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第6話 残り物カレーに甘い罠
五月のはじめ、日曜の夜。港のほうから吹く風が少しだけ湿って、風見荘の共同キッチンの換気扇が低く唸っていた。屋上の手すりに干した洗濯物がばさりと鳴り、誰かが取り込みに走る足音が廊下を往復する。
心咲は自分の部屋からエプロンを持ってきて、ひもを結び直した。結び目が思うように揃わない。指先に力が入り、ほどいて、もう一度。前の週に町内会の人へ説明した朝のことが、まだ胃の奥に残っていた。
共同キッチンの隅では、姫蘭が冷蔵庫の扉を開け、棚の奥から器をいくつも引っぱり出した。半端に残った野菜、昨夜の煮物の汁、カレー粉の缶、うどん玉ひとつ。ラベルのついた小鉢が列になり、まるで台所が整理整頓の展示みたいになる。
姫蘭は器を並べながら、冷蔵庫の貼り紙を指で撫でた。赤い花の形のマグネットの下に、先週、見知らぬ字で書かれた紙がまだ残っている。『屋上に戻して』。紙の角が少しだけ折れて、触るとざらりとした。
「これ、外に見えないようにしたほうがいいかな」
心咲が小さく言うと、姫蘭はすぐ頷いて、紙の上へ白いメモを重ねた。『今日の夕飯:残り物消費』。上から隠すのではなく、別の情報で覆うやり方だった。
「今日は、これを全部消す」
姫蘭が言うと、朋行がすぐ頷いた。彼はまな板の前に立ち、ペンを耳に挟んで、ノートを開く。ページの端には小さく『味の変更点』と書いてある。
「了解。残りのにんじん、角切りとすりおろし、どっちが早い?」
「早いのは角切り」
陽向太が即答した。彼はシンク横の計量スプーンを並べながら、スマホのタイマーを二つセットする。ひとつは炒め時間、もうひとつは煮込み時間。
翔琉は、鍋を火にかける前に、コンロ周りの油はねを布巾で拭いた。拭く回数が一定で、布巾を畳む角まで揃っている。終わると、戸棚から予備のスポンジを一つ出し、そっと流し台の端へ置いた。
「切れ味、落ちてない?」
翔琉が包丁を見て言う。心咲は頷く代わりに、砥石を取り出して音を立てずに水へ沈めた。誰かが怖いと言うより先に、手を動かして場を整える。その癖が、今日はありがたい。
心咲は包丁を持つ代わりに、テーブルの隅で小さなメモ帳を開いた。『今日やること』の欄に、短く三つ。『皿 配る』『氷 作る』『言葉 急がない』。書き終えると、鉛筆の芯を指で確かめる癖が出た。
梨加子が、スーパーの袋を抱えて入ってきた。袋の中で缶が触れ合い、金属音が鳴る。彼女は中身を出す前に、まずキッチンの端のゴミ箱のふたを閉め直した。
「ルー、足りる?」
「足りないなら、薄める」
翔琉は即答し、言い終わってから、冷蔵庫を一度見た。心咲はその一瞬の間に、彼が自分の言葉の影響を測っているのが分かった。
「薄めるなら、出汁」
朋行が言いながら、棚の上に置かれた瓶を指さした。赤いラベル。いちごジャム。
「出汁じゃない」
姫蘭が先にツッコミ、陽向太が「甘味は分散する」と真面目に言った。
朋行は、悪びれずに瓶を開けた。ふわっと甘い香りが広がり、カレー粉の匂いとぶつかって、少しだけ変な気配になる。
「だって、残り物だよ。残り物って、最後に混ざるんだよ」
「最後に混ざっていいのは、玉ねぎだけ」
姫蘭が木べらを構えた。翔琉が慌てて鍋の前に立ち、朋行の手首をそっと止める。止め方が乱暴ではなく、相手の手を守るみたいに柔らかい。
「一回、別皿でやろう。俺が責任とる」
「責任って何の」
「甘いカレーの」
翔琉の真面目な答えに、心咲は思わず息を漏らした。笑い声にするには少し遅れて、喉の奥でくすぐったさが膨らむ。
結局、朋行は小さなフライパンにカレーをひとすくい取り、そこへジャムを米粒ほど落とした。火にかけると、甘い匂いが先に立つ。全員が顔を寄せ、陽向太がスプーンで一口ずつ配る。
「うん、最初はカレー」
「次、いちご」
「次、カレーが戻ってくる」
梨加子が妙に的確に実況した。姫蘭が笑いながら首を振る。
「戻ってこなくていい」
朋行は肩をすくめ、ノートに『ジャム:要再検討』と書いた。書いたあと、二重線で消すのではなく、横に『デザートへ転用』と付け足す。失敗を捨てない人の手つきだった。
陽向太が冷蔵庫の一段目を指さした。
「こっちの漬物、賞味期限が明日」
「それ、いかの塩辛だよね」
梨加子が目を細める。姫蘭がすぐ判断した。
「カレーに入れない。別で」
朋行が「入れたら統計が乱れる」と言い、陽向太が「乱れは測れる」と返し、二人の真面目なやり取りに笑いが追加で乗った。
鍋の中では、玉ねぎの甘さとスパイスがちゃんと落ち着いた匂いに戻っていた。具は半端でも、湯気はきれいに立ち上がる。姫蘭が味を見て、頷く。翔琉が器を温め、心咲が皿を並べ、梨加子が箸を数える。いつの間にか、誰も指示を待っていない。
テーブルにカレーが置かれた。たったそれだけで、心咲の手が止まった。スプーンを持ったまま、目の前の湯気を見つめる。
ひとりで食べるカレーは、いつも音が少なかった。鍋の底をこする音、電子レンジの短いブザー、食器を流しへ置く乾いた音。誰かの息づかいが、味の横に並ぶことはなかった。
心咲は、唇を動かそうとして、うまく動かなかった。胸の内側が、言葉より先にいっぱいになる。
翔琉が気づいた。自分の皿に手をつけず、心咲の前の小皿に福神漬けを静かに置いた。置く音が小さい。
「俺、整骨院でさ、今日、やらかした」
突然の告白みたいな言い方だった。全員の視線が翔琉へ向く。翔琉は箸を持ち、まだ食べずに続ける。
「患者さんの名前、呼び間違えて。しかも二回。最初は謝って、次は緊張して、声が裏返った」
朋行が吹き出し、姫蘭が「裏返るの、想像できる」と頷いた。陽向太は「二回は再現性が高い」と真顔で言い、梨加子が「そこ、統計いらない」と呟いて笑った。
翔琉は、耳まで赤くなっているのに、逃げずに最後まで言った。
「そしたら、その人がさ。『よく分かった。あなた、今、必死だね』って。怒られなかった。助かった」
言い終わって、翔琉はようやく一口食べた。カレーを噛む顔が少しだけほどける。
心咲の胸の内側も、少しだけほどけた。誰かが失敗を口にするだけで、場の空気が柔らかくなる。疑いも怖さも、いまは皿の端へ寄っていく。
「必死って、言ってもらえるの、いいですね」
心咲はやっと声を出せた。言い方が小さくても、言えたことが嬉しくて、口の端が勝手に上がった。
翔琉は頷き、スプーンを置いた。
「心咲さんも、必死なときある?」
心咲はすぐ答えなかった。メモ帳をポケットから取り出し、短く一行書いた。『今の気持ち:ここにいていい』。書いてから顔を上げる。
「あります。今日も」
朋行が鍋を指さした。
「じゃあ、今日の鍋も、必死の寄せ集めだ」
姫蘭が笑って、冷蔵庫の扉に貼ってある白紙のスペースを見た。そこへ太いペンで、短い言葉を書き足す。
「残り物には福がある」
翔琉が声に出して読み、少し首を傾げた。
「福って、どこに」
「今、ここ」
姫蘭が即答し、朋行が「ジャムが入らない世界」と付け足して、全員がまた笑った。
心咲は、笑いながらカレーを口に運んだ。辛さの奥に、玉ねぎの甘さがある。そこへ、誰かの笑い声が重なる。味の中に、人の温度が入ってくる。
食後、梨加子が流しへ向かい、黙って皿を洗い始めた。泡が増えても手を止めず、最後に蛇口をきっちり閉める。姫蘭は当番表の端へ、今日の合言葉を小さく書いた。陽向太はタイマーを止め、スマホのメモに『ジャム:不採用』と打った。
翔琉は残ったカレーを小分け容器に移し、ふたを閉める前に一度だけ匂いを確かめた。心咲はその横で、容器に日付を書いたシールを貼る。字を揃えたくて、同じ角度でペンを入れる。二人の手が同じ作業をしているのが、妙に落ち着く。
心咲は廊下へ出る前に、冷蔵庫の新しい文字をもう一度見た。『残り物には福がある』。字の下で、赤い花の形のマグネットが揺れている。風見荘の夜は、まだ静かではない。けれど、静かじゃないからこそ、笑える音も混ざる。
自分の部屋へ戻る途中、階段の下で風鈴が一度だけ鳴った。心咲は立ち止まり、胸ポケットの硬さを指で確かめた。赤い石はまだ冷たい。でも、その冷たさが今夜は怖さの形をしていない。
心咲はドアノブに手をかけ、振り返って共同キッチンの灯りを見た。鍋の湯気はもうないはずなのに、温かさだけが廊下に残っている気がした。
心咲は自分の部屋からエプロンを持ってきて、ひもを結び直した。結び目が思うように揃わない。指先に力が入り、ほどいて、もう一度。前の週に町内会の人へ説明した朝のことが、まだ胃の奥に残っていた。
共同キッチンの隅では、姫蘭が冷蔵庫の扉を開け、棚の奥から器をいくつも引っぱり出した。半端に残った野菜、昨夜の煮物の汁、カレー粉の缶、うどん玉ひとつ。ラベルのついた小鉢が列になり、まるで台所が整理整頓の展示みたいになる。
姫蘭は器を並べながら、冷蔵庫の貼り紙を指で撫でた。赤い花の形のマグネットの下に、先週、見知らぬ字で書かれた紙がまだ残っている。『屋上に戻して』。紙の角が少しだけ折れて、触るとざらりとした。
「これ、外に見えないようにしたほうがいいかな」
心咲が小さく言うと、姫蘭はすぐ頷いて、紙の上へ白いメモを重ねた。『今日の夕飯:残り物消費』。上から隠すのではなく、別の情報で覆うやり方だった。
「今日は、これを全部消す」
姫蘭が言うと、朋行がすぐ頷いた。彼はまな板の前に立ち、ペンを耳に挟んで、ノートを開く。ページの端には小さく『味の変更点』と書いてある。
「了解。残りのにんじん、角切りとすりおろし、どっちが早い?」
「早いのは角切り」
陽向太が即答した。彼はシンク横の計量スプーンを並べながら、スマホのタイマーを二つセットする。ひとつは炒め時間、もうひとつは煮込み時間。
翔琉は、鍋を火にかける前に、コンロ周りの油はねを布巾で拭いた。拭く回数が一定で、布巾を畳む角まで揃っている。終わると、戸棚から予備のスポンジを一つ出し、そっと流し台の端へ置いた。
「切れ味、落ちてない?」
翔琉が包丁を見て言う。心咲は頷く代わりに、砥石を取り出して音を立てずに水へ沈めた。誰かが怖いと言うより先に、手を動かして場を整える。その癖が、今日はありがたい。
心咲は包丁を持つ代わりに、テーブルの隅で小さなメモ帳を開いた。『今日やること』の欄に、短く三つ。『皿 配る』『氷 作る』『言葉 急がない』。書き終えると、鉛筆の芯を指で確かめる癖が出た。
梨加子が、スーパーの袋を抱えて入ってきた。袋の中で缶が触れ合い、金属音が鳴る。彼女は中身を出す前に、まずキッチンの端のゴミ箱のふたを閉め直した。
「ルー、足りる?」
「足りないなら、薄める」
翔琉は即答し、言い終わってから、冷蔵庫を一度見た。心咲はその一瞬の間に、彼が自分の言葉の影響を測っているのが分かった。
「薄めるなら、出汁」
朋行が言いながら、棚の上に置かれた瓶を指さした。赤いラベル。いちごジャム。
「出汁じゃない」
姫蘭が先にツッコミ、陽向太が「甘味は分散する」と真面目に言った。
朋行は、悪びれずに瓶を開けた。ふわっと甘い香りが広がり、カレー粉の匂いとぶつかって、少しだけ変な気配になる。
「だって、残り物だよ。残り物って、最後に混ざるんだよ」
「最後に混ざっていいのは、玉ねぎだけ」
姫蘭が木べらを構えた。翔琉が慌てて鍋の前に立ち、朋行の手首をそっと止める。止め方が乱暴ではなく、相手の手を守るみたいに柔らかい。
「一回、別皿でやろう。俺が責任とる」
「責任って何の」
「甘いカレーの」
翔琉の真面目な答えに、心咲は思わず息を漏らした。笑い声にするには少し遅れて、喉の奥でくすぐったさが膨らむ。
結局、朋行は小さなフライパンにカレーをひとすくい取り、そこへジャムを米粒ほど落とした。火にかけると、甘い匂いが先に立つ。全員が顔を寄せ、陽向太がスプーンで一口ずつ配る。
「うん、最初はカレー」
「次、いちご」
「次、カレーが戻ってくる」
梨加子が妙に的確に実況した。姫蘭が笑いながら首を振る。
「戻ってこなくていい」
朋行は肩をすくめ、ノートに『ジャム:要再検討』と書いた。書いたあと、二重線で消すのではなく、横に『デザートへ転用』と付け足す。失敗を捨てない人の手つきだった。
陽向太が冷蔵庫の一段目を指さした。
「こっちの漬物、賞味期限が明日」
「それ、いかの塩辛だよね」
梨加子が目を細める。姫蘭がすぐ判断した。
「カレーに入れない。別で」
朋行が「入れたら統計が乱れる」と言い、陽向太が「乱れは測れる」と返し、二人の真面目なやり取りに笑いが追加で乗った。
鍋の中では、玉ねぎの甘さとスパイスがちゃんと落ち着いた匂いに戻っていた。具は半端でも、湯気はきれいに立ち上がる。姫蘭が味を見て、頷く。翔琉が器を温め、心咲が皿を並べ、梨加子が箸を数える。いつの間にか、誰も指示を待っていない。
テーブルにカレーが置かれた。たったそれだけで、心咲の手が止まった。スプーンを持ったまま、目の前の湯気を見つめる。
ひとりで食べるカレーは、いつも音が少なかった。鍋の底をこする音、電子レンジの短いブザー、食器を流しへ置く乾いた音。誰かの息づかいが、味の横に並ぶことはなかった。
心咲は、唇を動かそうとして、うまく動かなかった。胸の内側が、言葉より先にいっぱいになる。
翔琉が気づいた。自分の皿に手をつけず、心咲の前の小皿に福神漬けを静かに置いた。置く音が小さい。
「俺、整骨院でさ、今日、やらかした」
突然の告白みたいな言い方だった。全員の視線が翔琉へ向く。翔琉は箸を持ち、まだ食べずに続ける。
「患者さんの名前、呼び間違えて。しかも二回。最初は謝って、次は緊張して、声が裏返った」
朋行が吹き出し、姫蘭が「裏返るの、想像できる」と頷いた。陽向太は「二回は再現性が高い」と真顔で言い、梨加子が「そこ、統計いらない」と呟いて笑った。
翔琉は、耳まで赤くなっているのに、逃げずに最後まで言った。
「そしたら、その人がさ。『よく分かった。あなた、今、必死だね』って。怒られなかった。助かった」
言い終わって、翔琉はようやく一口食べた。カレーを噛む顔が少しだけほどける。
心咲の胸の内側も、少しだけほどけた。誰かが失敗を口にするだけで、場の空気が柔らかくなる。疑いも怖さも、いまは皿の端へ寄っていく。
「必死って、言ってもらえるの、いいですね」
心咲はやっと声を出せた。言い方が小さくても、言えたことが嬉しくて、口の端が勝手に上がった。
翔琉は頷き、スプーンを置いた。
「心咲さんも、必死なときある?」
心咲はすぐ答えなかった。メモ帳をポケットから取り出し、短く一行書いた。『今の気持ち:ここにいていい』。書いてから顔を上げる。
「あります。今日も」
朋行が鍋を指さした。
「じゃあ、今日の鍋も、必死の寄せ集めだ」
姫蘭が笑って、冷蔵庫の扉に貼ってある白紙のスペースを見た。そこへ太いペンで、短い言葉を書き足す。
「残り物には福がある」
翔琉が声に出して読み、少し首を傾げた。
「福って、どこに」
「今、ここ」
姫蘭が即答し、朋行が「ジャムが入らない世界」と付け足して、全員がまた笑った。
心咲は、笑いながらカレーを口に運んだ。辛さの奥に、玉ねぎの甘さがある。そこへ、誰かの笑い声が重なる。味の中に、人の温度が入ってくる。
食後、梨加子が流しへ向かい、黙って皿を洗い始めた。泡が増えても手を止めず、最後に蛇口をきっちり閉める。姫蘭は当番表の端へ、今日の合言葉を小さく書いた。陽向太はタイマーを止め、スマホのメモに『ジャム:不採用』と打った。
翔琉は残ったカレーを小分け容器に移し、ふたを閉める前に一度だけ匂いを確かめた。心咲はその横で、容器に日付を書いたシールを貼る。字を揃えたくて、同じ角度でペンを入れる。二人の手が同じ作業をしているのが、妙に落ち着く。
心咲は廊下へ出る前に、冷蔵庫の新しい文字をもう一度見た。『残り物には福がある』。字の下で、赤い花の形のマグネットが揺れている。風見荘の夜は、まだ静かではない。けれど、静かじゃないからこそ、笑える音も混ざる。
自分の部屋へ戻る途中、階段の下で風鈴が一度だけ鳴った。心咲は立ち止まり、胸ポケットの硬さを指で確かめた。赤い石はまだ冷たい。でも、その冷たさが今夜は怖さの形をしていない。
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