スルーパスの先、赤い花の石

乾為天女

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第30話 スルーパスの先、赤い花の石

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 十月の終わり。風見市の昼は、太陽が出ているのに、海からの風が容赦なく頬を撫でていった。
 風見ウィンドのユニフォームの下で、翔琉の足首には白いテーピングが幾重にも巻かれている。靴紐を結ぶ指が、いつもより丁寧だった。結び目をぎゅっと締めるたび、痛みが「そこまでにしとけ」と小さく言う。
 翔琉は返事をしない。返事の代わりに、ベンチ脇のクーラーボックスを開け、氷の残りを確認してから、黙って蓋を閉じた。氷は減っている。今日が、最後の試合だ。

 スタンドの隅で、心咲は手を握ったり開いたりしていた。手袋の中が、汗ばんでいる。応援の旗を振るのは得意じゃない。声を出すのも、得意じゃない。だから、代わりに持ってきた。
 胸ポケットの奥に、祖母の形見の石――レッドフラワークォーツの小さな袋がある。布越しでも、硬い輪郭がわかる。なくしたときの空洞を思い出すと、今ある重みが、現実だと教えてくれる。

 「今日の持ち物、確認した?」
 隣で姫蘭が言った。何の用紙かと思ったら、姫蘭の手には、ラミネートされたカードがある。
 『応援の順番』
 字がやけに整っている。姫蘭はそれを、朋行、陽向太、梨加子の順に配った。

 「え、応援にも順番あるの?」
 朋行がカードを受け取りながら笑うと、姫蘭は真顔で頷いた。
 「ある。声が被ると聞こえないから」
 「そこまで設計する!」
 朋行は言いながら、紙袋を足元に置いた。中身は、試合後に配る予定の焼き菓子だ。昨日の夜、厨房で余った果物を煮て、ジャムにして、クッキーに挟んだらしい。味見会のときの、あの真剣な眉が浮かぶ。

 陽向太はカードを指で弾き、「じゃ、俺は、ここぞってときにだけ叫ぶ」と短く言った。
 梨加子はカードを見て、いったん唇を噛んだあと、心咲の顔を盗み見るようにした。
 心咲が頷くと、梨加子は小さく息を吐いた。手の中のカードを握りつぶさないように、指を伸ばして整える。整え方が、どこか不器用だ。

 試合が始まった。
 ピッチの芝は乾いていて、走るたびに砂が靴下の中に入り込む。翔琉は、最初の数分で「今日は痛みが何段階か」を身体で測っていた。無理に加速しない。相手に当たりに行かない。けれど、止まらない。
 ボランチの位置で、翔琉は首を忙しく動かした。味方の背中。相手の肩の向き。空いたスペース。風の強さで、ボールが少し浮く。浮いたぶん、落ちる場所が変わる。
 「先に渡す」
 翔琉は胸の中で、そんな言葉を言った。心咲が、言葉をメモ帳に先に渡すみたいに。自分は、ボールを先に渡す。

 前半、風見ウィンドは押され気味だった。相手の右サイドから何度も崩され、ゴール前でひやりとする。翔琉は追いかけたい。追いかければ、間に合う距離だ。でも、足首が「そこまで」と言う。
 代わりに翔琉は叫んだ。
 「中、絞れ! 俺が見る!」
 声が、風に持っていかれそうになる。けれど、味方のセンターバックがすぐに内側へ寄った。相手のパスコースが一本消える。小さな成功が積み重なって、危ない場面が、危なくなくなる。

 ハーフタイム。
 ベンチに戻った翔琉は、靴下の中の砂を払おうとして、うまくできず、眉をしかめた。そこへ、心咲が水筒を差し出した。いつもの、麦茶だ。蓋には小さく『飲む』と油性ペンで書かれている。
 「……書いたの?」
 翔琉が聞くと、心咲は小さく肩をすくめた。
 「忘れそうだったから」
 翔琉は笑いそうになって、笑うと痛みが増しそうで、口角だけ上げた。水を飲む。喉が冷える。冷えると、考えも少し落ち着く。

 「足、いける?」
 心咲の声は小さい。けれど、風に負けない形をしている。
 翔琉は一瞬、いつもの癖で「大丈夫」と言いそうになった。言いかけて、止めた。
 「……無理はしない。できる範囲で、勝ちに行く」
 言い直すと、胸が軽くなる。心咲はそれを聞いて、頷いた。頷き方が、約束の形だった。

 後半が始まった。
 点は動かないまま、時間だけが進む。観客席の風鈴……ではなく、フェンスに括りつけられた小さな応援ベルが鳴る。金属の音が、海風に混ざる。
 姫蘭の『応援の順番』が効いたのか、声援が妙に整って聞こえる。朋行が「走れー!」と叫び、陽向太が「今だ!」と短く刺し、梨加子が遅れて「負けるな!」と張るように声を出す。梨加子の声は最初、喉の奥で引っかかっていた。でも、二回目は少し滑った。

 残り五分。
 相手のミスから、ボールが中盤でこぼれた。翔琉の足が勝手に一歩出る。痛みが走る。走るが、止めない。止めたら、ここまで積み上げたものが崩れる気がした。
 翔琉は身体を横に入れてボールを奪い、すぐに視野を広げた。右の味方が、相手の背中の裏へ走り出している。左は詰まっている。中央は、ひとつだけ穴が空く。そこに、走り込む影がある。
 翔琉は、足首に負担の少ないフォームで、ボールの芯を押した。
 強く蹴らない。押す。
 ボールは風に煽られながらも、低く滑って、相手の足の届かないところを通った。

 スルーパス。

 心咲の呼吸が止まった。
 パスを受けた味方が、ワントラップで前に運ぶ。シュート。ネットが揺れる。遅れて、スタンドが爆発するように沸いた。
 姫蘭がカードを落とし、朋行が紙袋を抱えたまま跳ね、陽向太が拳を一度だけ上げ、梨加子が「うそ……!」と叫んでから、慌てて口を押さえた。
 心咲は声が出なかった。代わりに、胸ポケットの袋をぎゅっと握った。石の硬さが、今の現実を押し返してくる。熱いものが目の奥に溜まる。溜まるのに、こぼさない。今はまだ、見ていたい。

 試合終了の笛。
 翔琉は膝に手をつき、呼吸を整えた。足首が痛い。痛いのに、胸の中が笑っている。味方が駆け寄り、背中を叩く。
 「ナイス!」
 「見えてたな!」
 翔琉は笑って頷く。頷いた拍子に、痛みが一段上がる。顔が歪みかけて、そこで心咲の姿が見えた。
 スタンドから降りてきて、フェンス越しに手を振っている。手袋の指先が、風でふるふる揺れる。
 翔琉は、手を上げ返した。上げるだけで、十分だった。

 夜。
 風見荘の屋上は、昼よりさらに冷えていた。手すりはひやりとして、触れると指が目を覚ます。風鈴が鳴る。夏ほど高くない音で、秋の終わりみたいな余韻が残る。
 屋上には、なぜか小さなテーブルが出ていた。誰が運んだのかと思ったら、姫蘭が当たり前みたいに工具箱を抱えている。
 「屋上は物を置くと危ないから、本当はダメ。でも、今日は特別。落下防止、固定済み」
 姫蘭はそう言って、テーブルの脚をぐいっと押した。動かない。
 朋行がその上に、透明カップを並べていく。カップの底には、砕けたクッキー。上には、ヨーグルト。さらに、缶詰の桃。最後に、ジャムをとろり。
 「残り物パフェ。余ったものを、順番に積むだけで、ちゃんと甘い」
 朋行が言うと、陽向太が「福だな」と短く返した。
 梨加子が、持ってきたスプーンを一本ずつ配りながら、口を開いた。
 「……その、今日、あたし、応援、できてた?」
 姫蘭がカードを拾い上げ、梨加子の手に戻した。
 「二回目から、通ってた。声、逃げなかった」
 梨加子はカードを見て、うなずいた。うなずいたあと、すぐに俯いて、スプーンの向きを揃えた。揃え方が、翔琉の靴の並べ方に少し似ている。

 心咲は屋上の端に立ち、海のほうを見た。夜の海は黒い。黒いのに、そこにあるのがわかる。波の音が、下から押し上げてくる。
 胸ポケットの袋を取り出し、掌に乗せた。石は小さい。小さいのに、なくしたときは、世界が欠けたみたいだった。
 心咲は袋越しに石を胸に当てた。鼓動が、石に伝わる。

 翔琉が隣に来た。足首をかばう歩き方が、昼より目立つ。けれど、止まっていない。止まらないまま、ここまで来た。
 「足、痛む?」
 心咲が聞くと、翔琉は一秒だけ黙ってから、言った。
 「痛い。でも……今日は、ちゃんと痛いって言える」
 心咲は小さく笑った。笑うと、頬が冷える。
 「じゃあ、冷やして。明日も、明後日も、歩くから」
 翔琉は「はい」と真面目に返した。真面目すぎて、心咲はまた笑った。

 風鈴が鳴る。
 短冊が揺れる。あの言葉が、目に入る。
 『怖いって言っても、ここから追い出されない』
 心咲は、その文字を見ながら、息を吸った。潮の匂いが肺に入る。胸の奥が、少しだけ痛い。けれど、その痛さは、なくしたときの空洞とは違う。

 心咲は石を胸に押し当てたまま、言った。
 「……ここが、帰る場所」
 声は小さい。けれど、風鈴の音の隙間に、ちゃんと収まった。

 翔琉は一瞬、耳まで赤くなった。赤くなったのを誤魔化すみたいに、テーブルのほうを指さした。
 「……パフェ、溶ける」
 「溶ける前に、食べよ」
 心咲が言うと、翔琉は頷いた。頷き方が、さっきの試合の笛より確かだった。

 五人がテーブルを囲む。スプーンがカップの底に当たって、軽い音がする。
 朋行が「甘さは砂糖で調整できるけど、照れは無理だな」と言い、翔琉が「照れてない」と即答し、姫蘭が「今のは照れ」とカードに書き足し、陽向太が「記録すな」と言い、梨加子が吹き出して、パフェの桃を落としそうになった。
 桃はカップの縁で止まった。全員が一斉に息を呑み、次の瞬間、同時に笑った。笑い声が風に散って、屋上の外へ流れていく。

 心咲は笑いながら、胸の石の重みを確かめた。重みは、なくならない。なくならないまま、軽くなる。
 帰る場所があるというのは、そういうことなのだと思った。
 海風は冷たい。けれど、風見荘の屋上には、冷たさを分け合える手がある。言葉を先に渡せる相手がいる。怖いと言っても、追い出されない場所がある。

 風鈴が、もう一度鳴った。
 その音に合わせて、心咲はスプーンをカップに差し入れ、最後の一口を口に運んだ。
 甘い。少し酸っぱい。残り物の味が、今日の勝利みたいに、ちゃんと胸に残った。

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