月光のムーンジェイドと、静かな護衛官

乾為天女

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第24話 月虹のリハーサル、甘い罠

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 翌日の午後、上層街の大劇場は、昼の光を受けて白い回廊が眩しく光っていた。文化祭の舞台がここで上がる。ヴァランは整備局の通行証を胸に、舞台袖へ続く扉を押した。手帳には、分刻みの確認項目が並ぶ。照明、搬入、警備導線、そして――月虹装置。

  「監査官、舞台は暗い。段差、三つ」

  背後でシェルヴィが短く告げた。ヴァランは足を止め、視線を落として段差の位置を覚える。彼の言葉は、指示というより、転ばないための手すりみたいだ。

  舞台袖には、木の床にチョークの線が走り、布の匂いと金具の冷たさが混ざっていた。イシャックが腕まくりで照明台の根元にしゃがみ、工具箱の蓋を開け閉めしている。隣ではアデムが台本を抱え、紙の端を丁寧に揃えていた。

  「装置の固定は、これで最後です。落ちたら、劇場の責任者が泣きます」

  イシャックが言うと、ヴァランは即座に頷いた。

  「泣く前に、損害額が出ます。確認します」

  舞台中央には、ムーンジェイドの薄片を嵌め込んだ小さな環が、鉄の支柱に取り付けられている。昼の光ではただの青緑に見えるのに、ここへ特定の角度で灯りを当てると、月の虹――月虹が走る仕組みだ。

  「その角度、昨夜より二度だけ寝かせた。虹が長く出る」

  イシャックが言い、レンチを締め直す。アデムがすぐにメモを取る。

  「二度。了解。照明班に共有します」

  そこへ、舞台袖のカーテンが勢いよく揺れた。

  「いた! ちょうどいいところに!」

  カムーが駆け込んできた。衣装の裾を片手で持ち上げ、もう片手で台本を振っている。頬が少し汗ばんでいるのに、目だけはきらきらしていた。

  「監査官、護衛官、お願い。今すぐ、舞台に上がって」

  「お願い、ではないでしょう。次は“依頼書”です」

  ヴァランがいつもの調子で言うと、カムーは両手を合わせて、声の高さを変えた。

  「依頼書は後で書くから、今。恋人役、欠員!」

  ヴァランの眉が跳ねた。

  「恋人役?」

  「そう。主役が月虹の下で誓う場面、相手役が熱を出して来られないの。代役が必要。台詞は短い。ええと……」

  カムーはページをめくり、舞台中央を指さした。

  「ここ。手を取って、近づいて、“離れない”って言うだけ」

  ヴァランは視線を泳がせ、反射的に整備局の掲示板を探した。逃げ道はない。周りは照明台と衣装箱と、状況を楽しむ目が四つ。

  「護衛官は、舞台に立つ職務では――」

  「職務なら、監査官も“恋人役”じゃない」

  カムーが即答した。返しが早い。ヴァランが反論の言葉を探しているうちに、コワリクが扇子で口元を隠し、さらりと言った。

  「二人が並ぶと、舞台が締まるわ。噂も締まるかしら」

  噂という単語だけで、ヴァランの背筋が伸びる。締めるべきは噂ではなく、段取りだ。

  「分かりました。動線と安全確認のためなら。台詞の内容は、事前に精査します」

  カムーは勝ち誇ったように笑い、シェルヴィの腕を掴んで引っ張った。護衛官の身体は引かれても崩れない。崩れないまま、ヴァランの方を一度だけ見た。

  「監査官。……無理なら、言え」

  短い言葉なのに、言われた側の喉が詰まる。ヴァランは台本を受け取り、紙の角を揃えた。

  「無理ではありません。必要な確認をします」

  舞台に上がると、客席は薄暗く、中央にだけ光が落ちている。照明班が試しに灯りを点け、ムーンジェイドの環へ向けた。青緑の石が息をするみたいに明るさを変え、空気の中に淡い色が滲んだ。

  「はい、立ち位置。ここ。護衛官、あなたは半歩後ろ……じゃない、半歩前。そう、前。守るなら前」

  ヴァランが床の印を見ながら言うと、カムーが肩を揺らして笑った。

  「もう“守る”って言ってる。恋人役、向いてる」

  ヴァランは咳払いで誤魔化し、台本の該当箇所を指で押さえた。

  「台詞は、ここから。私は――“月虹が消えても、あなたの手を離さない”。相手は――」

  「……“逃げない”。」

  シェルヴィが台本を見ずに言った。音が客席に吸い込まれ、残響が返ってこない。返ってこないから、言葉だけが残る。

  カムーが両手を広げた。

  「それ! その声! もう一回、もっと近くで!」

  「近く、とは距離で言えば――」

  「測らない! 胸で!」

  カムーが叫び、イシャックが舞台袖から口を挟んだ。

  「胸で測るなら、落ちない程度に。舞台、狭い」

  アデムが淡々と補足する。

  「転倒事故は報告書が増えます。監査官、護衛官、手を取る動作だけ確認しましょう」

  言われて、ヴァランは自分の手のひらを見た。爪の先まで整えた手。帳簿の紙をめくるための手。その手を、誰かの手に重ねる練習などしたことがない。

  「……では、手を」

  言った瞬間、声が裏返りそうになった。シェルヴィは一歩寄り、ためらいなく手を差し出した。鎧の手袋ではない。素手だ。指先に、普段は見えない温度がある。

  ヴァランがそっと触れると、彼の指がすぐに形を作った。握り返すのではなく、落とさないように支える形。護衛官の握り方だ。なのに、手の甲に当たる親指だけが、ゆっくりと丸く動いた。

  「……監査官。呼吸」

  耳元で囁くように言われ、ヴァランは自分が息を止めていたことに気づいた。吸って、吐く。手の温度が、体の内側まで届く。

  照明が切り替わり、ムーンジェイドの環が光を抱えた。次の瞬間、空気に七色の帯が走る。月虹だ。虹が二人の肩をかすめ、髪に色を落としていく。

  「ほら! 月虹の下! 台詞!」

  カムーの声に背中を押され、ヴァランは台本を見た。見たのに、紙の文字が一瞬、別の言葉に見えた。

  ――月の石を、止めないと。

  ――あなたを、置いていけない。

  胸の奥で、知らない誰かの焦りが走った。ヴァランは瞬きをし、今ここに戻る。舞台、文化祭、月虹。今は“代役”だ。

  「……月虹が消えても、あなたの手を離さない」

  言った瞬間、客席の奥で誰かが小さく息を呑んだ。関係者の数人が座っているだけのはずなのに、視線が刺さる気がする。ヴァランの頬は熱くなる。熱くなるのに、手は離れない。

  シェルヴィは、ヴァランを見た。目を細めるでもなく、笑うでもなく、ただ見ている。そこに逃げ場がない。

  「……逃げない」

  今度は、少しだけ声が低くなった。胸に当たって、跳ね返らずに沈む声だった。

  カムーが舞台袖で拳を握った。

  「よし! これ、客席が泣く! ……泣く前に、笑うかも!」

  コワリクが扇子の影から、小さく肩を震わせた。

  「監査官、赤い。今日は灯りのせいじゃないわね」

  「灯りの角度のせいです」

  ヴァランは言い切った。言い切ったのに、シェルヴィの指がほんの少しだけ、ヴァランの手の甲を撫でた。慰めでも合図でもなく、確かめるみたいに。

  リハーサルが一段落し、カムーが舞台の端で大きく伸びをした。

  「二人とも、そのまま。退場も確認する。手、離さないで歩いて」

  「退場導線の確認ですね」

  ヴァランが真面目に返すと、カムーは笑いながら頷いた。

  「そうそう。導線。……と、心の線」

  ヴァランは反論しかけたが、客席側から聞こえた拍手で口を閉じた。関係者の拍手だ。仕事の拍手。なのに、胸の奥が妙にくすぐったい。

  舞台を降り、袖へ戻る途中で、アデムが視線だけで二人を追い、紙に何かを書き足した。ヴァランはそれを見逃さず、問い詰めたくなった。けれど、その問いは帳簿の穴ではなく、自分の頬の熱の理由に向かってしまう。

  シェルヴィが小さく言う。

  「……見られていた」

  「舞台だから当然でしょう」

  「違う。……舞台袖の奥」

  ヴァランは足を止め、暗い通路を見た。布の影が揺れた気がする。犯人の気配か、ただの風か。分からない。分からないのに、さっきより心臓が速い。舞台の台詞のせいで、判断が鈍るのが腹立たしい。

  「夜回りで確認します」

  ヴァランが言うと、シェルヴィは頷いた。頷き方が、いつもより柔らかい気がした。気がするだけだと、ヴァランは自分に言い聞かせる。

  劇場を出ると、上層街の噴水が昼でも微かに光っていた。日が傾き、石畳の影が伸びる。ヴァランは歩幅を速めた。手帳を開き、夜回りの順路を確かめる。確かめるのに、舞台で握った手の形が、指に残っている。

  シェルヴィが隣を歩く。彼の歩調に合わせると、不思議と急ぐ必要がなくなる。

  「監査官」

  「何」

  「さっきの台詞。……無理はするな」

  無理。ヴァランはその言葉に、昨夜書いた名前の紙片を思い出した。セルヴィス。口にしてはいけない気がするのに、口にしたい気がする。

  「無理ではありません。……ただ、確認が増えただけです」

  「確認?」

  「はい。あなたの手が、どうしてああいう形で支えるのか。私が、どうして離さなかったのか」

  言った途端、ヴァランは自分で自分に驚いた。帳簿の言い回しで、心の話をした。シェルヴィは歩みを止めず、ほんの少しだけ顎を引いた。

  「夜回りのとき、話せ」

  それだけ。短いのに、胸が軽くなる。軽くなるのが怖いのに、軽くなる。

  文化祭の準備は、都の灯りと同じで、止められない。止めたくない。ヴァランは手帳を閉じ、空を見上げた。昼の月が薄く浮かび、その周りに、舞台の月虹とは別の、見えない色が滲んでいる気がした。

  甘い罠は、カムーの台本だけじゃない。ヴァランは気づいてしまった。自分が、夜回りを待っていることに。

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