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第2話 孤独を愛する店長代行
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朝の川は、夜とは別の顔をしていた。
まだ提灯には灯りが入っておらず、川面は薄い灰色に沈んでいる。ときどき水鳥が水を切る音だけがして、昨夜の笑い声が、夢だったかのように静かだった。
川沿いの通りの一角、「川べり文庫」のシャッターが、がらがらと持ち上がる。
シャッターを押し上げた奏斗は、外の空気を胸いっぱいに吸い込むと、短く息を吐いた。
「……湿度、昨日より低いな」
独り言は、まだ誰もいない通りに吸い込まれていく。
扉を開け、店内の照明を一つずつつけていくと、本棚の背表紙が順番に浮かび上がる。
カウンターに入ると、奏斗は腕時計をちらりと見た。
開店まで、あと二時間。
彼にとって、この二時間は、他のどの時間よりも整っている。
まず、レジ横の引き出しを開ける。
前日の売上をまとめた帳簿が、角を揃えて収まっている。その隣には、今日の予約リスト。
奏斗は帳簿を取り出し、昨日のレシート束を一枚ずつ照らし合わせていく。
金額、品名、数。蛍光ペンで引かれたラインが、ずれなく並んでいるかを確認する。
数字が一行もズレていないことを確かめると、ようやくペン先を止めた。
「よし」
短い声が、カウンターに落ちる。
次に、カウンター下の棚からグラスを出す。
丸いグラス、背の高いワイングラス、ロック用の厚みのあるもの。種類ごとに、布の上に一列ずつ並べる。
クロスを指に巻きつけ、内側からゆっくりと磨く。
縁の部分を光にかざし、曇りが残っていないか確かめる。少しでも指紋が見えれば、もう一度。
グラスの向こうに、逆さまになった本棚の列が揺れている。
その揺れがまっすぐになるまで、奏斗は手を止めない。
磨き終えたグラスは、カウンター奥の棚に戻される。
棚に並べるときも、ラベルの向きと高さがそろうように、指先で微調整する。
最後の一本を置いたとき、棚の一角だけ、少し空きがあるのに気づいた。
「……また一本、空いたか」
昨日、常連にすすめた試しのボトルだ。
まだ仕入れ先に発注していない銘柄で、棚の紙に、仮の品名と原価が小さくメモしてある。
奏斗は、そのメモを見て、一瞬だけ遠い記憶を引っ張り出すように目を細めた。
数字ばかりが並んだ、白い壁の会議室。
画面に映るグラフの線が、一本だけ他と違う動きをしている。
その線を指摘したとき、同僚のひとりが、笑いながら言った。
「誤差だよ、誤差。気にしすぎだって」
それでも目が離せなかった自分の姿を思い出し、奏斗は小さく首を振る。
「誤差で済ませたくないから、ここにいるんだろ」
声に出した瞬間、自分でもその言葉に少し驚いた。
カウンターに置いた手の甲を見下ろし、浅く息を吐く。
店内の時計を見上げると、針はまだ開店のかなり前を指している。
奏斗は、椅子の列の方に視線を移した。
テーブル席の椅子は、前の夜のまま、少しずつ位置がずれている。
背もたれが壁からどれくらい離れているか、座面の向きが通路と平行かどうか。
奏斗は、一脚ずつ引き出しては押し戻し、数センチ単位で調整していく。
椅子の脚が床をこする音が、一定のリズムを刻む。
入口から奥の本棚まで、視線を一直線に走らせたとき、椅子の背のラインがきれいに揃っていると、胸の奥がわずかに軽くなる。
「……うん」
ひとつ頷き、最後に入口のマットの向きを直す。
扉の前に立つと、店内の空気が自分の背中にまとわりつく。
まだ、誰もいない。
水の音だけが、遠くからうっすら届く。
この瞬間だけは、世界に自分と店しか存在していないように思える。
奏斗は、その静けさを、ほんのわずか誇らしげに吸い込んだ。
そのとき、扉の向こうから、足音が近づいてきた。
「おはようございまーす!」
勢いのいい声とともに、花春が扉を開けた。
肩からトートバッグを提げ、エプロンを腕にかけたまま、店内に飛び込んでくる。
「今日、川すごくきれいでしたよ。なんか、空の色と半分こしてるみたいで——」
花春はくるりと振り返り、扉越しに川の方を指さす。
奏斗は、その指の先を一度だけ見てから、手に持ったチェックリストに目を落とした。
「おはようございます。ホールのテーブル、さっき整えました。動かさないでください」
「え、もう全部ですか? あっ、ほんとだ。背もたれが一直線……」
花春はテーブルの間を縫うように歩き、椅子に触れないように身をひねる。
「これ、動かしたら怒られるやつですね」
「怒りはしません。ただ、やり直すだけです」
「それを世間では怒ってるって言うんですよ」
花春の軽口にも、奏斗の表情はほとんど変わらない。
それでも、いつものやり取りが、静かな店内に音を足していく。
花春がレジ周りの布巾を手に取り、「ここも拭いときますね」と言ったとき、入口のベルが再び鳴った。
「おはよーございま……っ、あ、やべ」
慌てた足音とともに入ってきたのは、凱理だった。
髪は寝癖が残り、シャツのボタンを留めながら、時計をちらりと見る。
「間に合ってます、よね? セーフ? ギリギリセーフ?」
「集合時間より六分遅れています」
奏斗は、時計とシフト表を見比べてから淡々と告げた。
「六分……六分は、まだ、えっと……」
凱理は、花春の方を見る。
「アウトです」
「はい、アウトでーす」
花春がニコニコしながら復唱すると、凱理は肩を落とした。
「すみません、目覚ましが、あの、その……」
「目覚ましの設定は、自分の管理です」
奏斗は、カウンター越しにメモ帳を差し出した。
凱理は「遅刻一回」と書かれた欄を見て、顔をしかめる。
「これ、あと何回でクビですか」
「回数で決めるつもりはありません。ただし、積み重ねは見ます」
「こわ……いや、ありがとうございます。次から気をつけます」
口ではそう言いながら、凱理はエプロンを結び、手早くフロアのごみ箱の袋を取り替え始めた。
慣れた手つきで動きながら、椅子の位置には一切触れない。
何度もやり直しを命じられた経験が、体に染みついているのだ。
厨房の方から、ガスコンロが点火される音が聞こえた。
「おーい、今日の仕入れ、確認した?」
絵斗の声が、奥から飛んでくる。
「しています」
奏斗は、カウンター下から伝票の束を取り出し、一枚ずつ指で弾いた。
「野菜、肉、魚、全部数量合っています。納品書もチェック済みです」
「さすがー。じゃ、俺は俺で、キッチンの王国を整えますんで」
鍋とフライパンが触れ合う音がして、厨房も少しずつ賑やかになる。
スタッフが一人、また一人と声を出し始めるたびに、店の温度がほんの少しずつ上がっていく。
その変化を、奏斗はカウンターの内側から静かに見ていた。
最初の一歩を踏み入れたときの、あの完全な静けさはもうない。
椅子を動かさないように気をつけながら駆け抜ける花春、遅刻のメモをちらりと気にしつつゴミ袋を縛る凱理、仕込みに取り掛かる絵斗。
自分のルーティンで埋め尽くされていた店内に、それぞれの生活音が入り込んでくる。
「……うるさいな」
小さくつぶやいた言葉は、誰にも届かない。
ただ、その口元は、わずかに緩んでいた。
ふと、カウンターの上のノートに視線が落ちる。
昨夜、面接が終わったあとに開いたままのページ。
そこには、小さな文字で「新人」と書かれている。
その横に、「観察中」と鉛筆で走り書きされた跡。
「そういえば、今日からか」
奏斗が時計を見上げる。
開店まで、まだ余裕がある時間。
入口のベルが、三度目の音を立てた。
「おはようございます。本日から、お世話になります」
璃音が、少し緊張した声で頭を下げていた。
昨日とは違い、髪を後ろでまとめ、シンプルなシャツとパンツ姿。
花春が「わあ、新人さんだ」と目を輝かせ、凱理が「同じ新人枠として、ものすごく歓迎します」と胸を張る。
「凱理さん、新人じゃないですよね、もう」
「心はいつでもフレッシュなんで」
騒がしいやり取りを背に、奏斗はカウンターから一歩出た。
「天野さん」
「はい」
「今日から、オープン前の準備も含めて覚えてもらいます。まずは、レジの確認から」
奏斗は、レジ横のスペースを指し示す。
小銭トレー、レジロール、ペン立て。全ての位置に意味があるように並んでいる。
「ここにあるものは、毎日同じ場所に戻してください。数が合っているか、動線を邪魔しないか、それを確認するのも仕事です」
「はい」
璃音は、真剣な表情で頷き、ペンの向きまで目で追っている。
その様子を見ているうちに、奏斗はふと、自分が以前いた職場を思い出した。
蛍光灯の下、無数のデスクが並ぶフロア。
パソコンの画面には、商品別の売上表。
数字が一桁ずれるだけで、誰かの声が荒くなる。
そこでは、朝一番に出勤しても、キーボードの音しか聞こえなかった。
人の声は、会議室の扉が閉じたあとにしか増えない。
ひとりで進められる作業は、山ほどあった。
「誰にも邪魔されずにできる仕事が向いているでしょう」と言われたこともある。
奏斗は、その記憶を胸の奥に押し戻しながら、目の前のレジを軽く叩いた。
「ここは、数字だけ見る場所ではありません。お客さんの顔も一緒に見る場所です」
璃音が、少しだけ意外そうに目を瞬いた。
「顔、ですか」
「はい。レジで待たせてしまったときの表情とか、会計を終えたあとの肩の力の抜け方とか。そういうものを見てください」
「わかりました。数字だけじゃなくて、顔も」
璃音は、言葉を復唱するように口に出した。
その様子を横目に、花春が凱理に小声で囁く。
「今の、メモした方がいいやつですよね」
「ですね。『奏斗さん語録』ノート、作ります?」
「やめてください」
奏斗の制止は、いつも通り短い。
それでも、店内には、くすくすと笑いが広がった。
やがて、時計の針が、開店時間に近づいていく。
照明の明るさを一段階上げ、BGMの音量を少しだけ上げる。
花春が入口の看板を外に出し、凱理がグラスの並びを最終確認する。
奏斗は、扉の前に立ち、深く一度だけ息を吸った。
川の匂いと、店内のコーヒー豆の香りが混ざる。
ひとりで過ごしてきた準備の時間は、もう終わる。
これからは、さまざまな声と注文と、予定外の出来事が押し寄せてくる。
それでも——扉の向こうに、今日も誰かがいる。
「開けます」
そう告げる自分の声を聞きながら、奏斗は扉の鍵を回した。
川の音と、朝の冷たい空気が、店内に流れ込んでくる。
数字だけに囲まれていた頃、こんな瞬間を想像したことはなかった。
一人で完結する仕事の方が、ずっと楽なはずなのに。
それでも今、自分はここに立っている。
その理由を、まだはっきりと言葉にはできない。
ただ、背後から聞こえるスタッフたちの足音と、「いらっしゃいませ」と揃った声が、胸の奥で静かに響いていた。
まだ提灯には灯りが入っておらず、川面は薄い灰色に沈んでいる。ときどき水鳥が水を切る音だけがして、昨夜の笑い声が、夢だったかのように静かだった。
川沿いの通りの一角、「川べり文庫」のシャッターが、がらがらと持ち上がる。
シャッターを押し上げた奏斗は、外の空気を胸いっぱいに吸い込むと、短く息を吐いた。
「……湿度、昨日より低いな」
独り言は、まだ誰もいない通りに吸い込まれていく。
扉を開け、店内の照明を一つずつつけていくと、本棚の背表紙が順番に浮かび上がる。
カウンターに入ると、奏斗は腕時計をちらりと見た。
開店まで、あと二時間。
彼にとって、この二時間は、他のどの時間よりも整っている。
まず、レジ横の引き出しを開ける。
前日の売上をまとめた帳簿が、角を揃えて収まっている。その隣には、今日の予約リスト。
奏斗は帳簿を取り出し、昨日のレシート束を一枚ずつ照らし合わせていく。
金額、品名、数。蛍光ペンで引かれたラインが、ずれなく並んでいるかを確認する。
数字が一行もズレていないことを確かめると、ようやくペン先を止めた。
「よし」
短い声が、カウンターに落ちる。
次に、カウンター下の棚からグラスを出す。
丸いグラス、背の高いワイングラス、ロック用の厚みのあるもの。種類ごとに、布の上に一列ずつ並べる。
クロスを指に巻きつけ、内側からゆっくりと磨く。
縁の部分を光にかざし、曇りが残っていないか確かめる。少しでも指紋が見えれば、もう一度。
グラスの向こうに、逆さまになった本棚の列が揺れている。
その揺れがまっすぐになるまで、奏斗は手を止めない。
磨き終えたグラスは、カウンター奥の棚に戻される。
棚に並べるときも、ラベルの向きと高さがそろうように、指先で微調整する。
最後の一本を置いたとき、棚の一角だけ、少し空きがあるのに気づいた。
「……また一本、空いたか」
昨日、常連にすすめた試しのボトルだ。
まだ仕入れ先に発注していない銘柄で、棚の紙に、仮の品名と原価が小さくメモしてある。
奏斗は、そのメモを見て、一瞬だけ遠い記憶を引っ張り出すように目を細めた。
数字ばかりが並んだ、白い壁の会議室。
画面に映るグラフの線が、一本だけ他と違う動きをしている。
その線を指摘したとき、同僚のひとりが、笑いながら言った。
「誤差だよ、誤差。気にしすぎだって」
それでも目が離せなかった自分の姿を思い出し、奏斗は小さく首を振る。
「誤差で済ませたくないから、ここにいるんだろ」
声に出した瞬間、自分でもその言葉に少し驚いた。
カウンターに置いた手の甲を見下ろし、浅く息を吐く。
店内の時計を見上げると、針はまだ開店のかなり前を指している。
奏斗は、椅子の列の方に視線を移した。
テーブル席の椅子は、前の夜のまま、少しずつ位置がずれている。
背もたれが壁からどれくらい離れているか、座面の向きが通路と平行かどうか。
奏斗は、一脚ずつ引き出しては押し戻し、数センチ単位で調整していく。
椅子の脚が床をこする音が、一定のリズムを刻む。
入口から奥の本棚まで、視線を一直線に走らせたとき、椅子の背のラインがきれいに揃っていると、胸の奥がわずかに軽くなる。
「……うん」
ひとつ頷き、最後に入口のマットの向きを直す。
扉の前に立つと、店内の空気が自分の背中にまとわりつく。
まだ、誰もいない。
水の音だけが、遠くからうっすら届く。
この瞬間だけは、世界に自分と店しか存在していないように思える。
奏斗は、その静けさを、ほんのわずか誇らしげに吸い込んだ。
そのとき、扉の向こうから、足音が近づいてきた。
「おはようございまーす!」
勢いのいい声とともに、花春が扉を開けた。
肩からトートバッグを提げ、エプロンを腕にかけたまま、店内に飛び込んでくる。
「今日、川すごくきれいでしたよ。なんか、空の色と半分こしてるみたいで——」
花春はくるりと振り返り、扉越しに川の方を指さす。
奏斗は、その指の先を一度だけ見てから、手に持ったチェックリストに目を落とした。
「おはようございます。ホールのテーブル、さっき整えました。動かさないでください」
「え、もう全部ですか? あっ、ほんとだ。背もたれが一直線……」
花春はテーブルの間を縫うように歩き、椅子に触れないように身をひねる。
「これ、動かしたら怒られるやつですね」
「怒りはしません。ただ、やり直すだけです」
「それを世間では怒ってるって言うんですよ」
花春の軽口にも、奏斗の表情はほとんど変わらない。
それでも、いつものやり取りが、静かな店内に音を足していく。
花春がレジ周りの布巾を手に取り、「ここも拭いときますね」と言ったとき、入口のベルが再び鳴った。
「おはよーございま……っ、あ、やべ」
慌てた足音とともに入ってきたのは、凱理だった。
髪は寝癖が残り、シャツのボタンを留めながら、時計をちらりと見る。
「間に合ってます、よね? セーフ? ギリギリセーフ?」
「集合時間より六分遅れています」
奏斗は、時計とシフト表を見比べてから淡々と告げた。
「六分……六分は、まだ、えっと……」
凱理は、花春の方を見る。
「アウトです」
「はい、アウトでーす」
花春がニコニコしながら復唱すると、凱理は肩を落とした。
「すみません、目覚ましが、あの、その……」
「目覚ましの設定は、自分の管理です」
奏斗は、カウンター越しにメモ帳を差し出した。
凱理は「遅刻一回」と書かれた欄を見て、顔をしかめる。
「これ、あと何回でクビですか」
「回数で決めるつもりはありません。ただし、積み重ねは見ます」
「こわ……いや、ありがとうございます。次から気をつけます」
口ではそう言いながら、凱理はエプロンを結び、手早くフロアのごみ箱の袋を取り替え始めた。
慣れた手つきで動きながら、椅子の位置には一切触れない。
何度もやり直しを命じられた経験が、体に染みついているのだ。
厨房の方から、ガスコンロが点火される音が聞こえた。
「おーい、今日の仕入れ、確認した?」
絵斗の声が、奥から飛んでくる。
「しています」
奏斗は、カウンター下から伝票の束を取り出し、一枚ずつ指で弾いた。
「野菜、肉、魚、全部数量合っています。納品書もチェック済みです」
「さすがー。じゃ、俺は俺で、キッチンの王国を整えますんで」
鍋とフライパンが触れ合う音がして、厨房も少しずつ賑やかになる。
スタッフが一人、また一人と声を出し始めるたびに、店の温度がほんの少しずつ上がっていく。
その変化を、奏斗はカウンターの内側から静かに見ていた。
最初の一歩を踏み入れたときの、あの完全な静けさはもうない。
椅子を動かさないように気をつけながら駆け抜ける花春、遅刻のメモをちらりと気にしつつゴミ袋を縛る凱理、仕込みに取り掛かる絵斗。
自分のルーティンで埋め尽くされていた店内に、それぞれの生活音が入り込んでくる。
「……うるさいな」
小さくつぶやいた言葉は、誰にも届かない。
ただ、その口元は、わずかに緩んでいた。
ふと、カウンターの上のノートに視線が落ちる。
昨夜、面接が終わったあとに開いたままのページ。
そこには、小さな文字で「新人」と書かれている。
その横に、「観察中」と鉛筆で走り書きされた跡。
「そういえば、今日からか」
奏斗が時計を見上げる。
開店まで、まだ余裕がある時間。
入口のベルが、三度目の音を立てた。
「おはようございます。本日から、お世話になります」
璃音が、少し緊張した声で頭を下げていた。
昨日とは違い、髪を後ろでまとめ、シンプルなシャツとパンツ姿。
花春が「わあ、新人さんだ」と目を輝かせ、凱理が「同じ新人枠として、ものすごく歓迎します」と胸を張る。
「凱理さん、新人じゃないですよね、もう」
「心はいつでもフレッシュなんで」
騒がしいやり取りを背に、奏斗はカウンターから一歩出た。
「天野さん」
「はい」
「今日から、オープン前の準備も含めて覚えてもらいます。まずは、レジの確認から」
奏斗は、レジ横のスペースを指し示す。
小銭トレー、レジロール、ペン立て。全ての位置に意味があるように並んでいる。
「ここにあるものは、毎日同じ場所に戻してください。数が合っているか、動線を邪魔しないか、それを確認するのも仕事です」
「はい」
璃音は、真剣な表情で頷き、ペンの向きまで目で追っている。
その様子を見ているうちに、奏斗はふと、自分が以前いた職場を思い出した。
蛍光灯の下、無数のデスクが並ぶフロア。
パソコンの画面には、商品別の売上表。
数字が一桁ずれるだけで、誰かの声が荒くなる。
そこでは、朝一番に出勤しても、キーボードの音しか聞こえなかった。
人の声は、会議室の扉が閉じたあとにしか増えない。
ひとりで進められる作業は、山ほどあった。
「誰にも邪魔されずにできる仕事が向いているでしょう」と言われたこともある。
奏斗は、その記憶を胸の奥に押し戻しながら、目の前のレジを軽く叩いた。
「ここは、数字だけ見る場所ではありません。お客さんの顔も一緒に見る場所です」
璃音が、少しだけ意外そうに目を瞬いた。
「顔、ですか」
「はい。レジで待たせてしまったときの表情とか、会計を終えたあとの肩の力の抜け方とか。そういうものを見てください」
「わかりました。数字だけじゃなくて、顔も」
璃音は、言葉を復唱するように口に出した。
その様子を横目に、花春が凱理に小声で囁く。
「今の、メモした方がいいやつですよね」
「ですね。『奏斗さん語録』ノート、作ります?」
「やめてください」
奏斗の制止は、いつも通り短い。
それでも、店内には、くすくすと笑いが広がった。
やがて、時計の針が、開店時間に近づいていく。
照明の明るさを一段階上げ、BGMの音量を少しだけ上げる。
花春が入口の看板を外に出し、凱理がグラスの並びを最終確認する。
奏斗は、扉の前に立ち、深く一度だけ息を吸った。
川の匂いと、店内のコーヒー豆の香りが混ざる。
ひとりで過ごしてきた準備の時間は、もう終わる。
これからは、さまざまな声と注文と、予定外の出来事が押し寄せてくる。
それでも——扉の向こうに、今日も誰かがいる。
「開けます」
そう告げる自分の声を聞きながら、奏斗は扉の鍵を回した。
川の音と、朝の冷たい空気が、店内に流れ込んでくる。
数字だけに囲まれていた頃、こんな瞬間を想像したことはなかった。
一人で完結する仕事の方が、ずっと楽なはずなのに。
それでも今、自分はここに立っている。
その理由を、まだはっきりと言葉にはできない。
ただ、背後から聞こえるスタッフたちの足音と、「いらっしゃいませ」と揃った声が、胸の奥で静かに響いていた。
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