スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第16話 箱の蓋と写真の順番

 六月中旬の朝。窓の外で、港へ向かうトラックの音が一度だけ遠くで跳ねた。風見荘の廊下はまだ薄暗く、共同キッチンから漂うのは昨夜の“残り物カレー”の匂いの名残だけだ。

 心咲は目覚ましが鳴る前に起きた。枕元のメモ帳を開き、いつものように一行を書こうとして、鉛筆の芯が止まった。昨夜、屋上で短冊を結び直した指先が、まだ風鈴の糸の感触を覚えている。
 「いまの気持ち:……」
 言葉が出ないまま、心咲は鉛筆を置いた。代わりに、机の上に置いた小さな鍵を指で転がし、カチ、と音を確かめる。鍵付き箱の鍵だ。

 箱は、ベッド脇の棚のいちばん奥にある。寝る前に必ず、奥に押し込んで、上から文庫本を二冊乗せる。祖母の形見の赤い石は、そこに入れてあるはずだった。

 棚の前に膝をつく。文庫本を外す。指が箱の蓋に触れた瞬間、心咲は違和感に気づいた。蓋が、ほんの少しだけ浮いている。鍵穴の向きも、いつもと違う。昨日の夜、鍵をかけたときは、確かに右を向いていたのに、今は真上を向いている。

 息を吸って、吐く。胸の内側がざらついたけれど、声は出さなかった。
 心咲はスマホを取り出し、箱全体、鍵穴、棚の位置、床との距離を順に撮った。画面の隅に表示される時刻を見て、メモ帳に写す。
 「六時十二分。箱の蓋、浮き。鍵穴、上」
 書いた途端に、指先の震えが引っ込んだ。文字にすると、身体が少しだけ落ち着く。

 鍵を差し込む。回らない。鍵は最初から、開いていた。
 蓋を持ち上げる。中は、軽い。赤い石の重みがない。小さな布袋だけが、空のまま折りたたまれている。

 心咲は布袋をつまみ、そっと箱の外へ置いた。触る順番を間違えないように。次に、部屋のドアへ目を向ける。チェーンは外れている。鍵は、内側からかけてある。窓は閉まっている。網戸の爪は……いつもより浅い位置で止まっていた。

 そこで、廊下の床がきしんだ。

 翔琉の足音は、急がないのに迷いがない。いつも十分快く出る彼が、今日はさらに早いらしい。整骨院の白衣を腕にかけ、スポーツバッグを背負っている。廊下のスリッパが一足、斜めになっているのを見ると、彼は無言でつま先で直し、それから心咲の開けたままの部屋の扉を見た。

 「……朝、早いですね」
 翔琉が言った。声のトーンはいつも通りなのに、視線だけが硬い。
 心咲は扉の外へ出ず、部屋の中から答えた。
 「箱が……開いてた」

 翔琉の喉が動いた。白衣の袖を握り、ほどけた指をもう一度握り直す。
 「石?」
 「うん。赤い石。……なくなってる」

 翔琉は一歩、踏み込もうとして止まった。心咲が、手のひらを軽く上げたからだ。止めるためじゃない。距離を守るため。翔琉はその意味を受け取って、玄関ではなく、廊下の壁際へ寄った。

 「まず、写真。もう撮った」
 心咲が言うと、翔琉はうなずいた。うなずき方が、練習前の確認みたいだった。
 「次」
 「順番、決める。……一緒に」

 翔琉は息を吐き、視線を心咲のメモ帳へ落とした。心咲の字は、整っているけれど、今朝は少しだけ太い。鉛筆を強く押しているのが分かる。

 「俺、今すぐみんな起こして……」
 翔琉が言いかけた瞬間、心咲は首を横に振った。
 「今、起こすと、みんなの朝の動きが混ざる。混ざると、分からなくなる」

 翔琉は唇を噛んだ。怒りが口から出かけて、歯で止めている。
 それでも、彼は言葉を投げなかった。代わりに、ポケットから小さなジップ袋を出した。整骨院で使う清潔な小袋らしい。
 「触りそうなもの、これに入れます。……勝手に」
 「勝手にじゃない。助かる」

 心咲は箱の近くに落ちていた、自分の髪留めを袋へ入れるように指示した。床に落ちていたものが、いつ落ちたか分からない。翔琉は黙って袋に入れ、メモ帳に「髪留め/床/六時十五分」と書く欄を作った。書き終えると、ペンを揃えて置く。几帳面さが、今は救いだった。

 「じゃあ、確認する順番」
 心咲はメモ帳の新しいページを開いた。
 「一。部屋の施錠。二。窓。三。箱の位置。四。昨夜から今朝まで、私が動いた場所。五。みんなの動きは、聞くのは後。姫蘭さんが起きてから」

 翔琉は頷きながら、心咲の部屋のドアノブを目で測った。手を伸ばしたくて伸ばさない。先に渡すのは、手じゃなくて視線だ。

 心咲は、昨夜の流れを口にした。屋上から戻って、階段で朋行の「味見会、締めるぞー!」を聞いたこと。リビングで笑って、歯を磨いて、自室へ戻ったこと。鍵を回す音を、自分で確かめたこと。文庫本を二冊、上に乗せたこと。
 言うたびに、心の中に残っていた映像が、紙に移るように整理される。

 翔琉は、途中で一度だけ「俺も、屋上の扉、閉めた」と言った。言い訳のためじゃない。事実を足すため。
 心咲は「ありがとう」とだけ返した。

 次に、窓。心咲は窓枠の下に指を滑らせ、砂の粒を一つ拾った。潮風で入ったものか、誰かの靴から落ちたものか。分からないから、分かるところまでにする。翔琉は網戸の爪の位置を見て、眉を寄せた。
 「これ、浅い」
 「いつもと違う?」
 「……俺が触ったわけじゃない」

 その言い方に、心咲は胸がちくりとした。疑いが、すでに部屋の外へ向かっている。翔琉の中で、怒りが誰かの形を探しているのが分かる。
 心咲は、メモ帳を閉じずに、翔琉の目の前に置いた。
 「疑う前に、順番。怒るのは、最後でもいい」

 翔琉は口を開き、閉じた。代わりに、スポーツバッグの肩紐を持ち直す。ぎゅっと握って、ほどいて、また握る。
 「……分かった。先に、整理」
 その返事に、心咲の肩が少しだけ下がった。風見荘の廊下が、朝の光を少しずつ取り戻す。

 そのとき、キッチンの方から鍋蓋の音がした。誰かが起きている。朋行だろうか。早番の仕込みがある日だ。
 心咲は、翔琉に目で問いかける。今、声をかけるかどうか。
 翔琉は一拍置いて、頷いた。
 「呼ぶのは、姫蘭さんが起きてから。……でも、今ここで聞こえた音は、書いときます」
 「うん」

 心咲はメモ帳に「六時二十一分/キッチン/鍋蓋の音」と書いた。たったそれだけで、今朝の不安が少しだけ“形”になる。
 翔琉は白衣を肩にかけ直し、心咲の部屋の前で立ち止まった。
 「俺、仕事、遅らせます。院に連絡します」
 「大丈夫……って言いそうになった。言い直す。いてほしい」
 心咲がそう言うと、翔琉は一度だけ目を伏せ、次の瞬間、真っ直ぐに見た。
 「いる。順番、守る」

 玄関の方で、風鈴が小さく鳴った。誰かが扉を開けたわけじゃない。潮風が、家の中まで入り込んだだけだ。
 心咲は空になった箱を見つめ、布袋をそっと指で押さえた。
 祖母の声みたいな重さは、今は手のひらにない。けれど、メモ帳の紙の重さは、確かにここにある。

 心咲は最後に、さっき書けなかった一行へ戻った。
 「いまの気持ち:こわい。でも、順番がある」

 書き終えると、心咲は鉛筆を置いた。翔琉がそれを見て、机の端に鉛筆を真っ直ぐ揃えた。
 その動きが、妙におかしくて、心咲は短く息を漏らした。笑いなのか、涙なのか、自分でも判別できないくらいの小さな音だった。

 廊下の向こうで、朋行の声がした。
 「朝カレー、温めるぞー。……ん? 今日、減ってない?」
 翔琉が心咲を見る。心咲は頷く。
 朝の匂いが、いつもの笑いへ繋がりそうで、繋がらなさそうで。
 その境目のところに、ふたりは並んで立っていた。

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