月光のムーンジェイドと、静かな護衛官

乾為天女

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第9話 仮面舞踏会、近すぎる距離

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 上層街の夜は、昼より明るい。白い大理石の回廊に月灯りが滑り、噴水の水面が青から桃へと色を変える。都の中心へ伸びる道は、宝飾よりも眩しい人波で満ちていた。

  香水の甘さ、絹が擦れる音、仮面の縁に散った粉。人波の熱が頬へ当たり、ヴァランは無意識に外套の留め具を確かめた。胸の中の帳簿が、ここだけ紙ではなく脈でできているようだった。

  ヴァランは、その入口で立ち止まった。
  整備局の監査官として、夜の社交に顔を出すこと自体は珍しくない。だが今日は、名簿に載るためではなく、名簿の外に潜り込むために来ている。――親玉の行方を繋ぐ糸が、仮面の下に隠れていると聞いたからだ。

  「……仮面舞踏会。苦手です」
  彼女はそう言いながら、手にした箱を開けた。

  箱の中には、銀糸の縁取りがある白い仮面。頬に沿う曲線は完璧で、目の穴の左右差もない。ヴァランが選ぶと、こうなる。問題は、その完璧さが彼女を安心させるのに、本人は安心しきれていないことだ。

  横でシェルヴィが、黒い仮面を指先で持ち上げた。無駄な装飾のない、影のような形。彼が顔につけると、目元の静けさだけが残る。

  ヴァランは、胸の内で小さく点検を始めた。
  仮面――ひも二本、結び目の余長、汗止めの布。手袋――左右とも穴なし。靴――音が出にくい底。懐――令状は持たない、持てない。代わりに、彼女は小さな帳面を入れた。数字がないと、頭が散らばる。

  「……踊れません」
  仮面のひもを結びながら、彼女は言った。言い訳を先に並べるのは、いつもの癖だ。失敗する可能性を潰してからでないと、足が前へ出ない。

  シェルヴィは否定しなかった。
  ただ、短く言う。

  「歩ける」

  「歩けます。踊りは別です」
  反射で返したあと、ヴァランは自分の言い方に眉をひそめた。今のは、仕事の口調だ。相手を点検項目みたいに扱う口調だ。

  それでも彼は、怒らない。彼の怒りは、声ではなく距離で示されるのに、距離が変わらない。

  「最低限だけ」
  シェルヴィが言った。

  ヴァランは、仮面の内側で息を飲んだ。
  最低限。便利な言葉だ。完璧じゃなくていい、と言われるのは慣れていない。慣れていないから、妙に心臓がうるさい。

  会場の扉が開くと、香水と熱が押し寄せた。弦楽の音が床を震わせ、人々の笑い声が天井の装飾に反響する。仮面の群れは、互いの身分を隠しながら、隠していることを楽しんでいた。

  ヴァランは、一歩目で不具合を見つけた。
  彼女の仮面のひもが、頬のあたりで微かにずれたのだ。結び目は確認した。余長も確認した。それなのに。

  「……なぜ」
  呟いた瞬間、ひもがぷつりと切れた。

  ヴァランは硬直した。切れたひもが指に絡まり、仮面がずり落ちかける。今ここで素顔を見せれば、潜入は終わる。整備局の監査官が“名簿の外”を歩いた事実が、笑い話ではなく噂になる。

  彼女が帳面に手を伸ばすより早く、シェルヴィが動いた。
  無言で、彼の手がヴァランの頬の側面へ伸びる。仮面を支え、彼女の顔を覆い直す。指先が頬に触れたのは一瞬なのに、熱だけが残った。

  「……大丈夫ですか」
  ヴァランが小声で言うと、

  「見られない」

  彼はそう言って、黒い手袋のまま、自分の外套の内側を探った。出てきたのは、細い革ひも。どこからそんな物を、と聞きたいのに、聞けない。聞いたら、彼の用意周到さに敗北した気がする。

  シェルヴィは革ひもを彼女の仮面に通し、素早く結び替えた。結び目は飾り気がないのに、妙にほどけそうにない。

  「……あなた、いつも、こうなんですか」
  ヴァランは言った。誰かの不具合が出たとき、もう直っている。彼女が“修正案”を作るより先に。

  シェルヴィは、肩を少しだけすくめた。
  それが答えの代わりらしい。

  ひもが直ったところで、次の壁が来る。
  ヴァランは会場の中央を見た。輪になって踊る人々。互いの距離は近い。近すぎる。ドレスの裾が触れ合い、肩がぶつかり、笑いながら謝っている。あの距離は、監査の現場にはない距離だ。

  「……必要ですか」
  ヴァランは、シェルヴィを見ずに言った。仮面の下なら、見ずに言える。

  「必要」

  短い返事のあと、彼が手を差し出した。
  誘う仕草というより、道を指し示す仕草に近い。なのに、会場の人々はそれを“恋人の誘い”として見るだろう。そう見せるために、ここへ来たのだ。

  ヴァランは、指先を躊躇させた。
  手袋越しに触れるだけで、体温が伝わる。さっき頬に触れた指の熱が、まだ消えていない。熱に慣れていないのは、子どもの頃からだ。熱を知ると、欠けが見えてしまう気がしていた。

  それでも、今夜は欠けを隠しに来たのではない。
  欠けの正体を掴みに来た。

  ヴァランは、シェルヴィの手に自分の手を重ねた。
  次の瞬間、彼は彼女を輪の内側へ引き寄せた。距離が、あまりにも自然に縮む。

  「近い……」
  ヴァランが息を漏らすと、シェルヴィは、ほんの少しだけ顔を傾けた。

  「見せる」

  そう言っただけで、彼は足を運び始めた。
  一、二、三。踏み出し。回転。足を揃える。彼の動きは派手ではない。だが確実で、余計な揺れがない。彼が護衛官であることが、踊りの中でも消えない。

  ヴァランは、ついていくことで精一杯だった。
  靴の音を数える癖が勝手に働く。床板のきしみの周期。楽団のテンポ。周囲の足の運び。彼女の頭は数字を拾い、同時に――拾いきれないものが胸に増えていく。

  シェルヴィの手の温度。
  握り方が強すぎないこと。
  逃げ道を塞がず、でも離さないこと。

  「……すみません」
  ヴァランは、彼の足先を一度踏んだ。

  「大丈夫」

  即答。言い切る声が低い。低い声は、胸の奥に届く。届いてしまう。

  周囲の笑い声が遠のいた気がした。
  ヴァランの視界が、仮面の穴の中だけに絞られる。黒い仮面の奥の目だけが見える。月灯りが当たり、瞳の色が青から金へと変わったように見えた。

  その瞬間、前世の夢の続きが、少しだけ長くなる。

  白い回廊。夜。誰かが血の匂いを隠すために香を焚いている。彼女は書類を抱え、走っている。背後で誰かが呼ぶ声がする。振り返ると、同じ目がある。守るべき人を守れなかった目。

  ――違う。守らなかったのは、私だ。

  ヴァランの喉が熱くなり、息が詰まった。
  踊りのせいではない。握られた手のせいでもない。思い出したくないものが、優しく引き上げられてしまった。

  「……ヴァラン」
  シェルヴィが、初めて彼女の名を呼んだ。名を呼ぶのは、合図のためだと分かっている。なのに、名を呼ばれたことで、彼女は現世に戻る。

  ヴァランは瞬きし、会場の空気を吸い直した。
  香水と、ワインと、笑い声。現実だ。前世は夢だ。夢なのに、手の温度だけは現実のように残る。

  「……はい」
  返事が、いつもより柔らかい。自分で気づいて、彼女は焦った。柔らかい声は、監査官には不要だ。

  だが、今夜は監査官の顔だけでは足りない。
  仮面の下の彼女は、ただの女にならないといけない。情報を引き出すために。

  輪の外側に、金の仮面をつけた男がいた。笑いながら、誰かの肩を叩き、酒杯を回している。言葉の端々に、工房街の職人とは違う“値切り”の匂いがした。数字ではない。態度の匂いだ。

  ヴァランは、シェルヴィの肩越しにその男へ視線を送った。
  シェルヴィは、頷かない。けれど、彼の手の指先が、ヴァランの手袋の甲を一度だけ軽く押した。合図。今、見るな。今、聞け。

  踊りながら、二人は男の近くへ流れた。輪が自然に彼らを運ぶ。仮面舞踏会の群れは、潮のように人を押し流し、秘密だけを残す。

  男の隣にいた女が、扇で口元を隠して囁いた。
  「……次の“客”は、コワリク様のところから来るって」

  ヴァランの背筋が、ぴんと張った。
  コワリク。上層街を取り仕切る名家の令嬢。笑って流す癖があり、踏み込まれるのを嫌う。彼女の名がここで出るということは、噂は噂では済まない。

  ヴァランの手が、一瞬だけ強く握り返してしまった。
  シェルヴィの手が、それ以上強く返さない。彼は、彼女の焦りを止める代わりに、焦りを“外へ漏らさない”形に整える。

  「……聞き間違いでは」
  ヴァランが小さく言うと、シェルヴィは首を横に振った。

  「二度」

  男が、同じ名を二度言ったのだろう。確定に近い。

  踊りが終わる拍手が起こり、人々が一斉に散った。二人も散る側に混ざり、壁際の陰へ滑り込む。ヴァランは息を整えようとして、整えきれないことに気づいた。

  仮面の下で、頬が熱い。
  走ったわけではない。怒鳴ったわけでもない。ただ、近すぎる距離のまま、秘密を拾っただけなのに。

  「……コワリクを、どう扱うべきか」
  ヴァランが言うと、シェルヴィは少し考えるように視線を落とした。

  「追い詰めない」

  短い言葉が、意外に柔らかい。彼女が“正しさ”で追い込む前に、彼は止める。止める理由を、まだ説明しない。説明しないから、彼の言葉は妙に重い。

  ヴァランは仮面の縁を指で押さえた。革ひもの結び目が、ほどけない。
  ほどけないように結ばれている。誰かの手で。誰かの静かな手で。

  「……最低限、ですね」
  ヴァランが言うと、シェルヴィは一度だけ頷いた。

  仮面舞踏会の喧騒の向こうで、聖塔の月灯りが白く揺れた。ムーンジェイドの色も、きっとどこかで変わっている。親玉がなくなった穴を、誰かが埋めようとしている。

  ヴァランは、シェルヴィの手を離した。
  離したのに、手の温度は消えない。消えないまま、次の行き先を決める。

  「整備局へ戻ります。……今夜の記録を、忘れる前に」
  彼女が言うと、シェルヴィは、今度は言葉を足した。

  「送る。近道で」

  近道。完璧な近道ではなく、見つからない近道。
  ヴァランは、仮面の下で小さく笑った。笑ってしまったことに、自分で驚く。

  上層街の音楽が、背中で遠ざかる。
  二人の間の距離は、仮面の夜だけでは終わらない気がした。

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