スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第4話 噂は風鈴より先に鳴る朝

 四月中旬の日曜の朝。風見市の空は薄い雲を引きずり、港のほうから塩の匂いがまっすぐ届いた。風見荘の二階の廊下では、干したタオルが風にあおられて、ぱん、と乾いた音を立てている。心咲はその音を聞きながら、階段を下りた。まだ体の奥に眠気が残っているのに、胸のあたりだけ妙に醒めていた。

 玄関の引き戸の向こうで、誰かが立ち止まった気配がした。足音が一度、擦れる。話し声が二つ、短く。心咲はキッチンへ向かう途中で、無意識に胸ポケットを押さえた。赤い石がそこにあると、指先が確認してしまう。

 キッチンでは、朋行がフライパンを温めていた。バターが溶ける匂いが、潮の匂いと混ざって、朝の空気を少しだけ丸くする。彼は小さなメモを見ながら、目玉焼きの端を箸で整えた。
 「昨日の夜の、あの紙。おれ、卵の焼き順まで書き直したくなった。字が荒れてると、気持ちも荒れるからさ」
 言いながら、白身の外側を少しだけ内側へ寄せる。失敗を笑いに変える手つきだ。

 心咲は返事の前に、冷蔵庫の扉に視線を滑らせた。貼り紙は増えている。姫蘭が作った当番表の下に、陽向太が書いた「夜は窓の鍵、二回確認」。その横に、細い字で三つの丸。梨加子の字だ。昨日、姫蘭が「三回はやりすぎ」と笑ったのを、そのまま紙の上に残したみたいに。

 そこへ翔琉が入ってきた。手にはスポーツドリンクが二本。濡れたペットボトルの表面に、朝の光が小さく反射している。
 「心咲さん、これ。昨日、買い足してた分。冷蔵庫に入れておきます」
 言ってから、靴下の砂を払うように、玄関方向へ目だけを向けた。外の気配を、音より早く拾っている。

 「今、外……」
 心咲が言いかけたところで、引き戸が開いた。

 そこにいたのは、町内会の腕章をつけた女性と、同じ腕章の男性だった。手には回覧板。二人とも笑っているのに、目だけが家の中を測っている。
 「おはようございます。風見荘さん、今日のゴミ当番、確認ね。あとね……」
 女性が言葉を切り、回覧板の紙を揺らした。「変な噂、出てるって聞いたの。夜中にね、包丁がどうとか」
 男が咳払いをして、視線を台所の包丁立てへ落とした。

 朋行はフライパンをいったん火から外し、ふわ、と両手を上げた。
 「包丁、ここです。切れ味、昨日研ぎました。……あ、怖くないほうの話です。トマトが潰れるのが嫌で」
 場の空気を甘くしようとして、わざと間の抜けたことを言う。その瞬間、翔琉がすっと包丁立ての前に立ち、笑顔の角度だけを整えた。
 「不安にさせたなら、すみません。昨夜、置き手紙があって……確認のため、家の鍵を見直していました」
 言い訳ではなく、順番を守る説明だった。誰かを指ささない。自分たちがやったことだけを話す。

 心咲はその横で、息を吸い込んだ。胸の中で、言葉が渋滞する。怒り、恥ずかしさ、怖さ。いくつもある。けれど、選ぶのは一つだと決める。
 彼女はポケットからメモ帳を出した。視線を落とし、鉛筆で短く一行だけ書く。書き終えてから顔を上げた。
 「今、私たちが困っているのは、噂のほうです。ここにいる全員が、眠れなくなるから」
 声は小さかったが、言葉の端が揺れていなかった。

 腕章の女性は、気まずそうに唇を結んだ。男性は回覧板を抱え直し、目を泳がせた。
 「……誰が言い出したとか、分かるの?」
 女性がそう言った瞬間、心咲の背中に冷たいものが走った。誰が、という問いは、家の中へ向けられる。

 姫蘭が、タイミングを逃さずにキッチンへ入ってきた。手には小さな紙束。いつもの、話す順番カードだ。紙コップの水も、人数分。
 「おはようございます。まず、お水どうぞ」
 姫蘭は腕章の二人にも差し出し、軽く笑った。「噂の出どころを追いかけるより、ここで暮らす私たちのやり方を、きちんと見せたほうが早い気がしませんか」

 陽向太が奥から現れ、玄関の上がり框の角に貼られた小さなメモを指した。「鍵の確認、これ。今朝もやりました。誰かが怖いわけじゃなくて、家を守る手順」
 言い切ってから、彼は黙った。言葉を増やさず、背中で支える。

 腕章の男性が、少し肩の力を抜いた。
 「じゃあ……噂は、こちらから『事実確認した』って伝えておくよ。変な話は町内会としても困るし」
 女性も頷き、回覧板を差し出した。姫蘭が受け取り、当番欄にきれいな字で丸をつける。紙の上で、混乱が少しだけ整っていく。

 二人が帰ると、キッチンの空気がほどけた。朋行は火を戻し、目玉焼きを皿に滑らせた。
 「噂って、砂糖より先に回るんだな。甘くもないのに」
 「砂糖、入れたら変わる?」
 姫蘭がわざと真面目な顔をして聞くと、朋行が真顔で頷いた。
 「入れすぎたら、もっと変な味になる」

 そのやり取りに、翔琉が小さく息を吐いた。笑っているのに、まだどこか硬い。心咲はその硬さが、自分の胸の中にもあるのを感じた。

 午後。心咲は出版社の編集部にいた。校正刷りの紙束から、インクの匂いが立つ。文章の順番、句読点の位置、名前の表記。整えるほど、世界は少しだけ静かになる。けれど、スマートフォンが振動して、静けさに細い傷が入った。

 「風見荘さん? 大家です」
 電話の声は丁寧だったが、語尾が早い。「近所からね、『物騒だ』って連絡が来て……。問題、ない?」
 心咲は受話器を握り、いったん机の上の鉛筆を置いた。言い返す前に、一行。指が勝手にメモ帳を探す。
 ――今の気持ち:悔しい。けど、言い方を選ぶ。

 「問題は起きていません。昨夜、家の安全確認をしました。噂は……私たちも困っています」
 言い終えたとき、向かいの机で同僚が「大丈夫?」と目で聞いた。心咲は口角だけを上げ、紙束を胸に抱き直した。仕事を止めない。それは、自分が自分でいるための手順だ。

 夕方。風見荘に戻ると、玄関で翔琉が靴を揃えていた。つま先が一列に並ぶと、家の中の空気が少し落ち着く。不思議な儀式みたいだ。
 「昼、大家さんから電話ありました」
 心咲が言うと、翔琉は靴の先を最後に一度だけ整え、顔を上げた。
 「俺も、整骨院で言われました。患者さんが『風見荘って』って。……先に説明しておけばよかったな」
 彼は悔しそうに眉を寄せ、けれど誰かの名前は出さなかった。

 リビングには、姫蘭がホワイトボードを出していた。上には大きく「今日話すこと」。その下に、番号が振ってある。姫蘭はペンを置き、カードを配った。
 「一番、噂の訂正。二番、夜の手順。三番、困ってること」
 言いながら、紙コップの水を真ん中に置く。水の透明さが、場を冷やしも温めもしない。だからこそ、言葉が映る。

 梨加子は壁際の椅子に座り、膝の上で小さなメモを折っていた。折り目が正確すぎて、紙が固く見える。彼女は誰とも目を合わせず、けれど耳だけは全員に向けていた。

 心咲の番が来た。彼女はメモ帳を開き、昼に書いた一行を指でなぞった。
 「私は……噂が怖いです。誰かが見えない敵になるから」
 言った瞬間、空気が少しだけ重くなる。だからこそ、翔琉がその重さを受け取るみたいに、ゆっくり言った。
 「じゃあ、俺たちが先に渡そう。説明を、先に。疑いじゃなくて」
 サッカーの言葉が、生活の真ん中に落ちた。誰かを避けるための言葉じゃない。みんなが走れるようにする言葉だ。

 姫蘭は頷き、ホワイトボードに書き足した。「明日の朝、ゴミ出しの時間に、会った人へ短く説明」。朋行は「短くって、砂糖小さじ一?」と茶々を入れ、陽向太が「小さじ一で足りるならいい」と真面目に返した。

 笑いが一度だけ起き、すぐに消えた。消えたあと、梨加子の指が止まった。彼女は折っていた紙を広げ、テーブルの上に置いた。そこには、細い字で三行。
 「……言い方、決めておいたほうがいい。『包丁』って単語、出すと広がる」
 それだけ言って、また視線を落とした。

 心咲はその紙を見つめ、胸の奥で何かが引っかかった。噂を止めたいのに、噂の作り方を知っている。知っている人の言葉だ。けれど、今は決めつけない。決めつける前に、確かめる手順がある。

 会議が終わり、食器を片付ける音がキッチンに戻った。水が流れ、皿が触れ、風鈴がちりん、と鳴る。心咲は赤い石をポケットから出し、掌に乗せた。灯りを受けて、赤い花びらみたいな模様が浮かぶ。

 翔琉が横で、スポーツドリンクのキャップをきゅっと閉めた。
 「それ、落とさないように」
 「落としたくないです」
 心咲が言うと、翔琉は少しだけ笑った。笑い方が、朝より柔らかい。
 「じゃあ……俺が先に、受け取っておく?」
 差し出された手は、強引じゃない。選ぶ余白がある。

 心咲は一度、石を握り直した。胸の中で、言葉がひとつにまとまるまで待つ。
 「……今日は、私が持ちます。代わりに、明日の説明は、あなたが先に言って」
 翔琉は頷いた。約束の十分前に立っている人の頷きだった。

 心咲はメモ帳を開き、最後に一行だけ書いた。
 ――今の気持ち:疑うより、順番を守る。

 その一行を閉じたとき、屋上の風鈴が、夜の風に押されて澄んだ音を返した。噂より遅いけれど、ちゃんと届く音だった。

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