1 / 40
第1話 酒の流れる川の店で
しおりを挟む
川面を撫でる風が、湿った夜気を運んでくる。
駅から少し歩いた先、ガード下を抜けたところで、璃音は足を止めた。
目の前に広がるのは、川沿いの細い通りだった。欄干の向こうには、ゆっくりと流れる黒い水。そこに、対岸のネオンと提灯の明かりが溶け込み、揺れながら伸びている。揺らいだ光の帯は、まるで琥珀色の酒を巨大なグラスに注いだようで、見ていると少し酔いそうになる。
通りには、小さな店が肩を寄せ合っていた。暖簾の隙間から笑い声が漏れる居酒屋、煙が漂う焼き鳥屋、スナックと書かれた看板。どの店のカウンターにも、色とりどりの瓶がずらりと並んでいる。欄干にもたれたサラリーマンが、缶を片手に川を眺めている様子まで含めて、通り全体が一本の長い酒瓶のように思えた。
璃音は、手に持ったクリアファイルを握り直す。中には、今日何度も見返した履歴書が入っている。
「……ここか」
通りの少し奥、川に向かって斜めに建つ二階建ての建物。その一階に、「川べり文庫」と書かれた木の看板が、控えめにぶら下がっていた。
本と酒、と小さく描かれている。
ガラス越しに中をのぞくと、壁一面の本棚と、その手前にL字型のカウンターが見えた。本の背表紙の間からこぼれる照明と、カウンターの上に並ぶ瓶のラベル。その組み合わせが不思議と落ち着いていて、璃音は無意識に息を整える。
扉を開けると、からん、と小さなベルが鳴った。
中から、炒めた玉ねぎの甘い匂いと、出汁の香りがふわりと流れ出てくる。上着の裾に香りが絡みついてくる感じがして、璃音は背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、低い声が飛んでくる。
グラスを磨いていた男が、手を止めて顔を上げた。
黒いシャツの袖は肘まできっちり折られていて、カウンターの上には、水滴ひとつ残っていない。端に積まれたメニュー表も、角が揃えられている。
「えっと、本日、面接をお願いしていた——」
「天野さんですね」
男は、璃音の言葉を最後まで聞く前に、すっと頷いた。カウンターの端に置いてあったクリップボードを手に取り、そこに挟まれた紙をちらりと確認する。
「お時間、ちょうどです。どうぞ」
彼はカウンターを回り込み、入口近くの二人掛けのテーブルを指さした。テーブルの上には、水の入ったグラスが二つ、既に用意されている。
璃音は、少しだけ目を瞬いた。
(……準備、早い)
口には出さず、クリアファイルを胸に抱えたまま、示された席に座る。男も向かいの椅子に腰を下ろした。
「店長の——」
と、璃音が言いかけると、男が首を横に振る。
「店長は別にいます。今は、店長代理みたいなものです。奏斗と申します」
「天野璃音です。本日はよろしくお願いします」
璃音は、クリアファイルから履歴書を取り出し、両手で差し出した。
奏斗は、その紙を受け取ると、まず上下の向きを直し、角をテーブルの縁に合わせる。それから、端から順番に目を通していった。勤務期間、店舗名、役職、退職理由。
視線が滑っていく間、璃音はグラスの水に指先を浸すように、縁を軽くなぞる。
「大手チェーンで、パティシエ」
奏斗が、履歴書の一行をなぞるように読み上げた。
「はい。ケーキとデザートの担当をしていました」
「三年半」
「はい」
「退職理由は、『働き方を見直すため』」
「そう書きました」
質問は、短く、必要なことだけ。璃音も、それに合わせて答えを重ねていく。仕事の内容、シフトの希望、通勤時間。
「ここまでで、何か聞きたいことはありますか」
一通り終えたところで、奏斗がペンを置いた。
璃音は、少しだけ考えてから口を開く。
「どうして、ここは本とお酒を一緒にしているんですか」
奏斗が、瞬きを一度だけした。
「……そこですか」
「はい」
「よく聞かれますが、逆に、別々じゃないといけない理由もないですよね」
淡々とした答え。けれど、その口元がわずかに緩んだのを、璃音は見逃さなかった。
「もともと、この場所に小さな古本屋があって。隣に飲み屋があって。大家さんがまとめて借りたい人を探していたので、そのままくっつけました」
「継ぎ目、そのままなんですね」
璃音は、カウンターの奥の本棚と、壁の向こうの厨房の境目を目で追う。確かに、本棚の端とカウンターの端が、不器用なジグザグを描いている。
「本棚の前の席が落ち着く人もいれば、カウンターで飲みたい人もいます。どちらでも、今日の終わりを過ごしてもらえれば」
奏斗の視線が、一瞬だけ入口付近へ向かう。
そのとき、扉が開いた。
「おう、今日もやってるなあ」
しわの刻まれた声と一緒に、細身のスーツ姿の男が入ってくる。肩のジャケットを片手でひょいと持ち上げ、もう片方の手で欄干の方を指した。
「川、今日すごいぞ。あれは上等な純米だ」
璃音も振り返る。
さっき通りで見た光の帯が、さらに濃くなっていた。提灯の数が増えたのか、川面が少し波立っているのか、さっきよりも揺れが大きい。
「純米かどうかは、水質検査しないと分かりません」
奏斗は、少しも表情を変えずに返す。
「検査なんて野暮なこと言うなよ。あそこを見て、『今夜もよく流れてるな』って思えたら、それで十分だ」
男はそう言いながら、カウンターのいつもの席に腰を下ろした。
「マスター、いつもの」
「はい」
奏斗は椅子から立ち上がり、慣れた手つきで瓶を一本取り出す。注がれる琥珀色の液体が、カウンターの上のグラスで小さく揺れた。
璃音は、その光景をじっと見ていた。
仕事の話をしながら、通りの光の帯を酒にたとえて笑う常連。
客の「いつもの」に、余計な問い返しをせず、手を動かす奏斗。
数字には表れないが、確かに積み重なったやり取りが、ここにはある。
「さっきの質問の答えですが」
グラスを差し出しながら、奏斗がさりげなく続ける。
「この辺りでは、あの川のことを、冗談半分で『酒の流れる川』と呼ぶ人が多いんです」
「酒、流れてないのに」
「見た目は、だいぶそれっぽいので」
常連が、グラスをひょいと掲げた。
「ほら、外も中も、よく流れてるだろう?」
璃音は、思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえる。
「……なるほど。顔が見える場所で働きたいと思ったのは、こういう景色のことだったのかもしれません」
「顔が見える場所」
「はい。前の職場は、厨房が完全に仕切られていて。ケーキを出した先に、誰がいるのか分からないことが多かったので」
璃音は、水のグラスの縁を両手で包み込みながら、言葉を選ぶ。
「ここなら、誰がどんな顔で食べているか、直接見られそうだなと」
「それは、良いことばかりとは限りませんよ」
奏斗は、淡々と告げる。
「機嫌が良くない日も、何かをぶつけられる日もあります。見えない方が楽だと思う瞬間も、多い」
「それでも、見たいです」
璃音は、短く答えた。
静かな目で、まっすぐに。
「見てから、考えたいです」
テーブルの下で、クリアファイルを握る指先に、少し力がこもる。
「あと——」
そこで、璃音はふと思い出したように視線を上げた。
「ここなら、川が近いので」
「川?」
「たまに仕事が終わったあと、川を眺めたくなるので。遠いと、途中であきらめてしまうんです」
奏斗は、一瞬だけ返事を忘れて、璃音の顔を見つめた。
「……通勤時間の理由として、それは初めて聞きました」
「本当のことなので」
璃音は、肩をすくめる。
「都会の真ん中で、ケーキの箱を積み上げていると、自分がどこにいるのか分からなくなる夜があって。そういうとき、川が見える場所に戻れたらいいなあ、と。まあ、今日ここに受けに来た一番の理由は——」
彼女は、一番近くの本棚を指さした。
「『本と酒』って、書いてあったからですけどね」
その答えに、常連が吹き出した。
「看板、そんなに効くものなのか」
「効く人には効くんですよ」
璃音は、いたずらを成功させた子どものように、少し唇の端を上げる。
奏斗は、視線を履歴書に戻した。
そこに書かれた文字と、目の前の人間の温度を、頭の中で照らし合わせるように、数秒沈黙する。
「……先にお伝えしておきますが」
やがて、彼はペンを持ち直した。
「うちは、効率も設備も、大手にはかないません。手作業が多くて、手間も多い。忙しい夜は、川を見る余裕なんて一切なくなります」
「手でやることが多いなら、私の居場所も多そうです」
即答だった。
奏斗のペン先が、カチリと音を立てて止まる。
入口の方から、別の声が飛んできた。
「奏斗さん、さっきの仕込みの確認、いいですかー?」
カウンター奥から顔を出したのは、エプロン姿の女性だった。髪を後ろでまとめ、手にはボウルと泡立て器を持っている。
「今、面接中」
「え、あ、ごめんなさい。——あ、新しい人?」
女性の視線が、璃音に向く。
「天野さん。厨房担当の絵斗です」
「ちがいますよ、私、花春ですけど」
「あ、失礼しました」
カウンターの奥から、今度は若い男の頭がひょいと出てくる。
「厨房は俺。キッチンの王様。絵斗でーす」
「王様、自分で言います?」
花春と呼ばれた女性が、ボウルを抱えたまま、呆れたように眉を下げる。
「ちょっとだけ待っててくださいね。まかないの味付け、確認してほしくて」
「すぐ行きます」
奏斗は、短く返事をしてから、璃音に向き直った。
「すみません。うるさくて」
「いえ。元気そうで、良かったです」
璃音は、くすりと笑う。
その笑い声に、さっきまで面接という言葉の硬さで包まれていた空気が、少しだけ緩んだ。
「——天野さん」
奏斗は、履歴書の端を指で押さえながら言った。
「ここは、きれいな思い出ばかりの日ばかりではありません。皿が割れる日もあるし、味が決まらない日もあるし、どうしても噛み合わない夜もあります」
「はい」
「それでも、ここで働きたいと思いますか」
璃音は、少しだけ視線を落とし、テーブルの木目を指でたどった。
それから顔を上げ、まっすぐに奏斗を見る。
「そういう夜の味も、覚えておきたいので」
「……なるほど」
奏斗は、そこで初めて、小さく息を吐いた。
ペンが、紙の上を走る。
勤務開始希望日、試用期間の確認。淡々とした文字列の最後に、彼は一行を書き加えた。
「では、来週から入ってもらえますか。最初の二週間は、お互いに様子を見る期間ということで」
「はい。よろしくお願いします」
璃音は、椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
その背後で、常連がグラスを揺らす音がした。
「お、またひとり、川のほとりに迷い込んだな」
「迷い込んだんじゃなくて、来たんです」
璃音は、顔を上げたついでに、そう言い返していた。
「ここ、帰り道にするつもりなので」
奏斗の眉が、ほんの少しだけ上がる。
「帰り道」
「はい。仕事が終わったら、ここを通って帰る。そんな場所の方が、長く続けられそうなので」
言い終えると、自分でも少し照れくさくなり、璃音は胸の前でクリアファイルを抱え直した。
「じゃあ、来週から、お待ちしています」
奏斗は、カウンターに戻りながら言った。
璃音が扉を開けると、からん、と再びベルが鳴る。
外に出ると、さっきよりも川の光がはっきりしていた。提灯の列が、風に押されて少し波打っている。
欄干の上に肘を預け、璃音はしばらくその光を眺めた。
通りの真ん中にある「川べり文庫」の窓から、柔らかな明かりが漏れている。あの中で、今日も誰かが一日の終わりを迎えている。
「……本と酒かあ」
小さくつぶやいた声は、川の音に紛れて消えた。
それでも、自分の中には、はっきりと残る。
ここでの夜が、どんなふうに積み重なっていくのか。
どんな顔と、どんな皿と、どんな言葉に出会うのか。
璃音は、クリアファイルを抱き直し、背筋を伸ばして歩き出した。
酒の流れる川のほとりにある小さな店が、これからの自分の帰り道になる——そう決めた夜だった。
駅から少し歩いた先、ガード下を抜けたところで、璃音は足を止めた。
目の前に広がるのは、川沿いの細い通りだった。欄干の向こうには、ゆっくりと流れる黒い水。そこに、対岸のネオンと提灯の明かりが溶け込み、揺れながら伸びている。揺らいだ光の帯は、まるで琥珀色の酒を巨大なグラスに注いだようで、見ていると少し酔いそうになる。
通りには、小さな店が肩を寄せ合っていた。暖簾の隙間から笑い声が漏れる居酒屋、煙が漂う焼き鳥屋、スナックと書かれた看板。どの店のカウンターにも、色とりどりの瓶がずらりと並んでいる。欄干にもたれたサラリーマンが、缶を片手に川を眺めている様子まで含めて、通り全体が一本の長い酒瓶のように思えた。
璃音は、手に持ったクリアファイルを握り直す。中には、今日何度も見返した履歴書が入っている。
「……ここか」
通りの少し奥、川に向かって斜めに建つ二階建ての建物。その一階に、「川べり文庫」と書かれた木の看板が、控えめにぶら下がっていた。
本と酒、と小さく描かれている。
ガラス越しに中をのぞくと、壁一面の本棚と、その手前にL字型のカウンターが見えた。本の背表紙の間からこぼれる照明と、カウンターの上に並ぶ瓶のラベル。その組み合わせが不思議と落ち着いていて、璃音は無意識に息を整える。
扉を開けると、からん、と小さなベルが鳴った。
中から、炒めた玉ねぎの甘い匂いと、出汁の香りがふわりと流れ出てくる。上着の裾に香りが絡みついてくる感じがして、璃音は背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、低い声が飛んでくる。
グラスを磨いていた男が、手を止めて顔を上げた。
黒いシャツの袖は肘まできっちり折られていて、カウンターの上には、水滴ひとつ残っていない。端に積まれたメニュー表も、角が揃えられている。
「えっと、本日、面接をお願いしていた——」
「天野さんですね」
男は、璃音の言葉を最後まで聞く前に、すっと頷いた。カウンターの端に置いてあったクリップボードを手に取り、そこに挟まれた紙をちらりと確認する。
「お時間、ちょうどです。どうぞ」
彼はカウンターを回り込み、入口近くの二人掛けのテーブルを指さした。テーブルの上には、水の入ったグラスが二つ、既に用意されている。
璃音は、少しだけ目を瞬いた。
(……準備、早い)
口には出さず、クリアファイルを胸に抱えたまま、示された席に座る。男も向かいの椅子に腰を下ろした。
「店長の——」
と、璃音が言いかけると、男が首を横に振る。
「店長は別にいます。今は、店長代理みたいなものです。奏斗と申します」
「天野璃音です。本日はよろしくお願いします」
璃音は、クリアファイルから履歴書を取り出し、両手で差し出した。
奏斗は、その紙を受け取ると、まず上下の向きを直し、角をテーブルの縁に合わせる。それから、端から順番に目を通していった。勤務期間、店舗名、役職、退職理由。
視線が滑っていく間、璃音はグラスの水に指先を浸すように、縁を軽くなぞる。
「大手チェーンで、パティシエ」
奏斗が、履歴書の一行をなぞるように読み上げた。
「はい。ケーキとデザートの担当をしていました」
「三年半」
「はい」
「退職理由は、『働き方を見直すため』」
「そう書きました」
質問は、短く、必要なことだけ。璃音も、それに合わせて答えを重ねていく。仕事の内容、シフトの希望、通勤時間。
「ここまでで、何か聞きたいことはありますか」
一通り終えたところで、奏斗がペンを置いた。
璃音は、少しだけ考えてから口を開く。
「どうして、ここは本とお酒を一緒にしているんですか」
奏斗が、瞬きを一度だけした。
「……そこですか」
「はい」
「よく聞かれますが、逆に、別々じゃないといけない理由もないですよね」
淡々とした答え。けれど、その口元がわずかに緩んだのを、璃音は見逃さなかった。
「もともと、この場所に小さな古本屋があって。隣に飲み屋があって。大家さんがまとめて借りたい人を探していたので、そのままくっつけました」
「継ぎ目、そのままなんですね」
璃音は、カウンターの奥の本棚と、壁の向こうの厨房の境目を目で追う。確かに、本棚の端とカウンターの端が、不器用なジグザグを描いている。
「本棚の前の席が落ち着く人もいれば、カウンターで飲みたい人もいます。どちらでも、今日の終わりを過ごしてもらえれば」
奏斗の視線が、一瞬だけ入口付近へ向かう。
そのとき、扉が開いた。
「おう、今日もやってるなあ」
しわの刻まれた声と一緒に、細身のスーツ姿の男が入ってくる。肩のジャケットを片手でひょいと持ち上げ、もう片方の手で欄干の方を指した。
「川、今日すごいぞ。あれは上等な純米だ」
璃音も振り返る。
さっき通りで見た光の帯が、さらに濃くなっていた。提灯の数が増えたのか、川面が少し波立っているのか、さっきよりも揺れが大きい。
「純米かどうかは、水質検査しないと分かりません」
奏斗は、少しも表情を変えずに返す。
「検査なんて野暮なこと言うなよ。あそこを見て、『今夜もよく流れてるな』って思えたら、それで十分だ」
男はそう言いながら、カウンターのいつもの席に腰を下ろした。
「マスター、いつもの」
「はい」
奏斗は椅子から立ち上がり、慣れた手つきで瓶を一本取り出す。注がれる琥珀色の液体が、カウンターの上のグラスで小さく揺れた。
璃音は、その光景をじっと見ていた。
仕事の話をしながら、通りの光の帯を酒にたとえて笑う常連。
客の「いつもの」に、余計な問い返しをせず、手を動かす奏斗。
数字には表れないが、確かに積み重なったやり取りが、ここにはある。
「さっきの質問の答えですが」
グラスを差し出しながら、奏斗がさりげなく続ける。
「この辺りでは、あの川のことを、冗談半分で『酒の流れる川』と呼ぶ人が多いんです」
「酒、流れてないのに」
「見た目は、だいぶそれっぽいので」
常連が、グラスをひょいと掲げた。
「ほら、外も中も、よく流れてるだろう?」
璃音は、思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえる。
「……なるほど。顔が見える場所で働きたいと思ったのは、こういう景色のことだったのかもしれません」
「顔が見える場所」
「はい。前の職場は、厨房が完全に仕切られていて。ケーキを出した先に、誰がいるのか分からないことが多かったので」
璃音は、水のグラスの縁を両手で包み込みながら、言葉を選ぶ。
「ここなら、誰がどんな顔で食べているか、直接見られそうだなと」
「それは、良いことばかりとは限りませんよ」
奏斗は、淡々と告げる。
「機嫌が良くない日も、何かをぶつけられる日もあります。見えない方が楽だと思う瞬間も、多い」
「それでも、見たいです」
璃音は、短く答えた。
静かな目で、まっすぐに。
「見てから、考えたいです」
テーブルの下で、クリアファイルを握る指先に、少し力がこもる。
「あと——」
そこで、璃音はふと思い出したように視線を上げた。
「ここなら、川が近いので」
「川?」
「たまに仕事が終わったあと、川を眺めたくなるので。遠いと、途中であきらめてしまうんです」
奏斗は、一瞬だけ返事を忘れて、璃音の顔を見つめた。
「……通勤時間の理由として、それは初めて聞きました」
「本当のことなので」
璃音は、肩をすくめる。
「都会の真ん中で、ケーキの箱を積み上げていると、自分がどこにいるのか分からなくなる夜があって。そういうとき、川が見える場所に戻れたらいいなあ、と。まあ、今日ここに受けに来た一番の理由は——」
彼女は、一番近くの本棚を指さした。
「『本と酒』って、書いてあったからですけどね」
その答えに、常連が吹き出した。
「看板、そんなに効くものなのか」
「効く人には効くんですよ」
璃音は、いたずらを成功させた子どものように、少し唇の端を上げる。
奏斗は、視線を履歴書に戻した。
そこに書かれた文字と、目の前の人間の温度を、頭の中で照らし合わせるように、数秒沈黙する。
「……先にお伝えしておきますが」
やがて、彼はペンを持ち直した。
「うちは、効率も設備も、大手にはかないません。手作業が多くて、手間も多い。忙しい夜は、川を見る余裕なんて一切なくなります」
「手でやることが多いなら、私の居場所も多そうです」
即答だった。
奏斗のペン先が、カチリと音を立てて止まる。
入口の方から、別の声が飛んできた。
「奏斗さん、さっきの仕込みの確認、いいですかー?」
カウンター奥から顔を出したのは、エプロン姿の女性だった。髪を後ろでまとめ、手にはボウルと泡立て器を持っている。
「今、面接中」
「え、あ、ごめんなさい。——あ、新しい人?」
女性の視線が、璃音に向く。
「天野さん。厨房担当の絵斗です」
「ちがいますよ、私、花春ですけど」
「あ、失礼しました」
カウンターの奥から、今度は若い男の頭がひょいと出てくる。
「厨房は俺。キッチンの王様。絵斗でーす」
「王様、自分で言います?」
花春と呼ばれた女性が、ボウルを抱えたまま、呆れたように眉を下げる。
「ちょっとだけ待っててくださいね。まかないの味付け、確認してほしくて」
「すぐ行きます」
奏斗は、短く返事をしてから、璃音に向き直った。
「すみません。うるさくて」
「いえ。元気そうで、良かったです」
璃音は、くすりと笑う。
その笑い声に、さっきまで面接という言葉の硬さで包まれていた空気が、少しだけ緩んだ。
「——天野さん」
奏斗は、履歴書の端を指で押さえながら言った。
「ここは、きれいな思い出ばかりの日ばかりではありません。皿が割れる日もあるし、味が決まらない日もあるし、どうしても噛み合わない夜もあります」
「はい」
「それでも、ここで働きたいと思いますか」
璃音は、少しだけ視線を落とし、テーブルの木目を指でたどった。
それから顔を上げ、まっすぐに奏斗を見る。
「そういう夜の味も、覚えておきたいので」
「……なるほど」
奏斗は、そこで初めて、小さく息を吐いた。
ペンが、紙の上を走る。
勤務開始希望日、試用期間の確認。淡々とした文字列の最後に、彼は一行を書き加えた。
「では、来週から入ってもらえますか。最初の二週間は、お互いに様子を見る期間ということで」
「はい。よろしくお願いします」
璃音は、椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
その背後で、常連がグラスを揺らす音がした。
「お、またひとり、川のほとりに迷い込んだな」
「迷い込んだんじゃなくて、来たんです」
璃音は、顔を上げたついでに、そう言い返していた。
「ここ、帰り道にするつもりなので」
奏斗の眉が、ほんの少しだけ上がる。
「帰り道」
「はい。仕事が終わったら、ここを通って帰る。そんな場所の方が、長く続けられそうなので」
言い終えると、自分でも少し照れくさくなり、璃音は胸の前でクリアファイルを抱え直した。
「じゃあ、来週から、お待ちしています」
奏斗は、カウンターに戻りながら言った。
璃音が扉を開けると、からん、と再びベルが鳴る。
外に出ると、さっきよりも川の光がはっきりしていた。提灯の列が、風に押されて少し波打っている。
欄干の上に肘を預け、璃音はしばらくその光を眺めた。
通りの真ん中にある「川べり文庫」の窓から、柔らかな明かりが漏れている。あの中で、今日も誰かが一日の終わりを迎えている。
「……本と酒かあ」
小さくつぶやいた声は、川の音に紛れて消えた。
それでも、自分の中には、はっきりと残る。
ここでの夜が、どんなふうに積み重なっていくのか。
どんな顔と、どんな皿と、どんな言葉に出会うのか。
璃音は、クリアファイルを抱き直し、背筋を伸ばして歩き出した。
酒の流れる川のほとりにある小さな店が、これからの自分の帰り道になる——そう決めた夜だった。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる