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第5話 君に恋する確率をメモする夜
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最後の客を見送り、扉の鍵をかけたとき、川の音が少しだけ大きく聞こえた。
店内の照明は、必要最低限だけ残してある。
カウンターの上には、磨き終えたグラスが逆さに並び、壁一面の本棚は、さっきまでのざわめきが嘘のように黙っていた。
奏斗は、レジ締めを終えた帳簿を閉じると、その下から一冊のノートを取り出した。
黒い表紙に、金色の細い線で枠が描かれている、無地のノートだ。
表紙の内側には、小さな字で日付が並んでいる。
今日の日付の横には、まだ何も書かれていない。
奏斗は、カウンターの端に腰を下ろし、ペンを指で回した。
「……今日は、どう書くか」
独り言をこぼしながら、ノートを開く。
最初のページには、「売上メモ」とだけ書かれている。
日ごとの来客数や、出たメニューの傾向を、簡単な棒グラフにした跡がある。
二枚目には、「仕込み時間の目安」。
野菜の量と、かかった時間が細かくメモされていた。
三枚目をめくったところで、ペン先が空中で止まる。
白紙のページが、一枚。
そこに、ふいに言葉が浮かんだ。
(君に——)
ペン先が、紙の上を滑る。
「君に恋する確率」
自分で書きながら、奏斗は小さく眉をひそめた。
「……何を書いているんだ、俺は」
声に出すと、なおさらおかしく聞こえる。
しかし、線を引いたタイトルは、簡単には消せない。
ペンを持つ手を止めたまま、今日一日のことを思い返す。
開店前、まだ空気が冷たい時間。
新入りの璃音は、レジ周りのペンの向きまでそろえていた。
「ここは、数字だけ見る場所ではありません。お客さんの顔も一緒に見る場所です」
そう言った自分の言葉に、「数字だけじゃなくて、顔も」と、真面目に復唱した表情。
記念日で来たカップルに、小さなシャーベットを出した夜。
今日も、その二人が使った席を見ながら、「ここからなら川がよく見えますね」とさりげなく言っていた。
四番のテーブルで、オーダー数を読み違えた絵斗の皿。
魚が一つ足りなかったとき、璃音は冷蔵庫からマリネの皿を取り出し、迷いなく言った。
「待っている時間を、ただの待ち時間にしないために」
それを聞いた瞬間、奏斗の胸の奥で、何かが小さく鳴った。
その音の正体が分からないからこそ、こうしてノートに向かっているのかもしれない。
奏斗は、ペンを持ち直した。
「君に恋する確率」
その下に、罫線を引く。
左端に、日付を書く欄を作った。
右端に、小さな円を描き、「%」と記す。
真ん中には、「今日の出来事」と書いた。
「……遊びだ。これは遊び」
自分に言い聞かせるように呟きながら、今日の日付を書き入れる。
その下に、ゆっくりとペンを滑らせた。
「・記念日カップルのコースで、シャーベットを提案していた。
・四番テーブルのミスのとき、マリネの皿で待ち時間を埋めた。
・まかないのあと、食器を洗いながら川の音を聞いていた」
一つ一つを書きながら、そのときの彼女の表情が蘇る。
カップルにシャーベットを運ぶときの、少し緊張した笑顔。
ミスのあと、絵斗と一緒に魚を焼き直していたときの、真剣な横顔。
まかないを食べ終え、シンクの前でスポンジを動かしながら、ふっと外を見ていた視線。
ノートの端に、「+」と小さく書き足したくなる衝動を抑えきれず、そっと記した。
「今日の確率 ……2%」
数字を書き終えた瞬間、自分で自分に突っ込む。
「2%ってなんだ」
中途半端どころではない数字だ。
限りなくゼロに近いが、まったくゼロではない。
「ゼロでもないし、五十でもない。
どちらにも振り切る気はないくせに、『少しは揺れた』と言い訳できる数字」
そう分析してしまう自分の性格に、苦笑せざるを得ない。
前の職場では、キャンペーンの成功率を、資料に「35%~40%」と書いたことがある。
そのとき上司に、「もっと分かりやすい数字にしろ」と言われた。
「現実は、そんなにきれいな数字ばかりじゃないんですけどね」
そのとき飲み込んだ言葉が、今更になってノートの上に滲む。
恋だの愛だのという言葉とは無縁のような顔をして、当時の自分は、数字にしがみついていた。
数値で説明できることだけを扱っていれば、余計な痛みには触れずに済むと信じていた。
それでも、この店に来てから、数字で括れないものばかりが目につく。
常連の笑い声。
川に映る灯りの揺れ。
忙しい夜が終わった直後に漂う、疲労と満足感の混ざった空気。
そして——新人の、一つ一つの動き。
ペン先が、また動き出す。
「・お客さんの表情を見る回数が多い。
・注文ミスが起きたときも、顔色を見ていた。
・帰り道に、『ここを通って帰りたい』と言っていた」
最後の一行を書いたとき、胸の奥で何かが少しだけ跳ねた。
「……2・3%」
つい、数字を書き直しかけて、慌てて手を止める。
「いや、2%でいい」
ノートを閉じかけたそのとき——。
「うわっ、まだいた!」
突然、扉の方から声がした。
驚いて顔を上げると、ガラス越しに凱理の顔が貼りついている。
鍵をかけたはずの扉が、内側から「ガチャガチャ」と揺れた。
「奏斗さーん、すみません、財布忘れましたー!」
半分叫ぶような声に、奏斗は深く息を吐いた。
「……鍵、今開けます」
ノートを慌てて閉じ、レジ周りの書類の下に滑り込ませる。
扉の鍵を外して開けると、夜風と一緒に凱理が転がり込んできた。
「助かったー。川沿いまで出て、あれ? ポケット軽くない? ってなって」
「財布はレジの横の棚にありました。次回から、点検表を増やします」
「え、財布チェック項目、作られるんですか。こわ」
凱理が冗談めかして笑う。
その後ろから、もう一人、人影が現れた。
「すみません、付き添いで」
阿紗美が、申し訳なさそうに頭を下げる。
ジャージの上から羽織ったパーカーの袖口をぎゅっと握っていた。
「走って追いかけるのも考えたんですけど、今日は足がちょっと重くて」
「走らなくていいです。忘れ物は声で知らせてください」
奏斗は、棚から財布を取って凱理に渡した。
「ありがとうございます!」
凱理が財布を抱えたまま、店内を見回す。
「うわ、締め後の店って、こんなに静かなんですね。さっきまであんなにわちゃわちゃしてたのに」
「わちゃわちゃとは言いません」
「えー、いいじゃないですか。褒め言葉ですよ」
凱理がカウンターに近づいたとき、レジの下から、黒いノートの端が少しだけ覗いていた。
「ん?」
彼は、好奇心に突き動かされるまま、身をかがめる。
「凱理さん」
止める声を出すより早く、彼の指先がノートに触れていた。
「これ、今日の売上ノートっすか? あ、『君に恋する確率』……?」
そのタイトルを読み上げた瞬間、空気が一瞬固まった。
阿紗美が「え」と小さく声を漏らす。
奏斗は、慌ててノートを取り上げた。
「見ないでください」
「いやいやいや、めちゃくちゃ気になるんですけど、それ」
凱理がカウンターに身を乗り出す。
「え、『君』って誰っすか? この店の誰か? それとも、川? 川に恋してるとか、そういう?」
「川に恋する確率は、ほぼ百パーセントですよね」
阿紗美が、真顔で付け加えた。
「いや、阿紗美さんまで真面目に分析しないでください」
「私、確率とかよく分からないんですけど」
阿紗美は、少し考えるように首をかしげる。
「走るとき、『完走できる確率』って考えたこと、あんまりなくて。
ただ、『ここまで行く』って決めて、そこまで足を動かすだけだったので」
その言葉に、奏斗の手が、ノートの表紙の上で止まった。
「怪我してからは、『もう前みたいには走れない』って、確率で線を引こうとした時期もありましたけど。
でも、なんか違うなって。『何パーセントまでなら頑張ってもいい』とか決めてしまうと、そこが限界になっちゃう気がして」
阿紗美は、少し照れくさそうに笑う。
「だから最近は、『今日はここまで』って距離で決めてます。
数字にするのは嫌いじゃないけど、自分の気持ちを閉じ込めるためには使いたくないなあって」
言い終えると、はっとして手を振った。
「ごめんなさい。決して、奏斗さんのノートを否定したいわけじゃなくて」
「いえ」
奏斗は、ゆっくりと首を振った。
「分かります」
ペンで書いた「2%」の数字が、急に心細く見えてくる。
凱理が、カウンターの向こうを覗き込んだまま、ニヤニヤと笑った。
「でもさあ、『君に恋する確率』ってタイトル、もうちょっとなんとかなんなかったんですか」
「どういう意味ですか」
「いや、なんか、真面目すぎるっていうか。
これ、『恋してる』か『恋してない』かのどっちかじゃないですか。
パーセントにする余地、あんまりなくないっすか?」
「……」
「例えば、『今日店に来てくれたあのカップルが、六年目も記念日をここで祝ってくれる確率』とかなら分かるんですけど」
凱理は、指を折りながら続ける。
「『魚が足りなかったのに、笑って許してくれる確率』とか、『マリネサービスしたら、怒りが薄まる確率』とか」
「それは、それで怖い計算ですけどね」
阿紗美が笑い、奏斗も、思わず口元を緩めた。
「じゃあ、これは何の確率なんですか」
凱理が、改めて問いかける。
「『君』って誰ですか」
夜の静けさが、三人の間に落ちる。
川の音が、硝子越しにさらさらと流れている。
奏斗は、ノートを胸の前に抱えたまま、少しだけ考えた。
「……今のところは、まだ『仮』です」
「仮?」
「『もし』の話を書いているだけです」
自分でも苦しいと言いながら、そう答えるしかなかった。
「もし、ここで誰かを好きになったとしたら。
そのとき、自分の心がどんなふうに揺れるのか、数字にしてみたいだけです」
「誰か、は決まってないんですか」
「決まっていたら、『もし』とは書きません」
カウンターの木目を指でなぞりながら、奏斗は言った。
「これは、今の自分にはまだ起きていないことのメモです」
そう言いながら、胸の内では、さっき書いた「2%」の数字が、静かに脈を打っていた。
凱理は、しばらくじっと奏斗の顔を見つめ、それから肩をすくめた。
「じゃあ、俺たちは『観測者』ってことでいいですかね」
「観測者?」
「はい。『あ、この人、今日ちょっと確率上がってそうだな』って、勝手に想像してニヤニヤする役」
「やめてください」
「でも、そういうのって、案外大事だと思うんですよ」
阿紗美が、少し真面目な声で続ける。
「自分で決めきれないとき、誰かに見られていると思うだけで、踏み出し方が変わること、ありますから」
彼女の言葉に、奏斗は返す言葉を探して、見つけられなかった。
誰かに見られながら働くことが苦手で、会社を辞めたはずなのに。
今こうして、カウンターの内側で、夜の川を背景に働いている。
それを、悪くないと思っている自分がいる。
「……とりあえず」
奏斗は、ノートを開き、さっきのページを見つめた。
「今日のところは、『君に恋する確率』一行だけ、残しておきます」
「数字は?」
凱理が身を乗り出す。
「数字は、まだ書きません」
奏斗は、2%の上に、静かに線を引いた。
「さっきのは、計算ミスということで」
消し跡が、わずかに紙に残る。
そこに、新しく小さな文字で書き足した。
「今日のメモ
・財布の忘れ物が戻ってくる確率 100%
・ノートを読まれる確率 ……想定外」
その一行を見て、凱理が吹き出した。
「それ、ゼロじゃなかったんですねえ」
「次からは、確率ではなく、『気をつけることリスト』にします」
「じゃあ、その一番上に、『ノートはちゃんと隠す』って書いといてください」
阿紗美が笑いながら言う。
「はい。書きます」
奏斗は、ペンを走らせた。
扉を締め直し、二人を見送ったあと。
店内には、再び静けさが戻ってきた。
カウンターに残されたノートを見下ろし、奏斗は小さく息を吐く。
「君に恋する確率」
そのタイトルの下には、まだ何も書かれていない。
数字も、名前も、具体的な出来事も。
ただ、夜の川の音と、今日の笑い声の余韻だけが、静かにページを満たしていた。
「……これは、しばらく『未記入』でいい」
そう呟いてノートを閉じると、カウンターの照明を一つ消した。
薄暗い店内で、グラスの影が揺れる。
川面には、相変わらず灯りが流れていた。
いつか、このページに数字を書く日が来るのかどうかは、まだ分からない。
ただ、そう考えてしまった自分がいるという事実だけは、確かにそこに刻まれていた。
店内の照明は、必要最低限だけ残してある。
カウンターの上には、磨き終えたグラスが逆さに並び、壁一面の本棚は、さっきまでのざわめきが嘘のように黙っていた。
奏斗は、レジ締めを終えた帳簿を閉じると、その下から一冊のノートを取り出した。
黒い表紙に、金色の細い線で枠が描かれている、無地のノートだ。
表紙の内側には、小さな字で日付が並んでいる。
今日の日付の横には、まだ何も書かれていない。
奏斗は、カウンターの端に腰を下ろし、ペンを指で回した。
「……今日は、どう書くか」
独り言をこぼしながら、ノートを開く。
最初のページには、「売上メモ」とだけ書かれている。
日ごとの来客数や、出たメニューの傾向を、簡単な棒グラフにした跡がある。
二枚目には、「仕込み時間の目安」。
野菜の量と、かかった時間が細かくメモされていた。
三枚目をめくったところで、ペン先が空中で止まる。
白紙のページが、一枚。
そこに、ふいに言葉が浮かんだ。
(君に——)
ペン先が、紙の上を滑る。
「君に恋する確率」
自分で書きながら、奏斗は小さく眉をひそめた。
「……何を書いているんだ、俺は」
声に出すと、なおさらおかしく聞こえる。
しかし、線を引いたタイトルは、簡単には消せない。
ペンを持つ手を止めたまま、今日一日のことを思い返す。
開店前、まだ空気が冷たい時間。
新入りの璃音は、レジ周りのペンの向きまでそろえていた。
「ここは、数字だけ見る場所ではありません。お客さんの顔も一緒に見る場所です」
そう言った自分の言葉に、「数字だけじゃなくて、顔も」と、真面目に復唱した表情。
記念日で来たカップルに、小さなシャーベットを出した夜。
今日も、その二人が使った席を見ながら、「ここからなら川がよく見えますね」とさりげなく言っていた。
四番のテーブルで、オーダー数を読み違えた絵斗の皿。
魚が一つ足りなかったとき、璃音は冷蔵庫からマリネの皿を取り出し、迷いなく言った。
「待っている時間を、ただの待ち時間にしないために」
それを聞いた瞬間、奏斗の胸の奥で、何かが小さく鳴った。
その音の正体が分からないからこそ、こうしてノートに向かっているのかもしれない。
奏斗は、ペンを持ち直した。
「君に恋する確率」
その下に、罫線を引く。
左端に、日付を書く欄を作った。
右端に、小さな円を描き、「%」と記す。
真ん中には、「今日の出来事」と書いた。
「……遊びだ。これは遊び」
自分に言い聞かせるように呟きながら、今日の日付を書き入れる。
その下に、ゆっくりとペンを滑らせた。
「・記念日カップルのコースで、シャーベットを提案していた。
・四番テーブルのミスのとき、マリネの皿で待ち時間を埋めた。
・まかないのあと、食器を洗いながら川の音を聞いていた」
一つ一つを書きながら、そのときの彼女の表情が蘇る。
カップルにシャーベットを運ぶときの、少し緊張した笑顔。
ミスのあと、絵斗と一緒に魚を焼き直していたときの、真剣な横顔。
まかないを食べ終え、シンクの前でスポンジを動かしながら、ふっと外を見ていた視線。
ノートの端に、「+」と小さく書き足したくなる衝動を抑えきれず、そっと記した。
「今日の確率 ……2%」
数字を書き終えた瞬間、自分で自分に突っ込む。
「2%ってなんだ」
中途半端どころではない数字だ。
限りなくゼロに近いが、まったくゼロではない。
「ゼロでもないし、五十でもない。
どちらにも振り切る気はないくせに、『少しは揺れた』と言い訳できる数字」
そう分析してしまう自分の性格に、苦笑せざるを得ない。
前の職場では、キャンペーンの成功率を、資料に「35%~40%」と書いたことがある。
そのとき上司に、「もっと分かりやすい数字にしろ」と言われた。
「現実は、そんなにきれいな数字ばかりじゃないんですけどね」
そのとき飲み込んだ言葉が、今更になってノートの上に滲む。
恋だの愛だのという言葉とは無縁のような顔をして、当時の自分は、数字にしがみついていた。
数値で説明できることだけを扱っていれば、余計な痛みには触れずに済むと信じていた。
それでも、この店に来てから、数字で括れないものばかりが目につく。
常連の笑い声。
川に映る灯りの揺れ。
忙しい夜が終わった直後に漂う、疲労と満足感の混ざった空気。
そして——新人の、一つ一つの動き。
ペン先が、また動き出す。
「・お客さんの表情を見る回数が多い。
・注文ミスが起きたときも、顔色を見ていた。
・帰り道に、『ここを通って帰りたい』と言っていた」
最後の一行を書いたとき、胸の奥で何かが少しだけ跳ねた。
「……2・3%」
つい、数字を書き直しかけて、慌てて手を止める。
「いや、2%でいい」
ノートを閉じかけたそのとき——。
「うわっ、まだいた!」
突然、扉の方から声がした。
驚いて顔を上げると、ガラス越しに凱理の顔が貼りついている。
鍵をかけたはずの扉が、内側から「ガチャガチャ」と揺れた。
「奏斗さーん、すみません、財布忘れましたー!」
半分叫ぶような声に、奏斗は深く息を吐いた。
「……鍵、今開けます」
ノートを慌てて閉じ、レジ周りの書類の下に滑り込ませる。
扉の鍵を外して開けると、夜風と一緒に凱理が転がり込んできた。
「助かったー。川沿いまで出て、あれ? ポケット軽くない? ってなって」
「財布はレジの横の棚にありました。次回から、点検表を増やします」
「え、財布チェック項目、作られるんですか。こわ」
凱理が冗談めかして笑う。
その後ろから、もう一人、人影が現れた。
「すみません、付き添いで」
阿紗美が、申し訳なさそうに頭を下げる。
ジャージの上から羽織ったパーカーの袖口をぎゅっと握っていた。
「走って追いかけるのも考えたんですけど、今日は足がちょっと重くて」
「走らなくていいです。忘れ物は声で知らせてください」
奏斗は、棚から財布を取って凱理に渡した。
「ありがとうございます!」
凱理が財布を抱えたまま、店内を見回す。
「うわ、締め後の店って、こんなに静かなんですね。さっきまであんなにわちゃわちゃしてたのに」
「わちゃわちゃとは言いません」
「えー、いいじゃないですか。褒め言葉ですよ」
凱理がカウンターに近づいたとき、レジの下から、黒いノートの端が少しだけ覗いていた。
「ん?」
彼は、好奇心に突き動かされるまま、身をかがめる。
「凱理さん」
止める声を出すより早く、彼の指先がノートに触れていた。
「これ、今日の売上ノートっすか? あ、『君に恋する確率』……?」
そのタイトルを読み上げた瞬間、空気が一瞬固まった。
阿紗美が「え」と小さく声を漏らす。
奏斗は、慌ててノートを取り上げた。
「見ないでください」
「いやいやいや、めちゃくちゃ気になるんですけど、それ」
凱理がカウンターに身を乗り出す。
「え、『君』って誰っすか? この店の誰か? それとも、川? 川に恋してるとか、そういう?」
「川に恋する確率は、ほぼ百パーセントですよね」
阿紗美が、真顔で付け加えた。
「いや、阿紗美さんまで真面目に分析しないでください」
「私、確率とかよく分からないんですけど」
阿紗美は、少し考えるように首をかしげる。
「走るとき、『完走できる確率』って考えたこと、あんまりなくて。
ただ、『ここまで行く』って決めて、そこまで足を動かすだけだったので」
その言葉に、奏斗の手が、ノートの表紙の上で止まった。
「怪我してからは、『もう前みたいには走れない』って、確率で線を引こうとした時期もありましたけど。
でも、なんか違うなって。『何パーセントまでなら頑張ってもいい』とか決めてしまうと、そこが限界になっちゃう気がして」
阿紗美は、少し照れくさそうに笑う。
「だから最近は、『今日はここまで』って距離で決めてます。
数字にするのは嫌いじゃないけど、自分の気持ちを閉じ込めるためには使いたくないなあって」
言い終えると、はっとして手を振った。
「ごめんなさい。決して、奏斗さんのノートを否定したいわけじゃなくて」
「いえ」
奏斗は、ゆっくりと首を振った。
「分かります」
ペンで書いた「2%」の数字が、急に心細く見えてくる。
凱理が、カウンターの向こうを覗き込んだまま、ニヤニヤと笑った。
「でもさあ、『君に恋する確率』ってタイトル、もうちょっとなんとかなんなかったんですか」
「どういう意味ですか」
「いや、なんか、真面目すぎるっていうか。
これ、『恋してる』か『恋してない』かのどっちかじゃないですか。
パーセントにする余地、あんまりなくないっすか?」
「……」
「例えば、『今日店に来てくれたあのカップルが、六年目も記念日をここで祝ってくれる確率』とかなら分かるんですけど」
凱理は、指を折りながら続ける。
「『魚が足りなかったのに、笑って許してくれる確率』とか、『マリネサービスしたら、怒りが薄まる確率』とか」
「それは、それで怖い計算ですけどね」
阿紗美が笑い、奏斗も、思わず口元を緩めた。
「じゃあ、これは何の確率なんですか」
凱理が、改めて問いかける。
「『君』って誰ですか」
夜の静けさが、三人の間に落ちる。
川の音が、硝子越しにさらさらと流れている。
奏斗は、ノートを胸の前に抱えたまま、少しだけ考えた。
「……今のところは、まだ『仮』です」
「仮?」
「『もし』の話を書いているだけです」
自分でも苦しいと言いながら、そう答えるしかなかった。
「もし、ここで誰かを好きになったとしたら。
そのとき、自分の心がどんなふうに揺れるのか、数字にしてみたいだけです」
「誰か、は決まってないんですか」
「決まっていたら、『もし』とは書きません」
カウンターの木目を指でなぞりながら、奏斗は言った。
「これは、今の自分にはまだ起きていないことのメモです」
そう言いながら、胸の内では、さっき書いた「2%」の数字が、静かに脈を打っていた。
凱理は、しばらくじっと奏斗の顔を見つめ、それから肩をすくめた。
「じゃあ、俺たちは『観測者』ってことでいいですかね」
「観測者?」
「はい。『あ、この人、今日ちょっと確率上がってそうだな』って、勝手に想像してニヤニヤする役」
「やめてください」
「でも、そういうのって、案外大事だと思うんですよ」
阿紗美が、少し真面目な声で続ける。
「自分で決めきれないとき、誰かに見られていると思うだけで、踏み出し方が変わること、ありますから」
彼女の言葉に、奏斗は返す言葉を探して、見つけられなかった。
誰かに見られながら働くことが苦手で、会社を辞めたはずなのに。
今こうして、カウンターの内側で、夜の川を背景に働いている。
それを、悪くないと思っている自分がいる。
「……とりあえず」
奏斗は、ノートを開き、さっきのページを見つめた。
「今日のところは、『君に恋する確率』一行だけ、残しておきます」
「数字は?」
凱理が身を乗り出す。
「数字は、まだ書きません」
奏斗は、2%の上に、静かに線を引いた。
「さっきのは、計算ミスということで」
消し跡が、わずかに紙に残る。
そこに、新しく小さな文字で書き足した。
「今日のメモ
・財布の忘れ物が戻ってくる確率 100%
・ノートを読まれる確率 ……想定外」
その一行を見て、凱理が吹き出した。
「それ、ゼロじゃなかったんですねえ」
「次からは、確率ではなく、『気をつけることリスト』にします」
「じゃあ、その一番上に、『ノートはちゃんと隠す』って書いといてください」
阿紗美が笑いながら言う。
「はい。書きます」
奏斗は、ペンを走らせた。
扉を締め直し、二人を見送ったあと。
店内には、再び静けさが戻ってきた。
カウンターに残されたノートを見下ろし、奏斗は小さく息を吐く。
「君に恋する確率」
そのタイトルの下には、まだ何も書かれていない。
数字も、名前も、具体的な出来事も。
ただ、夜の川の音と、今日の笑い声の余韻だけが、静かにページを満たしていた。
「……これは、しばらく『未記入』でいい」
そう呟いてノートを閉じると、カウンターの照明を一つ消した。
薄暗い店内で、グラスの影が揺れる。
川面には、相変わらず灯りが流れていた。
いつか、このページに数字を書く日が来るのかどうかは、まだ分からない。
ただ、そう考えてしまった自分がいるという事実だけは、確かにそこに刻まれていた。
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