スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第3話 包丁の列と赤い花の付箋

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 四月中旬の土曜。朝は河川敷に薄い霧がかかり、潮の匂いに混じって草の青い匂いがした。

 心咲は、家を出る前に冷凍庫の氷を二重袋に入れ、保冷バッグの内側にタオルを敷いた。水筒は二本。一本にはスポーツドリンクを薄めて、もう一本には麦茶。机の上のメモ帳に「氷 水筒 タオル」と書いて丸をつけてから、玄関に向かった。

 風見荘の玄関で靴を履こうとすると、すでに翔琉のスニーカーが先に置かれていた。つま先が同じ方向を向き、踵の位置まで揃っている。心咲が自分の靴を置き直すと、玄関の外で待っていた翔琉が振り返った。

 「おはようございます。……重くないですか」
 「持てる。こっちのほうが迷わないから」
 心咲が保冷バッグの持ち手を持ち替えると、翔琉は言い返さず、代わりに自分のバッグを肩から外して、心咲の空いている手に軽く当てた。
 「じゃあ、これ。俺のほう、軽いんで」
 言い方が、渡す順番を守る人のそれだった。

 河川敷では、社会人チーム「風見ウィンド」の練習が始まっていた。土の上に白線が引かれ、風でボールが少しだけ跳ね方を変える。陽向太が腕時計を見て、手帳に何か書き込んでいる。朋行は「朝から走ると腹が減る」と言いながら、誰より先にスパイクを履いていた。

 練習の終盤。翔琉がボールを受けると、前の選手の背中を見て一拍置き、足首だけで角度を変える。低く速いボールが、相手の足の間をすり抜けた。味方が抜け出して、歓声が上がる。
 「今の、見えた?」
 翔琉が息を整えながら心咲に聞く。
 「見えた。先に渡すやつ」
 心咲がそう言うと、翔琉は汗を拭きながら目を丸くし、すぐ真顔に戻って頷いた。
 「スルーパスです」
 「知ってる」
 「……知ってるんですね」
 翔琉は嬉しそうにも見えるのに、口元は固いままだった。

 帰り道、翔琉は心咲の保冷バッグを持とうとして、手を伸ばして止めた。
 「一回、言っていいですか。俺、持ちたいです」
 「断ると面倒になる?」
 「面倒、じゃなくて……落ち着かないです」
 心咲は一瞬、喉まで出かけた「大丈夫」を飲み込み、別の言葉に替えた。
 「じゃあ次は、私が氷を作る当番にする」
 「当番……」
 翔琉は短く笑って、「助かります」と言った。段取りで受け取るやり方が、心咲にはちょうどよかった。

 その夜。風見荘の共同キッチンの時計は、深夜一時を指していた。冷蔵庫のモーター音が低く続き、窓の外の風が網戸をかすかに震わせる。

 水を飲もうとして部屋を出た心咲は、廊下の明かりが点いていることに気づいた。キッチンの引き戸が少し開き、そこから白い光が漏れている。

 足を忍ばせて覗くと、包丁とまな板が、調理台の上で几帳面に並んでいた。包丁は刃先が同じ方向を向き、まな板の角に合わせて置かれている。まるで、誰かが「ここを見て」と言いたげだった。

 さらに、そのまな板の端に、赤い花の形に切られた付箋が貼ってあった。文字は黒いペンで短く。
 ――順番。

 心咲は息をゆっくり吐いた。胸の奥が冷えるのを感じ、反射でメモ帳を探しそうになる。けれど今は手ぶらだ。
 そのとき、調理台の陰から顔が出た。

 「……ね。やばくない?」
 梨加子だった。パジャマの上にカーディガンを羽織り、スマホを握りしめている。画面には「風見荘」「夜中」「包丁」の文字が並んでいた。誰かに打って、送る直前の文章だ。

 「見たの、これ?」
 心咲が問うと、梨加子は唇を噛んで頷いた。
 「さっき起きたら、ここ光ってて。で、これ。……ドラマみたいじゃん。こういうの、次はさ」
 梨加子は言い切らず、スマホを胸に押し当てた。

 心咲は近づいて、赤い花の付箋を指先でそっと撫でた。紙の端が、きれいに型抜きされている。ハサミではなく、もっと整った形。
 「これ、花の形。誰か、お菓子の型、持ってる?」
 「え、知らない。怖いってば」
 梨加子の声が、風鈴みたいに小さく震えた。

 キッチンの奥から、冷凍庫の引き出しが開く音がした。二人が同時に振り向く。
 朋行が、寝癖のついた頭で立っていた。片手に保存容器、もう片手に小さな金属の型抜き。
 「うわ、起きてたの。……何その顔」
 「朋行、これ」
 心咲が付箋を指すと、朋行は目を細めて近づき、型抜きを振って見せた。
 「それ、俺の。いちごのクッキー型。今日、余りのいちごでジャム煮てたから、ラベル作ったんだよ。花の形にしたら可愛いじゃん」
 「可愛い、じゃないんだって! 包丁、順番って!」
 梨加子が声を荒げると、朋行は肩をすくめた。
 「順番は、洗い物。包丁とまな板、洗った順に置いて乾かしてただけ。ほら、刃、同じ方向のほうが危なくないし」
 朋行は言いながら、付箋を剥がして見せた。裏には、薄く「ジャム 砂糖 火」とメモが残っている。

 梨加子は一瞬黙った。けれど、その沈黙の次に出たのは謝罪ではなく、別の矢だった。
 「じゃあ、なんでこんな時間に。普通寝てるし」
 「厨房の癖。火を止めたか気になって起きる」
 朋行は保存容器を掲げた。
 「で、確認したら止まってた。安心したから、味見したくなった。……二人も食べる?」
 言い方が、場の空気を甘く変えようとする人のそれで、心咲は少しだけ肩の力が抜けた。

 しかし、包丁の列はまだ残っている。心咲は調理台の端にあった封筒を見つけた。姫蘭が当番表を入れていた封筒だ。心咲はそこに、赤い花の付箋をそっと戻し、ペンを借りて表に書いた。
 ――4月○日 1:05 共同キッチン 赤い花の付箋「順番」

 書く手が止まると、自分の呼吸が戻ってくるのが分かった。怖さを、紙に移す。紙に移せば、夜に飲まれない。

 「……それ、何の意味」
 梨加子が訝しげに言う。
 「意味は、明日考える。今は、残す」
 心咲は封筒を胸に当てた。紙の薄さが、かえって頼りになった。

 そのとき、廊下から足音が近づいた。翔琉が現れ、手首のあたりにタオルを巻いている。整骨院の癖なのか、巻き方が丁寧だ。
 「光、点いてたので。……大丈夫ですか」
 翔琉の視線が包丁の列に止まり、眉がほんの少しだけ寄った。

 「朋行が洗っただけだって」
 梨加子が先に言うと、翔琉は朋行を見て、短く頷いた。
 「包丁は……安全な向きです。刃を外側にしない。良いです」
 褒め言葉が、採点みたいに真っ直ぐで、朋行が「そこ褒める?」と笑った。

 翔琉は心咲の手元の封筒を見て、言葉を探すように一度口を閉じた。
 「……記録、するんですね」
 「混ざるから。怖いのと、決めつけるのは、別」
 心咲が答えると、翔琉は小さく息を吐き、時計を見た。深夜一時十二分。
 「明日、みんなで話しましょう。順番、作って」
 その言葉に、姫蘭の顔が浮かぶ。話す順番カード。水を配る手。

 夜はそれで終わった。誰も叫ばず、誰も責めず、ジャムの甘い匂いだけがキッチンに残った。

 けれど翌朝。ゴミ出しの時間、梨加子は外の水道前で近所の人と立ち話をした。声は小さいのに、言葉はよく通る。
 「ねえ、聞いた? 風見荘、夜中に包丁が並んでたんだって。ほら、あの『シェアハウスにサイコキラーが!』ってやつ」
 その一言が、潮風に乗って、坂の下の商店街まで転がっていった。

 心咲は、玄関で靴を揃え直しながら、それを聞いた。胸がきゅっと縮む。だけど、封筒は今日も机の引き出しにある。日付のある紙が一枚、確かにある。
 心咲はメモ帳を開き、鉛筆で一行だけ書いた。
 ――今の気持ち:怖い。でも、話す。

 その一行を閉じたとき、風見荘の屋上の風鈴が、澄んだ音で鳴った。

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