スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第20話 鍵とライトと、残り物の福

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 七月のはじめ。夕方の風見荘は、潮の匂いが台所まで入り込んで、包丁の刃にうっすら冷たさを残していた。屋上の風鈴が、昼の熱を忘れたみたいに短く鳴るたび、心咲の胸の奥が一拍遅れて縮む。

 昼間、交番で渡された紙には「玄関の鍵を交換」「人感ライト」「夜の施錠確認」と、淡々と書いてあった。言葉が淡々としているのに、紙の角だけが妙に固く感じられる。心咲は、玄関の上がり框に座り込みそうになるのを堪えて、メモ帳を開いた。
 『今は、安心したい』
 一行書いたら、足の裏が床を踏めた。

 玄関のチャイムが鳴ったのは、約束の十七時より四分早かった。翔琉が扉を開ける。整骨院の制服は着替えていて、薄いTシャツの胸元に汗が乾いた跡が残っている。右手には工具箱、左手には小さな紙袋。靴を脱ぐとき、つま先がきっちり揃う。

 「……早い」
 心咲が言うと、翔琉は肩をすくめるみたいに息を吐いた。
 「鍵屋さん、早く来るって。俺が遅れたら、困るでしょ」

 その言い方が真面目すぎて、笑いになりかける。けれど心咲は、笑う前に喉がきゅっと締まるのを感じた。紙袋の中身が、カサッと鳴る。

 「それ、何ですか」
 「懐中電灯。暗いと、作業できないから」
 翔琉は当然みたいに言う。心咲は、当然の顔が少しだけ羨ましい。怖さを、道具に変えてしまえる手つきが。

 リビングから姫蘭の声がした。
 「みんな、今、玄関集合。手、空いてる人は水も持ってきて」
 姫蘭はトレーにコップを並べて、歩くたびに水面が揺れないように指を添えている。廊下の長さに合わせて歩幅が一定で、角に差しかかると一瞬だけ体を斜めにして、ぶつからない線を選ぶ。

 陽向太は回覧板みたいな厚紙を抱えて出てきた。昼の交番の控えを綺麗にコピーして、チェック欄をつけている。梨加子は電卓を手に、口を結んだまま靴箱の前に立った。朋行はエプロンを外し忘れて、白い粉が袖に薄くついている。

 玄関の外から、金属が触れ合う音がした。鍵屋の作業車が停まり、名札をつけた男性が工具を抱えて入ってくる。姫蘭が先に名刺を受け取り、陽向太が「作業開始時刻」と「交換部品の型番」をメモする。翔琉は黙ってドアの蝶番を見て、心咲の目線が揺れているのに気づいたのか、少しだけ背中を手すりみたいに前へ出した。

 「大丈夫。ここ、俺が見てる」
 背中の言葉が、声より先に届く。心咲は、口が動かなくても、うなずけた。

 作業が進むにつれて、玄関は小さな工場みたいになった。古い鍵穴から外された部品が、皿の上に並ぶ。ネジが転がらないように姫蘭が布巾を敷き、陽向太が「拾った人は、拾った場所も書く」と妙に厳しいルールを貼り紙にする。朋行が笑って「砂糖より管理が細かい」と言うと、梨加子が即座に返した。

 「砂糖はこぼれても甘いだけ。鍵はこぼしたら、財布が泣く」

 泣く、という言葉が出た瞬間、梨加子の目が一瞬だけ泳ぐ。自分の言い方が誰かを刺してきたのを、今日だけは覚えているみたいだった。けれど彼女はすぐ電卓を叩き、見積書の数字を読んだ。

 「交換費用、想定より高い。ライトも二個? 玄関と、裏口? 裏口なんて、普段使ってないでしょ」
 声は鋭い。でも指先が、ドアチェーンの金具を触って確かめている。ちゃんと動くか、引っかからないか。言い方と手つきが別の方向を向いているのが、風見荘の夕方には不思議と馴染む。

 姫蘭がコップを配りながら、紙を一枚出した。
 「順番。まず梨加子、次に提案がある人。終わったら、心咲」
 カードに名前を書いて、テーブルに置く。争いになりそうな空気の角が、紙一枚で丸くなる。

 朋行が手を挙げた。エプロンの紐をほどきながら、少し照れたように言う。
 「俺さ、今月の試作、減らせる。新作のフルーツタルト、三回焼く予定だったけど、二回にする。材料代、浮いた分をこっちに回す」
 梨加子が顔を上げる。
 「……商品、減らしたら売上落ちるじゃない」
 「落ちるって決めつけない。味見会で決める。二回で当てる」
 朋行は、持っていたノートをぱたんと閉じた。閉じ方が、決意みたいに勢いがある。

 陽向太がそれに続いた。
 「ライトは二個のほうがいい。裏口っていうか、勝手口。洗濯物取り込むとき、夜も使う。暗いと足元危ない」
 言いながら、靴下のかかとを指さす。こすれた跡がある。誰かの生活が、すでにそこを通っている証拠だった。

 翔琉がポケットから小さな紙袋を出し、中身をテーブルに置いた。電池と、ネジの予備と、結束バンド。
 「ライト、取り付けるときに足りないと困るから。これ、俺が買った」
 さらりと言った後で、慌てたように付け足す。
 「……みんなの分じゃない。家の分」

 家、という言葉が、胸に当たる。心咲は、メモ帳を握ったまま息を吸った。今日の順番は最後。話すと決めたら、逃げない。

 鍵屋の男性が最後の確認をして、カチリと新しい鍵が回る音がした。金属の音は冷たいはずなのに、今夜だけは頼もしい。姫蘭が受け取った新しい鍵を、透明な袋に入れて、共有の引き出しへしまう。引き出しの中には、当番表と、救急箱と、屋上の短冊を切るためのハサミが並んでいる。

 ライトの設置は、日が落ちる前に始めた。翔琉が脚立を広げ、陽向太が取扱説明書を読み、姫蘭が「工具はここ」と廊下にマットを敷く。朋行はネジを落とさないように小皿を持ち、梨加子はブレーカーの位置を確認して、指で番号をなぞった。

 「こんなに人がいるのに、緊張する」
 翔琉が脚立の上で言う。真剣な顔で。
 「緊張するのは、脚立が揺れるからでしょ」
 姫蘭がすかさず言い換えて笑わせると、朋行が「砂糖の入れすぎも緊張する」と乗っかる。陽向太が説明書の字を追いながら、笑いを噛み殺して肩を揺らした。

 ライトが付いた瞬間、白い光が玄関の壁を明るく照らした。人の影が、はっきり床に落ちる。心咲はその影を見て、怖さが増すかと思った。けれど、影が見えるということは、見えないものが減るということだった。

 順番カードが最後に回ってくる。心咲はキッチンの入口に立ち、みんなの顔を見た。光に照らされて、汗の跡も、粉の跡も、真面目な眉間の皺も、全部見える。

 「……費用のこと、私も怖かったです」
 言った途端、舌が震えた。怖い、と言っていい場所だと分かっていても、声は勝手に小さくなる。心咲はメモ帳を開いた。昼に書いた一行を指でなぞる。
 「でも、残り物には福があるって、うちの祖母が言ってました。余った材料も、余った時間も、怖さも……うまく混ぜたら、ちゃんと食べられる形になる。だから、私も、できることをする」
 何をする、と言う前に、心咲は冷蔵庫を開けた。中にあるのは、昨日の味見会の残りの果物と、少し萎れた葉物と、半端な豆腐。貼り紙が揺れて「本日、鍵交換完了」と姫蘭の字で追加されている。

 「今夜、残り物で夕飯作ります。フルコースじゃなくて、ちゃんと温かいやつ。帰ってきたら、みんなで食べましょう」
 朋行が目を輝かせ、すぐ手を洗いに走る。
 「残り物って言うな。『福』って言え。俺、手伝う」
 梨加子が電卓を置き、キッチンの蛇口をひねって水を出した。音が、さっきの金属音より柔らかい。
 「……無駄にしないなら、賛成。豆腐、賞味期限今日」
 言い方は相変わらず短い。でも、手は包丁を取って、まな板を拭いている。

 屋上から風鈴の音がまた落ちてきた。新しい鍵と新しい光が、風見荘の夕方を少しだけ変える。心咲は、怖さが完全に消えたわけじゃないと知っている。それでも、みんなの手が同じ方向に動くのを見て、胸の奥に小さな余白ができた。

 その余白に、潮の匂いと、温かい湯気と、誰かの「ただいま」が入ってくる気がした。

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