スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

文字の大きさ
2 / 30

第2話 置き手紙は冷蔵庫の下で鳴る

しおりを挟む
 四月上旬の深夜。風見荘の廊下は、昼より音がよく響いた。誰かがトイレに向かうたび、板がきしみ、屋上の風鈴が薄く鳴る。窓の隙間から潮の匂いが入り込み、カーテンが小さく膨らんでは戻った。

 心咲は自分の部屋の小さな机に、メモ帳と鉛筆を置いたまま、ベッドの端に腰かけていた。胸ポケットには、さっき屋上で預かった赤い石。掌に取り出してみると、手の熱で少しだけ温まっている気がする。そんなことで安心しようとする自分が、少し可笑しい。

 廊下で、きしむ音が二つ。間隔が一定だ。心咲はふと、夕飯のとき翔琉が言っていたのを思い出した。風の音で天気が分かる。音で、何かが分かる。そういう人は、生活の不安も音に変えて整理するのだろうか。

 心咲はメモ帳を開き、一行だけ書いた。
 ――今の気持ち:落ち着かない。
 書くと、少し落ち着く。書かないと、落ち着かない。自分の取扱説明書みたいだ、と心咲は思って、ひとりで苦笑した。

 そのとき、廊下のほうで「ごとっ」と小さな音がした。何かが落ちた音。続いて、足音が一度だけ遠ざかり、すぐ消えた。風鈴が、ひとつだけ高く鳴る。
 心咲は息を止めた。耳が勝手に敏感になる。心臓が早くなる。怖さに名前をつける前に、体が先に反応してしまう。

 ベッドから立ち上がり、そっとドアを開ける。廊下には誰もいない。階段のほうから、外の風の音だけが流れてくる。
 足元を見ると、ドアの前に白い紙が落ちていた。折りたたまれた、手のひらサイズの紙。

 心咲は紙を拾い、部屋に戻ってから、机の上で開いた。鉛筆で、乱れた字が書かれている。

 ――見ないふりをしないで。
 ――夜中に起きたら、廊下の音を数えて。

 たった二行なのに、背中に冷たいものが走った。心咲はメモ帳を引き寄せ、手が震えるのを止めるみたいに鉛筆を握った。
 ――今の気持ち:怖い。疑いが湧く。
 疑いが湧いた、と書けた瞬間、自分の中の霧が少し薄くなる。霧のまま他人を見たら、見えるものまで歪む。

 心咲は紙を持って、共同キッチンへ向かった。夜更けでも、キッチンの明かりはついていた。姫蘭が、当番表を見ながら洗い物の順番を入れ替えているところだった。流しには、さっきの味見会で使ったスプーンがまだ少し残っている。水切りかごの金属が、風に触れてかすかに鳴った。

 「どうしたの」
 姫蘭がすぐ気づいて、蛇口を止めた。水音が止まると、心咲の呼吸の音が目立つ。

 「これが……部屋の前に」
 心咲が紙を差し出すと、姫蘭はまずグラスに水を注いだ。心咲の前に置く。次に紙を受け取り、声に出して読み上げた。読み上げ方が、まるで設計図の寸法を確認するみたいに落ち着いている。

 姫蘭は紙を机に置き、カードを取り出した。「状況」「感じたこと」「確認したいこと」。いつの間に作ったのか分からない。
 「今、順番を決める。感情は否定しない。推測は最後。いい?」
 心咲は水を一口飲んだ。冷たさが喉を通り、体の中に道ができる。
 「……はい」

 そこへ、トレーニングバッグを肩にかけた翔琉が帰ってきた。靴を脱ぐ音がして、すぐ、つま先がそろう音がする。本人は音を立てないつもりでも、心咲には分かる。
 「ただいま。……何かありました?」
 翔琉の視線が、机の紙に止まった。

 姫蘭が説明すると、翔琉は紙を手に取って、少しだけ眉を寄せた。怖がっている顔ではない。考えている顔だ。
 「これ、誰かがふざけてるのか、前に住んでた人の残りなのか……」
 言いかけて、翔琉は口を閉じた。自分の言葉が、誰かの不安を増やすかもしれないと分かったみたいに。

 その沈黙に、心咲は逆に助けられた。言葉の前にブレーキがある人だ。靴の向きをそろえる人は、言葉もそろえようとするのかもしれない。

 「私、まず確認したいです」
 心咲はカードの「確認したいこと」を指さした。
 「落とした音がしたのは、廊下のこの辺。きしむ板、覚えました。音を数えろって……書いてあるし」
 口に出すと、妙に現実味が増す。怖さが、輪郭になる。

 姫蘭は当番表を見て、連絡先の欄を指でたどった。
 「朋行を起こす。陽向太も一応。梨加子は……起きてる可能性が高い」
 姫蘭が電話をかけると、案の定、梨加子は一回で出た。
 『冷蔵庫の貼り紙、誰か剥がした?』
 第一声がそれで、心咲は緊張の中で変な笑いが出そうになった。

 数分後、朋行がキッチンに飛び込んできた。髪が跳ねている。手には、粉砂糖の袋。
 「味見会の続きじゃないよね? 俺、さっき……落とした!」
 朋行は袋を持ち上げ、机に置いた。袋の角が少し裂けていて、白い粉が廊下に点々と落ちているのが見える。
 「冷蔵庫の下に転がったスプーン拾おうとして、しゃがんだときに紙も落ちてた。『誰かのメモだ』って思って、つい、心咲の部屋の前に置いた。そしたらホラーになった」
 「ホラーにしたの、朋行」
 姫蘭が静かに言うと、朋行は「うっ」と声を詰まらせた。

 陽向太も、寝癖のまま現れた。片手に、昼に入れた氷の袋。
 「何かあった? 俺、忘れ物した?」
 翔琉が廊下を指さし、粉砂糖の点々を見せると、陽向太は「なるほど」と一度だけうなずいた。
 「理由が分かるなら、まずそれで安心。……でも紙の字は別だよね」

 梨加子は最後に現れた。スリッパの踵をきっちり合わせ、冷蔵庫の貼り紙を確認してから、紙を覗き込む。
 「朋行の字じゃない。朋行は丸い。これは、角がある」
 言い切ると、棚からマスキングテープを取り出した。
 「今夜は確認する。窓。鍵。玄関。順番、書く」
 テープに「窓、鍵、玄関」と細い字で書き、冷蔵庫の扉に貼る。貼り紙を増やす速度だけは、誰よりも早い。

 翔琉が頷いた。
 「じゃあ、俺が先に玄関。靴そろえながら、つまずかないように」
 「先に、って」
 心咲が思わず言うと、翔琉は少し困った顔で笑った。
 「俺、遅れるのが苦手で。……サッカーでも、味方が走り出す前に渡すほうが、届きます」
 生活の話にサッカーを持ち込むには真面目すぎる例えなのに、不思議と嫌じゃなかった。

 全員で廊下を歩いた。きしむ板の上で、音が「きぃ」と鳴る。心咲は、その音を数えた。ひとつ、ふたつ。音を数えると、足元が自分のものになる。怖さが、他人の影から、自分の呼吸に戻ってくる。

 窓の鍵は全部閉まっていた。屋上へ上がる扉も、きちんと施錠されている。玄関の引き戸も、翔琉が二度確認した。陽向太が「三回目いく?」と冗談めかすと、姫蘭が「三回はやりすぎ」と笑って止めた。梨加子は笑わずに、テープに小さな丸を三つ書いた。やりすぎと言いながら、記録は残す。

 確認が終わり、キッチンに戻ると、さっきより空気が軽くなっていた。風鈴がちりん、と鳴る。水切りかごの皿が、風でかすかに触れて鳴る。夜の家には、音がたくさんある。怖い音も、安心の音も、区別できる。

 心咲はメモ帳を開いた。怖さに名前をつける。疑いに名前をつける。そして、今の自分に必要なものにも名前をつける。
 ――今の気持ち:まだ怖い。でも、ひとりじゃない。

 姫蘭は紙をファイルに挟んだ。
 「明日、管理会社に連絡する。最近の入れ替わり、置き忘れの有無。聞く項目、私が書く」
 心咲は自分の胸ポケットを押さえた。赤い石が、そこにある。
 「私も、電話のとき横にいます。聞きたいこと、整理しておきます」
 言ってから、胸の奥が少し温かくなる。順番を決めるのは、自分だけじゃない。ここでは、誰かが一緒に決めてくれる。

 翔琉が、玄関へ向かう皆の背中に言った。
 「靴、そろえておきます。夜中に出るとき、つまずかないように」
 それは優しさの言い方として、相変わらず不器用で、だからこそ信じやすかった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

目覚めたら公爵夫人でしたが夫に冷遇されているようです

MIRICO
恋愛
フィオナは没落寸前のブルイエ家の長女。体調が悪く早めに眠ったら、目が覚めた時、夫のいる公爵夫人セレスティーヌになっていた。 しかし、夫のクラウディオは、妻に冷たく視線を合わせようともしない。 フィオナはセレスティーヌの体を乗っ取ったことをクラウディオに気付かれまいと会う回数を減らし、セレスティーヌの体に入ってしまった原因を探そうとするが、原因が分からぬままセレスティーヌの姉の子がやってきて世話をすることに。 クラウディオはいつもと違う様子のセレスティーヌが気になり始めて……。 ざまあ系ではありません。恋愛中心でもないです。事件中心軽く恋愛くらいです。 番外編は暗い話がありますので、苦手な方はお気を付けください。 ご感想ありがとうございます!! 誤字脱字等もお知らせくださりありがとうございます。順次修正させていただきます。 小説家になろう様に掲載済みです。

夫の妹に財産を勝手に使われているらしいので、第三王子に全財産を寄付してみた

今川幸乃
恋愛
ローザン公爵家の跡継ぎオリバーの元に嫁いだレイラは若くして父が死んだため、実家の財産をすでにある程度相続していた。 レイラとオリバーは穏やかな新婚生活を送っていたが、なぜかオリバーは妹のエミリーが欲しがるものを何でも買ってあげている。 不審に思ったレイラが調べてみると、何とオリバーはレイラの財産を勝手に売り払ってそのお金でエミリーの欲しいものを買っていた。 レイラは実家を継いだ兄に相談し、自分に敵対する者には容赦しない”冷血王子”と恐れられるクルス第三王子に全財産を寄付することにする。 それでもオリバーはレイラの財産でエミリーに物を買い与え続けたが、自分に寄付された財産を勝手に売り払われたクルスは激怒し…… ※短め

十八歳で必ず死ぬ令嬢ですが、今日もまた目を覚ましました【完結】

藤原遊
恋愛
十八歳で、私はいつも死ぬ。 そしてなぜか、また目を覚ましてしまう。 記憶を抱えたまま、幼い頃に――。 どれほど愛されても、どれほど誰かを愛しても、 結末は変わらない。 何度生きても、十八歳のその日が、私の最後になる。 それでも私は今日も微笑む。 過去を知るのは、私だけ。 もう一度、大切な人たちと過ごすために。 もう一度、恋をするために。 「どうせ死ぬのなら、あなたにまた、恋をしたいの」 十一度目の人生。 これは、記憶を繰り返す令嬢が紡ぐ、優しくて、少しだけ残酷な物語。

見捨ててくれてありがとうございます。あとはご勝手に。

有賀冬馬
恋愛
「君のような女は俺の格を下げる」――そう言って、侯爵家嫡男の婚約者は、わたしを社交界で公然と捨てた。 選んだのは、華やかで高慢な伯爵令嬢。 涙に暮れるわたしを慰めてくれたのは、王国最強の騎士団副団長だった。 彼に守られ、真実の愛を知ったとき、地味で陰気だったわたしは、もういなかった。 やがて、彼は新妻の悪行によって失脚。復縁を求めて縋りつく元婚約者に、わたしは冷たく告げる。

6年前の私へ~その6年は無駄になる~

夏見颯一
恋愛
モルディス侯爵家に嫁いだウィニアは帰ってこない夫・フォレートを待っていた。6年も経ってからようやく帰ってきたフォレートは、妻と子供を連れていた。 テンプレものです。テンプレから脱却はしておりません。

【完結】愛されないと知った時、私は

yanako
恋愛
私は聞いてしまった。 彼の本心を。 私は小さな、けれど豊かな領地を持つ、男爵家の娘。 父が私の結婚相手を見つけてきた。 隣の領地の次男の彼。 幼馴染というほど親しくは無いけれど、素敵な人だと思っていた。 そう、思っていたのだ。

6回目のさようなら

音爽(ネソウ)
恋愛
恋人ごっこのその先は……

(完結)姑が勝手に連れてきた第二夫人が身籠ったようですが、夫は恐らく……

泉花ゆき
恋愛
蘭珠(ランジュ)が名門である凌家の嫡男、涼珩(リャンハン)に嫁いで一年ほど経ったころ。 一向に後継ぎが出来ないことに業を煮やした夫の母親は、どこからか第二夫人として一人の女性を屋敷へ連れてくる。 やがてその女が「子が出来た」と告げると、姑も夫も大喜び。 蘭珠の実家が商いで傾いたことを口実に、彼女には離縁が言い渡される。 ……けれど、蘭珠は知っていた。 夫の涼珩が、「男女が同じ寝台で眠るだけで子ができる」と本気で信じているほど無知だということを。 どんなトラブルが待っているか分からないし、離縁は望むところ。 嫁ぐ時に用意した大量の持参金は、もちろん引き上げさせていただきます。 ※ゆるゆる設定です ※以前上げていた作の設定、展開を改稿しています

処理中です...