スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第27話 交番の蛍光灯と赤い石の重さ

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 九月の終わり。風見市の空は高く、雲が薄い紙みたいにちぎれて流れていた。風見荘の共同キッチンでは、冷蔵庫のドアに貼られた当番表が、潮風で少しだけめくれたまま止まっている。

 心咲は、湯を沸かす前にメモ帳を開いた。電話の着信画面の名前を見ただけで、胸の奥がきゅっと縮む。番号の横に、「交番」と登録してある。
 受話器を耳に当てると、向こうの声は扇風機より静かだった。

 「風見駅前の交番です。先日、届け出ていただいた……赤い石の件で、連絡しました」
 「……はい」

 息が短くなる。言葉が先に転がりそうで、心咲は指先でメモ帳の端を押さえた。

 「窃盗の被疑者が、別件で工事現場の倉庫から確保されました。押収品の中に、特徴の一致する石がありまして。質屋に流れる前に回収できています。ご都合のよい時間に、受け取りに来てください」
 「……今、行けます」

 返事が自分でも早いと思った。電話を切ったあと、心咲はヤカンを持ったまま固まっていた。湯はまだ。コンロの火もまだ。なのに、手のひらだけが、ずっと熱い。

 廊下を歩く足音が二つ重なった。翔琉が階段を下りてくる途中で、きちんと靴を揃え直す癖が出る。続いて朋行が、寝癖のままエプロンを結び直しながら現れる。

 「顔が、プリンの上のカラメルみたい」
 「焦げてるってこと?」
 「揺れてるってこと。こっちの方が甘い」

 朋行の例えは相変わらず変だ。笑おうとして、心咲の喉はまだ固いままだった。

 「交番から。石……見つかったって」
 「まじで?」

 翔琉が言い終わる前に、右足首をかばうみたいに体重を左へ逃がした。包帯の端が靴下から少し覗いている。心咲はその端を見て、言い方を選ぶ。

 「歩くの、ゆっくり。今日は急がない」
 「うん。……俺、行く」

 その「行く」は、いつもの「俺がやる」より軽い。軽いのに、胸に落ちる感じがある。

 姫蘭は仕事用の黒いリュックを背負って、階段の途中から顔を出した。髪をまとめるゴムが、いつもより早く結ばれている。

 「交番? 順番カード持ってく。待合いで揉めるの、嫌だから」
 「交番で順番カードって、強すぎる」
 朋行が笑い、姫蘭は真面目な顔で言った。
 「必要なら出す。出さないで済むなら、それが一番」

 陽向太も現れた。スマホの画面を閉じる指がゆっくりで、目線だけが先に心咲へ来る。

 「取りに行くなら、今。昼のうちなら、窓口も空いてる」

 心咲は頷き、メモ帳に一行書いた。
 ――戻る前に、深呼吸。
 書いた瞬間、肺がほんの少しだけ広がった。

 交番までの道は、駅へ向かう人の流れでざわついていた。海風が横から吹き、看板の角を鳴らす。翔琉は約束どおり、ゆっくり歩いた。早く行きたいのに、歩幅を合わせるために足を置き直しているのが、横目で分かる。

 「水、買う」
 翔琉がコンビニに寄ろうとすると、心咲が首を振った。
 「今日は、もうある。……ほら」

 心咲は自分のバッグから、凍らせた小さなペットボトルを二本出した。段取り表に書いてあった通り。翔琉は一瞬、口を開けて閉じた。

 「……先回り、された」
 「先回りじゃない。……並走」

 心咲の言葉に、翔琉の口元が少し上がった。笑うとき、眉の間の皺が消える。そこに、心咲の指が勝手に安心を置いていく。

 交番の中は、外より涼しかった。蛍光灯の白い光が、机の上の書類を平たく照らしている。扇風機が回っていて、紙の端がぱたぱた揺れた。

 「どうぞ、こちらへ」
 制服の警察官が、前に出した椅子を指した。翔琉が座ろうとすると、足首に負担がかからない角度を探して、少しだけ腰を浮かせてから座る。心咲はそれを見て、椅子の脚をほんの数センチ引いた。座りやすい距離になる。

 姫蘭が、机の横に水筒を置いた。陽向太は壁際に立ち、扇風機の風が心咲に当たりすぎない位置へ、そっと首を向けた。朋行は、なぜか紙袋を抱えている。

 「差し入れ、持ってきた。……交番って差し入れいる?」
 「いらないと思う」
 姫蘭が即答し、朋行は小声で付け足した。
 「じゃあ、俺たち用。緊張の糖分」

 警察官は、説明を続けた。近くの工事現場の倉庫から、電動工具や資材が何度か消えていたこと。そこに出入りしていた人物が、別件の職務質問で挙動不審になり、倉庫へ案内させたところ、盗品がまとめて隠されていたこと。押収品の中に、赤い石があり、特徴が一致したこと。

 心咲は頷きながら聞いた。頭では理解できるのに、心が先に追いつかない。石が消えた夜の冷たさ。紙片の「返せ」の字。屋上の風鈴の音。全部が、まだ胸に残っている。

 「こちらが、回収した品です」

 透明な袋の中に、小さな巾着が入っていた。紐の先に、結び目の癖がある。心咲が祖母から受け取ったときに、何度も結び直した跡だ。袋越しにでも分かる赤い色が、蛍光灯の白に負けずに浮いている。

 心咲の指が震えた。袋を受け取るとき、手のひらが汗ばむ。巾着を開け、石をそっと出した。

 レッドフラワークォーツ。赤い花びらみたいな模様が、石の中で静かに咲いている。失くしたときと同じ重さ。なのに、戻ってきた今は、ずしんと心臓の近くに落ちる。

 「……あ」

 声が漏れた。笑いが先に出て、次に涙が一粒だけ落ちた。自分でも意外なくらい、あっさり落ちた。落ちた涙が、石の表面で丸く広がり、すぐに指の間へ吸い込まれる。

 朋行が、紙袋から小さなタオルを出して差し出した。新品の匂いがする。
 「泣いてもいい。濡れたら、乾かせばいい」
 「タオルの話?」
 「心の話」

 姫蘭が、ティッシュを一枚、余計な音を立てずに滑らせた。心咲は受け取り、笑いながら鼻をかんだ。自分の笑い声が、交番の静けさに少しだけ違和感を作り、それが逆に現実だと教えてくれる。

 陽向太が、心咲の手の中の石を見て、短く言った。
 「戻った。ここからだ」

 たったそれだけで、心咲の背中の力が抜けた。言い返すために固めていた言葉が、必要なくなる。

 警察官が書類を差し出し、「受領の確認をお願いします」と言う。心咲はペンを持ち、名前を書く。字が少しだけ震れる。震れた線が、石の中の花の線と重なって見えた。

 翔琉が、隣で小さく息を吐いた。吐いた息が、やっと長い。心咲が横を見ると、翔琉は目を逸らさず、石ではなく心咲の顔を見ていた。口を開きかけて、閉じる。代わりに、ポケットから氷を出して足首に当てる。自分の痛みは、自分で押さえるみたいに。

 交番を出ると、外の風が少し強くなっていた。駅前の旗がばたんと鳴る。心咲は巾着を握りしめ、胸の前に置く。落とすのが怖いというより、離したくない。

 「持ち方、変えようか」
 翔琉が言った。
 「……大丈夫。今日は、私が持つ」

 翔琉は頷き、歩幅をさらに小さくした。心咲の手が揺れない速さを探している。ボランチが味方の走りに合わせて球を置く、その感じに似ている。

 風見荘に戻ると、共同キッチンの鍋が、まだ火も入っていないまま待っていた。朋行が腕まくりをし、冷蔵庫を開ける。

 「祝杯じゃないけど、祝皿洗いはできる。今日は俺、甘いの作る。砂糖は裏切らない」
 「砂糖も焦がすと裏切るよ」
 姫蘭が言い、朋行が肩をすくめた。
 「じゃあ、焦がさない順番でやる」

 心咲は屋上へ上がった。手すりは冷たく、風鈴が鳴る。巾着の紐を指でほどき、石を日向にかざす。赤い花が、光の中で少しだけ透けた。

 メモ帳を開き、心咲は一行書いた。
 ――疑いより、対話を選べた日。

 書き終えると、胸の奥が静かになった。怖さが消えたわけじゃない。けれど、怖いと言える場所が残った。石が戻ったのは、ただの物が戻っただけじゃない。ここで笑って、泣ける順番が戻った。

 階下から、朋行の声が上がる。
 「心咲ー! 祝皿洗いの前に、手、洗ってー!」
 「今、上!」

 心咲は笑って返事をし、石を巾着へ戻した。風鈴がもう一度鳴る。帰ってきた音がする。

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