スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第28話 台詞の甘さは砂糖じゃ測れない

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 十月上旬の夜。風見荘の共同キッチンは、夜になると音が増える。包丁がまな板を叩く乾いたリズム、鍋の底をこする木べらのくぐもった音。冷蔵庫のドアが開くたび、ひんやりした白い息が一瞬だけ床に落ちる。

 姫蘭が、壁の当番表をはがしていた。紙の角が少しだけ曲がり、セロテープの跡が木の壁に残る。そこへ新しい紙を貼り、太いマーカーで区切り線を引く。線を引く手元が迷わない。引き終えると、彼女は振り返って言った。
 「洗い物の人、まず水を出す。次にスポンジ。次に洗剤。順番を変えると、なぜか泡だけが増える」
 「泡だけ増える日、ある」
 朋行が頷きながら、ボウルの中で生クリームを泡立てた。泡が増えるのは得意分野らしい。

 心咲はキッチンの端で、メモ帳を開いていた。今日の校正の赤字が、まだ指先に残っている。紙の上に短い一行を書いて、ペン先を止める。
 ――今、安心している。少しだけ、照れている。
 書いてから顔を上げると、廊下の向こうで風鈴が鳴った。屋上の手すりにぶつかる音が、海からの風を連れてくる。誰かが帰ってきた音ではない。風だけが先に着く音だ。

 玄関の鍵が回り、靴が揃う気配がした。約束の時間より、まだ十分もある。
 「おかえり」
 心咲が声をかけると、翔琉が廊下の影から顔を出した。手にはコンビニの袋。中身のペットボトルがぶつかって、軽い音を立てる。
 「氷、足りる?」
 「さっき梨加子が作ってた」
 姫蘭が言う。梨加子はシンクの前で、何も言わずに皿をすすいでいた。水切りかごに皿が置かれるたび、陶器が小さく鳴る。聞こえないふりをして、ちゃんと聞こえる音。

 翔琉は袋をそっと置き、足を引きずらないように歩いた。椅子に座る前に、床を見て、足の向きをそろえる。整骨院で患者の足を触る手が、今は自分の足に遠慮しているみたいだった。
 「痛み、どう?」
 心咲が尋ねる。翔琉はすぐ答えず、口を開きかけて閉じた。代わりに、靴下の先を指でつまみ、少しだけ笑う。
 「さっきよりは、遠い。……でも、走ると近い」
 「遠いのは良い兆候」
 姫蘭が頷いた。彼女はコップに水を注いで、翔琉の前に置く。氷が当たって、カラン、と鳴った。会話の合図みたいに。

 朋行が、オーブンの前で背伸びをした。
 「今日の献立、残り物のフルコース。前菜は、冷蔵庫の隅で泣いてたトマト。主菜は、昨日のカレーの生まれ変わり。デザートは、失敗ノートから救出したクッキー」
 「失敗ノートって、まだ増えてるの?」
 心咲が聞くと、朋行は胸ポケットから小さなノートを取り出して見せた。角が丸くなるほど使い込まれている。
 「増える。増えるけど、直す場所が見える。だから増える」

 姫蘭は当番表の下に、小さなカードを並べ始めた。『話す』『聞く』『水を飲む』と書かれている。最後の一枚だけ、赤いペンで『休む』。
 「今日は、これも入れとく。翔琉は、格好つけて立ちっぱなしになりそうだから」
 「立ちっぱなし、ばれてる?」
 翔琉が苦笑いした。

 夕飯が並ぶころ、窓の外は真っ暗になった。換気扇の音に混じって、遠くの波が低く唸る。心咲の前には、トマトのマリネと、カレーを薄くのばしたスープと、焼き直したパン。皿の隅に、朋行が勝手に添えたミントが青い。
 「ミント、どこから」
 「屋上の鉢。姫蘭が増やしてた」
 「増やしてない。勝手に増えた」
 姫蘭は平然と言う。風見荘は、勝手に増えるものが多い。噂も、風も、そして今は、笑いも。

 梨加子が、箸を置いた。いつもなら何か一言刺さるのに、今日は刺さらない。代わりに、彼女は皿の縁を親指でなぞってから、ぽつりと言った。
 「……この前の、言い方。悪かった」
 シンクから落ちる水滴が、一拍遅れて鳴った。誰も急がない。姫蘭がカードをそっと動かし、『話す』を梨加子の前へ置く。
 「理由も、言える?」
 梨加子は息を吸い、吐いた。
 「怖かった。石がなくなって、誰かが黙ってるのが、もっと怖かった」
 心咲はメモ帳に手を伸ばしかけ、やめた。今は、目で受け取る順番だ。翔琉が、コップを持ち上げて言った。
 「怖いって言ってくれて、助かる」
 梨加子はうつむいたまま、頷いた。謝るのが上手な人はいない。上手じゃなくても、言葉が落ちる場所があれば、拾える。

 食器が片づき、床が乾くころ、朋行はクッキーの皿をテーブルの真ん中へ置いた。焼き色がまちまちで、形も少し崩れている。でも甘い匂いはちゃんとする。
 「味見会、第二部。今日は、台詞も味見する」
 「台詞?」
 心咲が首をかしげると、朋行が翔琉の肩を軽く叩いた。
 「この人、言いたいことがあるらしい。ほら、言ってみ」
 翔琉の耳が、少し赤くなった。彼は水筒のふたを開け、閉め、また開けた。開閉の音が、心臓の代わりに鳴っているみたいだった。

 姫蘭が、カードを並べ替える。『話す』を翔琉へ、『聞く』を心咲へ。『水を飲む』を二人の間に置いて、最後に『休む』をテーブルの端へ寄せた。
 「まず、短く。次に、理由。最後に、相手の返事を待つ。順番ね」
 翔琉は深呼吸した。整骨院の制服のときと同じように、背筋を立てる。けれど言葉は、思った方向に蹴れない。

 「えっと……俺、心咲と……その……」
 朋行がすかさず口を挟む。
 「今のは砂糖入れすぎの生地。甘い以前に、粉が足りない」
 「例え、分かるようで分からない」
 「台詞の甘さは砂糖で調整できないぞ」
 朋行が言い切ると、姫蘭が吹き出した。梨加子も、ほんの少しだけ口元を押さえた。

 心咲は笑いながら、メモ帳を開いた。笑いの波が引く前に、一行書く。
 ――今、胸があたたかい。逃げたくない。
 書き終えて顔を上げると、翔琉がこちらを見ていた。笑われたことを恥ずかしがる目ではなく、まだ投げる前のボールを握っている目だ。

 「……もう一回」
 翔琉が言う。朋行はクッキーを一枚口に放り込み、うなずいた。姫蘭はカードを動かさない。梨加子は皿を洗う手を止めず、でも耳は止めた。
 翔琉は、言葉を先に渡すように、短く蹴った。

 「心咲が、好きだ」

 空気が一瞬、静かになった。換気扇の音まで遠くなる。心咲はすぐ返事をしなかった。ペンを持ち、紙に一行書いた。ページの角が少し湿る。
 ――今、嬉しい。怖い。どちらも本当。
 顔を上げると、翔琉は動かない。返事を急がせるような目でもない。待っているだけだ。順番を守っている。

 「……その言い方、いい」
 心咲が言うと、朋行が両手を上げた。
 「ほら! 粉、足りてた!」
 「今のは、砂糖控えめの素焼き」
 姫蘭が真面目に評するので、笑いが戻った。

 翔琉は肩の力を抜き、息を吐いた。
 「本番は、堤防で言う」
 「堤防、寒いよ」
 心咲が言うと、翔琉はテーブルの上の水筒を見て、袋の中からもう一本のペットボトルを出した。
 「温かいのも買う。……先に渡しとく」
 それはサッカーの話ではなく、生活の話だった。心咲の胸の奥で、赤い花の石が小さく熱を持った気がした。

 片づけが終わり、みんながそれぞれの部屋へ散っていく。長い木の廊下を歩く足音が、順番に遠ざかる。最後にキッチンの灯りを消したのは姫蘭で、消える前に彼女は当番表の端に小さく書き足した。
 『迷ったら、水を飲む』
 それだけで、風見荘は少しだけ強くなる。

 心咲は屋上へ出た。手すりの冷たさが指先に吸い付く。風鈴が鳴り、髪がほどける。巾着の中の石を指で確かめ、メモ帳を開く。
 ――言葉は、疑いより先に渡せる。

 書いた瞬間、階下の窓が一つ開いて、朋行の声が上がった。
 「心咲ー! 砂糖の袋、勝手に減ってたら怒られるから、明日一緒に買いに行くぞー!」
 「了解。順番、守ってね!」

 返事をして、心咲は笑った。風の冷たさの中に、夕飯の匂いがまだ残っている。ここでなら、怖いと言っていい。ここでなら、好きだと言われても、ちゃんと受け取れる。

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