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第11話 噂の赤ペンと玄関の水
五月下旬の夕方。出版社の三階、蛍光灯の白い光の下で、心咲はゲラの端を指で押さえていた。紙の角が、少しだけ湿っている。梅雨の前の生ぬるい空気が、窓の隙間から忍び込んでくるせいだ。
「風見荘って、あの港のほうの古い家?」
コピー機の前で、総務の女性が言った。プリンターの吐き出す熱と、甘いコーヒーの匂いが混ざる休憩スペースで、二人の声がやけに響く。
「夜中に手紙が出るって……ほら、あれ。こわいやつ」
言い終わる前に、別の声がかぶさった。
「“サイコキラーがいる”ってやつでしょ。今朝、印刷所の人が言ってた。港の商店街まで広がってるって」
心咲は、赤ペンの先を止めた。紙面の「誤植」のほうは、いつもならすぐに指が動くのに、今日は文字が一列ずつ、遠くなる。
誰かが、机に置いたメモ用紙をひらりと持ってきた。手書きで大きく、
「サイコキラー 風見荘」
と書いてある。見出しみたいに。
心咲の手が、勝手に動いた。
「サイコキラー」と「風見荘」の間に、読点を一つ。赤い点が、紙の上で小さく呼吸する。
それから、次の行の「いる!」の感嘆符を、そっと一本線で消して「いる。」に直した。
「あっ」
総務の女性が目を丸くした。
「……つい」
心咲はメモを返し、指先についた赤いインクをハンカチでぬぐった。笑ってごまかすには、口角がうまく上がらない。
それでも、言葉の順番だけは守る。昨日、海沿いで練習したばかりだ。
心咲は机の引き出しから、小さなメモ帳を出した。表紙の角が丸く擦れている。開いて、いつものように一行だけ書く。
――胸がぎゅっとする。こわい。
書き終えたら、息が一回分、少しだけ深くなる。
「じゃあ、本当に人がいるの?」
若い編集者が、椅子の背を軋ませながら身を乗り出した。机の上には、付箋が何枚も貼られた児童書のゲラ。タイトルの横に、鉛筆で小さくハートが描かれている。
心咲は、そのハートの横の誤字を見つけてしまい、思わず視線を戻した。直したい。けれど、今は噂のほうを先にする。
「夜中に、キッチンのテーブルに手紙が置かれます。誰が置いたかは、まだ分かりません」
心咲は言い切ってから、言葉が強すぎたかもしれないと思った。けれど、曖昧にすると勝手な想像が走る。
「鍵は普通にかかります。窓も閉まります。……ただ、気味が悪いのは本当です」
若い編集者は、口を半開きにして固まった。隣の先輩が、肘で小突く。
「ほら、心咲さんは校正だから。言葉を盛らない」
その一言が、妙にありがたかった。心咲は赤ペンの蓋を閉め、机の端に揃えて置いた。揃えると、少しだけ胸が落ち着く。
そのとき、背後から椅子の脚が擦れる音がした。
「心咲さん」
編集長の梶原が、腕に校了の束を抱えたまま近づいてきた。眼鏡の奥の目が、いつもより瞬きを多くしている。
「住まい、大丈夫か。……風見荘って、治安が悪いって話が」
「事実は、置き手紙が続いている、です」
心咲は口の中で順番を確かめてから言った。赤ペンの先で、ゲラの余白を軽く叩く。
「気持ちは、……落ち着かないです」
「うん」
梶原は頷いた。頷き方が大きい。心咲はそれを見て、余計に胸が詰まる。
「お願いは?」
梶原が、珍しく続きを促した。心咲はその言葉に救われる。
「今週の締め切りは守ります。けれど、帰りが遅くなる日は、駅まで一緒に歩く人がいると助かります」
口に出した瞬間、心咲は自分の声の震えに気づいた。頼る言葉を、こんな形で出すとは思わなかった。
梶原は、校了束の角を持ち替えた。
「わかった。……まず、今日は私が駅まで送る。十五分だけな」
「はい」
帰り道、駅までの短い坂を、梶原はやけにゆっくり歩いた。急げば五分の道なのに、十歩ごとに空を見上げる。心咲は笑いそうになった。笑いそうになった自分を、またメモ帳の中にしまった。
改札を抜けると、潮の匂いがふっと混じった。風見市は、線路の向こうに海がある。夕焼けがビルの窓に反射して、ガラスが赤く燃える。
風見荘へ向かう道は、まだ明るいのに、心咲の足は重かった。商店街の魚屋の前を通ると、客の会話が耳に刺さる。
「風見荘ってさ……」
名前が出た瞬間、心咲は肩をすくめた。背中が、紙のように薄くなる感じがする。
玄関の引き戸が見えてきた。庇の下の木の匂い、靴箱の古い漆の匂い。いつもなら、ここで「手順」を思い出せるのに、今日は指が鍵に届かなかった。
心咲は、たたきにしゃがみ込んだ。膝の上にバッグを置き、両手で取っ手を握る。爪が白くなる。
――事実。置き手紙。
――気持ち。こわい。
――お願い。……言えるか。
戸の向こうで、誰かが動く音がした。廊下の板が、きし、と鳴る。
引き戸が少し開き、翔琉の顔が覗いた。整骨院の白衣ではなく、黒いTシャツ。首の汗をタオルで拭きながら、靴を一足だけ、向きをそろえるみたいに揃えて外へ出た。
翔琉は何も言わずに、ペットボトルを差し出した。冷たさが、手のひらに伝わる。ラベルが少し濡れている。途中で買って、握ってきたのだろう。
心咲は、受け取ったまま蓋を開けられなかった。指が震える。
翔琉はしゃがんで、心咲の視界と同じ高さに目を置いた。そして、ポケットから小さなレシートを一枚取り出し、心咲の膝の上にそっと置いた。裏は白い。
「順番、ここで」
翔琉が短く言った。声は大きくないのに、耳の奥まで届いた。
心咲はレシートの裏に、赤ペンで三つだけ書いた。
一、事実。
二、気持ち。
三、お願い。
書き終えたら、ペットボトルの蓋が開いた。水を一口飲むと、喉の奥が痛いほど冷たい。
「事実は……会社まで噂が来ました」
「うん」
翔琉は頷いた。頷くたび、首の汗が光る。
「気持ちは……玄関の前で、足が止まりました」
「うん」
「お願いは……今夜、廊下の電気、最後までつけておいてほしいです」
心咲は言い終えて、目を伏せた。こんなお願いでいいのか、頭の中の校正者が赤字を入れそうになる。
翔琉が、少し息を吸った。すぐに返事をせず、口を開いて閉じた。返事を急がないときの癖だ。
「……わかった。廊下、全部。屋上の階段の灯りも。俺、消さない」
それから、ほんの少しだけ口元が動いた。
「レシートの字、きれいだな」
「今、褒めるところですか」
心咲の声に、やっと笑いが混じった。翔琉も、遅れて笑った。二人の笑いが重なると、玄関の木の匂いが、少しだけ甘くなる。
心咲はペットボトルを握り直し、翔琉の目を見る。
言葉の順番とは別の場所で、言いたいことが一つだけ残っている。喉の奥に引っかかって、出てこない。
心咲は小さく息を吐いて、短い言葉を選んだ。
「ありがとう」
それは、ぼそぼそでも、途中で消える声でもなかった。玄関の外の潮風に負けない大きさだった。
翔琉は一瞬、瞬きを忘れた。それから、照れたのか、靴の向きを直し始めた。もう揃っているのに。
「……うん」
それだけ言って、引き戸の取っ手を握る。
「入ろう。味噌汁、残ってる。朋行が、また何か甘いの混ぜて怒られてた」
「怒られて、ですか」
「姫蘭に。“塩と砂糖の順番は逆にしない”って」
心咲は立ち上がった。膝の痺れが、足の裏へ流れる。痛いのに、確かに地面を踏める。
引き戸の向こうから、風鈴の音がした。室内に風が通り、長い廊下の空気が動く。心咲はペットボトルを持ったまま、一歩、家の中へ入った。
「風見荘って、あの港のほうの古い家?」
コピー機の前で、総務の女性が言った。プリンターの吐き出す熱と、甘いコーヒーの匂いが混ざる休憩スペースで、二人の声がやけに響く。
「夜中に手紙が出るって……ほら、あれ。こわいやつ」
言い終わる前に、別の声がかぶさった。
「“サイコキラーがいる”ってやつでしょ。今朝、印刷所の人が言ってた。港の商店街まで広がってるって」
心咲は、赤ペンの先を止めた。紙面の「誤植」のほうは、いつもならすぐに指が動くのに、今日は文字が一列ずつ、遠くなる。
誰かが、机に置いたメモ用紙をひらりと持ってきた。手書きで大きく、
「サイコキラー 風見荘」
と書いてある。見出しみたいに。
心咲の手が、勝手に動いた。
「サイコキラー」と「風見荘」の間に、読点を一つ。赤い点が、紙の上で小さく呼吸する。
それから、次の行の「いる!」の感嘆符を、そっと一本線で消して「いる。」に直した。
「あっ」
総務の女性が目を丸くした。
「……つい」
心咲はメモを返し、指先についた赤いインクをハンカチでぬぐった。笑ってごまかすには、口角がうまく上がらない。
それでも、言葉の順番だけは守る。昨日、海沿いで練習したばかりだ。
心咲は机の引き出しから、小さなメモ帳を出した。表紙の角が丸く擦れている。開いて、いつものように一行だけ書く。
――胸がぎゅっとする。こわい。
書き終えたら、息が一回分、少しだけ深くなる。
「じゃあ、本当に人がいるの?」
若い編集者が、椅子の背を軋ませながら身を乗り出した。机の上には、付箋が何枚も貼られた児童書のゲラ。タイトルの横に、鉛筆で小さくハートが描かれている。
心咲は、そのハートの横の誤字を見つけてしまい、思わず視線を戻した。直したい。けれど、今は噂のほうを先にする。
「夜中に、キッチンのテーブルに手紙が置かれます。誰が置いたかは、まだ分かりません」
心咲は言い切ってから、言葉が強すぎたかもしれないと思った。けれど、曖昧にすると勝手な想像が走る。
「鍵は普通にかかります。窓も閉まります。……ただ、気味が悪いのは本当です」
若い編集者は、口を半開きにして固まった。隣の先輩が、肘で小突く。
「ほら、心咲さんは校正だから。言葉を盛らない」
その一言が、妙にありがたかった。心咲は赤ペンの蓋を閉め、机の端に揃えて置いた。揃えると、少しだけ胸が落ち着く。
そのとき、背後から椅子の脚が擦れる音がした。
「心咲さん」
編集長の梶原が、腕に校了の束を抱えたまま近づいてきた。眼鏡の奥の目が、いつもより瞬きを多くしている。
「住まい、大丈夫か。……風見荘って、治安が悪いって話が」
「事実は、置き手紙が続いている、です」
心咲は口の中で順番を確かめてから言った。赤ペンの先で、ゲラの余白を軽く叩く。
「気持ちは、……落ち着かないです」
「うん」
梶原は頷いた。頷き方が大きい。心咲はそれを見て、余計に胸が詰まる。
「お願いは?」
梶原が、珍しく続きを促した。心咲はその言葉に救われる。
「今週の締め切りは守ります。けれど、帰りが遅くなる日は、駅まで一緒に歩く人がいると助かります」
口に出した瞬間、心咲は自分の声の震えに気づいた。頼る言葉を、こんな形で出すとは思わなかった。
梶原は、校了束の角を持ち替えた。
「わかった。……まず、今日は私が駅まで送る。十五分だけな」
「はい」
帰り道、駅までの短い坂を、梶原はやけにゆっくり歩いた。急げば五分の道なのに、十歩ごとに空を見上げる。心咲は笑いそうになった。笑いそうになった自分を、またメモ帳の中にしまった。
改札を抜けると、潮の匂いがふっと混じった。風見市は、線路の向こうに海がある。夕焼けがビルの窓に反射して、ガラスが赤く燃える。
風見荘へ向かう道は、まだ明るいのに、心咲の足は重かった。商店街の魚屋の前を通ると、客の会話が耳に刺さる。
「風見荘ってさ……」
名前が出た瞬間、心咲は肩をすくめた。背中が、紙のように薄くなる感じがする。
玄関の引き戸が見えてきた。庇の下の木の匂い、靴箱の古い漆の匂い。いつもなら、ここで「手順」を思い出せるのに、今日は指が鍵に届かなかった。
心咲は、たたきにしゃがみ込んだ。膝の上にバッグを置き、両手で取っ手を握る。爪が白くなる。
――事実。置き手紙。
――気持ち。こわい。
――お願い。……言えるか。
戸の向こうで、誰かが動く音がした。廊下の板が、きし、と鳴る。
引き戸が少し開き、翔琉の顔が覗いた。整骨院の白衣ではなく、黒いTシャツ。首の汗をタオルで拭きながら、靴を一足だけ、向きをそろえるみたいに揃えて外へ出た。
翔琉は何も言わずに、ペットボトルを差し出した。冷たさが、手のひらに伝わる。ラベルが少し濡れている。途中で買って、握ってきたのだろう。
心咲は、受け取ったまま蓋を開けられなかった。指が震える。
翔琉はしゃがんで、心咲の視界と同じ高さに目を置いた。そして、ポケットから小さなレシートを一枚取り出し、心咲の膝の上にそっと置いた。裏は白い。
「順番、ここで」
翔琉が短く言った。声は大きくないのに、耳の奥まで届いた。
心咲はレシートの裏に、赤ペンで三つだけ書いた。
一、事実。
二、気持ち。
三、お願い。
書き終えたら、ペットボトルの蓋が開いた。水を一口飲むと、喉の奥が痛いほど冷たい。
「事実は……会社まで噂が来ました」
「うん」
翔琉は頷いた。頷くたび、首の汗が光る。
「気持ちは……玄関の前で、足が止まりました」
「うん」
「お願いは……今夜、廊下の電気、最後までつけておいてほしいです」
心咲は言い終えて、目を伏せた。こんなお願いでいいのか、頭の中の校正者が赤字を入れそうになる。
翔琉が、少し息を吸った。すぐに返事をせず、口を開いて閉じた。返事を急がないときの癖だ。
「……わかった。廊下、全部。屋上の階段の灯りも。俺、消さない」
それから、ほんの少しだけ口元が動いた。
「レシートの字、きれいだな」
「今、褒めるところですか」
心咲の声に、やっと笑いが混じった。翔琉も、遅れて笑った。二人の笑いが重なると、玄関の木の匂いが、少しだけ甘くなる。
心咲はペットボトルを握り直し、翔琉の目を見る。
言葉の順番とは別の場所で、言いたいことが一つだけ残っている。喉の奥に引っかかって、出てこない。
心咲は小さく息を吐いて、短い言葉を選んだ。
「ありがとう」
それは、ぼそぼそでも、途中で消える声でもなかった。玄関の外の潮風に負けない大きさだった。
翔琉は一瞬、瞬きを忘れた。それから、照れたのか、靴の向きを直し始めた。もう揃っているのに。
「……うん」
それだけ言って、引き戸の取っ手を握る。
「入ろう。味噌汁、残ってる。朋行が、また何か甘いの混ぜて怒られてた」
「怒られて、ですか」
「姫蘭に。“塩と砂糖の順番は逆にしない”って」
心咲は立ち上がった。膝の痺れが、足の裏へ流れる。痛いのに、確かに地面を踏める。
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