酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第1話 酒の流れる川の店で

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 川面を撫でる風が、湿った夜気を運んでくる。
 駅から少し歩いた先、ガード下を抜けたところで、璃音は足を止めた。
 目の前に広がるのは、川沿いの細い通りだった。欄干の向こうには、ゆっくりと流れる黒い水。そこに、対岸のネオンと提灯の明かりが溶け込み、揺れながら伸びている。揺らいだ光の帯は、まるで琥珀色の酒を巨大なグラスに注いだようで、見ていると少し酔いそうになる。
 通りには、小さな店が肩を寄せ合っていた。暖簾の隙間から笑い声が漏れる居酒屋、煙が漂う焼き鳥屋、スナックと書かれた看板。どの店のカウンターにも、色とりどりの瓶がずらりと並んでいる。欄干にもたれたサラリーマンが、缶を片手に川を眺めている様子まで含めて、通り全体が一本の長い酒瓶のように思えた。
 璃音は、手に持ったクリアファイルを握り直す。中には、今日何度も見返した履歴書が入っている。
 「……ここか」
 通りの少し奥、川に向かって斜めに建つ二階建ての建物。その一階に、「川べり文庫」と書かれた木の看板が、控えめにぶら下がっていた。
 本と酒、と小さく描かれている。
 ガラス越しに中をのぞくと、壁一面の本棚と、その手前にL字型のカウンターが見えた。本の背表紙の間からこぼれる照明と、カウンターの上に並ぶ瓶のラベル。その組み合わせが不思議と落ち着いていて、璃音は無意識に息を整える。
 扉を開けると、からん、と小さなベルが鳴った。
 中から、炒めた玉ねぎの甘い匂いと、出汁の香りがふわりと流れ出てくる。上着の裾に香りが絡みついてくる感じがして、璃音は背筋を伸ばした。
 「いらっしゃいませ」
 カウンターの向こうから、低い声が飛んでくる。
 グラスを磨いていた男が、手を止めて顔を上げた。
 黒いシャツの袖は肘まできっちり折られていて、カウンターの上には、水滴ひとつ残っていない。端に積まれたメニュー表も、角が揃えられている。
 「えっと、本日、面接をお願いしていた——」
 「天野さんですね」
 男は、璃音の言葉を最後まで聞く前に、すっと頷いた。カウンターの端に置いてあったクリップボードを手に取り、そこに挟まれた紙をちらりと確認する。
 「お時間、ちょうどです。どうぞ」
 彼はカウンターを回り込み、入口近くの二人掛けのテーブルを指さした。テーブルの上には、水の入ったグラスが二つ、既に用意されている。
 璃音は、少しだけ目を瞬いた。
 (……準備、早い)
 口には出さず、クリアファイルを胸に抱えたまま、示された席に座る。男も向かいの椅子に腰を下ろした。
 「店長の——」
 と、璃音が言いかけると、男が首を横に振る。
 「店長は別にいます。今は、店長代理みたいなものです。奏斗と申します」
 「天野璃音です。本日はよろしくお願いします」
 璃音は、クリアファイルから履歴書を取り出し、両手で差し出した。
 奏斗は、その紙を受け取ると、まず上下の向きを直し、角をテーブルの縁に合わせる。それから、端から順番に目を通していった。勤務期間、店舗名、役職、退職理由。
 視線が滑っていく間、璃音はグラスの水に指先を浸すように、縁を軽くなぞる。
 「大手チェーンで、パティシエ」
 奏斗が、履歴書の一行をなぞるように読み上げた。
 「はい。ケーキとデザートの担当をしていました」
 「三年半」
 「はい」
 「退職理由は、『働き方を見直すため』」
 「そう書きました」
 質問は、短く、必要なことだけ。璃音も、それに合わせて答えを重ねていく。仕事の内容、シフトの希望、通勤時間。
 「ここまでで、何か聞きたいことはありますか」
 一通り終えたところで、奏斗がペンを置いた。
 璃音は、少しだけ考えてから口を開く。
 「どうして、ここは本とお酒を一緒にしているんですか」
 奏斗が、瞬きを一度だけした。
 「……そこですか」
 「はい」
 「よく聞かれますが、逆に、別々じゃないといけない理由もないですよね」
 淡々とした答え。けれど、その口元がわずかに緩んだのを、璃音は見逃さなかった。
 「もともと、この場所に小さな古本屋があって。隣に飲み屋があって。大家さんがまとめて借りたい人を探していたので、そのままくっつけました」
 「継ぎ目、そのままなんですね」
 璃音は、カウンターの奥の本棚と、壁の向こうの厨房の境目を目で追う。確かに、本棚の端とカウンターの端が、不器用なジグザグを描いている。
 「本棚の前の席が落ち着く人もいれば、カウンターで飲みたい人もいます。どちらでも、今日の終わりを過ごしてもらえれば」
 奏斗の視線が、一瞬だけ入口付近へ向かう。
 そのとき、扉が開いた。
 「おう、今日もやってるなあ」
 しわの刻まれた声と一緒に、細身のスーツ姿の男が入ってくる。肩のジャケットを片手でひょいと持ち上げ、もう片方の手で欄干の方を指した。
 「川、今日すごいぞ。あれは上等な純米だ」
 璃音も振り返る。
 さっき通りで見た光の帯が、さらに濃くなっていた。提灯の数が増えたのか、川面が少し波立っているのか、さっきよりも揺れが大きい。
 「純米かどうかは、水質検査しないと分かりません」
 奏斗は、少しも表情を変えずに返す。
 「検査なんて野暮なこと言うなよ。あそこを見て、『今夜もよく流れてるな』って思えたら、それで十分だ」
 男はそう言いながら、カウンターのいつもの席に腰を下ろした。
 「マスター、いつもの」
 「はい」
 奏斗は椅子から立ち上がり、慣れた手つきで瓶を一本取り出す。注がれる琥珀色の液体が、カウンターの上のグラスで小さく揺れた。
 璃音は、その光景をじっと見ていた。
 仕事の話をしながら、通りの光の帯を酒にたとえて笑う常連。
 客の「いつもの」に、余計な問い返しをせず、手を動かす奏斗。
 数字には表れないが、確かに積み重なったやり取りが、ここにはある。
 「さっきの質問の答えですが」
 グラスを差し出しながら、奏斗がさりげなく続ける。
 「この辺りでは、あの川のことを、冗談半分で『酒の流れる川』と呼ぶ人が多いんです」
 「酒、流れてないのに」
 「見た目は、だいぶそれっぽいので」
 常連が、グラスをひょいと掲げた。
 「ほら、外も中も、よく流れてるだろう?」
 璃音は、思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえる。
 「……なるほど。顔が見える場所で働きたいと思ったのは、こういう景色のことだったのかもしれません」
 「顔が見える場所」
 「はい。前の職場は、厨房が完全に仕切られていて。ケーキを出した先に、誰がいるのか分からないことが多かったので」
 璃音は、水のグラスの縁を両手で包み込みながら、言葉を選ぶ。
 「ここなら、誰がどんな顔で食べているか、直接見られそうだなと」
 「それは、良いことばかりとは限りませんよ」
 奏斗は、淡々と告げる。
 「機嫌が良くない日も、何かをぶつけられる日もあります。見えない方が楽だと思う瞬間も、多い」
 「それでも、見たいです」
 璃音は、短く答えた。
 静かな目で、まっすぐに。
 「見てから、考えたいです」
 テーブルの下で、クリアファイルを握る指先に、少し力がこもる。
 「あと——」
 そこで、璃音はふと思い出したように視線を上げた。
 「ここなら、川が近いので」
 「川?」
 「たまに仕事が終わったあと、川を眺めたくなるので。遠いと、途中であきらめてしまうんです」
 奏斗は、一瞬だけ返事を忘れて、璃音の顔を見つめた。
 「……通勤時間の理由として、それは初めて聞きました」
 「本当のことなので」
 璃音は、肩をすくめる。
 「都会の真ん中で、ケーキの箱を積み上げていると、自分がどこにいるのか分からなくなる夜があって。そういうとき、川が見える場所に戻れたらいいなあ、と。まあ、今日ここに受けに来た一番の理由は——」
 彼女は、一番近くの本棚を指さした。
 「『本と酒』って、書いてあったからですけどね」
 その答えに、常連が吹き出した。
 「看板、そんなに効くものなのか」
 「効く人には効くんですよ」
 璃音は、いたずらを成功させた子どものように、少し唇の端を上げる。
 奏斗は、視線を履歴書に戻した。
 そこに書かれた文字と、目の前の人間の温度を、頭の中で照らし合わせるように、数秒沈黙する。
 「……先にお伝えしておきますが」
 やがて、彼はペンを持ち直した。
 「うちは、効率も設備も、大手にはかないません。手作業が多くて、手間も多い。忙しい夜は、川を見る余裕なんて一切なくなります」
 「手でやることが多いなら、私の居場所も多そうです」
 即答だった。
 奏斗のペン先が、カチリと音を立てて止まる。
 入口の方から、別の声が飛んできた。
 「奏斗さん、さっきの仕込みの確認、いいですかー?」
 カウンター奥から顔を出したのは、エプロン姿の女性だった。髪を後ろでまとめ、手にはボウルと泡立て器を持っている。
 「今、面接中」
 「え、あ、ごめんなさい。——あ、新しい人?」
 女性の視線が、璃音に向く。
 「天野さん。厨房担当の絵斗です」
 「ちがいますよ、私、花春ですけど」
 「あ、失礼しました」
 カウンターの奥から、今度は若い男の頭がひょいと出てくる。
 「厨房は俺。キッチンの王様。絵斗でーす」
 「王様、自分で言います?」
 花春と呼ばれた女性が、ボウルを抱えたまま、呆れたように眉を下げる。
 「ちょっとだけ待っててくださいね。まかないの味付け、確認してほしくて」
 「すぐ行きます」
 奏斗は、短く返事をしてから、璃音に向き直った。
 「すみません。うるさくて」
 「いえ。元気そうで、良かったです」
 璃音は、くすりと笑う。
 その笑い声に、さっきまで面接という言葉の硬さで包まれていた空気が、少しだけ緩んだ。
 「——天野さん」
 奏斗は、履歴書の端を指で押さえながら言った。
 「ここは、きれいな思い出ばかりの日ばかりではありません。皿が割れる日もあるし、味が決まらない日もあるし、どうしても噛み合わない夜もあります」
 「はい」
 「それでも、ここで働きたいと思いますか」
 璃音は、少しだけ視線を落とし、テーブルの木目を指でたどった。
 それから顔を上げ、まっすぐに奏斗を見る。
 「そういう夜の味も、覚えておきたいので」
 「……なるほど」
 奏斗は、そこで初めて、小さく息を吐いた。
 ペンが、紙の上を走る。
 勤務開始希望日、試用期間の確認。淡々とした文字列の最後に、彼は一行を書き加えた。
 「では、来週から入ってもらえますか。最初の二週間は、お互いに様子を見る期間ということで」
 「はい。よろしくお願いします」
 璃音は、椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
 その背後で、常連がグラスを揺らす音がした。
 「お、またひとり、川のほとりに迷い込んだな」
 「迷い込んだんじゃなくて、来たんです」
 璃音は、顔を上げたついでに、そう言い返していた。
 「ここ、帰り道にするつもりなので」
 奏斗の眉が、ほんの少しだけ上がる。
 「帰り道」
 「はい。仕事が終わったら、ここを通って帰る。そんな場所の方が、長く続けられそうなので」
 言い終えると、自分でも少し照れくさくなり、璃音は胸の前でクリアファイルを抱え直した。
 「じゃあ、来週から、お待ちしています」
 奏斗は、カウンターに戻りながら言った。
 璃音が扉を開けると、からん、と再びベルが鳴る。
 外に出ると、さっきよりも川の光がはっきりしていた。提灯の列が、風に押されて少し波打っている。
 欄干の上に肘を預け、璃音はしばらくその光を眺めた。
 通りの真ん中にある「川べり文庫」の窓から、柔らかな明かりが漏れている。あの中で、今日も誰かが一日の終わりを迎えている。
 「……本と酒かあ」
 小さくつぶやいた声は、川の音に紛れて消えた。
 それでも、自分の中には、はっきりと残る。
 ここでの夜が、どんなふうに積み重なっていくのか。
 どんな顔と、どんな皿と、どんな言葉に出会うのか。
 璃音は、クリアファイルを抱き直し、背筋を伸ばして歩き出した。
 酒の流れる川のほとりにある小さな店が、これからの自分の帰り道になる——そう決めた夜だった。
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