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第22話 回覧板の角と海風の地図
七月下旬の夜二十一時。風見荘の共同キッチンは、食後の湯気がまだ薄く残っていて、洗い終えた皿が水切りかごで小さく触れ合っていた。窓の隙間から潮の匂いが入り、屋上の風鈴が、忘れたころにちりんと鳴る。
玄関のライトが点く音がして、姫蘭が回覧板を胸に抱えたまま戻ってきた。紙の角が揃っているのに、留め具だけが古くて、金具がきしむ。
「来たよ。町内会の」
姫蘭は言いながら、まずコップに水を注いでテーブルへ並べた。水面が揺れないように、歩幅を一定にする。次に、厚紙を半分に折り、名前のシールを貼った短冊を六枚、静かに置く。
「読む順番、作る。先に言葉が飛ぶと、あとで刺さるから」
朋行が「回覧板にも順番カード」と笑いかけたが、姫蘭は笑わずに短冊を指で弾いた。軽い音がして、場の空気が揃う。
「心咲、最初」
心咲は頷き、メモ帳をポケットから出してから回覧板を受け取った。紙が重い。重さが、町の人の不安の重さに似ていて、胸の奥が一瞬だけ固くなる。
表紙には、黒い字でこう書いてあった。
『風見市内で窃盗が続いています。夜間の施錠確認、窓の補助錠、貴重品の管理をお願いします』
その下に、見慣れた言葉が混ざっている。
『不審者の噂を広げず、見かけたら交番へ』
心咲はその一文に、喉の奥がひゅっと狭くなるのを感じた。噂、という二文字は、口の中に残る砂糖みたいにしつこい。甘くないのに、溶けない。
心咲はページをめくり、日時と場所を確かめる。今月だけで、港寄りの住宅街で数件。昼間の留守中。小さな現金、アクセサリー、工具。書かれているのは具体だけなのに、読んでいる自分の頭だけが勝手に暗い廊下を作り始める。
心咲はペン先をメモ帳へ落とした。
――いまの気持ち:不安。噂に引っ張られそう。
短冊の順番が回り、陽向太が回覧板を受け取った。彼はページの余白を指で押さえ、文字の並びを目で追いながら、呼吸の速さを変えない。
「これ、外で起きてる。つまり、風見荘だけを狙ってるとは限らない」
言い切ってから、陽向太は水を一口飲み、続けた。
「盗んだものって、持ってるだけだと困る。どこかで換える。売る場所があるはず。俺、そこを考えたい」
心咲は「売り先」という言葉が、妙に生々しく胸に落ちるのを感じた。怖さの形が、影から人へ寄ってくる。
姫蘭がすぐに、紙とペンをテーブルに出した。
「なら、見えるところを増やす。商店街の防犯カメラ、どこにあるか、私が調べる」
姫蘭は壁のマスキングテープを一本、すっと貼り、折り曲げた。角を作る。その角が、まるで地図の交差点みたいに見える。
「ここが駅。ここが八百屋。ここが雑貨屋。ここが海沿いの道」
言いながら、短いテープを次々に貼る。誰も頼んでいないのに、線が増えていく。朋行が「姫蘭の頭の中、定規入ってる」と囁き、陽向太が小さく鼻で笑った。
「明日、仕事終わりに一か所ずつ聞きに行く。まずは雑貨屋さん。顔を覚えられてる人がいい」
姫蘭が言うと、朋行が胸を叩いた。
「俺、毎日顔ある。ケーキ屋の厨房の顔」
「それは顔じゃなくて粉」陽向太が突っ込み、朋行が手のひらを見て「あ、今日も白い」と自分で確認して笑いを取る。
笑いが起きると、心咲の肩が少しだけ下がった。怖さが消えるわけじゃない。でも、怖さの上に、息が乗る。
順番が梨加子に回った。梨加子は回覧板の表紙を見て、口を開いた。
「外……でよかった」
そこで言葉が止まった。自分が言ってきた「ここ、やばいって」という囁きが、紙の上の文字になって返ってきた気がしたのだろうか。梨加子は視線を落とし、留め具の金具を指でいじる。爪が金属に当たって、かすかな音がした。
「……私さ」
続きが出そうになったのに、梨加子は口を閉じた。代わりに立ち上がり、シンクへ向かう。洗剤を取って、コップを洗い直すようにこすった。もう綺麗なのに、こすり続ける。口を動かさずに、手だけが忙しい。
姫蘭は梨加子の背中を見て、あえて呼ばなかった。呼ぶ代わりに、水の入ったコップをそっとシンクの脇へ置く。水は言い直しの前に置ける。
翔琉は最後に回覧板を受け取った。彼は紙の角を揃え直し、留め具の向きを変え、まるでパスの角度を決めるみたいにテーブルへ戻した。
「回覧板も、先に渡すのがいいな」
真面目な声で言うので、心咲の口元が勝手にゆるむ。
「何ですか、それ」
「先に渡したら、相手が読む時間を選べる。……俺、そういうのが好き」
言い終わってから、翔琉は自分の言葉に照れたのか、耳の後ろを指で掻いた。足首に巻いたテーピングが、靴下の上から少しだけ覗いている。
朋行がその覗き方に目をつけた。
「足首も回覧板みたいに回して見せろ。みんなで『休め』って書く」
「書かなくていい」翔琉が即答し、姫蘭が「書くのは段取りだけ」と助け舟を出す。陽向太が「段取りで休むのは賛成」と頷き、心咲は笑いながらも、翔琉の足首の角度を目で追った。痛いと言わないところが、まだ残っている。
回覧板の最後のページには「閲覧後、印をお願いします」とある。姫蘭がテーブルを叩いた。
「印鑑、どこ」
全員の目が一斉にキッチンの棚へ向く。棚の上には、砂糖、塩、紅茶の缶、朋行の試作ノート、そして謎の小箱。
「それ、伝言箱じゃない?」心咲が言うと、姫蘭は即座に否定した。
「伝言箱は、文字が刺さらないように置いた箱。印鑑は、町の手続きの箱」
「似てるようで全然違う」陽向太が真面目に言い、朋行が「箱の説明で腹が減る」とぼやく。
結局、印鑑は冷蔵庫の上にあった。梨加子が黙って取ってきて、朱肉の蓋を開ける。押す力が強すぎて、紙に丸が少し滲んだ。梨加子は滲みを見つめ、唇を噛み、すぐに別の紙で押し直そうとした。
「一個ぐらい、滲んでても読めるよ」
心咲が言うと、梨加子は顔を上げ、ほんの小さく頷いた。頷いたあと、また黙ってシンクへ戻る。でも、こすり方はさっきより緩い。
回覧板の次の家は、風見荘の隣の平屋だ。玄関の外へ出ると、夜の潮風が一気に肌へまとわりついた。洗濯物を取り込む音がどこかでして、町がまだ眠っていないのが分かる。
翔琉が回覧板を持って出ようとするのを見て、心咲は言った。
「私も行きます。……渡すところ、見たい」
自分で言ってから、心咲はメモ帳を握った。怖い、が先に出そうになる。でも、今日の自分は、順番を変えたかった。
二人で隣家の門をくぐり、インターホンを押す。明かりが点き、年配の女性の声が返ってきた。
「はい」
翔琉は回覧板を差し出し、短く説明した。いつ、どこで、何が書いてあるか。声が落ち着いているのは、試合前の確認みたいだった。
女性が「ありがとう。気をつけるね」と言うと、翔琉は「はい」とだけ答えた。その「はい」が、町の夜を少しだけ軽くする。
帰り道、心咲は屋上の手すりを見上げた。風鈴が鳴り、音が二人の間を通り抜ける。
「噂って、戻ってきますね」
心咲が言うと、翔琉は歩幅を合わせたまま、前を見た。
「戻ってきたら、今度は順番に直す。……言葉も、パスも」
心咲は返事の前に、胸の内側に一行書くみたいに呼吸を整えた。
「うん。直せる」
短く言うと、翔琉が小さく頷いた。
風見荘へ戻ると、姫蘭の貼ったテープの地図が壁に残っていた。朋行がその前で、残り物の果物を器に盛り、スプーンを六本、揃えて置く。
「読んだら胃が硬くなる。口に福を入れよう」
陽向太が「統計的に、甘いのは気分を戻す」と言いかけ、姫蘭が「その話、長くなる」と短冊を揺らして止める。朋行が「はい、順番カードに負けた」と両手を上げた。
梨加子がシンクから顔を上げ、スプーンの向きを揃え直した。何も言わない。でも、その手はさっきより乱れていない。心咲はその揃え方を見て、言葉じゃない「戻り方」があるのだと思った。
心咲はメモ帳を開き、最後の一行を書いた。
――いまの気持ち:怖い。でも、町とつながっている。ここで呼吸できる。
書き終えた瞬間、風鈴がもう一度鳴った。怖さは残る。それでも、回覧板の紙の重さは、ひとりで抱える重さではなかった。
玄関のライトが点く音がして、姫蘭が回覧板を胸に抱えたまま戻ってきた。紙の角が揃っているのに、留め具だけが古くて、金具がきしむ。
「来たよ。町内会の」
姫蘭は言いながら、まずコップに水を注いでテーブルへ並べた。水面が揺れないように、歩幅を一定にする。次に、厚紙を半分に折り、名前のシールを貼った短冊を六枚、静かに置く。
「読む順番、作る。先に言葉が飛ぶと、あとで刺さるから」
朋行が「回覧板にも順番カード」と笑いかけたが、姫蘭は笑わずに短冊を指で弾いた。軽い音がして、場の空気が揃う。
「心咲、最初」
心咲は頷き、メモ帳をポケットから出してから回覧板を受け取った。紙が重い。重さが、町の人の不安の重さに似ていて、胸の奥が一瞬だけ固くなる。
表紙には、黒い字でこう書いてあった。
『風見市内で窃盗が続いています。夜間の施錠確認、窓の補助錠、貴重品の管理をお願いします』
その下に、見慣れた言葉が混ざっている。
『不審者の噂を広げず、見かけたら交番へ』
心咲はその一文に、喉の奥がひゅっと狭くなるのを感じた。噂、という二文字は、口の中に残る砂糖みたいにしつこい。甘くないのに、溶けない。
心咲はページをめくり、日時と場所を確かめる。今月だけで、港寄りの住宅街で数件。昼間の留守中。小さな現金、アクセサリー、工具。書かれているのは具体だけなのに、読んでいる自分の頭だけが勝手に暗い廊下を作り始める。
心咲はペン先をメモ帳へ落とした。
――いまの気持ち:不安。噂に引っ張られそう。
短冊の順番が回り、陽向太が回覧板を受け取った。彼はページの余白を指で押さえ、文字の並びを目で追いながら、呼吸の速さを変えない。
「これ、外で起きてる。つまり、風見荘だけを狙ってるとは限らない」
言い切ってから、陽向太は水を一口飲み、続けた。
「盗んだものって、持ってるだけだと困る。どこかで換える。売る場所があるはず。俺、そこを考えたい」
心咲は「売り先」という言葉が、妙に生々しく胸に落ちるのを感じた。怖さの形が、影から人へ寄ってくる。
姫蘭がすぐに、紙とペンをテーブルに出した。
「なら、見えるところを増やす。商店街の防犯カメラ、どこにあるか、私が調べる」
姫蘭は壁のマスキングテープを一本、すっと貼り、折り曲げた。角を作る。その角が、まるで地図の交差点みたいに見える。
「ここが駅。ここが八百屋。ここが雑貨屋。ここが海沿いの道」
言いながら、短いテープを次々に貼る。誰も頼んでいないのに、線が増えていく。朋行が「姫蘭の頭の中、定規入ってる」と囁き、陽向太が小さく鼻で笑った。
「明日、仕事終わりに一か所ずつ聞きに行く。まずは雑貨屋さん。顔を覚えられてる人がいい」
姫蘭が言うと、朋行が胸を叩いた。
「俺、毎日顔ある。ケーキ屋の厨房の顔」
「それは顔じゃなくて粉」陽向太が突っ込み、朋行が手のひらを見て「あ、今日も白い」と自分で確認して笑いを取る。
笑いが起きると、心咲の肩が少しだけ下がった。怖さが消えるわけじゃない。でも、怖さの上に、息が乗る。
順番が梨加子に回った。梨加子は回覧板の表紙を見て、口を開いた。
「外……でよかった」
そこで言葉が止まった。自分が言ってきた「ここ、やばいって」という囁きが、紙の上の文字になって返ってきた気がしたのだろうか。梨加子は視線を落とし、留め具の金具を指でいじる。爪が金属に当たって、かすかな音がした。
「……私さ」
続きが出そうになったのに、梨加子は口を閉じた。代わりに立ち上がり、シンクへ向かう。洗剤を取って、コップを洗い直すようにこすった。もう綺麗なのに、こすり続ける。口を動かさずに、手だけが忙しい。
姫蘭は梨加子の背中を見て、あえて呼ばなかった。呼ぶ代わりに、水の入ったコップをそっとシンクの脇へ置く。水は言い直しの前に置ける。
翔琉は最後に回覧板を受け取った。彼は紙の角を揃え直し、留め具の向きを変え、まるでパスの角度を決めるみたいにテーブルへ戻した。
「回覧板も、先に渡すのがいいな」
真面目な声で言うので、心咲の口元が勝手にゆるむ。
「何ですか、それ」
「先に渡したら、相手が読む時間を選べる。……俺、そういうのが好き」
言い終わってから、翔琉は自分の言葉に照れたのか、耳の後ろを指で掻いた。足首に巻いたテーピングが、靴下の上から少しだけ覗いている。
朋行がその覗き方に目をつけた。
「足首も回覧板みたいに回して見せろ。みんなで『休め』って書く」
「書かなくていい」翔琉が即答し、姫蘭が「書くのは段取りだけ」と助け舟を出す。陽向太が「段取りで休むのは賛成」と頷き、心咲は笑いながらも、翔琉の足首の角度を目で追った。痛いと言わないところが、まだ残っている。
回覧板の最後のページには「閲覧後、印をお願いします」とある。姫蘭がテーブルを叩いた。
「印鑑、どこ」
全員の目が一斉にキッチンの棚へ向く。棚の上には、砂糖、塩、紅茶の缶、朋行の試作ノート、そして謎の小箱。
「それ、伝言箱じゃない?」心咲が言うと、姫蘭は即座に否定した。
「伝言箱は、文字が刺さらないように置いた箱。印鑑は、町の手続きの箱」
「似てるようで全然違う」陽向太が真面目に言い、朋行が「箱の説明で腹が減る」とぼやく。
結局、印鑑は冷蔵庫の上にあった。梨加子が黙って取ってきて、朱肉の蓋を開ける。押す力が強すぎて、紙に丸が少し滲んだ。梨加子は滲みを見つめ、唇を噛み、すぐに別の紙で押し直そうとした。
「一個ぐらい、滲んでても読めるよ」
心咲が言うと、梨加子は顔を上げ、ほんの小さく頷いた。頷いたあと、また黙ってシンクへ戻る。でも、こすり方はさっきより緩い。
回覧板の次の家は、風見荘の隣の平屋だ。玄関の外へ出ると、夜の潮風が一気に肌へまとわりついた。洗濯物を取り込む音がどこかでして、町がまだ眠っていないのが分かる。
翔琉が回覧板を持って出ようとするのを見て、心咲は言った。
「私も行きます。……渡すところ、見たい」
自分で言ってから、心咲はメモ帳を握った。怖い、が先に出そうになる。でも、今日の自分は、順番を変えたかった。
二人で隣家の門をくぐり、インターホンを押す。明かりが点き、年配の女性の声が返ってきた。
「はい」
翔琉は回覧板を差し出し、短く説明した。いつ、どこで、何が書いてあるか。声が落ち着いているのは、試合前の確認みたいだった。
女性が「ありがとう。気をつけるね」と言うと、翔琉は「はい」とだけ答えた。その「はい」が、町の夜を少しだけ軽くする。
帰り道、心咲は屋上の手すりを見上げた。風鈴が鳴り、音が二人の間を通り抜ける。
「噂って、戻ってきますね」
心咲が言うと、翔琉は歩幅を合わせたまま、前を見た。
「戻ってきたら、今度は順番に直す。……言葉も、パスも」
心咲は返事の前に、胸の内側に一行書くみたいに呼吸を整えた。
「うん。直せる」
短く言うと、翔琉が小さく頷いた。
風見荘へ戻ると、姫蘭の貼ったテープの地図が壁に残っていた。朋行がその前で、残り物の果物を器に盛り、スプーンを六本、揃えて置く。
「読んだら胃が硬くなる。口に福を入れよう」
陽向太が「統計的に、甘いのは気分を戻す」と言いかけ、姫蘭が「その話、長くなる」と短冊を揺らして止める。朋行が「はい、順番カードに負けた」と両手を上げた。
梨加子がシンクから顔を上げ、スプーンの向きを揃え直した。何も言わない。でも、その手はさっきより乱れていない。心咲はその揃え方を見て、言葉じゃない「戻り方」があるのだと思った。
心咲はメモ帳を開き、最後の一行を書いた。
――いまの気持ち:怖い。でも、町とつながっている。ここで呼吸できる。
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