スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第2話 置き手紙は冷蔵庫の下で鳴る

 四月上旬の深夜。風見荘の廊下は、昼より音がよく響いた。誰かがトイレに向かうたび、板がきしみ、屋上の風鈴が薄く鳴る。窓の隙間から潮の匂いが入り込み、カーテンが小さく膨らんでは戻った。

 心咲は自分の部屋の小さな机に、メモ帳と鉛筆を置いたまま、ベッドの端に腰かけていた。胸ポケットには、さっき屋上で預かった赤い石。掌に取り出してみると、手の熱で少しだけ温まっている気がする。そんなことで安心しようとする自分が、少し可笑しい。

 廊下で、きしむ音が二つ。間隔が一定だ。心咲はふと、夕飯のとき翔琉が言っていたのを思い出した。風の音で天気が分かる。音で、何かが分かる。そういう人は、生活の不安も音に変えて整理するのだろうか。

 心咲はメモ帳を開き、一行だけ書いた。
 ――今の気持ち:落ち着かない。
 書くと、少し落ち着く。書かないと、落ち着かない。自分の取扱説明書みたいだ、と心咲は思って、ひとりで苦笑した。

 そのとき、廊下のほうで「ごとっ」と小さな音がした。何かが落ちた音。続いて、足音が一度だけ遠ざかり、すぐ消えた。風鈴が、ひとつだけ高く鳴る。
 心咲は息を止めた。耳が勝手に敏感になる。心臓が早くなる。怖さに名前をつける前に、体が先に反応してしまう。

 ベッドから立ち上がり、そっとドアを開ける。廊下には誰もいない。階段のほうから、外の風の音だけが流れてくる。
 足元を見ると、ドアの前に白い紙が落ちていた。折りたたまれた、手のひらサイズの紙。

 心咲は紙を拾い、部屋に戻ってから、机の上で開いた。鉛筆で、乱れた字が書かれている。

 ――見ないふりをしないで。
 ――夜中に起きたら、廊下の音を数えて。

 たった二行なのに、背中に冷たいものが走った。心咲はメモ帳を引き寄せ、手が震えるのを止めるみたいに鉛筆を握った。
 ――今の気持ち:怖い。疑いが湧く。
 疑いが湧いた、と書けた瞬間、自分の中の霧が少し薄くなる。霧のまま他人を見たら、見えるものまで歪む。

 心咲は紙を持って、共同キッチンへ向かった。夜更けでも、キッチンの明かりはついていた。姫蘭が、当番表を見ながら洗い物の順番を入れ替えているところだった。流しには、さっきの味見会で使ったスプーンがまだ少し残っている。水切りかごの金属が、風に触れてかすかに鳴った。

 「どうしたの」
 姫蘭がすぐ気づいて、蛇口を止めた。水音が止まると、心咲の呼吸の音が目立つ。

 「これが……部屋の前に」
 心咲が紙を差し出すと、姫蘭はまずグラスに水を注いだ。心咲の前に置く。次に紙を受け取り、声に出して読み上げた。読み上げ方が、まるで設計図の寸法を確認するみたいに落ち着いている。

 姫蘭は紙を机に置き、カードを取り出した。「状況」「感じたこと」「確認したいこと」。いつの間に作ったのか分からない。
 「今、順番を決める。感情は否定しない。推測は最後。いい?」
 心咲は水を一口飲んだ。冷たさが喉を通り、体の中に道ができる。
 「……はい」

 そこへ、トレーニングバッグを肩にかけた翔琉が帰ってきた。靴を脱ぐ音がして、すぐ、つま先がそろう音がする。本人は音を立てないつもりでも、心咲には分かる。
 「ただいま。……何かありました?」
 翔琉の視線が、机の紙に止まった。

 姫蘭が説明すると、翔琉は紙を手に取って、少しだけ眉を寄せた。怖がっている顔ではない。考えている顔だ。
 「これ、誰かがふざけてるのか、前に住んでた人の残りなのか……」
 言いかけて、翔琉は口を閉じた。自分の言葉が、誰かの不安を増やすかもしれないと分かったみたいに。

 その沈黙に、心咲は逆に助けられた。言葉の前にブレーキがある人だ。靴の向きをそろえる人は、言葉もそろえようとするのかもしれない。

 「私、まず確認したいです」
 心咲はカードの「確認したいこと」を指さした。
 「落とした音がしたのは、廊下のこの辺。きしむ板、覚えました。音を数えろって……書いてあるし」
 口に出すと、妙に現実味が増す。怖さが、輪郭になる。

 姫蘭は当番表を見て、連絡先の欄を指でたどった。
 「朋行を起こす。陽向太も一応。梨加子は……起きてる可能性が高い」
 姫蘭が電話をかけると、案の定、梨加子は一回で出た。
 『冷蔵庫の貼り紙、誰か剥がした?』
 第一声がそれで、心咲は緊張の中で変な笑いが出そうになった。

 数分後、朋行がキッチンに飛び込んできた。髪が跳ねている。手には、粉砂糖の袋。
 「味見会の続きじゃないよね? 俺、さっき……落とした!」
 朋行は袋を持ち上げ、机に置いた。袋の角が少し裂けていて、白い粉が廊下に点々と落ちているのが見える。
 「冷蔵庫の下に転がったスプーン拾おうとして、しゃがんだときに紙も落ちてた。『誰かのメモだ』って思って、つい、心咲の部屋の前に置いた。そしたらホラーになった」
 「ホラーにしたの、朋行」
 姫蘭が静かに言うと、朋行は「うっ」と声を詰まらせた。

 陽向太も、寝癖のまま現れた。片手に、昼に入れた氷の袋。
 「何かあった? 俺、忘れ物した?」
 翔琉が廊下を指さし、粉砂糖の点々を見せると、陽向太は「なるほど」と一度だけうなずいた。
 「理由が分かるなら、まずそれで安心。……でも紙の字は別だよね」

 梨加子は最後に現れた。スリッパの踵をきっちり合わせ、冷蔵庫の貼り紙を確認してから、紙を覗き込む。
 「朋行の字じゃない。朋行は丸い。これは、角がある」
 言い切ると、棚からマスキングテープを取り出した。
 「今夜は確認する。窓。鍵。玄関。順番、書く」
 テープに「窓、鍵、玄関」と細い字で書き、冷蔵庫の扉に貼る。貼り紙を増やす速度だけは、誰よりも早い。

 翔琉が頷いた。
 「じゃあ、俺が先に玄関。靴そろえながら、つまずかないように」
 「先に、って」
 心咲が思わず言うと、翔琉は少し困った顔で笑った。
 「俺、遅れるのが苦手で。……サッカーでも、味方が走り出す前に渡すほうが、届きます」
 生活の話にサッカーを持ち込むには真面目すぎる例えなのに、不思議と嫌じゃなかった。

 全員で廊下を歩いた。きしむ板の上で、音が「きぃ」と鳴る。心咲は、その音を数えた。ひとつ、ふたつ。音を数えると、足元が自分のものになる。怖さが、他人の影から、自分の呼吸に戻ってくる。

 窓の鍵は全部閉まっていた。屋上へ上がる扉も、きちんと施錠されている。玄関の引き戸も、翔琉が二度確認した。陽向太が「三回目いく?」と冗談めかすと、姫蘭が「三回はやりすぎ」と笑って止めた。梨加子は笑わずに、テープに小さな丸を三つ書いた。やりすぎと言いながら、記録は残す。

 確認が終わり、キッチンに戻ると、さっきより空気が軽くなっていた。風鈴がちりん、と鳴る。水切りかごの皿が、風でかすかに触れて鳴る。夜の家には、音がたくさんある。怖い音も、安心の音も、区別できる。

 心咲はメモ帳を開いた。怖さに名前をつける。疑いに名前をつける。そして、今の自分に必要なものにも名前をつける。
 ――今の気持ち:まだ怖い。でも、ひとりじゃない。

 姫蘭は紙をファイルに挟んだ。
 「明日、管理会社に連絡する。最近の入れ替わり、置き忘れの有無。聞く項目、私が書く」
 心咲は自分の胸ポケットを押さえた。赤い石が、そこにある。
 「私も、電話のとき横にいます。聞きたいこと、整理しておきます」
 言ってから、胸の奥が少し温かくなる。順番を決めるのは、自分だけじゃない。ここでは、誰かが一緒に決めてくれる。

 翔琉が、玄関へ向かう皆の背中に言った。
 「靴、そろえておきます。夜中に出るとき、つまずかないように」
 それは優しさの言い方として、相変わらず不器用で、だからこそ信じやすかった。

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