月光のムーンジェイドと、静かな護衛官

乾為天女

文字の大きさ
30 / 30

第30話 月光の告白と、静かな返事

しおりを挟む
 聖塔の回廊は、祭りの喧噪から一歩離れただけで、別の世界みたいに静かだった。床の白い石は月を映して淡く光り、柱の影が長く伸びる。遠くでまだ拍手の波が揺れているのに、ここでは自分の呼吸の音がやけに大きい。

  ヴァランは胸元の布を、無意味に二度直した。指が震えるのが嫌で、完璧な角度に折り目を揃えるような所作を繰り返してしまう。舞台で手紙を読んだ。宛先を言った。前世の罪まで口にした。そこまでやったのに、まだ足りない気がしている自分が、情けなくて、腹立たしい。

  肩掛け鞄の中で、紙の端が指に触れた。
  「持ち物チェック表」。
  祭りの朝、いつも通りに作り直した。靴、手袋、仮面、予備の糸、針、包帯、のど飴、舞台袖で読む用の手紙――最後に、小さく一行だけ書いた。
  『逃げない』。

  回廊の窓から、月虹が見えた。都の上に弧を描く光。舞台の照明よりずっと淡いのに、こちらの方が胸に刺さる。あれは、都の誇りで、同時に、誰かの欲望に利用されかけたものでもある。

  「……ヴァラン」

  背後から声がした。短い呼び方なのに、なぜか泣きそうになる。振り向く前に、ヴァランは口角を持ち上げる練習をしてしまって、すぐにそれをやめた。

  シェルヴィは回廊の入口に立っていた。護衛の制服は祭り用の飾り紐が外されていて、いつもの静かな姿に戻っている。髪にはまだ舞台裏で飛んだ金粉が一粒、残っていた。気づいていないのか、気づいていて放っているのか分からないところが、彼らしい。

  「舞台、終わったのに。ここにいていいの?」
  ヴァランは、聞かれてもいないことを先に言った。言葉を整える時間が欲しかったのだと、今さら気づく。
  「探した」
  彼は、それだけ言って歩いてきた。靴音が石に吸われて小さく響く。

  「……さっきの手紙、」
  ヴァランは続きを言おうとして、舌が上手く動かなかった。完璧な文章を準備してきたはずなのに、舞台で全部崩れた。いや、舞台で崩れたからこそ、いま言うべき言葉が残っている。

  彼女は鞄から、小さな袋を取り出した。月虹の露を吸わせた布と、ムーンジェイドの欠片。工房街でイシャックが削ってくれた、爪ほどの石だ。色は青でも桃でも金でもなく、いまは薄い白に近い。光が脈打つたび、胸の鼓動と重なる。

  「これ、返す」
  「……返さない」
  思わず顔を上げた。いつもなら短い返事で終わる彼が、即座に否定したことが意外だった。

  「借りたものじゃない」
  「でも、あなたが守った印……」
  ヴァランの声が掠れた。前世で、彼は彼女を守り、彼女は彼を置き去りにした。装置を止めるためだと、都のためだと、自分に言い聞かせた。それでも、置き去りにした手の温度だけが、ずっと残っていた。

  シェルヴィは彼女の手元を見た。ムーンジェイドではなく、指先の小さな切り傷を見ていた。舞台袖で紙に指を切ったのだろう。彼は黙って自分のポケットから白い布を出し、傷に巻こうとした。

  「待って。そういうの、今は……」
  止めようとして、ヴァランの指が空を掴んだ。
  「今だから」
  彼は布を巻く手を止めなかった。結び目は不器用ではない。必要な力だけで、ほどけないように結ぶ。声も同じだった。必要な言葉だけを、ほどけないように置いていく。

  「前のことは、もう終わった」
  ヴァランの喉が鳴った。終わった、と言われて救われるはずなのに、どこかで反発したかった。終わったことにしてしまったら、自分の罪が軽くなる気がしたからだ。

  「終わった、って。そんな簡単に……」
  「簡単じゃない」
  彼は初めて、少しだけ眉を寄せた。怒っているのではない。言葉が足りない自分に苛立っているようだった。

  「俺は、覚えてる。置き去りにされたことも。戻ってきたことも。……お前が、止めたかった理由も」
  ヴァランは息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に痛い。笑いで誤魔化したくなる衝動が、喉の奥で暴れる。けれど、舞台で噛んでも拍手が返ってきたのを思い出す。完璧じゃない声でも、届くのだ。

  「私、完璧にやりたかった。都も、人も、あなたも、全部守って……」
  言いながら、足元に一枚の紙が落ちた。鞄の口が開いていたのだ。チェック表が、ひらりと床に滑っていく。白い石の上で、黒い字が妙に目立つ。

  ヴァランが慌てて拾おうとした瞬間、シェルヴィが先に屈んだ。無言で紙束を拾い上げる。彼が読み上げたのは、最後の一行だった。

  「『逃げない』」
  ヴァランの耳が熱くなった。拾い返そうと手を伸ばすが、彼は紙をすぐには返さない。代わりに、親指で紙の端を撫でた。破れかけたところを直すときの指だった。

  「逃げないのは、俺も」
  ヴァランは、笑ってしまった。声が変なところで跳ねて、すぐに咳に変わる。ああ、最後まで格好がつかない。けれど、その格好の悪さに、回廊の静けさが少しだけ優しくなる。

  「……私、あなたのことが好き」
  とうとう言ってしまった。手紙で書いた言葉を、口で言うのは別物だ。口から出た瞬間、逃げ道が消える。心臓が暴れて、指先まで熱い。

  前世の夢で見た「手を離した瞬間」が、喉の奥で棘のように疼く。今度こそ言い切らなければ、また同じ場所へ戻る。ヴァランは涙をこらえる代わりに、唇の内側を噛んだ。

  シェルヴィは返事を急がなかった。回廊の窓から入る月光が、彼の睫毛の影を長く伸ばす。彼は紙束を丁寧に畳んで、ヴァランの鞄へ戻した。最後の一行が見えるように、わざと表にして。

  それから、ようやく顔を上げた。

  「俺も」
  いつもの短い返事だ。けれど、そこで終わらなかった。

  「完璧なところじゃない。欠けてるところが、好きだ」
  ヴァランの胸がきゅっと縮む。欠けている、と言われれば本来は傷つくはずなのに、彼の声はそこに温度を置いた。欠けた器を捨てずに、手に取って使い続けるような温度。

  「お前は、計算が速い。段取りも、判断も。……でも、間違えるとき、笑える」
  「笑えるって、何それ」
  ヴァランは鼻を鳴らした。泣きそうになったのを隠すための癖だ。上手く隠れないことも、もう分かっている。
  「舞台で噛んだ」
  「……見てたのね」
  「見てた。拍手も」
  「それは観客が優しいだけ」
  「違う」
  シェルヴィは首を横に振った。否定の仕方が、珍しく強い。

  「優しさを受け取れるのが、お前の強さだ」
  ヴァランは言い返せなかった。完璧でいようとして拒むのではなく、完璧じゃないまま受け取る。そんな選択を、彼は強さだと言った。

  ムーンジェイドが、手の中で淡く光った。白い光は揺れながらも、消えない。赦しの色だと、イシャックが冗談めかして言っていたのを思い出す。笑い話にしていたのに、いまは胸の奥で真面目に鳴る。

  「……じゃあ、これからは」
  ヴァランが言いかけると、彼は先に頷いた。

  「隠れない」
  「言ったの、私じゃなくてあなた?」
  「お前が言う前に言った」
  「それ、ずるい」
  「ずるいのは、お前」
  珍しく彼が反撃した。ヴァランは目を丸くして、それから、噴き出した。

  回廊の奥から足音が聞こえた。誰かが見回りに来たのだろう。二人は反射的に身を寄せそうになって、同時に止まった。隠れない、と言ったばかりだ。

  ヴァランは背筋を伸ばし、堂々と立った。シェルヴィも同じように立つ。けれど、彼の手は、ヴァランの手を探した。指先が触れ、結び目みたいに絡む。誰に見られてもほどけないように。

  見回りの兵が角を曲がってきて、二人を見た。目を瞬かせ、敬礼し、わずかに口元を緩めた。
  「……お疲れさまです。都は、きれいでした」
  そう言い残して、兵は去っていった。ひそひそ声も、冷やかしもない。代わりに、祝福みたいな静けさが残った。

  ヴァランは、息を吐いた。肩の力が抜ける。完璧な未来なんて、きっと来ない。都の灯りはまた揺れるかもしれない。装置も、人も、必ずどこかで綻ぶ。それでも。

  「明日から、忙しいわよ」
  「うん」
  「都の復旧計画、書き直し。工房街の炉の点検。歌劇団の礼状。……あと」
  ヴァランは言葉を探して、笑った。
  「二人で歩く時間」
  シェルヴィは小さく息を吐いた。笑いなのか、安堵なのか分からない音。
  「歩く」
  「密会って言わないの?」
  「もう言わない」
  「じゃあ、ただの散歩」
  「散歩」
  短い言葉が重なる。重なった分だけ、確かになる。

  月虹が窓の外で少し強く光った。ムーンジェイドがそれに応えるように白く脈打つ。ヴァランはそれを握りしめ、もう一度だけ言った。

  「今度は、置き去りにしない」
  シェルヴィは、返事の代わりに彼女の手を引いた。回廊の先、月光が落ちる階段へ。舞台の幕は下りた。けれど、二人が歩く音は、ここから始まる。

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

目覚めたら公爵夫人でしたが夫に冷遇されているようです

MIRICO
恋愛
フィオナは没落寸前のブルイエ家の長女。体調が悪く早めに眠ったら、目が覚めた時、夫のいる公爵夫人セレスティーヌになっていた。 しかし、夫のクラウディオは、妻に冷たく視線を合わせようともしない。 フィオナはセレスティーヌの体を乗っ取ったことをクラウディオに気付かれまいと会う回数を減らし、セレスティーヌの体に入ってしまった原因を探そうとするが、原因が分からぬままセレスティーヌの姉の子がやってきて世話をすることに。 クラウディオはいつもと違う様子のセレスティーヌが気になり始めて……。 ざまあ系ではありません。恋愛中心でもないです。事件中心軽く恋愛くらいです。 番外編は暗い話がありますので、苦手な方はお気を付けください。 ご感想ありがとうございます!! 誤字脱字等もお知らせくださりありがとうございます。順次修正させていただきます。 小説家になろう様に掲載済みです。

拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎ 王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝―― 路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。 熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。 「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」 甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。 よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、 気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて―― しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!? 「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」 年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。 ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた

下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。 ご都合主義のハッピーエンドのSSです。 でも周りは全くハッピーじゃないです。 小説家になろう様でも投稿しています。

見捨ててくれてありがとうございます。あとはご勝手に。

有賀冬馬
恋愛
「君のような女は俺の格を下げる」――そう言って、侯爵家嫡男の婚約者は、わたしを社交界で公然と捨てた。 選んだのは、華やかで高慢な伯爵令嬢。 涙に暮れるわたしを慰めてくれたのは、王国最強の騎士団副団長だった。 彼に守られ、真実の愛を知ったとき、地味で陰気だったわたしは、もういなかった。 やがて、彼は新妻の悪行によって失脚。復縁を求めて縋りつく元婚約者に、わたしは冷たく告げる。

6年前の私へ~その6年は無駄になる~

夏見颯一
恋愛
モルディス侯爵家に嫁いだウィニアは帰ってこない夫・フォレートを待っていた。6年も経ってからようやく帰ってきたフォレートは、妻と子供を連れていた。 テンプレものです。テンプレから脱却はしておりません。

夫の妹に財産を勝手に使われているらしいので、第三王子に全財産を寄付してみた

今川幸乃
恋愛
ローザン公爵家の跡継ぎオリバーの元に嫁いだレイラは若くして父が死んだため、実家の財産をすでにある程度相続していた。 レイラとオリバーは穏やかな新婚生活を送っていたが、なぜかオリバーは妹のエミリーが欲しがるものを何でも買ってあげている。 不審に思ったレイラが調べてみると、何とオリバーはレイラの財産を勝手に売り払ってそのお金でエミリーの欲しいものを買っていた。 レイラは実家を継いだ兄に相談し、自分に敵対する者には容赦しない”冷血王子”と恐れられるクルス第三王子に全財産を寄付することにする。 それでもオリバーはレイラの財産でエミリーに物を買い与え続けたが、自分に寄付された財産を勝手に売り払われたクルスは激怒し…… ※短め

元恋人が届けた、断りたい縁談

待鳥園子
恋愛
シュトルム辺境伯の末娘ソフィに隣国の帝国第二皇子から届けられた『縁談』の使者は、なんと元恋人のジョサイアだった。 手紙ひとつで別れることになったソフィは、素直になれずジョサイアから逃げ回る。 「私に届けなければ、彼は帝国に帰ることが出来ない」 そう思いようやく書状を受け取ろうと決意したソフィに、ジョサイアは何かを言い掛けて!?

十八歳で必ず死ぬ令嬢ですが、今日もまた目を覚ましました【完結】

藤原遊
恋愛
十八歳で、私はいつも死ぬ。 そしてなぜか、また目を覚ましてしまう。 記憶を抱えたまま、幼い頃に――。 どれほど愛されても、どれほど誰かを愛しても、 結末は変わらない。 何度生きても、十八歳のその日が、私の最後になる。 それでも私は今日も微笑む。 過去を知るのは、私だけ。 もう一度、大切な人たちと過ごすために。 もう一度、恋をするために。 「どうせ死ぬのなら、あなたにまた、恋をしたいの」 十一度目の人生。 これは、記憶を繰り返す令嬢が紡ぐ、優しくて、少しだけ残酷な物語。

処理中です...