査印」
「靴裏の砂は落とす」
紙がシェルヴィの足元へ落ちる。彼は拾う。拾い方が丁寧すぎて、腹が立つ。
「返して」
シェルヴィは紙束を戻した。けれど最後の一枚だけ、彼の指に引っ掛かった。ヴァランが伸ばした手と、彼の指が触れた。
触れた瞬間、胸の奥で別の音が鳴った。
――夜。白い回廊。砕けた月の石。誰かの手を振りほどく自分。
息が止まる。
「監査官?」
シェルヴィの声が、耳の奥まで落ちてくる。ヴァランは手を引っ込めた。指先が熱い。
「……今、何かしました?」
「してない」
即答だった。彼は嘘をつくとき、瞬きが増える。だが今は増えない。
「なら、なぜ通さないの」
「今、貸出室に人がいる」
「誰?」
シェルヴィは口を開きかけ、奥の扉を顎で示した。扉の前に、見慣れない男が二人。片方は修繕師の道具袋、片方は上層街の書記が使う革手袋。
ヴァランの背筋が伸びる。
「……あなた、ずっとここで見張っていたの」
「うん」
短い返事が重い。
ヴァランは胸の内ポケットの紙束を押さえた。持ち物表の余白には、彼女の癖で小さく時刻が並んでいる。だが今朝だけ、その時刻が少しずつずれて見える。彼女はそれをごまかすように、シェルヴィへ言った。
「次から返事を『うん』だけで済ませないで。報告書に書けない」
「書ける」
「どう書くのよ」
「『うん』」
真面目な顔で言うから、腹が立つのに、笑いが喉まで上がった。
ヴァランは修繕師の袋と革手袋の位置関係を頭の中で並べ替えた。貸出記録が消えた。親玉の項目がない。今必要なのは、感情ではなく手順だ。
「シェルヴィ。私が中へ入る。あなたは扉の右。私は左。逃げ道を切る」
彼は頷いた。動きは正確だ。
二人は同時に歩いた。石畳の色が青から銀へ変わる。四つの靴音が、扉の前で止まる。
扉の隙間から、紙をめくる音。封蝋を剥がす爪の音。
ヴァランは扉を押し開けた。
「監査官だ。手を止めなさい」
机の上に貸出記録の写しが広げられ、親玉の項目だけが切り取られたように空いている。その空白が目に刺さった。
革手袋の男が上層街の笑い方で言う。
「監査官殿。点検です。聖塔の書類は古い。祭に向けて――」
「点検なら整備局に申請がある。申請番号を言いなさい」
男の笑みが薄くなる。修繕師の方が一歩引き、袋を抱える手が微かに震える。
ヴァランはその震えを見た。
「親玉ムーンジェイドの貸出記録から、項目が消えた。あなたが消したの?」
返事が遅れた。遅れの間に、シェルヴィが室内へ滑り込み、扉の内側へ背をつけた。逃げ道が消える。
革手袋の男の視線が月紋へ吸い寄せられ、苛立ちを隠すために笑い直した。
「箱だけです。石など、初めから――」
その瞬間、シェルヴィが壁の木箱の蓋を開けた。中には空の外箱。親玉の外箱だ。封印札が剥がされ、糊の跡が新しい。
彼は箱を掲げ、ヴァランへ見せた。
「これ」
ヴァランの喉が冷える。石そのものはない。
「嘘。封印札の糊が新しい」
自分でも驚く。数ではなく匂いで判断した。糊の匂いが、まだ立っている。
修繕師が小さく言った。
「……違うんです。盗んだんじゃない」
「なら、どこへ移した。誰の指示だ」
修繕師は答えない。革手袋の男が机の端を叩く。
「都のためだと言ったら?」
その言葉で、ヴァランの視界の端が白く滲んだ。
――都の灯りが落ちる。止めなければ。急げ。誰かの手が伸びる。振りほどく。振りほどいた手の温度。
ヴァランは唇を噛み、現実へ戻った。
「都のためなら、なおさら整備局へ申請が必要。都は段取りで回る」
言い切ったところで、シェルヴィが短く言った。
「無理するな」
ヴァランは彼を睨んだ。護衛官が監査官の心配など、順序が逆だ。
だがシェルヴィは言葉を増やさない。代わりに、彼女の鞄の留め具を迷わず留めた。金具がカチリと鳴り、奇妙なほど心が落ち着く。
修繕師が震える声で言った。
「……地下です。聖塔の、地下の装置へ」
ヴァランの背筋が、氷で撫でられたように冷えた。地下の装置――都の灯りを支える古い仕組み。
「……誰が、そうしろと言った」
修繕師は目を伏せたまま、涙を一滴落とす。
ヴァランは深く息を吸い、吐いた。
「シェルヴィ。地下へ行く。今すぐ」
「一緒」
短い。けれど頼もしい。
ヴァランは頷いた。
「遅れたら、私が怒る」
「怒っていい」
その返事で、ヴァランはふっと息を漏らした。笑いになり損ねた息だ。
廊下へ出ると、ヴァランは自分の紙束の表紙を見た。そこには「留め具、確認」と確かに書いてある。彼女は眉を寄せ、紙束の端を指で強く押した。
「私は、確認したはずなのに」
シェルヴィが歩調を落とし、落ちていた一枚をいつの間にか持っているのを見せた。そこには余白があり、彼の筆跡で小さく一行だけ足されていた。
『留め具は、他人が留める場合もある』
ヴァランは思わず足を止めた。そんな項目、表には存在しない。存在しないはずのことが、今朝から増えている。
月灯りが回廊の石を金に染めた。二人は同時に歩き出す。帳簿の空白を埋めるために。
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