月光のムーンジェイドと、静かな護衛官

乾為天女

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第14話 前世の夢、切り捨てた手

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 歌劇場から戻った夜、ヴァランは宿舎の机に帳面を広げた。インク壺の位置、替え芯の本数、封蝋の欠片。並びが乱れると、頭の中まで散らかる気がする。
  椅子に腰を下ろした瞬間、膝がわずかに笑った。歌劇場の化粧粉と舞台板の匂いが外套に残っていて、息を吸うたびに昼のざわめきが戻ってくる。

  それでも、机の上だけは整えられる。整えないと、今日の不安が「明日」へこぼれる。だから彼女は、疲れた肩を一度だけ回してから、指先を仕事の形へ戻した。
  今日拾った金具の刻印を、灯りの角度を変えながら三回なぞった。上層街の職人紋に似ている。だが、似ているだけで断定はできない。断定できないものは、帳面の余白に「要照合」と書き、線を引いて棚にしまう。

  鍵を二回、確かめる。窓の掛け金を押す。寝台脇の小箱の留め具を指で弾き、音で閉まり具合を確認する。親玉の欠けたムーンジェイドの欠片——布袋に包んだそれは、小箱の底で微かに冷えた。

  そこまで済ませて、ようやく息が落ち着く。
  ヴァランは寝台に腰を下ろし、髪留めを外した。鏡の中で、昼間の自分がまだ肩に乗っている。泣いたあとの歌声、舞台の明かり、隣を歩く靴音。忘れればいいのに、細部が残る。

  隣室から、床板が一度だけ鳴った。護衛の交代の音だ。シェルヴィは、夜の間に二度だけ足音を立てる。巡回に出るときと、戻るとき。その規則正しさが、妙に腹立たしいほど安心を運んでくる。

  「……安心なんて、必要ない」

  口に出した瞬間、言葉が自分に刺さった。彼女は布団へ潜り、目を閉じた。

  そして、夢が来た。

  月が近い。空ではなく、手のひらの上で息をしていた。
  白い聖塔の最上段。風の通り道に立つ自分の指は、濡れたように冷える。ムーンジェイドの親玉が、掌の中心で脈を打ち、青から金へ、金から白へ、色を迷いながら変えていく。
  階段の下で、誰かが名前を呼んだ。呼び方が、今のものと違う。音のかたちが違うのに、胸の奥だけが先に反応した。

  「……ヴァラン」

  振り向けば、いけない。
  そう思ったのに、体は半分だけ振り向き、半分だけ親玉を抱え込む。

  石の光に照らされた指先が、伸びてくる。手首をつかまれる。力は強くない。むしろ、落ちないように支える手だ。そこに触れた瞬間、胸がふっと軽くなり、同時に、強烈な怖さが押し寄せた。
  守るために、切り捨てたものがある。
  守るために、切り捨てる手が、これからも必要になる。

  「一緒に——」

  言葉の途中で、遠くの鐘が鳴った。警鐘だ。下の回廊を走る足音、鎧の擦れる音、命令の声。夢の中の自分は、もう知っている。ここで迷えば、親玉は奪われ、街の光は消える。

  だから、選ぶ。

  親玉の光を、抱えたまま。
  支えてくれた手を、振りほどく。

  指と指の間で、何かがぷつりと切れる感触がした。握られていた手首が解ける。落ちる気配。息を呑む声。自分の口から、冷たい言葉が漏れた。

  「ごめん」

  その「ごめん」が、許しを求める音ではなく、切断の合図になっていた。

  次の瞬間、石の白が眩しすぎて、世界が裏返った。

  ヴァランは跳ね起きた。
  喉が乾いている。手が、震える。握りしめた拳が勝手に細かく揺れ、爪が掌に食い込む。夜明け前の薄青い光が、障子のような窓の布を透かしている。

  「……違う。夢。夢よ」

  言い聞かせても、指先の感触が消えない。振りほどいた手の温度、ぷつりと切れた何かの手触り。胸の奥に残った軽さと、同じだけの重さ。

  彼女は机へ行こうとした。帳面に書けば、夢は夢として棚にしまえる。だが、ペン立てに指を伸ばした瞬間、手の震えが強くなり、羽根ペンが転がって床に落ちた。
  ころん、と木床を鳴らす小さな音。それだけで心臓が跳ね、息が乱れた。

  すぐ隣で、扉の向こうが静かに動いた。
  鍵が外れる音はしない。けれど、影だけが、廊下の灯りを遮る。シェルヴィは、いつも通り、扉を開ける前に一呼吸置いた。

  「……起きてる?」

  声が低い。抑えた声が、逆に耳に残る。
  ヴァランは「起きていない」と言いたかった。だが、床の上の羽根ペンが、嘘の逃げ道を塞いでいる。

  「……起きている。職務上、夜明け前に記録の整合を——」

  言い訳の途中で、扉が少しだけ開いた。シェルヴィの顔は半分しか見えない。入ってくるのは、音と、温度だけだった。
  彼の手に、小さな陶杯があった。湯気が薄く立つ。香りは、ただの温水に近い。けれど、そこに甘い草の匂いが混ざる。喉に優しいやつだ、と身体が先に知っている。

  シェルヴィは杯を机の端に置き、さらに布巾を一枚添えた。こぼれてもいい位置。ヴァランの利き手側。震える指に無理のない距離。全部が、計算されすぎていて、腹が立つ。

  「……規定外の差し入れは、報告が必要よ」

  彼は頷きもせず、ただ短く言った。
  「飲める温度」

  命令の形ではないのに、逃げ道がない言い方だった。ヴァランは杯を見つめ、手を伸ばす。指先が震えて、縁に触れる前に空振りした。
  その瞬間、シェルヴィの手が動いた。杯を押し付けるのではなく、机の上で杯を数ミリだけ近づける。彼の指は、ヴァランの指に当たらないように避けたまま、距離だけを整える。

  それが、余計に優しい。

  ヴァランは腹を立てる場所を失い、唇を噛んだ。杯を両手で包み込み、ゆっくり口を付ける。温かさが舌を撫で、喉を通り、胸のあたりに溜まっていた冷えをほどく。
  震えは、少しだけ弱くなった。

  「……何も、聞かないの」

  言ってから、言ったことを後悔した。聞いてほしくない。けれど、聞かれないと、置き去りにされた気持ちが騒ぐ。矛盾を抱えたまま、ヴァランは杯を握り直した。

  シェルヴィは、机の上の羽根ペンを拾い、羽根の向きを整えた。彼の指先は、道具に触れるときだけ器用になる。
  「話すなら、ここにいる」

  それだけ。
  余計な言葉はない。慰めも、励ましも、分析もない。なのに、そこに「逃げてもいい」と「逃げないでいい」が同居していた。

  ヴァランは、怖くなった。
  この人の優しさは、いつも「大丈夫」を押し付けない。だから、受け取ってしまう。受け取ってしまったら、いつか手を振りほどくとき、自分が壊れる。

  彼女は小箱の鍵を開けた。布袋を引き出し、ムーンジェイドの欠片を掌に乗せる。夜明け前の光を吸って、欠片は淡い青を帯びた。
  青。理性の色。そうだ、理性で片付ければいい。夢は脳の整理。身体は疲労。原因は睡眠不足——。

  そう結論づけようとした瞬間、欠片がふっと桃に揺れた。
  彼女の胸の鼓動に合わせるように、柔らかく、照れるように。掌の内側が熱くなり、指の震えがまた小さく走った。

  「……湿度の影響ね」

  ヴァランは自分でも苦しい言い訳を口にした。欠片を布袋へ戻そうとするが、震えで袋の口をうまく掴めない。もどかしさに眉が寄ったとき、シェルヴィが近づき、袋の紐を持った。
  彼は勝手に結ばない。結ぶ前に、ヴァランの視線を待つ。

  それが、また怖い。

  ヴァランは頷く代わりに、指で袋の口を押さえた。すると、彼の指が、その上からそっと添えられた。圧はない。ただ、揺れを止めるための支えだけがある。
  触れた瞬間、欠片が布越しに、金へ変わった気がした。

  ヴァランは息を呑んだ。金は決意の色だ。今の自分に、何の決意があるというのか。
  彼女は慌てて手を引こうとしたが、震えのせいでうまく引けず、逆に指が絡みそうになった。シェルヴィはすっと手を退き、絡まる前に距離を戻す。上手すぎる。

  「……あなた、昔からそうなの?」

  口が勝手に動いた。何に向かっての質問か、自分でも分からない。昔から、支えるのが上手なのか。昔から、切り捨てられても戻ってくるのか。

  シェルヴィはしばらく黙ってから、窓の布越しの空を見た。
  「昔は、覚えてない」

  言葉が少ない。なのに、胸が痛い。忘れているのに、ここにいる。その矛盾が、夢の「ぷつり」と同じ音を連れてくる。
  ヴァランは杯の底の温さを確かめるように指を滑らせた。少しだけ震えが止まっている。

  「……私は、夢を整理するのが得意だったの。書けば、終わる。線を引けば、終わる」

  自分の声が、子どもみたいに弱い。言った途端、顔が熱くなる。欠片がまた桃に光りそうで、視線を逸らした。

  シェルヴィは机の端に置いた布巾を、ヴァランの手元へ寄せた。指先が冷えているのを見て、そこに手を置けと言っているようだった。
  「終わらない夢も、ある」

  それだけ言って、彼は立ち上がった。扉の方へ戻る。出て行くのかと思った瞬間、彼は扉の前で振り返り、短く付け足した。

  「水、もう少し作る」

  優しさが、逃げ道の形をしていない。置いていかれない。押し付けられない。だから、怖い。

  扉が静かに閉まったあと、ヴァランは机の前に座った。羽根ペンを拾い上げ、震えが戻らないうちに、帳面を開く。
  いつもの癖で、項目を立てた。
  「起床時の手指振戦 原因候補:睡眠不足/冷え/不安」

  「不安」と書いたところで、ペン先が止まった。インクが小さく滲む。
  彼女はその滲みを、線で消そうとして、やめた。滲みは滲みのまま残る。今夜の自分みたいだ。

  ヴァランは帳面を閉じ、布袋の上に手を置いた。震えは完全には止まらない。でも、温水の熱はまだ掌に残っている。
  彼女は小さく息を吐き、朝の段取りを頭の中で組み直した。

  振りほどく夢を見た手で、今日は、誰の手も振りほどかない。
  その決意が、金色のように眩しくて、同じだけ、胸がきゅっと痛んだ。

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