スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第12話 赤い花びらの紙片

 五月下旬。港からの風が弱まった夜でも、古い家の窓は、ときどき小さく鳴く。

 カラン、と乾いた音がした。ガラスが触れたみたいな、短い一拍。

 心咲は目を開けたまま、しばらく息を止めた。寝る前に見た天井の木目が、暗がりでもうっすら分かる。枕元の時計は、午前一時を少し回っていた。

 「……風?」

 自分の声が、思ったより小さかった。耳だけを澄ませると、今度は廊下の板が、きし、と鳴った。

 心咲はベッドから足を下ろし、スリッパを探した。つま先が床に触れた瞬間、冷たさが背中を上ってくる。

 廊下の先で、スマホのライトがパッと点いた。

 「誰か、外……?」

 陽向太の声だ。寝癖のままの頭が、逆光でふわっと浮いて見えた。手にはライト。反対の手には、なぜかハエ叩き。

 「それ、武器?」

 姫蘭が、寝巻きの上にパーカーを羽織って出てきた。手にはメモ帳とペン。目だけは、昼間と同じ速さで動いている。

 「武器っていうか、えっと……叩くとき、音が出るから」

 「なるほど。警告音担当ね」

 心咲は笑いかけて、口の端が引きつるのを感じた。笑いの中に、冷たいものが残っている。

 そのとき、玄関の方から、もう一つ、音がした。ガラスではない。軽い砂利が、踏まれる音。

 陽向太が、指を唇に当てた。三人の呼吸が、同じタイミングで止まる。

 階段を下りる足音が、ばたばたと増えた。

 「……起きた?」

 朋行が、片手にレンチみたいな工具を持って現れた。もう片方の手には、片方だけの靴下。

 「それ、なんで持って出てくるの」

 姫蘭が問うと、朋行は工具を見下ろして、首をかしげた。

 「寝る前に片付けるつもりで……そのまま寝落ちして……」

 「寝落ちの供物にするには硬いわね」

 「ごめん」

 翔琉は、最後に現れた。裸足だった。玄関のたたきに降りた瞬間、眉が少しだけ動く。石ころの痛さを、声にせず飲み込んだ顔。

 「外、出る。ライト、もう一個」

 短い言葉で、動きだけが速い。心咲は咄嗟に、キッチンの引き出しから懐中電灯を取り出して差し出した。

 翔琉は受け取ると、手首で一度だけ合図をした。行く、と。

 庭へ続く勝手口の鍵を、姫蘭が確認する。陽向太がドアを少しだけ開けて、ライトの光を外へ投げた。

 夜の庭は、昼間より狭い。潮の匂いと、湿った土の匂いが混ざっている。隣家の柵の向こうで、波の音が遠く鳴っていた。

 「誰だ!」

 陽向太が声を張り、ライトを振る。光の円が植木の影を切り取り、砂利の上を走った。

 そして、影も、走った。

 黒い形が、塀の向こうへすり抜ける。人の背中に見えた。けれど、次の瞬間には、風にほどけた暗さの中へ消えた。

 翔琉が追いかけた。砂利が派手に鳴る。裸足のまま。心咲は止める言葉が出ず、代わりに懐中電灯を握り直した。

 「翔琉!」

 姫蘭が名前だけを投げると、翔琉は塀の角で足を止めた。無茶はしない。だけど、目だけは追っている。光が、角の外へ伸びる。

 「……いない。こっちは、通ってない」

 翔琉は戻ってきて、砂利の上にしゃがんだ。何かを拾い上げる仕草。

 「それ、何?」

 心咲が近づくと、翔琉の指先に、赤いものがあった。

 花びらの形に切られた紙片。指の腹ほどの大きさ。赤いインクで、細い線が一本、中心に引かれている。まるで、花の脈。

 「落ちてた。……置いてったんだろ」

 陽向太がライトを近づける。紙の裏に、小さな文字があった。歪んだ筆圧で、短い一文。

 『赤い花の石、返せ』

 庭の空気が、ひゅっと冷えた。

 心咲は言葉を探した。口の中が乾き、唇がくっつく。自分の祖母の形見。レッドフラワークォーツ。あの日、手のひらから消えた赤い石。

 「……これ、私のせいだ」

 心咲が言いかけた瞬間、姫蘭のペンがカチッと音を立てた。

 「違う。今は、順番」

 姫蘭はメモ帳を開き、庭の端に立ったまま、淡々と線を引き始めた。

 「今、何が起きたか。いつ。どこ。誰が。見たもの。聞いた音。後で交番に話すとき、ここが揃ってると強い」

 「……姫蘭、先生みたい」

 朋行がつぶやくと、姫蘭は視線を上げずに返した。

 「先生じゃない。寝不足に弱いだけ」

 「それ、同じじゃない?」

 陽向太が笑おうとして、喉の奥で止まった。ハエ叩きが、手の中で頼りなく揺れた。

 「交番、行こう。明日……いや、朝一で」

 陽向太が言った。声は震えていない。だけど、握っているライトの角度だけが、少しだけ乱れている。

 「俺、流れ作る。紙は袋に入れる。触った人、言っとく。あと、庭に出た時間」

 姫蘭がメモを続ける。

 「外出した時間も整理する。『誰が家にいたか』をきちんと残す。疑われたくないなら、これが一番」

 その言い方が、胸の奥に刺さった。疑われたくない。言葉は正しいのに、冷たくて、痛い。

 「……疑うの、楽しい?」

 梨加子が、勝手口の内側から顔を出した。寝巻きのまま、髪を片手でまとめている。目元はきついのに、声だけが妙に眠そうだ。

 「今夜のせいで、明日の肌が終わるんだけど」

 「肌の話、今?」

 陽向太が言い返すと、梨加子はため息をついた。

 「だって、怖いのって、みんな同じでしょ。なら、実害の話もしないと。……鍵、ほんとに全部閉めた?」

 姫蘭がペン先を止め、家の方へ向き直った。

 「閉めた。私が最後に確認した」

 梨加子は唇を尖らせたまま、視線を心咲へ滑らせた。

 「……その赤い石、どこに置いてたの」

 胸がぎゅっと縮む。責められているのか、確認されているのか。その差が、今は分からない。

 心咲は、言葉を噛んで飲み込んだ。代わりに、息を整えた。

 「……リビングの棚。鍵つきの箱に。……でも、なくなった」

 言うと、喉が少しだけ楽になった。隠しても、何も戻らない。

 翔琉が、紙片を透明な袋に入れた。指先の動きが丁寧だ。袋の口を閉じると、ふっと息を吐いた。

 「赤い花びら、だな。……誰かの合図みたいだ」

 「合図?」

 朋行が眉を上げる。

 「サッカーでもさ、狙いがあるときって、わざと目立つ動きするだろ。相手に『ここを見る』って思わせて、別のところを抜く」

 翔琉は、笑いかけた。軽い笑い。だけど目は、庭の暗さを見ていた。

 「今回も、家そのものじゃなくて……誰かの大事な物を狙ってる。俺は、そう感じる」

 心咲は胸の奥で頷いた。家が荒らされるより、もっと嫌な感じがする。自分の大事なものだけを、狙い撃ちされる感じ。

 部屋へ戻ると、リビングの蛍光灯が白すぎた。誰も座らないソファが、急に大きい。

 姫蘭がホワイトボードを持ってきた。いつの間に用意していたのか、マグネットまで揃っている。

 「今夜から、当番を作る。夜中に物音がしたら、ひとりで出ない。必ず二人」

 「当番って……私たち、合宿?」

 朋行が笑い、梨加子が鼻で笑った。

 「合宿なら、せめてごはんがうまい」

 陽向太がハエ叩きを机に置いた。

 「ごはんは、俺が明日、何とかする。とりあえず……今夜、寝直せる?」

 答えが出ない沈黙の中で、心咲は自分の両手を見た。汗で少し湿っている。さっきから、指先が冷たい。

 翔琉が、心咲の前に水を置いた。ペットボトルのキャップは、開けられている。

 心咲はそのまま見つめた。昨日の夕方、玄関でしゃがみ込んだ自分に差し出された水。あれと同じ。

 言葉が、胸の奥でつかえた。昨日は「ありがとう」と言えた。今日は――。

 「……今、怖い」

 心咲は、きちんと翔琉の目を見て言った。震えは消えない。けれど、逃げずに言えた。

 翔琉の眉が、ほんの少しだけ下がった。困ったような、悔しいような顔。

 「……そうだよな。俺さ」

 翔琉は椅子に座らず、立ったまま言った。言葉を探しているのが、口の開け方で分かる。

 「『心咲は大丈夫って言う人だ』って……勝手に決めてた。だから、助けるって言うと、邪魔になると思って。距離……取ってた」

 喉が鳴る。翔琉は一度だけ飲み込み、続けた。

 「でも、さっき。庭で。『止める言葉が出ない』って顔してた。……俺、見てたのに、今まで見ないふりしてた」

 心咲は、ペットボトルに手を置いた。冷たさが掌に染みる。言い返したい気持ちは、なかった。

 「……今、言えたなら、次は変えられる」

 心咲は、それだけ言った。責めるより先に、今夜を越える段取りが必要だった。

 翔琉は、短く息を吐き、頷いた。

 「うん。次は、俺が先に言う。『一緒にやる』って」

 陽向太が、ホワイトボードに「交番 午前九時」と書いた。姫蘭が、その横に「鍵確認 毎晩23:30」と書く。朋行が小さく手を挙げた。

 「……俺、工具は片付ける。誤解される」

 梨加子が、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 「誤解っていうか、寝落ちが怖いわ」

 誰かが小さく笑った。笑いは短い。けれど、部屋の空気がほんの少しだけ動いた。

 心咲は、胸の奥の冷たい塊を、両手で包むみたいにして息をした。

 怖い。だけど、今夜、ひとりじゃない。

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