酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第6話 初志貫徹のホールリーダー

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 土曜日の夜、「川べり文庫」の扉は、いつもより頻繁にベルを鳴らしていた。
 川沿いの通りには、人の声と油の匂いが満ちている。提灯の列が風に揺れ、その光が川面で砕けてはまたつながる。
 店のガラスには、その揺れと、店内の灯りと、行き交う人影が重なっていた。
 「はい、それじゃあ——」
 開店前の短い打ち合わせ。
 カウンターと本棚の間、ホールの真ん中にスタッフが円を作る。
 花春は、手に持ったメモを一度見てから、顔を上げた。
 「今日は土曜日。予約はカウンター二組、テーブル四組。飛び込みも多いはずです」
 言いながら、視線で一人ずつ順番に見ていく。
 「ホールは私と璃音ちゃん、凱理くん。阿紗美ちゃんは、仕込み終わったらホールと洗い場のフォロー。——で、いつもの通り、一つだけお願いがあります」
 「いつもの通り」の言葉に、凱理が「あ、出た」と小さくつぶやく。
 阿紗美が肘でつついて黙らせる。
 「どのお客さんにも、必ず三回は声をかけてください」
 花春は、指を三本立てた。
 「最初の一回は、ご案内と注文のとき。
 二回目は、料理を出したあと。『お味はいかがですか』でも、『おかわりお持ちしましょうか』でもいいです。
 三回目は、お帰りのとき。『ありがとうございました』だけじゃなくて、その人が今日ここで過ごした夜に、一言添えてください」
 璃音が、小さく頷きながらメモに書き込む。
 「それ、やっぱり絶対なんですね」
 凱理が、半分あきれたように手を挙げる。
 「混んでても? ドリンクのオーダー溜まってても? 洗い物山になってても?」
 「混んでるときほど、です」
 花春は、はっきりと言った。
 「忙しいからって、言葉を減らした瞬間、この店は『ただの飲み屋』になります。
 最初に決めたことは、最後までやり通したいんです」
 その口調は柔らかいが、目だけは笑っていない。
 「でも、無理に長い言葉を探さなくて大丈夫。たとえば——」
 花春は、隣の璃音の肩を軽く叩いた。
 「『今日は川がきれいですね』って一言でもいいんですよ」
 璃音は、思わず苦笑する。
 「それ、私の口癖になりつつありますね」
 「いい口癖です」
 奏斗が、カウンター越しに短く言った。
 「では、開けましょう」
 鍵が回り、扉が開く。
 土曜日の空気が、一気に店内に流れ込んできた。
     ◇
 予想通り、夜八時を過ぎる頃には、店内はほぼ満席になった。
 カウンターには、一人客と二人組が並ぶ。
 テーブル席には、会社帰りの四人組、女子会らしい三人組、川沿い散歩の途中に立ち寄った夫婦。
 「テーブル四番さん、追加で白ワイングラス二つでーす!」
 「了解! ドリンク優先するよ!」
 カウンターの中で、奏斗が手を止め、グラスを取り出す。
 絵斗の声が厨房から飛び、阿紗美が洗い場とホールの間を駆け回る。
 その真ん中で、花春はホール全体をひと目で見渡していた。
 「凱理くん、三番さん、そろそろ料理の感想聞いてきて。璃音ちゃんは五番さん、お代わりのタイミング見て」
 「はい!」
 璃音がトレイを持って駆け出す。
 凱理は「はいはい、行きますよっと」と言いながらも、足取りは速い。
 花春自身も、手を止めているわけではない。
 「お待たせしました、本日の魚料理です」
 テーブル二番に皿を置きながら、さりげなくグラスの減り具合を確認する。
 隣のテーブルでは、女子会の笑い声が一段高くなり、奥のテーブルでは、仕事の愚痴が少し熱を帯びてきている。
 (そろそろ、少し冷たい飲み物をすすめた方がいいかな)
 頭の中で、テーブルごとの「温度」を並べ替える。
 ふと、入口近くの椅子が空いているのに気づいた。
 「あれ?」
 視線を追うと、店の外、川沿いの欄干のところで、見慣れたシルエットが揺れている。
 「……来てる」
 花春は、トレイをカウンターに預け、入口に向かった。
 ガラス越しに外を覗くと、小柄な老夫婦が並んで川を見ていた。
 奥さんは、淡い色のカーディガンを羽織り、旦那さんはつばの広い帽子を手に持っている。
 どちらも、この店の常連だ。
 一週間に一度、決まって土曜の夜に来る。
 決まって川を眺めてから、少し遅めの時間に扉を開ける。
 花春は、そっと扉を開けた。
 「こんばんは。今夜もお待ちしていました」
 「あら、花春さん」
 奥さんがふわりと笑う。
 「中、混んでるんでしょう? 少し涼んでからにしようかと思って」
 「カウンターの端なら、すぐご案内できますよ。川も見える席です」
 「そうねえ……」
 奥さんは、隣の旦那さんを見上げる。
 「あなた、どうする?」
 「うん、川、もう少し見てからでもいいかな」
 旦那さんは、川の方から目を離さずに答えた。
 夜風に揺れる提灯をじっと見つめる横顔は、少し寂しげにも見える。
 「じゃあ、席だけ取っておきますね」
 花春は、時計をちらりと見る。
 ラストオーダーまで、まだ一時間半。
 普通に考えれば、十分な時間だ。
 ——ただ、今夜は客の流れが読みにくい。
 その予感は、的中した。
     ◇
 九時を過ぎても、客足は弱まらなかった。
 予約なしの四人組が続けて来店し、予定していたテーブルの回転が追いつかない。
 キッチンからは、「フライパン空くまで五分ください!」という絵斗の声。
 ホールは、注文を取り、料理を運び、空いた皿を下げるだけで手一杯になってきた。
 「三番さん、お会計入りましたー!」
 「五番さん、デザート追加でーす!」
 「凱理くん、二番さんのドリンクストップかかってるよ、『これで最後に』って言ってた」
 「了解でーす!」
 声が飛び交う中、花春は、入り口の方を何度も確認した。
 川沿いの欄干には、まだあの老夫婦が立っている。
 ときどき顔を寄せて何かを話し、時折黙って川を眺める。
 「……」
 花春の手の中の注文票が、わずかに汗で湿った。
 (本当は、あの二人が落ち着いて座れる時間帯に、店を空けておきたいんだけど)
 今のままでは、どこかの席を急かすか、入り口で待たせることになる。
 「花春さん」
 背中から、奏斗の声がした。
 「テーブル二番、あと一品でコース終了です。お会計の段取り、先にしておきましょう」
 「ありがとうございます」
 花春は、深く息を吸い込んだ。
 「——それと、お願いが一つ」
 注文票を片手に、カウンターの中の奏斗を見る。
 「ラストオーダーの時間、あと十五分延ばせますか」
 「十五分」
 奏斗は、店内の時計と、ホワイトボードの予約欄を見比べた。
 「理由を聞いてもいいですか」
 「外で待っている老夫婦がいます。いつもより、少し遅く来るみたいで」
 花春は、ガラスの向こうを顎で示す。
 「先週、お孫さんの話をしていて。今週は、その話の続きをするつもりで来るって」
 「孫の話と、ラストオーダーにどんな関係が」
 「途中で切り上げさせたくないんです」
 花春の声は、静かだった。
 「最初にこの店で働くと決めたとき、心の中で決めたことがあって。
 『時間だから』って理由だけで、誰かの大事な話を途中で終わらせるような夜にはしたくないんです」
 奏斗は、少しだけ目を細めた。
 「店のルールも大事です。でも、ここは計算通りに動かす場所ではなくて、顔が見える場所だって、私は思っています」
 花春は、自分のエプロンの端を一度握りしめ、すぐに手を離した。
 「もちろん、現実的な数字もありますから。『絶対に』とは言いません。
 でも、もし今夜、少しだけ余裕を作れるなら——」
 「分かりました」
 奏斗は、言葉を遮らずに聞き終えると、頷いた。
 「ラストオーダーを十五分延ばします。その分、仕込みの時間を少し削りましょう」
 「すみません」
 「店の理想は、僕一人では決められません。あなたがそうしたいなら、その理由も込みで、ここでのやり方です」
 そのやり取りを、たまたま近くを通りかかった凱理が聞いていた。
 「え、今日、また終電ギリギリコースですか」
 彼は、トレイを抱えたまま顔をしかめる。
 「俺、このあと友達と……」
 「凱理くん」
 花春は、振り返って笑った。
 「いつもより五分早めに片付け始めますから、あなたの終電は守ります」
 「マジっすか」
 「その代わり、今からの三十分だけ、本気で走り回ってください。
 いつもの『様子見』は五分だけでいいから、残り二十五分はガチで動く」
 凱理は、一瞬だけ迷った顔をしたが、すぐに白旗を上げた。
 「分かりました。よーし、本気出しますか」
 「お願いします」
 花春は、軽く頭を下げた。
 そうやって一人ずつ手を動かしながら、店全体の流れを少しずつ整えていく。
     ◇
 十時過ぎ。
 最初に入った四人組が「お先に」と席を立ち、女子会のテーブルも「二軒目行こっか」と笑いながら出ていった。
 片付けと会計が重なり、ホールはさらに忙しくなる。
 「三番さん、お帰りです。入口までお願いします!」
 「五番さん、お会計入りまーす!」
 その慌ただしさの中で、花春は、ふと入口の方を見る。
 老夫婦が、ようやく動き出していた。
 奥さんが、旦那さんの腕を軽く支えながら、ゆっくりと扉に向かう。
 「いらっしゃいませ」
 ベルが鳴る前に、花春は扉を開けた。
 「お待たせしてしまって、ごめんなさい」
 「いいのよ。川、今日はいつもより賑やかだから」
 奥さんが笑う。
 「席、空いてる?」
 「はい。一番奥の、窓際をとってあります」
 花春は、店内に視線を走らせた。
 ちょうど、奥のテーブルが片付き、阿紗美が最後の皿を下げたところだ。
 「阿紗美ちゃん、そのテーブル、あとは私が拭くから、レジ側の片付けお願い」
 「了解です!」
 ほんの少しの入れ替えで、老夫婦の席が生まれた。
 「足元、お気をつけくださいね」
 旦那さんが椅子に腰を下ろすのを見届けてから、花春は水とおしぼりを置いた。
 「今日も、おふたりで同じお酒にしますか?」
 「そうねえ、あなた、どうする?」
 奥さんが聞くと、旦那さんは少し照れたように笑う。
 「いつも通りでいいよ。君と同じで」
 「では、『いつも通り』二つ、お持ちします」
 花春は、カウンターに向かって手を挙げた。
 「常連さんのいつもの、二つお願いします」
 「はい」
 奏斗が、慣れた手つきで瓶を取り出す。
 注がれる琥珀色の液体が、グラスの中で静かに揺れた。
 そのあいだ、花春は、老夫婦のテーブルの上に、メニューとは別に小さな紙を置いた。
 そこには、「今夜の小さなつまみ」と書かれている。
 内容は、「季節の野菜のお浸し」と「小さなだし巻き玉子」。
 「こちらは、今夜だけのおすすめです。川を見ながら、ゆっくり話したい方向けの軽いおつまみセットで」
 「あら、そんな気の利いたものを」
 奥さんが嬉しそうに目を細める。
 「先週、お孫さんのお話をしていたでしょう。今週は、その続きをしやすいように」
 「まあ……覚えていてくださったのね」
 奥さんは、旦那さんの方を見た。
 「ほら、言ったでしょう? ここの人は、ちゃんと話を聞いてくれるんだって」
 「うん」
 旦那さんも、静かに頷く。
 「ここに来るとね、『今週も一週間、なんとか一緒に過ごせたなあ』って思えるんですよ」
 その言葉に、花春の胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
 「だから、もう少しだけ、そう思える夜を増やしたいんです」
 奥さんの声は、柔らかいが、どこか切ない。
 花春は、思わず両手を重ねて頭を下げた。
 「じゃあ、その夜を増やすお手伝い、させてください」
 顔を上げると、老夫婦の間に、ゆっくりとした時間が流れ始めていた。
 他のテーブルは、すでにほとんど片付いている。
 ホールのざわめきが少しずつ消え、店内のBGMだけが穏やかに続く。
 花春は、照明の明るさを一段階落とした。
 川沿いの灯りと、店内のランプがちょうど同じくらいの明るさになる。
 その中で、老夫婦は肩を並べてグラスを傾けていた。
 遠くから聞こえる川の音と、静かな笑い声だけが混ざり合う。
     ◇
 ラストオーダーの時間を十五分過ぎた頃。
 グラスは空になり、二人は満足そうに席を立った。
 「今夜も、いい時間をもらいました」
 奥さんがそう言って頭を下げる。
 「こちらこそ、ありがとうございました」
 花春も深く頭を下げた。
 「来週も……来られるといいんだけどね」
 旦那さんが、少し照れたように笑う。
 「無理をなさらず。来られるときに、またゆっくりいらしてください」
 「はい」
 扉が閉まり、ベルの音が消える。
 そのあとに残った静けさの中で、花春はゆっくりと息を吐いた。
 「ふう……」
 振り返ると、カウンターでは、奏斗がグラスを拭きながらこちらを見ていた。
 厨房の明かりはすでに落ちていて、絵斗と阿紗美は洗い場で最後の片付けをしている。
 「ラストオーダー、結果的には三十分延びましたね」
 「すみません」
 「謝らなくていいです」
 奏斗は、淡々と答えた。
 「十五分は、老夫婦のため。残りの十五分は、僕たちが片付けに手間取ったぶんです」
 花春は、思わず笑ってしまう。
 「そういう計算も、あるんですね」
 「ええ。どこまでが『理想』で、どこからが『現実』かは、その日に決めればいい」
 奏斗は、グラスを棚に戻しながら続けた。
 「ただ、今のところ——」
 窓の外の川をちらりと見る。
 「さっきの十五分は、悪くない使い方だったと思います」
 「ありがとうございます」
 花春は、胸の前でエプロンの紐を握り、少しだけ目を閉じた。
 最初にこの店で働くと決めた日のことが、ふと浮かぶ。
 初めてここを訪れたとき、まだ客として来ていた頃。
 カウンターで一人で飲んでいた自分に、「ここ、帰り道にしたい場所なんです」と笑った人がいた。
 その言葉が、いつまでも耳に残った。
 (じゃあ、その帰り道を、ちゃんと守る側にまわろう)
 そう決めた日の気持ちは、今も変わっていない。
 「——よし」
 花春は、手を叩いた。
 「じゃあ、あと五分で片付け終わらせましょう。凱理くんの終電、守るって約束しましたから」
 「助かります!」
 洗い場から、凱理の元気な声が返ってくる。
 花春は笑い、モップを手に取った。
 川の音は相変わらず一定で、提灯の灯りも揺れ続けている。
 その中で、彼女の中の「最初に決めたこと」は、今夜も静かに息をしていた。
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