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第17話 湯気の順番と窓の擦り傷
六月中旬の夜。風見荘のリビングには、共同キッチンから流れてきたスープの匂いが薄く残っていた。食卓の上には、姫蘭がいつものように並べたコップの水が六つ。水面に天井灯が揺れて、誰も触っていないのに揺れが止まらない気がした。
心咲は自分のメモ帳を膝の上に置いた。ページの端を親指で押さえ、紙の白が折れない角度を探す。箱の蓋が少し浮いていた感覚が、まだ指先に貼りついている。
翔琉は背もたれのない椅子に腰かけ、足を組まない。膝の上の両手が落ち着く場所を見つけられず、指を握っては開いていた。
「……私じゃないからね」
梨加子が、誰よりも早く声を上げた。言い切ったあと、唇を噛む。言葉が先に飛び出してしまったのが、自分でも分かったようだった。
心咲のペン先が、紙の上で止まる。『今、胸が冷たい』。一行だけ書いて、息を吐く。
朋行が、鍋の蓋を持ったまま現れた。蒸気が眼鏡を曇らせ、彼は袖口で拭きながら笑う。
「まず、胃袋を温めよう。怒りとか疑いって、腹が冷えると濃くなるからさ」
「砂糖で調整できるんですか、それ」姫蘭が即座に返す。
「砂糖は無理。これは玉ねぎの力」朋行は胸を張って、マグを一つずつ配った。
翔琉が受け取るとき、真面目に頷く。
「玉ねぎは、たしかに甘みが出ます」
「そこは認めなくていいのに」朋行が肩を落とし、場に小さな笑いが落ちた。落ちた笑いは転がりきらず、すぐに止まる。
姫蘭が食卓の端に小さなカードを並べた。裏に数字が書かれているのが見える。
「順番を作るよ。感情が強い人ほど、先に話すとあとがもつれる。だから、くじ」
「今、くじを引く気分じゃ――」梨加子が言いかけたところで、姫蘭がコップの水をそっと近づける。梨加子は言葉を飲み込み、乾いた喉を鳴らして一口飲んだ。
陽向太が、カードを先に一枚引いた。声を荒げず、裏を皆に見せる。
「三。じゃあ、二番の人が先に“見たことだけ”を言う。推測は後」
彼の言い方は、いつも交番の掲示板の文章みたいに要点だけで、余計な棘がない。
心咲は一枚引き、一。翔琉は四。朋行は五。姫蘭は六。梨加子が最後に引いたカードは二だった。
梨加子はカードを見つめたまま、指先で角をこすった。紙の角が少し白くなる。
「二番、私か……」
梨加子は立ち上がらず、背筋だけ伸ばした。
「朝、心咲の部屋のドア、開いてなかった。私が通った時は閉まってた。箱とか、知らない。触ってない」
言い終えたあと、視線が翔琉にぶつかって、すぐに逸れる。翔琉の眉がわずかに動く。問い詰めたい言葉を歯の裏で止める動きだった。
心咲はペンを持ち直し、うなずく。
「今のは“見たこと”。ありがとう。四番の翔琉、質問は“確認”だけにして」
翔琉が息を吸い、吐いてから口を開く。
「梨加子。……朝、何時に廊下を通った?」
梨加子は一瞬だけ迷って、腕時計を見る癖がない代わりに、スマホの画面を点けた。
「七時二十分くらい。ゴミ出しの袋、持ってた」
「袋の口は、結んでた?」翔琉は真面目に聞いた。
「……結んでた。何、それ」梨加子の声に苛立ちが混ざる。
「確認」翔琉はそれだけ言って、口を閉じた。
姫蘭がすかさず、カードを軽く叩いた。
「三番、陽向太。窓とか鍵とか、見た?」
陽向太は頷き、リビングの掃き出し窓の方へ目線を向ける。
「夕方、洗濯物を取り込むときに、窓の鍵、ちょっと引っかかった。金具のところ、擦れてた」
「擦れてた?」朋行がマグを持ったまま身を乗り出す。
「うん。爪で触ると、ザラッとする。これ、内側からだと付きにくい傷だと思う」
陽向太は立ち上がり、窓へ行った。皆が座ったまま見ている中、彼は鍵を開け閉めして音を聞く。カチ、と鳴るはずのところが、少しだけくぐもる。
「ここ。金属が削れてる。たぶん、外から薄いものを差し込んだ」
空気が一段だけ冷える。けれど、その冷え方はさっきと違った。誰かを見て凍る冷えではなく、外の暗さを思い出して凍る冷えだった。
梨加子が、カードを握ったまま呟く。
「……外の人ってこと?」
その声は、さっきの叫びより小さく、弱いところに落ちた。
心咲は胸の内側が少しほどけるのを感じた。すぐに安心しない。安心する順番も決める。メモ帳に『疑いが少し減った。でも怖い』と書く。
翔琉が、その一行を書いた指先を見てから、マグをそっと心咲の方へ寄せた。湯気が二人の間を薄く埋め、言葉の代わりになる。
姫蘭が立ち上がり、食卓の端にあった回覧板の束を持ってくる。そこには近所の防犯のお願いが挟まっていた。
「外部なら、今夜のうちにやることは三つ。窓の補助錠、ライト、交番へ相談。段取り、作る」
「費用は?」梨加子が反射的に言って、すぐに口をつぐむ。
姫蘭は怒らず、指を折る。
「補助錠は一個数百円。ライトは安いのを二つ。領収書は貼る。家計簿みたいに見えるようにするから、梨加子、確認役して」
梨加子は一度だけ瞬きをして、頷いた。頷き方が、さっきより遅い。
朋行が鍋を抱えたまま、わざと大げさにため息をついた。
「ほら、スープが冷めると味が落ちる。疑いも同じ。冷めたら温め直せない。だから、今夜は食べ切って、明日、動こう」
「明日じゃ遅くないか」翔琉が言った。
「じゃあ、今夜できるのは鍵を閉めることと、誰かが一人で屋上に上がらないこと」陽向太が淡々と足す。
心咲は自分の声を、確かめるように出した。
「……私、今、怖い」
言った瞬間、喉の奥がひりついた。言えたことに驚き、驚いたことにさらに驚く。
翔琉が、視線を合わせる代わりに、テーブルの木目を見て頷いた。
「うん。怖いなら、俺、起きてる。廊下、歩くときは一緒に行く」
約束の言い方が、練習の前に靴ひもを結ぶ時の動きと同じで、余計な飾りがない。
梨加子がマグを持ち上げ、熱さに指を引っ込めた。
「……私も、怖い。言うの、悔しいけど」
朋行がすぐに、砂糖の代わりに胡椒の瓶を持ち上げた。
「悔しい時は胡椒。泣きそうな時は、玉ねぎ。はい、どっち?」
梨加子が吹き出しかけ、こらえるのに失敗して小さく笑った。笑いは今度、止まらずに少しだけ転がった。
窓の鍵の擦り傷は、外の闇に繋がっている。それでも、食卓の上の湯気と水とカードが、今夜の風見荘をつなぎ止めていた。
心咲はメモ帳の次のページを開き、『明日、補助錠を買う。交番。ライト。ひとりにしない』と、やることを順番通りに書いた。
最後に、『帰る場所を守る』と書きかけて、ペンを止める。今夜は、まだ言葉にしない。言葉は、通すべきところで通す。
翔琉が、湯気の向こうで小さく笑った。
「心咲。……スルーパスみたいだな」
「何が?」
「急がないで、通す場所を選ぶところ」
心咲はマグを両手で包み、湯気の熱を指に移した。
「じゃあ、外の闇には……オフサイド、取ってもらう」
「審判、俺がやる」翔琉は真面目に言い、朋行が「そこは審判に文句言う側だろ!」と突っ込み、姫蘭がカードを片づけながら笑った。
笑いが部屋の角を少し明るくする。外の闇は消えないが、誰かの声が、誰かの背中を支える夜になった。
心咲は自分のメモ帳を膝の上に置いた。ページの端を親指で押さえ、紙の白が折れない角度を探す。箱の蓋が少し浮いていた感覚が、まだ指先に貼りついている。
翔琉は背もたれのない椅子に腰かけ、足を組まない。膝の上の両手が落ち着く場所を見つけられず、指を握っては開いていた。
「……私じゃないからね」
梨加子が、誰よりも早く声を上げた。言い切ったあと、唇を噛む。言葉が先に飛び出してしまったのが、自分でも分かったようだった。
心咲のペン先が、紙の上で止まる。『今、胸が冷たい』。一行だけ書いて、息を吐く。
朋行が、鍋の蓋を持ったまま現れた。蒸気が眼鏡を曇らせ、彼は袖口で拭きながら笑う。
「まず、胃袋を温めよう。怒りとか疑いって、腹が冷えると濃くなるからさ」
「砂糖で調整できるんですか、それ」姫蘭が即座に返す。
「砂糖は無理。これは玉ねぎの力」朋行は胸を張って、マグを一つずつ配った。
翔琉が受け取るとき、真面目に頷く。
「玉ねぎは、たしかに甘みが出ます」
「そこは認めなくていいのに」朋行が肩を落とし、場に小さな笑いが落ちた。落ちた笑いは転がりきらず、すぐに止まる。
姫蘭が食卓の端に小さなカードを並べた。裏に数字が書かれているのが見える。
「順番を作るよ。感情が強い人ほど、先に話すとあとがもつれる。だから、くじ」
「今、くじを引く気分じゃ――」梨加子が言いかけたところで、姫蘭がコップの水をそっと近づける。梨加子は言葉を飲み込み、乾いた喉を鳴らして一口飲んだ。
陽向太が、カードを先に一枚引いた。声を荒げず、裏を皆に見せる。
「三。じゃあ、二番の人が先に“見たことだけ”を言う。推測は後」
彼の言い方は、いつも交番の掲示板の文章みたいに要点だけで、余計な棘がない。
心咲は一枚引き、一。翔琉は四。朋行は五。姫蘭は六。梨加子が最後に引いたカードは二だった。
梨加子はカードを見つめたまま、指先で角をこすった。紙の角が少し白くなる。
「二番、私か……」
梨加子は立ち上がらず、背筋だけ伸ばした。
「朝、心咲の部屋のドア、開いてなかった。私が通った時は閉まってた。箱とか、知らない。触ってない」
言い終えたあと、視線が翔琉にぶつかって、すぐに逸れる。翔琉の眉がわずかに動く。問い詰めたい言葉を歯の裏で止める動きだった。
心咲はペンを持ち直し、うなずく。
「今のは“見たこと”。ありがとう。四番の翔琉、質問は“確認”だけにして」
翔琉が息を吸い、吐いてから口を開く。
「梨加子。……朝、何時に廊下を通った?」
梨加子は一瞬だけ迷って、腕時計を見る癖がない代わりに、スマホの画面を点けた。
「七時二十分くらい。ゴミ出しの袋、持ってた」
「袋の口は、結んでた?」翔琉は真面目に聞いた。
「……結んでた。何、それ」梨加子の声に苛立ちが混ざる。
「確認」翔琉はそれだけ言って、口を閉じた。
姫蘭がすかさず、カードを軽く叩いた。
「三番、陽向太。窓とか鍵とか、見た?」
陽向太は頷き、リビングの掃き出し窓の方へ目線を向ける。
「夕方、洗濯物を取り込むときに、窓の鍵、ちょっと引っかかった。金具のところ、擦れてた」
「擦れてた?」朋行がマグを持ったまま身を乗り出す。
「うん。爪で触ると、ザラッとする。これ、内側からだと付きにくい傷だと思う」
陽向太は立ち上がり、窓へ行った。皆が座ったまま見ている中、彼は鍵を開け閉めして音を聞く。カチ、と鳴るはずのところが、少しだけくぐもる。
「ここ。金属が削れてる。たぶん、外から薄いものを差し込んだ」
空気が一段だけ冷える。けれど、その冷え方はさっきと違った。誰かを見て凍る冷えではなく、外の暗さを思い出して凍る冷えだった。
梨加子が、カードを握ったまま呟く。
「……外の人ってこと?」
その声は、さっきの叫びより小さく、弱いところに落ちた。
心咲は胸の内側が少しほどけるのを感じた。すぐに安心しない。安心する順番も決める。メモ帳に『疑いが少し減った。でも怖い』と書く。
翔琉が、その一行を書いた指先を見てから、マグをそっと心咲の方へ寄せた。湯気が二人の間を薄く埋め、言葉の代わりになる。
姫蘭が立ち上がり、食卓の端にあった回覧板の束を持ってくる。そこには近所の防犯のお願いが挟まっていた。
「外部なら、今夜のうちにやることは三つ。窓の補助錠、ライト、交番へ相談。段取り、作る」
「費用は?」梨加子が反射的に言って、すぐに口をつぐむ。
姫蘭は怒らず、指を折る。
「補助錠は一個数百円。ライトは安いのを二つ。領収書は貼る。家計簿みたいに見えるようにするから、梨加子、確認役して」
梨加子は一度だけ瞬きをして、頷いた。頷き方が、さっきより遅い。
朋行が鍋を抱えたまま、わざと大げさにため息をついた。
「ほら、スープが冷めると味が落ちる。疑いも同じ。冷めたら温め直せない。だから、今夜は食べ切って、明日、動こう」
「明日じゃ遅くないか」翔琉が言った。
「じゃあ、今夜できるのは鍵を閉めることと、誰かが一人で屋上に上がらないこと」陽向太が淡々と足す。
心咲は自分の声を、確かめるように出した。
「……私、今、怖い」
言った瞬間、喉の奥がひりついた。言えたことに驚き、驚いたことにさらに驚く。
翔琉が、視線を合わせる代わりに、テーブルの木目を見て頷いた。
「うん。怖いなら、俺、起きてる。廊下、歩くときは一緒に行く」
約束の言い方が、練習の前に靴ひもを結ぶ時の動きと同じで、余計な飾りがない。
梨加子がマグを持ち上げ、熱さに指を引っ込めた。
「……私も、怖い。言うの、悔しいけど」
朋行がすぐに、砂糖の代わりに胡椒の瓶を持ち上げた。
「悔しい時は胡椒。泣きそうな時は、玉ねぎ。はい、どっち?」
梨加子が吹き出しかけ、こらえるのに失敗して小さく笑った。笑いは今度、止まらずに少しだけ転がった。
窓の鍵の擦り傷は、外の闇に繋がっている。それでも、食卓の上の湯気と水とカードが、今夜の風見荘をつなぎ止めていた。
心咲はメモ帳の次のページを開き、『明日、補助錠を買う。交番。ライト。ひとりにしない』と、やることを順番通りに書いた。
最後に、『帰る場所を守る』と書きかけて、ペンを止める。今夜は、まだ言葉にしない。言葉は、通すべきところで通す。
翔琉が、湯気の向こうで小さく笑った。
「心咲。……スルーパスみたいだな」
「何が?」
「急がないで、通す場所を選ぶところ」
心咲はマグを両手で包み、湯気の熱を指に移した。
「じゃあ、外の闇には……オフサイド、取ってもらう」
「審判、俺がやる」翔琉は真面目に言い、朋行が「そこは審判に文句言う側だろ!」と突っ込み、姫蘭がカードを片づけながら笑った。
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