スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第13話 湿布の棚とほどけた靴ひも

 六月のはじめ。風見市の空は高く、港の匂いが昼の熱で少しだけ甘くなる。

 風見荘の玄関で、翔琉が靴を履いた。いつもなら、紐を結ぶ指が一度も迷わない。けれどその朝は、片方を引いたあと、わずかに手が止まった。

 心咲は、台所の水切りかごからコップを取る手を止めた。視線を足元へ落とす。翔琉の右足首の動きが、きれいに曲がらない。

 「……昨日、庭で走りましたよね」

 言ってから、心咲は自分の言い方を修正したくなった。責めるつもりはない。ただ、思い出したのだ。砂利の音。裸足。夜の冷たさ。

 翔琉は「うん」とだけ返した。否定しない。代わりに、玄関框に片膝をついたまま、もう一度、紐を結び直そうとする。

 そのとき、紐が指から滑った。結び目がほどけ、床にだらりと落ちた。

 翔琉が笑うように息を吐いた。
 「……今日は、整骨院で自分も診てもらう。たいしたことない」

 心咲はメモ帳を開き、赤ペンで一行だけ書いた。
 〈心配 言葉を急がない〉

 「昼に、薬局も寄りませんか」
 「湿布なら、院にもある」
 「種類が違います」

 心咲の返事は短い。けれど、言い切る前に深く吸った。胸の奥が熱くなるのが分かったからだ。心配の熱。口から出す順番を間違えたくない。

 翔琉は立ち上がり、靴の向きを揃えた。揃え終わると、心咲のメモ帳をちらっと見た。
 「……順番、守ってるな」
 「まだ、練習中です」

 玄関の引き戸を開けると、洗濯物が風でふくらんだ。誰かが取り込み忘れた靴下が、ばたばたと踊る。心咲は腕を伸ばし、落ちないように洗濯ばさみを一つだけ追加した。翔琉は黙って、もう一つ追加した。余計に言わない。余計に動く。

 昼前。心咲は職場の休憩を合わせ、駅前の薬局で翔琉と落ち合った。
 薬局の自動ドアが開くたび、冷たい空気と消毒の匂いが出てくる。棚はまっすぐで、薬の箱が同じ向きで並び、見ているだけで背筋が伸びた。

 翔琉は入口近くの椅子に座った。足を組まない。右足を少しだけ前へ出して、靴下の上から足首を押した。痛みを確かめるみたいに。

 心咲は湿布の棚へ向かった。冷感、温感。貼る時間。大きさ。香り。小さな文字がぎっしりで、目が忙しい。
 心咲はメモ帳を開き、箱の側面を見ながら書いた。
 〈冷 動いたあと〉
 〈温 寝る前〉
 〈貼る 八時間〉
 〈薄い 服に響かない〉

 「……そんなに書くの」

 翔琉の声が、背中に届いた。驚いたというより、照れたときの短い調子。

 心咲は振り返らずに答えた。
 「比べないと、選べません」
 「俺は、貼れば同じだと思ってた」
 「同じなら、棚が一列で足ります」

 自分でも少し言い過ぎた気がして、心咲は口角を押さえた。笑いを隠すと、喉が軽くなる。

 店員が近づいてきた。白い制服の袖がきちんとしている。
 「足首ですか。腫れはあります?」
 翔琉は立ち上がり、軽くズボンの裾を上げた。足首の外側がほんのり赤い。
 「昨日の夜、走って……朝から違和感です」
 言い訳を足さないのが、翔琉らしかった。

 店員が、冷感と固定用のテープの場所を案内した。心咲は頷きながら、メモ帳に足した。
 〈固定 歩くとき〉
 〈貼る前 水分拭く〉

 会計のあと、薬局の外へ出ると、風見市の潮風が一気に押し寄せた。薬局の冷えた空気が背中から抜けて、代わりに夏の匂いが入ってくる。

 翔琉は袋を受け取り、持ち手を二重にした。破れないように。
 「ありがとな」
 「……まだ、終わってません」

 心咲が言うと、翔琉が首を傾げた。
 「何が」
 「貼るのは、家で。順番は、最後までです」

 翔琉は「はい」と真面目に返事をした。真面目すぎて、心咲は笑いそうになる。笑うと、心配がほどける気がした。

 風見荘へ戻ると、共同キッチンから甘い匂いがした。朋行がまな板を拭き、果物の端切れを小皿に並べている。
 「お、味見会。今日は桃の切れ端が主役だぞ」
 朋行が胸を張る。包丁の背で皿を台へトン、と置く音が軽い。
 姫蘭は当番表を壁に貼り直しながら、目だけで二人を見た。
 「翔琉、足。座って。心咲、薬袋、見せて」
 姫蘭は言葉が短い。短いのに、全員が動く。

 翔琉が椅子に座ると、陽向太が冷蔵庫から氷を出してきた。透明な袋に入れ、タオルでくるむ。手順が早い。
 「昨日の庭、砂利が多かったからな。無理すんな」
 陽向太の声は大きいが、押しつける感じがない。置いていくみたいに言う。

 心咲は翔琉の前にしゃがみ、薬局の袋から冷感の湿布とテープを出した。テーブルの上に並べ、箱を開ける。指先が迷わないように、順番を決めている。

 「貼る前に、拭きます」
 心咲はキッチンペーパーを濡らし、そっと翔琉の足首を拭いた。皮膚に触れると、翔琉の肩が一瞬だけ跳ねた。
 心咲は驚いて手を止めた。
 「痛いですか」
 「……いや。くすぐったい」

 朋行が笑った。
 「台詞の甘さは砂糖で調整できないぞ」
 「今のは台詞じゃない」
 翔琉が即答する。真面目な顔のまま。
 姫蘭が小さく息を漏らし、当番表の紙を押さえた指が少しだけ揺れた。笑いを我慢している。

 湿布を貼り、テープで軽く固定する。心咲は力を入れすぎない。薬局で教わった通り、皮膚が引っ張られない程度に。
 「歩くときだけ、固定。寝る前は温感でもいいって」
 心咲が言い、メモ帳のページを見せた。

 翔琉はメモ帳を見て、目を丸くした。
 「……俺の足のために、こんなに」
 「足だけじゃありません。あなたが、転んだら困ります」

 言ってから、心咲は自分の言い方にまた気づいた。困る、は事実だ。でも、それだけじゃない。
 心咲はメモ帳を裏返し、赤ペンで一行足した。
 〈困る の裏 怖い〉

 翔琉がそれを見たかどうかは分からない。けれど、翔琉は視線を外し、袋の口を折りたたんだ。耳たぶが少しだけ赤い。

 そのまま夕方。翔琉は整骨院の仕事へ戻る支度をした。心咲が玄関まで見送る。引き戸の前で、翔琉が靴に足を入れた。

 ――靴ひもが、ほどけている。

 心咲は反射でしゃがみ込んだ。翔琉の足元へ手を伸ばし、紐を交差させ、輪を作り、もう一度くぐらせる。指の動きが、日々の校正みたいに正確だ。結び目がきゅっと締まる。

 息を吸ったとき、翔琉の視線が降ってくるのを感じた。心咲は顔を上げずに言った。
 「ほどけてました」
 「……うん」

 翔琉の返事が、さっきよりも小さい。
 心咲が顔を上げると、翔琉は玄関の柱を見ていた。目が泳いでいるわけではない。ただ、どこを見ていいか分からないみたいに。

 耳だけが、赤い。

 心咲は自分の胸が熱くなるのを感じた。理由を、すぐに言葉にしない。代わりに、メモ帳を開き、玄関の段差に膝をついたまま、一行だけ書いた。
 〈触れた あたたかい〉

 翔琉が、その文字に気づいたのか、気づいていないのか。
 翔琉は咳払いを一つして、靴の向きを揃えた。もう揃っているのに。
 「……行ってくる」
 「いってらっしゃい」

 引き戸が閉まり、潮風の音が戻った。
 心咲は玄関に残り、ほどけた紐の残像みたいな感触を指先で確かめた。

 怖い噂は、まだ消えていない。
 けれど、今日の結び目は、確かにほどけなかった。

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