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第29話 返事の前に一行、堤防の夜
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十月の半ば。風見荘の玄関を出た瞬間、潮の匂いが濃くて、心咲は鼻の奥が少しだけ冷たくなるのを感じた。夜はもう、夏の延長ではない。空気が薄いガラスみたいに澄んでいて、吸い込むたび、胸の中の考えまで透けて見えそうだ。
「寒くない?」
翔琉が振り返る。いつも通り、歩幅は合わせてくるのに、今日は目線だけが少し忙しい。手には、コンビニの小さな紙袋。中で缶の金属が触れ合い、かすかな音がした。
「平気。……夜の風は、意外と好き」
そう言ってしまってから、心咲は自分の言い方を確認したくなって、上着のポケットを探った。メモ帳の角が指に当たる。いつもなら、書いてから喋る。なのに、今夜は先に言葉が出た。
翔琉が「そう」と短く返し、歩き出す。声の終わりが、いつもより硬い。硬いのに、嫌ではない。むしろ、その硬さに、ちゃんと理由があると分かる。
堤防へ向かう道は、港の倉庫の影を縫う。街灯の明かりが切れ切れで、足元だけが丸く照らされる。波の音は遠いのに、風だけは近い。髪が頬に張りつき、指で払うと、指先が少し湿った。
「……ここ」
翔琉が立ち止まったのは、堤防の途中だった。海側にはテトラポッドが並び、暗い水面が、ときどき白く砕ける。風が強くて、手すりに触れると金属が冷たい。心咲は、自然に上着の襟を握った。
翔琉は紙袋から缶を二本取り出し、一本を差し出した。温かい。ホットの缶ココア。掌にじんわりと熱が移って、心咲の指がほどける。
「それ、甘いやつだ」
「朋行が、砂糖が足りないとか言ってたから……。違う。えっと……」
言い直そうとして、翔琉は口を閉じた。風が強くて、息が白い。真面目な人が、言葉の順番を間違えたときの顔をしていた。
心咲は缶を両手で包み、しばらく海を見た。波が砕けるたび、白が一瞬だけ浮かんで消える。消えるのに、消えた気がしない。胸の奥に、波の輪郭だけが残る。
「堤防、たまに来るの?」
心咲が聞くと、翔琉は「練習の帰りに」と答えた。足首のことは、口にしない。ただ、靴の紐の結び目を何度も確認する仕草で、痛みがそこにあると伝わってくる。
心咲は、口の中で「今の気持ち」を探した。心配、うれしい、怖い。名前をつけようとすると、どれも正しくて、どれも足りない。
翔琉が缶を握り直し、手すりの方へ一歩寄った。風で前髪が持ち上がり、すぐに落ちる。そのたび、目が隠れたり現れたりする。
「……心咲」
呼ばれただけで、心咲の背筋が伸びた。ここは逃げ道が少ない。堤防は細く、右は海、左は道。けれど不思議と、追い詰められた気はしない。むしろ、余計なものが削れて、言葉だけが残る場所みたいだった。
翔琉は深呼吸をひとつして、缶を持つ手に力を入れた。指の関節が白くなる。
「……好きだ」
たった三文字。説明がない。理由もない。飾りもない。風の音に混ざって、消えてしまいそうなのに、心咲の耳には、はっきり届いた。
心咲はすぐに返せなかった。返せない自分を責める気持ちが湧く前に、身体が先に動いた。缶を手すりの上に置き、ポケットからメモ帳を取り出す。ページが風でめくれそうになり、翔琉が反射みたいに手を伸ばした。
紙を押さえる掌が近くて、心咲の手の甲に、かすかに温度が当たる。前に屋上で、メモ帳の風よけをしてもらったときと同じ。違うのは、今、二人の間にある言葉の重さだ。
心咲はペン先を紙に当て、迷わず一行だけ書いた。
『今の気持ち:うれしい。怖い。でも、受け取りたい』
書き終えた瞬間、胸の奥で、屋上の短冊の文字が鳴った。
『怖いって言っても、ここから追い出されない』
あの紙は風で揺れて、風鈴が鳴って、誰の顔も責める形をしていなかった。あのときの自分が、今の自分の背中を押している。
心咲は顔を上げた。風で髪が乱れて、頬に張りついている。直そうと指を上げかけて、やめた。今、整えるべきものは髪じゃない。
「私も」
声は思ったより小さくて、でも揺れなかった。翔琉の目が大きく開いて、それから、ゆっくり細くなる。笑うときの形だ。
「……ほんと?」
「うん。……ただ、すぐに言うのが、怖かっただけ」
心咲は自分の言い方を確かめるように、もう一度息を吸った。潮の匂いが胸に入る。冷たいのに、嫌じゃない。
「怖いって言うのも、ちゃんと渡したい。……私、言葉を雑に扱うと、あとで痛くなるから」
翔琉は頷き、堤防の先を見た。照明のないところは黒くて、海と空の境目が溶ける。けれど、その黒は怖い黒じゃなかった。隣に人がいる黒だ。
「俺も、怖い」
翔琉は言って、すぐに自分で驚いたみたいに目を瞬かせた。次の言葉を探す間、風が二人の間を通り抜け、ココアの甘い匂いを運ぶ。
「好きって言って、困らせたらどうしようって。……心咲は、ちゃんと考えるから」
「考えるよ」
心咲は即答した。即答してから、メモ帳にもう一行書き足したい衝動が来て、笑いそうになる。今の気持ちは、笑いと涙の両方が近い。
「でも、考えた結果が今。……受け取る」
翔琉が、缶を指で軽く叩いた。
「乾杯、する?」
「うん。……告白の乾杯って、変」
「変でもいい。風見荘、変なこと多い」
翔琉がそんなことを言うのが面白くて、心咲は声を出さずに笑った。缶の上部が、風で冷えている。指先が少しだけ痛い。
ふたりは缶を軽く合わせた。金属の音が、風に飲まれそうになって、でも最後はちゃんと耳に残る。心咲は一口飲み、甘さが喉を通るのを感じた。胸の奥の固いところが、ゆっくり溶けていく。
「ねえ」
翔琉が歩き出す。堤防の上を、海と並行に進む。髪がぐしゃぐしゃになるのに、二人とも直さない。直す手があるなら、今は別のことに使いたい。
「屋上の短冊、覚えてる?」
心咲が言うと、翔琉は少し首を傾げた。
「心咲が書いたやつ。……追い出されない、って」
「うん。あれ、今も効いてる」
心咲はメモ帳を胸の前で抱え、風から守るみたいにした。守っているのは紙じゃなくて、書いた自分の気持ちだ。
翔琉は黙って歩きながら、手すりの冷たさを指で確かめた。突然、立ち止まり、心咲の方へ向き直る。
「じゃあさ」
翔琉は、いつもサッカーで味方に渡すときみたいに、まっすぐ目を合わせた。
「怖いって言っても、追い出さない。……俺が、ここにいる」
心咲は返事をしなかった。代わりに、缶を握る指を少しだけ緩めた。握りしめていたものを、そっと置く仕草。自分の中の緊張が、それでほどけていくのが分かった。
「……うん」
その一音が、風に揺れないように、心咲は喉の奥で丁寧に鳴らした。
堤防の先で、波が大きく砕けた。白い飛沫が一瞬だけ見えて、すぐ闇に戻る。戻るのに、消えない。胸の中で、言葉が残る。
好きだ。
私も。
そして、怖いって言っても、追い出されない。
遠くでフェリーの汽笛が短く鳴った。港のクレーンの赤い灯が、ゆっくり瞬いている。潮の匂いに混ざって、どこかの屋台の焼きイカの匂いがふっと流れてきて、心咲の胃が小さく返事をした。
「今、腹鳴った?」
翔琉が言い、心咲は「鳴ってない」と即座に否定してから、二人同時に笑った。笑った拍子に、さっきまで胸に貼りついていた怖さが、風に剥がれて飛んでいく。
ふたりは並んで歩き続けた。髪が乱れて、頬が冷えて、でも足元は不思議と軽い。風見市の夜は、海風が強くて、歩くたびに体温を奪う。それでも、心咲は一度も後ろを振り返らなかった。今、前に進む理由が、はっきり手の中にあるからだ。
「寒くない?」
翔琉が振り返る。いつも通り、歩幅は合わせてくるのに、今日は目線だけが少し忙しい。手には、コンビニの小さな紙袋。中で缶の金属が触れ合い、かすかな音がした。
「平気。……夜の風は、意外と好き」
そう言ってしまってから、心咲は自分の言い方を確認したくなって、上着のポケットを探った。メモ帳の角が指に当たる。いつもなら、書いてから喋る。なのに、今夜は先に言葉が出た。
翔琉が「そう」と短く返し、歩き出す。声の終わりが、いつもより硬い。硬いのに、嫌ではない。むしろ、その硬さに、ちゃんと理由があると分かる。
堤防へ向かう道は、港の倉庫の影を縫う。街灯の明かりが切れ切れで、足元だけが丸く照らされる。波の音は遠いのに、風だけは近い。髪が頬に張りつき、指で払うと、指先が少し湿った。
「……ここ」
翔琉が立ち止まったのは、堤防の途中だった。海側にはテトラポッドが並び、暗い水面が、ときどき白く砕ける。風が強くて、手すりに触れると金属が冷たい。心咲は、自然に上着の襟を握った。
翔琉は紙袋から缶を二本取り出し、一本を差し出した。温かい。ホットの缶ココア。掌にじんわりと熱が移って、心咲の指がほどける。
「それ、甘いやつだ」
「朋行が、砂糖が足りないとか言ってたから……。違う。えっと……」
言い直そうとして、翔琉は口を閉じた。風が強くて、息が白い。真面目な人が、言葉の順番を間違えたときの顔をしていた。
心咲は缶を両手で包み、しばらく海を見た。波が砕けるたび、白が一瞬だけ浮かんで消える。消えるのに、消えた気がしない。胸の奥に、波の輪郭だけが残る。
「堤防、たまに来るの?」
心咲が聞くと、翔琉は「練習の帰りに」と答えた。足首のことは、口にしない。ただ、靴の紐の結び目を何度も確認する仕草で、痛みがそこにあると伝わってくる。
心咲は、口の中で「今の気持ち」を探した。心配、うれしい、怖い。名前をつけようとすると、どれも正しくて、どれも足りない。
翔琉が缶を握り直し、手すりの方へ一歩寄った。風で前髪が持ち上がり、すぐに落ちる。そのたび、目が隠れたり現れたりする。
「……心咲」
呼ばれただけで、心咲の背筋が伸びた。ここは逃げ道が少ない。堤防は細く、右は海、左は道。けれど不思議と、追い詰められた気はしない。むしろ、余計なものが削れて、言葉だけが残る場所みたいだった。
翔琉は深呼吸をひとつして、缶を持つ手に力を入れた。指の関節が白くなる。
「……好きだ」
たった三文字。説明がない。理由もない。飾りもない。風の音に混ざって、消えてしまいそうなのに、心咲の耳には、はっきり届いた。
心咲はすぐに返せなかった。返せない自分を責める気持ちが湧く前に、身体が先に動いた。缶を手すりの上に置き、ポケットからメモ帳を取り出す。ページが風でめくれそうになり、翔琉が反射みたいに手を伸ばした。
紙を押さえる掌が近くて、心咲の手の甲に、かすかに温度が当たる。前に屋上で、メモ帳の風よけをしてもらったときと同じ。違うのは、今、二人の間にある言葉の重さだ。
心咲はペン先を紙に当て、迷わず一行だけ書いた。
『今の気持ち:うれしい。怖い。でも、受け取りたい』
書き終えた瞬間、胸の奥で、屋上の短冊の文字が鳴った。
『怖いって言っても、ここから追い出されない』
あの紙は風で揺れて、風鈴が鳴って、誰の顔も責める形をしていなかった。あのときの自分が、今の自分の背中を押している。
心咲は顔を上げた。風で髪が乱れて、頬に張りついている。直そうと指を上げかけて、やめた。今、整えるべきものは髪じゃない。
「私も」
声は思ったより小さくて、でも揺れなかった。翔琉の目が大きく開いて、それから、ゆっくり細くなる。笑うときの形だ。
「……ほんと?」
「うん。……ただ、すぐに言うのが、怖かっただけ」
心咲は自分の言い方を確かめるように、もう一度息を吸った。潮の匂いが胸に入る。冷たいのに、嫌じゃない。
「怖いって言うのも、ちゃんと渡したい。……私、言葉を雑に扱うと、あとで痛くなるから」
翔琉は頷き、堤防の先を見た。照明のないところは黒くて、海と空の境目が溶ける。けれど、その黒は怖い黒じゃなかった。隣に人がいる黒だ。
「俺も、怖い」
翔琉は言って、すぐに自分で驚いたみたいに目を瞬かせた。次の言葉を探す間、風が二人の間を通り抜け、ココアの甘い匂いを運ぶ。
「好きって言って、困らせたらどうしようって。……心咲は、ちゃんと考えるから」
「考えるよ」
心咲は即答した。即答してから、メモ帳にもう一行書き足したい衝動が来て、笑いそうになる。今の気持ちは、笑いと涙の両方が近い。
「でも、考えた結果が今。……受け取る」
翔琉が、缶を指で軽く叩いた。
「乾杯、する?」
「うん。……告白の乾杯って、変」
「変でもいい。風見荘、変なこと多い」
翔琉がそんなことを言うのが面白くて、心咲は声を出さずに笑った。缶の上部が、風で冷えている。指先が少しだけ痛い。
ふたりは缶を軽く合わせた。金属の音が、風に飲まれそうになって、でも最後はちゃんと耳に残る。心咲は一口飲み、甘さが喉を通るのを感じた。胸の奥の固いところが、ゆっくり溶けていく。
「ねえ」
翔琉が歩き出す。堤防の上を、海と並行に進む。髪がぐしゃぐしゃになるのに、二人とも直さない。直す手があるなら、今は別のことに使いたい。
「屋上の短冊、覚えてる?」
心咲が言うと、翔琉は少し首を傾げた。
「心咲が書いたやつ。……追い出されない、って」
「うん。あれ、今も効いてる」
心咲はメモ帳を胸の前で抱え、風から守るみたいにした。守っているのは紙じゃなくて、書いた自分の気持ちだ。
翔琉は黙って歩きながら、手すりの冷たさを指で確かめた。突然、立ち止まり、心咲の方へ向き直る。
「じゃあさ」
翔琉は、いつもサッカーで味方に渡すときみたいに、まっすぐ目を合わせた。
「怖いって言っても、追い出さない。……俺が、ここにいる」
心咲は返事をしなかった。代わりに、缶を握る指を少しだけ緩めた。握りしめていたものを、そっと置く仕草。自分の中の緊張が、それでほどけていくのが分かった。
「……うん」
その一音が、風に揺れないように、心咲は喉の奥で丁寧に鳴らした。
堤防の先で、波が大きく砕けた。白い飛沫が一瞬だけ見えて、すぐ闇に戻る。戻るのに、消えない。胸の中で、言葉が残る。
好きだ。
私も。
そして、怖いって言っても、追い出されない。
遠くでフェリーの汽笛が短く鳴った。港のクレーンの赤い灯が、ゆっくり瞬いている。潮の匂いに混ざって、どこかの屋台の焼きイカの匂いがふっと流れてきて、心咲の胃が小さく返事をした。
「今、腹鳴った?」
翔琉が言い、心咲は「鳴ってない」と即座に否定してから、二人同時に笑った。笑った拍子に、さっきまで胸に貼りついていた怖さが、風に剥がれて飛んでいく。
ふたりは並んで歩き続けた。髪が乱れて、頬が冷えて、でも足元は不思議と軽い。風見市の夜は、海風が強くて、歩くたびに体温を奪う。それでも、心咲は一度も後ろを振り返らなかった。今、前に進む理由が、はっきり手の中にあるからだ。
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