月光のムーンジェイドと、静かな護衛官

乾為天女

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第11話 月灯りの倉庫、二人の合図

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 倉庫街は、夜の川の匂いを抱えたまま静まり返っていた。水面の向こうに上層街の灯が揺れ、石畳の湿り気が靴底にまとわりつく。月光は明るいのに、ここだけ色が抜けたようで、木箱の角が白く浮いた。

  ヴァランは外套の襟を指でつまみ、息を浅くした。呼気が白くならない季節でも、冷えは首筋から入ってくる。彼女の手には小さな懐時計があり、蓋を開けるたび、針が「遅れるな」と言うように見える。

  「……ここね」

  声を落とした瞬間、すぐ隣から、指が彼女の手首を一度だけ押した。シェルヴィの合図だった。声を使わない。足音より小さい情報だけを残す。ヴァランは時計の蓋を閉じ、頷いた。

  倉庫の扉は、錆びた蝶番を黙らせるために油を差されたのか、妙に静かだった。扉の前には、誰かが近々通った跡がある。石畳の粉が薄く払われ、そこだけ色が濃い。

  「今夜、来ると思うの?」

  ヴァランが唇だけ動かすと、シェルヴィは首をほんの少し傾けた。分からない、の合図に見える。だが、それでも来る。来させる。そのために彼は、昼間にコワリクの言葉の端を拾い、噂の出所を辿った。ヴァランはその過程の細部を思い出し、胸の内で計算した。コワリクの視線が揺れた回数、言い換えが増えた箇所、そこで間に入った笑顔の薄さ。表だけ整えて裏を見せない人間は、裏に指を掛けられると、必ずどこかで手が止まる。

  その手の止まりが、今夜の倉庫だった。

  二人は倉庫の側面に回り、積み上げられた木箱の影に身を沈めた。シェルヴィが先に膝をつき、ヴァランに場所を譲る。彼女は外套の裾を汚さないように折り、膝の上で腕を組んだ。彼の動作は、いつも余計な音がない。余計な言葉もない。だからこそ、ヴァランは落ち着けるはずだった。

  なのに、心臓がうるさい。

  倉庫の闇の向こうで、猫が一度だけ鳴いた。続いて、細い足音が石の上を駆ける。ヴァランは反射的に肩をすくめ、木箱の角に肘をぶつけそうになった。次の瞬間、シェルヴィの指が彼女の肘を押さえた。痛みが出る前に止まる。押さえたまま、指がほどけない。

  「……離して」

  言いかけて、ヴァランは声を飲み込んだ。離して、と言うには近すぎる場所で、彼の息がひとつ動いた。押さえた指が、今度はほんの少しだけ位置を変える。肘から、手首へ。脈の上に、軽い圧。触れているだけで、彼の合図が体の内側に入ってくる。

  その圧に合わせて、自分の脈が勝手に数を刻む。昔、ムーンジェイドの欠片を掌にのせたときも、こんなふうに骨の奥が微かに鳴った。
  けれど、誰の掌だったのかだけが思い出せない。思い出せないことが、指先より熱い。

  ヴァランは怒るために眉を寄せた。だが、怒るための息が続かない。胸の奥が勝手に忙しくなり、言葉に必要な余裕を持っていかれる。

  シェルヴィは、謝る代わりに彼女の視線を倉庫の扉へ導いた。指先が一度、二度。待て。ヴァランは頷き、舌の裏で数を数えた。十、二十、三十。時計を開けたい衝動をこらえ、耳だけで時間を測る。

  遠くで荷車の軋む音がした。酒場の笑い声が一瞬だけ風に乗る。ここには届かないはずの明るさが、倉庫街の空気を薄くする。

  足音が、ひとつ。

  石畳を踏むとき、踵が鳴る。重い靴ではない。歩幅が短い。迷いがある。ヴァランは、それを「計算外」と呼びそうになった。だが彼女の隣で、シェルヴィの背中がすっと伸びる。肩の高さが変わらないまま、呼吸が整う。

  指先が一度。今。

  ヴァランは外套の前を押さえ、木箱の影から半歩だけ出た。視界の端に、倉庫の扉へ向かう影が見えた。男か女かは分からない。頭巾の形だけが揺れ、肩が細い。扉の前で立ち止まり、周囲を見回す。月の光が頬をかすめて、白い線を描いた。

  次の瞬間、シェルヴィが影の背後に回り込んだ。足音がない。影が気配を感じたときには、もう遅い。だが、影は慣れていた。身体をひねり、滑るように横へ逃げる。倉庫の影に溶け込む速度が速い。

  「止まって!」

  ヴァランが抑えた声を投げた直後、影は答えの代わりに小さな袋を放った。布が地面に当たり、乾いた音がする。袋は軽い。中身がないか、砂程度だ。囮。ヴァランが足元へ目を落とした一瞬、影は川へ向かって走った。

  シェルヴィが追う。ヴァランも遅れまいと踏み出したが、足元の石畳が濡れていた。靴底が滑り、身体が前に傾く。倒れる、と判断する前に、シェルヴィの腕が彼女の腰を引いた。彼は追跡の途中なのに、彼女だけを落とさない。ヴァランはその優先順位に腹が立つべきなのに、声が出ない。

  影は川沿いの小道へ消えた。暗い水面に月が割れ、逃げた方向だけが黒い。追うなら、二人とも濡れる覚悟がいる。しかも、追っても捕まる保証はない。

  ヴァランは歯を噛み、息を整えた。シェルヴィは追うのをやめ、彼女の横に戻ってくる。怒られ待ちの顔ではない。ただ、目が「ここだ」と言っていた。

  倉庫の扉が、わずかに開いている。

  「……入ったの?」

  ヴァランが囁くと、シェルヴィは首を横に振った。影は扉に触れていない。なら、扉は最初から。あるいは、別の誰かが先に。ヴァランの頭の中で、帳簿の行が増えていく。未記入。未確認。未回収。

  二人は倉庫へ入った。内部は想像より広く、乾いた木の匂いが強い。窓が高く、月光が斜めに差して、埃の筋を浮かび上がらせた。積み荷の山はあるのに、肝心の「中身」がない。空の樽、空の木箱、縄だけが残された棚。

  ヴァランは息を詰め、歩幅を小さくした。足元に釘が落ちている。踏めば音が出る。彼女が避ける前に、シェルヴィの足先が釘をそっと押し、壁際へ転がした。やはり音がない。ヴァランはその静かさに腹が立つより先に、胸が楽になるのを感じてしまう。

  奥に、ひとつだけ違うものがあった。

  木箱の外枠。親玉が入っていたはずの、厚い外箱だ。蓋は外され、内側の布がめくれ、留め具の金具だけが光っている。外箱は立派なのに、そこにあるべき重みが消えている。部屋の中心に置かれたまま、見せびらかすように。

  ヴァランは手袋の指先で、外箱の縁をなぞった。布に指が沈み、粉のようなものが付く。石の粉なのか、木の粉なのか。判別するには光が足りない。彼女は懐時計を取り出し、蓋の内側の鏡面で月光を反射させて箱の中を照らした。

  空。

  「……残ってるのは、外だけ」

  声が、思っていたより平らだった。怒りでも嘆きでもない。ひどく現実的な報告。帳簿に書く言葉を選んでいる声だ。

  シェルヴィは外箱の周りを一周し、床に落ちた縄の切り口を指でつまんだ。刃物で切った線が新しい。彼はそれをヴァランに見せ、短く息を吐く。昨日か、今日か。時間を言い当てるには材料が足りない。

  ヴァランは外箱の取っ手に手を掛けた。持ち上げようとした瞬間、手がわずかに震えた。悔しさなのか、冷えなのか、自分でも分からない。震えは、帳簿の数字のように厳密には扱えない。扱えないものが増えると、彼女はいつも苛立つ。

  「……こんな置き方、悪趣味ね」

  吐き捨てたつもりの言葉が、倉庫の天井に吸われて消える。返事はない。返事の代わりに、シェルヴィが彼女の手の上に、自分の手袋越しの手を重ねた。握るのではなく、押さえるだけ。重さを分け合うためだけの触れ方。

  合図ではないのに、合図のようだった。

  ヴァランの胸がまた忙しくなる。怒るために口を開く。だが、彼の手がそこにあるという事実が、怒りに必要な熱を持っていってしまう。心臓が先に仕事を始め、言葉の順番が崩れる。

  「……明日、イシャックに見せるわ。木箱の内側、匂いとか、油とか……あの人なら分かる」
  「うん」

  彼の返事は短いのに、倉庫の空気が少しだけ軽くなる。ヴァランは外箱の蓋を戻し、留め具を一つずつ確認した。空でも、扱いは丁寧に。丁寧さは彼女の武器だ。武器を手放したら、ただの不安になる。

  外箱を抱えると、思ったより重かった。木の重さではない。これまでの手間と、逃げた影と、分からないことの数が、目に見えない重みになって腕に乗る。

  「運ぶ。あなたは……足元」
  「分かってる」

  ヴァランが言い返すと、シェルヴィの口元がほんの少しだけ動いた。笑ったのか、そう見えただけなのか。月光のせいで判別がつかない。けれど、その曖昧さが、今は腹立たしくなかった。

  倉庫を出ると、川風が外套の裾を揺らした。逃げた影の方向は暗いまま。代わりに、彼らの腕の中には空の外箱がある。

  ヴァランは外箱の角を抱え直し、歩幅を整えた。明日、工房街へ行く。イシャックの鼻と手を借りる。数字にできない匂いも、逃げる影も、手順に落とし込む。

  その横で、シェルヴィが彼女の歩幅に合わせて歩く。合図の指はもう触れていないのに、ヴァランの手首には、さっきの圧が残っていた。

  心臓が、まだうるさいままだった。

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