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第22話 恋のヒントは、謝り方
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コワリクの屋敷を出たあと、ヴァランは石畳の上で立ち止まった。
朝の光が、上層街の白い壁を眩しく撫でる。昨夜の怒りがまだ胸に残っているのに、目の前の景色は何事もなかったように綺麗で、余計に腹が立つ。
シェルヴィは二歩先で待っていた。振り返りもせず、ただ足を止めるだけで、彼が「ここだ」と言っているのが分かる。
ヴァランは息を整え、声を低くした。
「整備局の工房へ。聖塔の修繕師に会う。……コワリクの口から漏れた話が、どこへ流れたかを確かめる」
「うん」
たった一音なのに、止めないときの彼の返事は、妙に重い。ヴァランは歩き出した。
整備局の工房は、聖塔の影が落ちる場所にある。石の粉の匂いと油の匂いが混ざって、鼻の奥がむずむずする。扉を開けると、職人たちが一斉にちらりとこちらを見た。視線がヴァランの制服へ向き、次に背後のシェルヴィへ移る。護衛がいる監査官は、やはり目立つ。
「おーい、監査官さん。そこ、足元」
奥から声が飛んだ。ヴァランが一歩踏み出した瞬間、床に置かれた桶の縁に靴先が当たり、冷たい水が跳ねた。
「……っ」
白い靴に、くっきり水滴。ヴァランは顔の筋肉が固まるのを感じた。
水を張った桶の横で、腕まくりした男が笑っている。イシャックだ。石工の手は節だらけで、指先に細かな傷がある。笑っているのに、目だけは作業台の上の部品から離れない。
「置いてあるなら、置いてあるって言いなさい」
「言った。『足元』って」
「それは言ったうちに入らない」
イシャックは肩をすくめ、布切れを投げて寄こした。ヴァランがそれで靴を拭こうとした瞬間、背後から小さな香水の匂いがした。
「まあまあ。監査官さま、白は汚れるものですわ」
コワリクが、扇を揺らしながら入ってくる。……いや、扇は持っていない。手元にあるのは、小さな革の手袋だ。淡い青のドレスの裾を少し持ち上げ、汚れないように気を遣っているのが丸わかりだった。
ヴァランの胸の奥が、ぎゅっと硬くなる。
「来たのね」
「ええ。……その、昨日は」
コワリクは言葉を探すように唇を開きかけ、すぐに閉じた。普段なら、ここで軽い冗談とお世辞を混ぜて煙に巻く。けれど今日は、目が逃げない。逃げないだけで、彼女がどれほど居心地悪いかが伝わってくる。
ヴァランは腕を組み、言った。
「謝るなら、理由と責任を言いなさい。曖昧な言い方は認めない」
言った瞬間、自分の口が冷たい刃物になったのが分かった。正しさで相手を叩く、いつもの癖。
シェルヴィが横で、ほんの少しだけ息を吸った。止めるわけでもない。けれど、音だけで「痛い」と言われた気がして、ヴァランは視線を落とした。
イシャックが作業台を叩いた。
「言い訳より手を動かせ」
そして、コワリクへ工具袋を突き出した。中には小槌、鑿、細い金具、油差し。上層街の客間とは縁のない匂いがする。
「え、ええと……わたくし、これを持ったら……爪が」
「爪は後で直せる。割れた石は戻らん」
容赦のない一言に、コワリクの肩がぴくりと跳ねた。彼女は一度ヴァランを見て、次にシェルヴィを見た。逃げ道を探す視線ではない。許可を待つ視線だ。
ヴァランは、喉の奥が苦くなるのを飲み込んだ。
「……やりなさい。あなたが漏らした話が、都の灯りを揺らした。なら、都の灯りを支える手の痛みも知るべきよ」
コワリクは小さく頷き、工具袋を受け取った。その瞬間、手袋の中で指が震えたのが見えた。
イシャックは工房の奥へ案内した。そこには、聖塔の地下と繋がる補修用の部屋があり、古い装置の部品が積まれている。歯車は月形に欠け、軸受けは黒く焼けていた。
「昨夜、地下の装置がまた唸った。油が足りない。部品も摩耗してる。親玉がどこにあるかは知らんが、都の灯りが落ちたら、下層街から先に泣く」
ヴァランは頷いた。怒りが、少しずつ形を変える。責めるための熱ではなく、守るための熱。
「私が帳簿を整える。あなたは部品を直して」
「帳簿より先に、目で見ろ。ここの欠けは、刃物じゃない。硬い石で叩かれた」
イシャックが歯車の欠けを指でなぞった。ヴァランは覗き込み、欠けの縁に薄い青白い粉が残っているのを見つけた。
ムーンジェイドの粉――そう思った瞬間、胸元の石が、微かに熱を持った。
視界の端が揺らぐ。石の部屋、冷たい床、膝をつく誰か。謝る声が聞こえるのに、ヴァランは背を向けて歩いていく。歩いていく足音だけが、やけに大きい。
「ヴァラン」
シェルヴィの声が、現実へ引き戻した。彼はヴァランの指先を見ている。いつの間にか、ヴァランは欠けた歯車を素手で掴んでいた。鋭い縁が指に食い込み、赤い線が一本、浮き上がっている。
「……大丈夫」
「血」
「だから大丈夫。少し切っただけ」
言い切った途端、シェルヴィは無言で布を当てた。彼の手が近い。布越しに触れる指の温度が、妙に落ち着く。
ヴァランは、ふと気づいた。
――謝り方は、言葉だけじゃない。
布を当てる。水を持ってくる。都の灯りが落ちないように、黙って立つ。彼の「ごめん」は、いつも行動の形で来る。
コワリクが、ぎこちなく小槌を握っている。イシャックに言われるまま、歯車の縁へ金具を当て、叩こうとして――小槌が滑って、自分の手袋の上を叩いた。
「いたっ!」
悲鳴が工房に響き、職人たちが一斉に顔を上げた。笑いが起きる。コワリクは真っ赤になり、慌てて扇がない手元を探して、何もない空気をぱたぱたした。
「……扇、忘れたの?」
ヴァランが言うと、コワリクは口を尖らせた。
「持ってきたら、また隠れたくなるでしょう」
その返事が、妙に真面目で、ヴァランは一瞬言葉を失った。イシャックが鼻で笑う。
「そうだ。隠れる道具は置いてきたんだろ。なら、叩け。力は腕じゃない。腰だ」
「腰……?」
「腰」
コワリクは恐る恐る姿勢を変え、再び小槌を振り下ろした。今度は金具の頭に当たり、乾いた音がした。職人たちの笑いが、今度は少しだけ温かい。
ヴァランは、その様子を見ながら、胸の奥の硬い塊が少し溶けるのを感じた。罰を与えるだけなら簡単だ。けれど、手を動かす場所を作るのは、思ったより難しい。
「……昨日のこと」
コワリクが、作業の合間に小さく言った。埃が頬に付いているのに、指で拭う余裕がない。
「修繕師に親玉の噂を話したのは、わたくしです。『珍しい石がある』って。笑って言いました。笑いながら言えば、軽い話になると思って……」
言葉がそこで途切れた。小槌を握る手が、また震える。
ヴァランは、いつものように「それがどれほど危険か」「規則はどうか」と畳みかけそうになった。けれど、胸元のムーンジェイドがまだ熱い。背を向けた夢の足音が、耳の奥で鳴る。
ヴァランは息を吐き、言った。
「……分かった。あなたがしたことは消えない。けれど、今ここで直す手は、消さなくていい」
コワリクが目を見開いた。次の瞬間、笑いそうになって、笑えず、変な顔になった。上層街の優雅な微笑みではなく、泥に足を取られた人の顔だ。
「許してくださるの?」
「許すかどうかは、都の灯りが落ちなかった後に考える」
ヴァランは言ってから、自分でも驚いた。冷たい言い方なのに、刃物ではない。期限を決めて、前へ進むための言葉だ。
シェルヴィが、ほんの少し口角を上げた。
ヴァランは見間違いかと思って、思わず彼の顔を見た。シェルヴィはすぐに真面目な表情に戻り、視線を逸らす。けれど、さっき確かに、笑った。たったそれだけで、胸が妙に忙しい。
「……何よ」
「何も」
「何かあるでしょう」
「今、怒らない顔だった」
ヴァランは言葉を失った。怒らない顔、という言い方が、妙に的確で腹が立つのに、嬉しい。
工房の奥で、イシャックが仕上げの油を差した。歯車がゆっくり回り、金属の擦れる嫌な音が消える。代わりに、規則正しい音が響き始めた。都の灯りを支える小さな鼓動。
その音に混ざって、ヴァランの胸元のムーンジェイドが、今度は冷たく静かになった。
――背を向けたままでは、何も守れない。
ヴァランは布を当てられた指をそっと握り、コワリクの方へ向き直った。
「作業が終わったら、あなたは私の前で、もう一度言いなさい。笑わずに。軽くせずに」
コワリクは、今度こそ頷いた。
「……はい。笑わずに言います。たぶん、すごく変な顔になるけれど」
「変な顔で十分よ」
ヴァランが言うと、工房の誰かが吹き出した。コワリクがむくれ、イシャックが「手を止めるな」と叱り、シェルヴィはまた少しだけ、息を漏らした。
都の灯りは、まだ落ちない。けれど、今日ひとつ、落ちそうだったものが、落ちずに済んだ気がした。
朝の光が、上層街の白い壁を眩しく撫でる。昨夜の怒りがまだ胸に残っているのに、目の前の景色は何事もなかったように綺麗で、余計に腹が立つ。
シェルヴィは二歩先で待っていた。振り返りもせず、ただ足を止めるだけで、彼が「ここだ」と言っているのが分かる。
ヴァランは息を整え、声を低くした。
「整備局の工房へ。聖塔の修繕師に会う。……コワリクの口から漏れた話が、どこへ流れたかを確かめる」
「うん」
たった一音なのに、止めないときの彼の返事は、妙に重い。ヴァランは歩き出した。
整備局の工房は、聖塔の影が落ちる場所にある。石の粉の匂いと油の匂いが混ざって、鼻の奥がむずむずする。扉を開けると、職人たちが一斉にちらりとこちらを見た。視線がヴァランの制服へ向き、次に背後のシェルヴィへ移る。護衛がいる監査官は、やはり目立つ。
「おーい、監査官さん。そこ、足元」
奥から声が飛んだ。ヴァランが一歩踏み出した瞬間、床に置かれた桶の縁に靴先が当たり、冷たい水が跳ねた。
「……っ」
白い靴に、くっきり水滴。ヴァランは顔の筋肉が固まるのを感じた。
水を張った桶の横で、腕まくりした男が笑っている。イシャックだ。石工の手は節だらけで、指先に細かな傷がある。笑っているのに、目だけは作業台の上の部品から離れない。
「置いてあるなら、置いてあるって言いなさい」
「言った。『足元』って」
「それは言ったうちに入らない」
イシャックは肩をすくめ、布切れを投げて寄こした。ヴァランがそれで靴を拭こうとした瞬間、背後から小さな香水の匂いがした。
「まあまあ。監査官さま、白は汚れるものですわ」
コワリクが、扇を揺らしながら入ってくる。……いや、扇は持っていない。手元にあるのは、小さな革の手袋だ。淡い青のドレスの裾を少し持ち上げ、汚れないように気を遣っているのが丸わかりだった。
ヴァランの胸の奥が、ぎゅっと硬くなる。
「来たのね」
「ええ。……その、昨日は」
コワリクは言葉を探すように唇を開きかけ、すぐに閉じた。普段なら、ここで軽い冗談とお世辞を混ぜて煙に巻く。けれど今日は、目が逃げない。逃げないだけで、彼女がどれほど居心地悪いかが伝わってくる。
ヴァランは腕を組み、言った。
「謝るなら、理由と責任を言いなさい。曖昧な言い方は認めない」
言った瞬間、自分の口が冷たい刃物になったのが分かった。正しさで相手を叩く、いつもの癖。
シェルヴィが横で、ほんの少しだけ息を吸った。止めるわけでもない。けれど、音だけで「痛い」と言われた気がして、ヴァランは視線を落とした。
イシャックが作業台を叩いた。
「言い訳より手を動かせ」
そして、コワリクへ工具袋を突き出した。中には小槌、鑿、細い金具、油差し。上層街の客間とは縁のない匂いがする。
「え、ええと……わたくし、これを持ったら……爪が」
「爪は後で直せる。割れた石は戻らん」
容赦のない一言に、コワリクの肩がぴくりと跳ねた。彼女は一度ヴァランを見て、次にシェルヴィを見た。逃げ道を探す視線ではない。許可を待つ視線だ。
ヴァランは、喉の奥が苦くなるのを飲み込んだ。
「……やりなさい。あなたが漏らした話が、都の灯りを揺らした。なら、都の灯りを支える手の痛みも知るべきよ」
コワリクは小さく頷き、工具袋を受け取った。その瞬間、手袋の中で指が震えたのが見えた。
イシャックは工房の奥へ案内した。そこには、聖塔の地下と繋がる補修用の部屋があり、古い装置の部品が積まれている。歯車は月形に欠け、軸受けは黒く焼けていた。
「昨夜、地下の装置がまた唸った。油が足りない。部品も摩耗してる。親玉がどこにあるかは知らんが、都の灯りが落ちたら、下層街から先に泣く」
ヴァランは頷いた。怒りが、少しずつ形を変える。責めるための熱ではなく、守るための熱。
「私が帳簿を整える。あなたは部品を直して」
「帳簿より先に、目で見ろ。ここの欠けは、刃物じゃない。硬い石で叩かれた」
イシャックが歯車の欠けを指でなぞった。ヴァランは覗き込み、欠けの縁に薄い青白い粉が残っているのを見つけた。
ムーンジェイドの粉――そう思った瞬間、胸元の石が、微かに熱を持った。
視界の端が揺らぐ。石の部屋、冷たい床、膝をつく誰か。謝る声が聞こえるのに、ヴァランは背を向けて歩いていく。歩いていく足音だけが、やけに大きい。
「ヴァラン」
シェルヴィの声が、現実へ引き戻した。彼はヴァランの指先を見ている。いつの間にか、ヴァランは欠けた歯車を素手で掴んでいた。鋭い縁が指に食い込み、赤い線が一本、浮き上がっている。
「……大丈夫」
「血」
「だから大丈夫。少し切っただけ」
言い切った途端、シェルヴィは無言で布を当てた。彼の手が近い。布越しに触れる指の温度が、妙に落ち着く。
ヴァランは、ふと気づいた。
――謝り方は、言葉だけじゃない。
布を当てる。水を持ってくる。都の灯りが落ちないように、黙って立つ。彼の「ごめん」は、いつも行動の形で来る。
コワリクが、ぎこちなく小槌を握っている。イシャックに言われるまま、歯車の縁へ金具を当て、叩こうとして――小槌が滑って、自分の手袋の上を叩いた。
「いたっ!」
悲鳴が工房に響き、職人たちが一斉に顔を上げた。笑いが起きる。コワリクは真っ赤になり、慌てて扇がない手元を探して、何もない空気をぱたぱたした。
「……扇、忘れたの?」
ヴァランが言うと、コワリクは口を尖らせた。
「持ってきたら、また隠れたくなるでしょう」
その返事が、妙に真面目で、ヴァランは一瞬言葉を失った。イシャックが鼻で笑う。
「そうだ。隠れる道具は置いてきたんだろ。なら、叩け。力は腕じゃない。腰だ」
「腰……?」
「腰」
コワリクは恐る恐る姿勢を変え、再び小槌を振り下ろした。今度は金具の頭に当たり、乾いた音がした。職人たちの笑いが、今度は少しだけ温かい。
ヴァランは、その様子を見ながら、胸の奥の硬い塊が少し溶けるのを感じた。罰を与えるだけなら簡単だ。けれど、手を動かす場所を作るのは、思ったより難しい。
「……昨日のこと」
コワリクが、作業の合間に小さく言った。埃が頬に付いているのに、指で拭う余裕がない。
「修繕師に親玉の噂を話したのは、わたくしです。『珍しい石がある』って。笑って言いました。笑いながら言えば、軽い話になると思って……」
言葉がそこで途切れた。小槌を握る手が、また震える。
ヴァランは、いつものように「それがどれほど危険か」「規則はどうか」と畳みかけそうになった。けれど、胸元のムーンジェイドがまだ熱い。背を向けた夢の足音が、耳の奥で鳴る。
ヴァランは息を吐き、言った。
「……分かった。あなたがしたことは消えない。けれど、今ここで直す手は、消さなくていい」
コワリクが目を見開いた。次の瞬間、笑いそうになって、笑えず、変な顔になった。上層街の優雅な微笑みではなく、泥に足を取られた人の顔だ。
「許してくださるの?」
「許すかどうかは、都の灯りが落ちなかった後に考える」
ヴァランは言ってから、自分でも驚いた。冷たい言い方なのに、刃物ではない。期限を決めて、前へ進むための言葉だ。
シェルヴィが、ほんの少し口角を上げた。
ヴァランは見間違いかと思って、思わず彼の顔を見た。シェルヴィはすぐに真面目な表情に戻り、視線を逸らす。けれど、さっき確かに、笑った。たったそれだけで、胸が妙に忙しい。
「……何よ」
「何も」
「何かあるでしょう」
「今、怒らない顔だった」
ヴァランは言葉を失った。怒らない顔、という言い方が、妙に的確で腹が立つのに、嬉しい。
工房の奥で、イシャックが仕上げの油を差した。歯車がゆっくり回り、金属の擦れる嫌な音が消える。代わりに、規則正しい音が響き始めた。都の灯りを支える小さな鼓動。
その音に混ざって、ヴァランの胸元のムーンジェイドが、今度は冷たく静かになった。
――背を向けたままでは、何も守れない。
ヴァランは布を当てられた指をそっと握り、コワリクの方へ向き直った。
「作業が終わったら、あなたは私の前で、もう一度言いなさい。笑わずに。軽くせずに」
コワリクは、今度こそ頷いた。
「……はい。笑わずに言います。たぶん、すごく変な顔になるけれど」
「変な顔で十分よ」
ヴァランが言うと、工房の誰かが吹き出した。コワリクがむくれ、イシャックが「手を止めるな」と叱り、シェルヴィはまた少しだけ、息を漏らした。
都の灯りは、まだ落ちない。けれど、今日ひとつ、落ちそうだったものが、落ちずに済んだ気がした。
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