スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第21話 鍋のふちで揺れる順番

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 七月中旬の夕方。共同キッチンの窓ガラスに、斜めの光が筋を作っていた。玄関の新しいライトはまだ白々しく、照らされるたたきの靴の影が、朝よりもくっきり長い。

 心咲は冷蔵庫の扉を開け、貼り紙を指で押さえた。姫蘭の字で書かれた「本日、鍵交換完了」が、風で少しだけ浮く。磁石がずれないように直してから、奥の棚に手を伸ばす。味見会の残りの果物、半端な豆腐、葉の端が少ししおれた青菜。目の前の材料は少ないのに、胸の中は鍋みたいに温度が上がっていく。

 包丁を出そうとすると、背中側で椅子がこすれる音がした。翔琉が先に手を洗い、濡れた指をエプロンで拭いている。名札は外しているのに、動きは仕事場みたいに迷いがない。
 「切るやつ、どれ」
 質問が短い。けれど、相手の返事を急かさない間がある。心咲はメモ帳を一度握ってから、冷蔵庫の中を指した。
 「青菜と、豆腐。あと、果物……甘いのは最後で」
 「了解」
 翔琉はまな板を置き、包丁の刃を指で触れない距離で確認した。切れ味を見る目が真剣すぎて、笑っていいのか分からない顔になる。心咲は慌てて火をつけ、鍋に水を張った。ガスの音が小さく立ち上がる。

 朋行が遅れて入ってきた。エプロンの紐を結び直しながら、袋から何かを取り出す。
 「余ってたバター、もらってきた。今日中に使うやつ。あと、店長が『甘いのは平和』って言ってた」
 言い切ったあとで、朋行は自分の台詞の照れを隠すみたいに鼻をすすった。姫蘭が笑い、カウンターに厚紙を置く。
 「はい。今日の順番カード」
 厚紙には、丸い文字で名前が並び、上に小さな矢印が描かれている。矢印は時計みたいに回る。
 「料理の順番じゃなくて、文句を言う順番?」
 陽向太が靴下のまま滑り込んできて、軽く茶化した。
 「文句、言いたい人いる?」
 姫蘭が水の入ったコップを全員に配りながら言う。声が柔らかいのに、配り方が手際よすぎて、反論が行方不明になる。

 梨加子は最後に現れた。電卓は持っていない。代わりにスポンジと、買い置きの洗剤を抱えている。玄関のライトの白さに目を細め、台所へ来ると、まず蛇口をひねった。水の音が広がり、金属の緊張が一枚剥がれる。
 「皿、先に浸ける。焦げついたら無駄」
 言い方は相変わらず短い。けれど、言い終える前に袖をまくり、手がもう動いている。

 鍋の中で湯気がふわりと上がった。心咲は豆腐を切りながら、包丁の音を数えた。カン、トン、トン。翔琉は青菜を同じ幅にそろえ、切った束を端から揃えて置く。朋行は果物を洗い、皮の水滴を指で弾く。姫蘭は当番表の裏に「今夜の役割」を書き足していく。陽向太は換気扇のスイッチを押し、窓を少し開けた。潮の匂いが、湯気に混ざって入ってくる。

 ふと、心咲の目が廊下の方へ向いた。長い木の廊下は暗く、床板の節が人の顔みたいに見える瞬間がある。心臓が一拍遅れて、体の内側で音を立てた。
 心咲はメモ帳を開き、たった一行書いた。
 ――怖い。暗い廊下。想像が先に走る。
 書き終えた瞬間、肩の力がほんの少し抜けた。視界の端で、翔琉が包丁を置く。言葉は来ない。ただ、まな板の横に、懐中電灯が静かに置かれた。誰が持ってきたのか分からない置き方で、そこにある。

 姫蘭が順番カードを指で弾いた。厚紙が軽く鳴る。
 「じゃあ、今日の話も、順番でいこう。料理ができるまで、三分ずつ。言いっぱなしにしない。聞いた人は、最後に一言返す」
 朋行が手を挙げる真似をして、すぐ下げた。
 「俺、最初。……あのさ、昨日の味見会のとき、笑ってたけど、正直、俺も怖かった。『サイコキラー』って言葉、砂糖みたいに口に入ると残る。甘くないのに」
 砂糖を引き合いに出すと、梨加子の手が一瞬止まりかけた。それでも、スポンジは止めない。

 陽向太が次に話した。交番でコピーした紙を、今日は持っていない。
 「俺は、交番で言ったことが効いてる。『被害が出てからじゃ遅い』って。だから、鍵を変えたのはよかった。でも、誰かを疑ってる時間も、遅いって思った。疑うのは簡単だ。声をかけるのは、喉が乾く」
 言い終えて、コップの水を一口飲む。喉の動きが見えるほどだった。

 姫蘭が笑いを混ぜた。
 「私、寝不足に弱い。寝不足だと、勝手に最悪な筋書き作る。だから、順番カードを作った。最悪な筋書きより、目の前の順番のほうが信用できる」
 朋行が「それ、いい台詞」と囁き、翔琉が小さくうなずいた。

 順番が梨加子に回った。厚紙の矢印が、彼女の名前の上で止まる。梨加子は洗剤のボトルを置き、濡れた手をふきんで拭いた。ふきんが古くて、角が少し糸を引いている。
 「……私、言い方、きつい。自覚ある」
 それだけ言って、目を伏せた。心咲は思わず包丁の柄を握り直した。梨加子が謝る前に逃げるときの空気を、何度か見たことがある。
 けれど梨加子は、逃げなかった。スポンジを持ち直し、皿の縁をゆっくりなぞりながら続ける。
 「私、財布が泣くって言った。あれ、……自分のこと。昔、家の鍵、無くした。怒鳴られて、もう二度とって思って、ずっと数字ばっか見てきた。だから、鍵の話になると、口が尖る」
 言い終えたあと、梨加子は蛇口の水を弱めた。水音が小さくなり、代わりに鍋の湯気の音が聞こえる。

 最後に翔琉の番だった。翔琉は青菜を鍋へ入れ、菜箸で沈める。湯気が顔にかかっても瞬きを一つするだけで、言葉を探す。
 「俺は……先に渡すほうが楽。ボールも、水筒も、懐中電灯も。先に渡しとけば、受け取る人が『いいです』って言っても、選べる。……心咲さんも、怖いとき、選べるようにしたい」
 心咲は目を上げた。翔琉の目はまっすぐで、押しつけではない。返事を急かさない間が、湯気の向こうにある。

 心咲の番は、もう一周していない。それでも、胸の中が勝手に言葉を並べようとした。メモ帳を開き、ゆっくり書く。
 ――今、あたたかい。怖いもある。でも、あたたかいが勝ってる。
 書いた字は、いつもより少しだけ丸かった。

 鍋の具が踊り始めた。朋行がバターを小さく落とすと、香りが一気に立つ。姫蘭が「それ、反則」と笑い、陽向太が「平和の匂い」と言う。梨加子が「反則は罰金」と言いかけて、途中で自分の口角を引き上げるのを諦めた。

 テーブルに皿が並び、箸がそろう。翔琉が湯気の立つ椀を、心咲の前にすっと滑らせた。まるでボールを通すみたいに、角度だけで合図する。
 「熱いから」
 それだけ言って、翔琉は自分の椀を持つ。心咲は両手で椀を包み、指先に伝わる温度を確かめた。

 食べ始めると、廊下の暗さが遠のいた。鍋の味は、残り物の寄せ集めなのに、誰かの手の数だけまとまりがある。朋行が果物を切って簡単なデザートを作り、姫蘭が「本日の焦げ担当はいません」と宣言して拍手を求める。陽向太が本気で拍手し、梨加子が「手を叩くと洗剤が飛ぶ」と言いながら、結局一回だけ叩いた。

 食後、心咲は屋上へ出た。風鈴が小さく鳴り、手すりがひんやりしている。掌の中の赤い石を取り出すと、内部の花びら模様が夜の光に浮かんだ。
 足音がして、翔琉が隣に立った。距離は近いのに、ぶつからない。
 「今日、怖さ、減った?」
 心咲はすぐに答えず、メモ帳を開きかけて、やめた。今日は、言葉で返したかった。
 「減りました。……みんなの声が、順番に聞こえたから」
 翔琉はうなずき、屋上の端を見た。海の方から来る風に、髪が乱れる。
 「じゃあ、明日も、先に渡す」
 「何をですか」
 「……おはよう、って」
 その言い方が真面目すぎて、心咲は思わず笑った。笑うと、風の冷たさが少し痛い。でも、その痛さまで、ここにいる証拠みたいだった。

 風鈴がもう一度鳴った。赤い石は冷たいのに、心咲の胸の中は、湯気みたいにゆっくり温かいままだった。

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