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第14話 当番表の筆圧とコップの水
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六月のはじめ。風見荘のリビングは、窓の隙間から潮の匂いが入り、カーテンの裾がひらひらと持ち上がっては落ちた。共同キッチンの蛇口は締まっているのに、どこかで水が滴る音だけが残っている。
心咲は、帰宅してすぐ冷蔵庫の前に立った。買ってきた牛乳を入れようとして、貼り紙の一枚に目が止まる。透明テープで留められた清掃当番表。黒いボールペンの線が一部だけ、妙に濃かった。
「……あれ」
目線を少し下げると、梨加子の名前が連続して並んでいた。月曜、水曜、金曜。さらに週末の共用トイレまで。
心咲はメモ帳を開きかけて、閉じた。書く前に、喉の奥が固くなる感触がしたからだ。玄関から誰かが戻ってくる足音。靴が二足、廊下の木目を鳴らす。
梨加子だった。バッグをソファに投げるのではなく、床にそっと置いてから、当番表を見た。目が細くなり、口がゆっくり開いた。
「……なに、これ」
声は低かった。低いのに、空気が一段、張った。
「冗談でしょ。私だけ連続って。誰、いじったの」
梨加子は紙を剥がして、指でなぞった。ボールペンの線が指先に引っかかる。爪を立てれば、紙ごと削れそうなほど。
キッチンの奥から、朋行が顔を出した。エプロンの胸元に、小さな粉が付いている。焼き菓子の匂いが、怒りの匂いの上からふわりと重なった。
「お、当番表が進化してる。誰の発明だ?」
「発明じゃない。嫌がらせ」
梨加子が言い切ると、朋行は口を閉じ、両手を上げた。降参の形のまま、冷蔵庫の横に避難する。
階段を上がる足音が止まり、翔琉がリビングへ入ってきた。足首にテーピングが見える。歩幅が小さいのに、視線は逃げなかった。
「どうした」
梨加子は当番表を掲げた。紙が風にあおられて、ぱたぱた鳴る。
「見て。私だけ、掃除が三連続。しかも週末のトイレ。こっちの都合とか無視でしょ」
翔琉は紙を受け取らず、まずテーブルの上のコップを取った。水を注ぎ、梨加子の前へ置く。置く音は小さかった。けれど、全員の視線がそこへ寄った。
「一回、飲める?」
梨加子はコップを見たが、手を伸ばさなかった。代わりに、心咲へ目を向ける。心咲の指先が、メモ帳の角を押していたのを見たのか、梨加子は眉を寄せた。
「で、心咲は? また、落ち着けって?」
心咲は、言葉が喉で引っかかるのを感じた。言い返す前に、メモ帳を開き、一行だけ書いた。
〈今、胸が硬い 焦る〉
書き終えてから、顔を上げた。
「落ち着いて、とは言いません。……ただ、一回、息を」
その「息を」が、梨加子の耳に違う形で届いた。
「ほら。上から。『息して』って。私が取り乱してるみたいに言う」
心咲は反射で「違う」と言いそうになった。けれど、その前に、翔琉が椅子を一つ、ゆっくり引いた。ぎい、と木が鳴る。
「座って話そう。順番に」
順番。その言葉が、心咲の胸の硬さを少しだけほどいた。翔琉は、練習でも試合でも、誰かが前に出すぎたとき、声を荒げない。視線と手の合図で、流れを整える。
姫蘭が、いつの間にかトレーを持ってきていた。水の入ったコップが四つ。テーブルの角に、均等な距離で並ぶ。
「まず、梨加子。言いたいことを三つだけ。途中で止めない。終わったら次の人」
姫蘭は、紙を一枚取り出した。以前、話す順番カードを作ったときの名残みたいな厚紙だ。今日はカードではなく、裏返してメモ用にするらしい。
梨加子は唇を噛み、でも、吐き出すように言った。
「一つ。勝手に変えるな。二つ。私の生活をバカにするな。三つ……私を、からかうな」
最後の言葉が出た瞬間、梨加子の目が少しだけ揺れた。怒りの下に、別の色が隠れているのを、心咲は見落とさなかった。
朋行が小さく頷き、キッチンカウンターに置いていた皿を持ってきた。丸いクッキーが五枚。真ん中に穴が開いていて、風鈴の短冊みたいに糸を通せそうな形だ。
「言葉が硬いときは、噛めるものを挟む。俺の持論」
誰も笑わないと思ったのか、朋行は自分で一枚噛んだ。さく、という音が、部屋の張りつめた空気に細いひびを入れた。
姫蘭は当番表を受け取り、机の上に広げた。紙の端を押さえ、照明の下で角度を変える。すると、書き足された線の部分だけ、紙が沈んで見えた。
「筆圧が強い。急いで書いたか、力が入ってる」
姫蘭は指の腹で、線の上をそっと撫でた。
「ここの『梨』の払い、途中で止まってる。筆先が引っかかってる。丁寧に嫌がらせしたい人の手つきじゃない」
梨加子が眉をひそめた。
「丁寧じゃないなら、なおさら悪いでしょ」
姫蘭は首を振らずに、別の紙を差し出した。風見荘の当番表の元のコピー。冷蔵庫の裏に、予備がまとめて挟まっているのを姫蘭が見つけていた。
「悪い、は変わらない。ただ……狙いが違う。これは、怖がらせるより、反応を引き出したい手つき。怒らせて、誰かを動かしたい」
心咲は、背筋が少し冷えた。夜中の置き手紙。庭で鳴ったガラス。赤い花びら形の紙片。全部、誰かの気持ちを動かすために置かれていたのだとしたら。
翔琉が、梨加子の前のコップを、指先で少しだけ近づけた。
「梨加子が悪いって言われたくないのは、わかった。……俺らも、同じだ。だから、誰かを決めつけない」
梨加子はようやくコップを掴み、一口だけ飲んだ。喉が動き、目の焦点が戻ってくる。
「決めつけない、って。じゃあ、どうするの」
心咲はメモ帳を開き、次の一行を書いた。
〈言い方を変える 『息を』→『一回だけ、水』〉
書いたあとで、梨加子へ向き直った。
「私、さっきの言い方、よくなかった。ごめん。……一回だけ、水を飲んで。話を続けたい」
梨加子は、すぐに頷かなかった。けれど、コップをもう一口飲み、少しだけ肩を下げた。
「……まあ、言い方は、そういうときもある」
朋行が、クッキーの最後の一枚を皿ごと梨加子へ滑らせた。
「甘いのは、言葉じゃなくて、これで補う。俺の店の方針」
梨加子はクッキーを見て、ため息みたいに鼻で笑った。
「方針とか、やめて。……でも、食べる」
その瞬間、リビングの風鈴が、外の風に合わせて一度だけ鳴った。澄んだ音が、会話の切れ目に小さく落ちる。
姫蘭は当番表の濃い線を指で隠し、元の表を上に重ねた。
「今夜は、元に戻す。明日は私が貼る。貼る前に、全員の目の前で」
姫蘭はペン立てを引き寄せ、並んだボールペンの尻を机に軽く当てた。一本だけ、カチ、と音が鈍い。先端に乾ききらないインクが残り、指に黒い点がつく。姫蘭はティッシュで拭き取り、何も言わず元の場所へ戻した。
翔琉が頷いた。
「俺もいる。十分前に」
心咲は、その「十分前」に、少しだけ口角を上げた。真面目すぎる宣言が、変な安心を連れてくる。
梨加子は立ち上がり、キッチンのシンクへ向かった。怒りの勢いのままではなく、一定の速度で。水を出し、手を洗う。指の間を丁寧にこすり、泡を流す。
心咲はその背中を見ながら、もう一行だけ書いた。
〈怒りの下に からかわれたくない を見た〉
噂は、まだ、風見荘の廊下を走り回っている。
けれど今夜、誰かが誰かを追い詰める音より先に、コップの水の音が置かれた。
心咲は、帰宅してすぐ冷蔵庫の前に立った。買ってきた牛乳を入れようとして、貼り紙の一枚に目が止まる。透明テープで留められた清掃当番表。黒いボールペンの線が一部だけ、妙に濃かった。
「……あれ」
目線を少し下げると、梨加子の名前が連続して並んでいた。月曜、水曜、金曜。さらに週末の共用トイレまで。
心咲はメモ帳を開きかけて、閉じた。書く前に、喉の奥が固くなる感触がしたからだ。玄関から誰かが戻ってくる足音。靴が二足、廊下の木目を鳴らす。
梨加子だった。バッグをソファに投げるのではなく、床にそっと置いてから、当番表を見た。目が細くなり、口がゆっくり開いた。
「……なに、これ」
声は低かった。低いのに、空気が一段、張った。
「冗談でしょ。私だけ連続って。誰、いじったの」
梨加子は紙を剥がして、指でなぞった。ボールペンの線が指先に引っかかる。爪を立てれば、紙ごと削れそうなほど。
キッチンの奥から、朋行が顔を出した。エプロンの胸元に、小さな粉が付いている。焼き菓子の匂いが、怒りの匂いの上からふわりと重なった。
「お、当番表が進化してる。誰の発明だ?」
「発明じゃない。嫌がらせ」
梨加子が言い切ると、朋行は口を閉じ、両手を上げた。降参の形のまま、冷蔵庫の横に避難する。
階段を上がる足音が止まり、翔琉がリビングへ入ってきた。足首にテーピングが見える。歩幅が小さいのに、視線は逃げなかった。
「どうした」
梨加子は当番表を掲げた。紙が風にあおられて、ぱたぱた鳴る。
「見て。私だけ、掃除が三連続。しかも週末のトイレ。こっちの都合とか無視でしょ」
翔琉は紙を受け取らず、まずテーブルの上のコップを取った。水を注ぎ、梨加子の前へ置く。置く音は小さかった。けれど、全員の視線がそこへ寄った。
「一回、飲める?」
梨加子はコップを見たが、手を伸ばさなかった。代わりに、心咲へ目を向ける。心咲の指先が、メモ帳の角を押していたのを見たのか、梨加子は眉を寄せた。
「で、心咲は? また、落ち着けって?」
心咲は、言葉が喉で引っかかるのを感じた。言い返す前に、メモ帳を開き、一行だけ書いた。
〈今、胸が硬い 焦る〉
書き終えてから、顔を上げた。
「落ち着いて、とは言いません。……ただ、一回、息を」
その「息を」が、梨加子の耳に違う形で届いた。
「ほら。上から。『息して』って。私が取り乱してるみたいに言う」
心咲は反射で「違う」と言いそうになった。けれど、その前に、翔琉が椅子を一つ、ゆっくり引いた。ぎい、と木が鳴る。
「座って話そう。順番に」
順番。その言葉が、心咲の胸の硬さを少しだけほどいた。翔琉は、練習でも試合でも、誰かが前に出すぎたとき、声を荒げない。視線と手の合図で、流れを整える。
姫蘭が、いつの間にかトレーを持ってきていた。水の入ったコップが四つ。テーブルの角に、均等な距離で並ぶ。
「まず、梨加子。言いたいことを三つだけ。途中で止めない。終わったら次の人」
姫蘭は、紙を一枚取り出した。以前、話す順番カードを作ったときの名残みたいな厚紙だ。今日はカードではなく、裏返してメモ用にするらしい。
梨加子は唇を噛み、でも、吐き出すように言った。
「一つ。勝手に変えるな。二つ。私の生活をバカにするな。三つ……私を、からかうな」
最後の言葉が出た瞬間、梨加子の目が少しだけ揺れた。怒りの下に、別の色が隠れているのを、心咲は見落とさなかった。
朋行が小さく頷き、キッチンカウンターに置いていた皿を持ってきた。丸いクッキーが五枚。真ん中に穴が開いていて、風鈴の短冊みたいに糸を通せそうな形だ。
「言葉が硬いときは、噛めるものを挟む。俺の持論」
誰も笑わないと思ったのか、朋行は自分で一枚噛んだ。さく、という音が、部屋の張りつめた空気に細いひびを入れた。
姫蘭は当番表を受け取り、机の上に広げた。紙の端を押さえ、照明の下で角度を変える。すると、書き足された線の部分だけ、紙が沈んで見えた。
「筆圧が強い。急いで書いたか、力が入ってる」
姫蘭は指の腹で、線の上をそっと撫でた。
「ここの『梨』の払い、途中で止まってる。筆先が引っかかってる。丁寧に嫌がらせしたい人の手つきじゃない」
梨加子が眉をひそめた。
「丁寧じゃないなら、なおさら悪いでしょ」
姫蘭は首を振らずに、別の紙を差し出した。風見荘の当番表の元のコピー。冷蔵庫の裏に、予備がまとめて挟まっているのを姫蘭が見つけていた。
「悪い、は変わらない。ただ……狙いが違う。これは、怖がらせるより、反応を引き出したい手つき。怒らせて、誰かを動かしたい」
心咲は、背筋が少し冷えた。夜中の置き手紙。庭で鳴ったガラス。赤い花びら形の紙片。全部、誰かの気持ちを動かすために置かれていたのだとしたら。
翔琉が、梨加子の前のコップを、指先で少しだけ近づけた。
「梨加子が悪いって言われたくないのは、わかった。……俺らも、同じだ。だから、誰かを決めつけない」
梨加子はようやくコップを掴み、一口だけ飲んだ。喉が動き、目の焦点が戻ってくる。
「決めつけない、って。じゃあ、どうするの」
心咲はメモ帳を開き、次の一行を書いた。
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「私、さっきの言い方、よくなかった。ごめん。……一回だけ、水を飲んで。話を続けたい」
梨加子は、すぐに頷かなかった。けれど、コップをもう一口飲み、少しだけ肩を下げた。
「……まあ、言い方は、そういうときもある」
朋行が、クッキーの最後の一枚を皿ごと梨加子へ滑らせた。
「甘いのは、言葉じゃなくて、これで補う。俺の店の方針」
梨加子はクッキーを見て、ため息みたいに鼻で笑った。
「方針とか、やめて。……でも、食べる」
その瞬間、リビングの風鈴が、外の風に合わせて一度だけ鳴った。澄んだ音が、会話の切れ目に小さく落ちる。
姫蘭は当番表の濃い線を指で隠し、元の表を上に重ねた。
「今夜は、元に戻す。明日は私が貼る。貼る前に、全員の目の前で」
姫蘭はペン立てを引き寄せ、並んだボールペンの尻を机に軽く当てた。一本だけ、カチ、と音が鈍い。先端に乾ききらないインクが残り、指に黒い点がつく。姫蘭はティッシュで拭き取り、何も言わず元の場所へ戻した。
翔琉が頷いた。
「俺もいる。十分前に」
心咲は、その「十分前」に、少しだけ口角を上げた。真面目すぎる宣言が、変な安心を連れてくる。
梨加子は立ち上がり、キッチンのシンクへ向かった。怒りの勢いのままではなく、一定の速度で。水を出し、手を洗う。指の間を丁寧にこすり、泡を流す。
心咲はその背中を見ながら、もう一行だけ書いた。
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