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第4話 リーダー気質のシェフは譲れない
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金曜日の夜、「川べり文庫」の厨房は、いつもより火の色が強かった。
コンロにかかった鍋が三つ、フライパンが二つ。オーブンのタイマーが鳴り、オーダー用のプリンターが小刻みに紙を吐き出す。
その合間を、絵斗の声が切り裂いていく。
「テーブル三番、前菜出た? まだ? ホール誰ついてる?」
「はーい、三番は私でーす! 今出しまーす!」
花春がトレイを手に返事をし、凱理がその横でグラスを拭きながら、「うわ、今日も戦場モードですね」と小さくつぶやいた。
「戦場とか言わない。うちはレストラン」
絵斗は、ネギを刻む手を止めずに言い返す。
まな板の上には、均一な厚さに切り揃えられた緑の輪が、美しく並んでいた。
壁際のホワイトボードには、今日のオーダーがびっしり書かれている。
テーブル番号、人数、コースかアラカルトか。
その横には、絵斗が自分で書いた「キッチン動線図」が貼ってあった。
コンロからシンク、シンクから盛り付け台、盛り付け台からホールへの受け渡し口まで矢印が引かれていて、そのどこにも「寄り道」は描かれていない。
「ここからここまでが俺の領域。わかった?」
仕込みの時間、絵斗はその図を前に、新人の璃音に説明した。
「盛り付け台に並んだ皿には、俺と奏斗さん以外、基本的に触らない。特にメインと前菜。ホールは『受け取る』だけ」
「デザートは」
「デザートは……半分、お前の領域だな」
絵斗は少しだけ考えてから、ペンで「デザート」の文字を囲み直した。
「でも、その前に出る皿とのバランスは俺が見る。だから、飾りを勝手に増やしたり、ソースの色を変えたりはしないで」
「わかりました」
璃音は、真剣な顔で頷いた。
その視線は、図よりも実際の動きに向いている。
——リーダーでいたい人の線引き。
そういうものが、線ではなく、手つきににじんでいるのを感じながら。
◇
「テーブル五番、二名様、前菜オールアップ!」
夜が深まり、通りの提灯の光が一段と濃くなった頃。
オーダー票の上から赤ペンを滑らせながら、絵斗は声を張った。
手前のフライパンでは、オイルににんにくと香草が浸かり、小さな音を立てている。
奥の鍋では、スープ用の野菜が煮え、白い湯気が立ち上っていた。
「璃音、五番のデザート、例のやつだ。事前仕込みしてたやつ、冷蔵庫の二段目」
「はい」
璃音は、冷蔵庫から小さなガラス瓶を取り出す。
新しく試しているプリンだ。
絵斗が考案し、璃音が固さや甘さを微調整した。
ラベルには、小さな文字で「夜の川プリン」と書いてある。
とろりと揺れる表面を確認しながら、璃音は瓶をバットに並べていく。
「これ、五番のあと、八番にも出ます?」
「八番はまだ様子見。酒メインっぽいから、プリンよりつまみ系がいいかも」
「了解です」
短い言葉のやり取り。
そこに、キッチンとホールの境目がある。
そのとき、プリンターが急に激しく鳴り出した。
「うわ、きた」
紙を引き抜いた凱理が、目を丸くする。
「四番、六名様、ご来店でーす。ミックスでコースと単品、結構頼まれてまーす」
「見せて」
絵斗は、濡れた手を布巾で拭きながら、オーダー票を奪い取るようにして目を走らせる。
「前菜盛り合わせ四つ、単品サラダ二つ、魚三、肉二、パスタ一……バラバラじゃん」
「会社の飲み会っぽかったよ。女の人もいた」
凱理が、どこか他人事のような口調で言う。
「っぽくない。現実」
「はい現実でーす」
絵斗は、ホワイトボードに新しいオーダーの塊を書き込むと、ペンでぐるりと囲んだ。
「四番、優先。前菜を二度に分けると、絶対取りこぼすから、一回で出す」
「了解」
「サラダはホールで組んでもらうから、花春さんに伝えて」
「はーい」
凱理がホールへ走り出す。
その背中を見送りながら、絵斗はコンロの火を一段階強くした。
「璃音、プリンは一旦ストップ。四番の魚の仕込み、手伝って」
「わかりました」
いつもなら、ここで質問が飛ぶ。
どの魚を使うか、ソースはどうするのか。
しかし、璃音は何も聞かず、冷蔵庫から白身魚のトレーを取り出した。
「今日の仕込み量から計算すると、四番に出すのはこれですよね」
切り身の大きさと数を確認しながら、包丁を構える。
「下処理、俺と同じやり方で」
「はい」
鱗を取る音、包丁が骨を避けて滑る感覚。
隣で同じ作業をしていると、絵斗の癖がよく見える。
無駄な力を入れず、しかし躊躇もなく。
迷いが生まれる前に手が動くような切り方だ。
「ねえ絵斗さん」
「なに」
「自分以外に包丁握らせるの、怖かったりします?」
問いかけに、絵斗の手が一瞬だけ止まる。
「怖いっていうか……」
彼は、骨をなぞる指先に視線を落とした。
「俺がリーダーだろ。キッチンの。
だったら、出てくる皿の責任は全部こっちにある」
「はい」
「だったら、見えてないところで何かされるのは、正直イヤ」
あくまで淡々とした口調だったが、包丁を置く音が、いつもより少し強く響いた。
「変だと思う?」
「変ではないと思います」
璃音も包丁を置き、手を洗う。
「ただ、全部一人で背負うのも、大変そうだなと」
「大変だから、リーダーなんだよ」
絵斗は、わざと軽く言う。
「俺が一番大変そうにしてれば、みんな『大変そうだな』って思ってくれて、ちょっとは真面目になるかなって」
「真面目にやってないと思ってるんですか」
「真面目にやってるけど、まだまだ」
冗談交じりのやりとりの途中で、ホールから声が飛んだ。
「テーブル四番さん、最初の飲み物もう来てまーす! 前菜、準備お願いしまーす!」
「はーい!」
絵斗は一気に会話を切り上げ、フライパンを持ち上げた。
オイルに香草を投げ入れ、魚の皮目を下にして並べる。
油がはねる音が、さっきまでの言葉をすべてかき消した。
◇
……問題が起きたのは、その三十分後だった。
「すみませーん、四番さんから」
凱理が、半分以上残った皿を抱えて戻ってきた。
ホールのざわめきの中、その皿だけが浮いて見える。
「魚、三つのはずが二つしか来てないって。で、代わりに肉が一つ余ってるって」
「え?」
絵斗は、手にしていたトングを止めた。
「オーダー票」
「これです」
渡された伝票には、確かにこう書いてある。
「魚三、肉二」
だが、絵斗の頭の中では、「魚二、肉三」と変換されていた。
ホワイトボードにも、そう書かれている。
「俺、三つ肉焼いた」
絵斗は、ボードと伝票を見比べて、唇を噛んだ。
「ごめん、完全に俺のミスだ」
「じゃあ、魚もう一つ急ぎで作れます?」
「やるしかないだろ」
絵斗は、すぐに新しい切り身を取り出した。
「時間、どれくらいもつ?」
「『大丈夫です、待ちます』って言ってくれたけど、たぶん本当はそんなに大丈夫じゃない顔でした」
凱理の言葉に、湯気の向こうの空気が重くなる。
「俺、謝りに行きますか?」
「先に皿を出す。謝るのはそのあと」
絵斗は、油の温度を上げるためにフライパンを傾けた。
だが、隣では、璃音が静かに動いていた。
「絵斗さん、魚のタイミングに合わせて、この皿も出しませんか」
冷蔵庫から、小さな前菜の皿を取り出している。
常連用に仕込んでおいた、野菜のマリネだ。
「四番さんに、『お待たせしているお詫びです』って」
「そんなサービス、聞いてないけど」
「今考えました」
璃音は、きっぱりと言う。
「待っている時間を、ただの待ち時間にしないために」
「……さっきのカップルといい、お前、勝手にコース増やしがち」
「増やす分、ちゃんと厨房にも戻ってくるようにします」
璃音は、マリネの皿をトレイに載せ、花春の方へ渡した。
「花春さん、四番さんに、これをお願いします」
「了解。ちゃんと一言添えておくね」
花春がホールへ駆け出していく。
その背中を見送りながら、絵斗は魚の皮目の焼き色を確認した。
「……さっきの図、描き直すか」
ぽつりと呟く。
「どういう図ですか」
「俺の領域図。『予期せぬ一口』って項目、どっかに増やす」
「いいと思います」
璃音が笑ったとき、カウンターの扉が開いた。
「四番さん、追加の前菜、めっちゃ喜んでくれましたよ」
花春が、戻りながら報告する。
「『ミスは誰にでもあるから』って。『その代わり、魚、楽しみにしてるね』って」
「ハードル上げるなあ」
絵斗は、笑いともため息ともつかない息を吐きながら、ソースをフライパンに流し込む。
立ち上る香りは、さっきよりも少し強かった。
◇
魚の皿が無事に運ばれ、客の表情も落ち着いた頃。
厨房の温度が、少しだけ下がった気がした。
閉店後、片付けも一段落した頃に、奏斗がキッチンに顔を出した。
「四番の件、聞きました」
「すみません」
絵斗は、まな板を拭いていた手を止めた。
「完全に俺の読み違いです。ホワイトボードの数字、書き換えるときにやっちゃいました」
「謝罪は、もうお客さんにしましたか」
「はい。魚を出したあと、俺からもテーブルに行って、『オーダーの確認不足で』って」
「そうですか」
奏斗は、頷きながらシンクの横に立った。
「で、厨房では誰を責めましたか」
「……誰も責めてないです」
「本当に?」
静かな問いに、絵斗は顔を上げる。
「自分です」
「それは責めるではなく、反省ですね」
奏斗は、水を止めた。
「反省は必要です。でも、『責任を取る』と『全部自分のせいにする』は違います」
「でも、キッチンのリーダーは俺で」
「リーダーが全部のミスを被る必要はありません。被るべきなのは、出てくる皿です」
絵斗が、意味を測るように目を細める。
「どういう……」
「お客さんが覚えているのは、『誰がミスしたか』ではなく、『最後にどんな皿が出てきたか』です」
奏斗は、ホワイトボードの前に歩み寄り、「魚三、肉二」と書かれた跡を指先でなぞった。
「今日は、魚が一つ足りなかった。でも、最終的には、ちゃんと出した。待っている間に、マリネも出した。お客さんは、きっとその流れごと覚えます」
「……」
「だから、次に活かすなら、『ミスをゼロにする方法』だけじゃなく、『ミスが起きたときにどう立て直すか』も一緒に考えてください」
奏斗は、ボードの隅に小さく「立て直し」と書き込んだ。
「リーダーが決めていいのは、そこです」
「ミスしたやつを、誰かって決めるんじゃなくて」
「ええ。誰のミスかより、ちゃんと出てくるかどうかだよ」
絵斗は、その言葉をしばらく飲み込むように黙っていた。
隣で、璃音がそっと口を開く。
「今日の魚、さっきのより、二枚目の方がおいしそうでしたよ」
「え?」
「皮のパリッと感が、カウンターから見ても分かりました。多分、さっきより少し温度を上げたからですよね」
「まあ……そうかも」
「ミスしたからこそ、二枚目があんなにおいしくなったのかもしれません」
璃音は、淡々と続ける。
「それを食べたお客さんは、きっと『待った甲斐があった』って思ってます」
「……そう思ってくれてるといいけど」
絵斗は、肩の力を少し抜いた。
「俺、ずっと怖かったんだと思う」
言葉が、ぽろりとこぼれる。
「一回ミスしたら、『あいつにキッチン任せちゃダメだ』って思われるのが。
だから、全部完璧に回さないと、リーダーでいる資格ないって」
「完璧な夜なんて、ないですよ」
奏斗が、静かに言う。
「皿が割れる日もあるし、ソースが決まらない日もある。
それでも、店を開け続けるのが、たぶん本当に譲っちゃいけないところです」
その言葉に、絵斗はふっと笑った。
「……ずるいなあ、奏斗さん」
「何がですか」
「そんなこと言われたら、ますますリーダーやめられなくなるじゃないですか」
「やめると言った覚えはありませんが」
短いやり取りのあと、三人のあいだに、小さな沈黙が落ちた。
外では、川の音が変わらず流れている。
提灯の灯りは、少しずつ数を減らしていた。
「じゃ、とりあえず」
絵斗は、シンクの下からボウルを取り出した。
「今日の立て直し、もう一回復習しますか。魚、もう一枚焼く」
「まかないで食べる用ですか」
「そう。四番さんに出したのと同じやつ」
璃音が笑い、奏斗も「興味はあります」と頷く。
コンロに火が灯る。
その音を聞きながら、絵斗は、ホワイトボードの隅に小さな矢印を書き加えた。
コンロから盛り付け台へ向かう線の脇に、「立て直し」の文字。
譲れないものは、変わらない。
ただ、その中に、「ミスの先にある一枚」という新しい場所が、静かに描き足されていた。
コンロにかかった鍋が三つ、フライパンが二つ。オーブンのタイマーが鳴り、オーダー用のプリンターが小刻みに紙を吐き出す。
その合間を、絵斗の声が切り裂いていく。
「テーブル三番、前菜出た? まだ? ホール誰ついてる?」
「はーい、三番は私でーす! 今出しまーす!」
花春がトレイを手に返事をし、凱理がその横でグラスを拭きながら、「うわ、今日も戦場モードですね」と小さくつぶやいた。
「戦場とか言わない。うちはレストラン」
絵斗は、ネギを刻む手を止めずに言い返す。
まな板の上には、均一な厚さに切り揃えられた緑の輪が、美しく並んでいた。
壁際のホワイトボードには、今日のオーダーがびっしり書かれている。
テーブル番号、人数、コースかアラカルトか。
その横には、絵斗が自分で書いた「キッチン動線図」が貼ってあった。
コンロからシンク、シンクから盛り付け台、盛り付け台からホールへの受け渡し口まで矢印が引かれていて、そのどこにも「寄り道」は描かれていない。
「ここからここまでが俺の領域。わかった?」
仕込みの時間、絵斗はその図を前に、新人の璃音に説明した。
「盛り付け台に並んだ皿には、俺と奏斗さん以外、基本的に触らない。特にメインと前菜。ホールは『受け取る』だけ」
「デザートは」
「デザートは……半分、お前の領域だな」
絵斗は少しだけ考えてから、ペンで「デザート」の文字を囲み直した。
「でも、その前に出る皿とのバランスは俺が見る。だから、飾りを勝手に増やしたり、ソースの色を変えたりはしないで」
「わかりました」
璃音は、真剣な顔で頷いた。
その視線は、図よりも実際の動きに向いている。
——リーダーでいたい人の線引き。
そういうものが、線ではなく、手つきににじんでいるのを感じながら。
◇
「テーブル五番、二名様、前菜オールアップ!」
夜が深まり、通りの提灯の光が一段と濃くなった頃。
オーダー票の上から赤ペンを滑らせながら、絵斗は声を張った。
手前のフライパンでは、オイルににんにくと香草が浸かり、小さな音を立てている。
奥の鍋では、スープ用の野菜が煮え、白い湯気が立ち上っていた。
「璃音、五番のデザート、例のやつだ。事前仕込みしてたやつ、冷蔵庫の二段目」
「はい」
璃音は、冷蔵庫から小さなガラス瓶を取り出す。
新しく試しているプリンだ。
絵斗が考案し、璃音が固さや甘さを微調整した。
ラベルには、小さな文字で「夜の川プリン」と書いてある。
とろりと揺れる表面を確認しながら、璃音は瓶をバットに並べていく。
「これ、五番のあと、八番にも出ます?」
「八番はまだ様子見。酒メインっぽいから、プリンよりつまみ系がいいかも」
「了解です」
短い言葉のやり取り。
そこに、キッチンとホールの境目がある。
そのとき、プリンターが急に激しく鳴り出した。
「うわ、きた」
紙を引き抜いた凱理が、目を丸くする。
「四番、六名様、ご来店でーす。ミックスでコースと単品、結構頼まれてまーす」
「見せて」
絵斗は、濡れた手を布巾で拭きながら、オーダー票を奪い取るようにして目を走らせる。
「前菜盛り合わせ四つ、単品サラダ二つ、魚三、肉二、パスタ一……バラバラじゃん」
「会社の飲み会っぽかったよ。女の人もいた」
凱理が、どこか他人事のような口調で言う。
「っぽくない。現実」
「はい現実でーす」
絵斗は、ホワイトボードに新しいオーダーの塊を書き込むと、ペンでぐるりと囲んだ。
「四番、優先。前菜を二度に分けると、絶対取りこぼすから、一回で出す」
「了解」
「サラダはホールで組んでもらうから、花春さんに伝えて」
「はーい」
凱理がホールへ走り出す。
その背中を見送りながら、絵斗はコンロの火を一段階強くした。
「璃音、プリンは一旦ストップ。四番の魚の仕込み、手伝って」
「わかりました」
いつもなら、ここで質問が飛ぶ。
どの魚を使うか、ソースはどうするのか。
しかし、璃音は何も聞かず、冷蔵庫から白身魚のトレーを取り出した。
「今日の仕込み量から計算すると、四番に出すのはこれですよね」
切り身の大きさと数を確認しながら、包丁を構える。
「下処理、俺と同じやり方で」
「はい」
鱗を取る音、包丁が骨を避けて滑る感覚。
隣で同じ作業をしていると、絵斗の癖がよく見える。
無駄な力を入れず、しかし躊躇もなく。
迷いが生まれる前に手が動くような切り方だ。
「ねえ絵斗さん」
「なに」
「自分以外に包丁握らせるの、怖かったりします?」
問いかけに、絵斗の手が一瞬だけ止まる。
「怖いっていうか……」
彼は、骨をなぞる指先に視線を落とした。
「俺がリーダーだろ。キッチンの。
だったら、出てくる皿の責任は全部こっちにある」
「はい」
「だったら、見えてないところで何かされるのは、正直イヤ」
あくまで淡々とした口調だったが、包丁を置く音が、いつもより少し強く響いた。
「変だと思う?」
「変ではないと思います」
璃音も包丁を置き、手を洗う。
「ただ、全部一人で背負うのも、大変そうだなと」
「大変だから、リーダーなんだよ」
絵斗は、わざと軽く言う。
「俺が一番大変そうにしてれば、みんな『大変そうだな』って思ってくれて、ちょっとは真面目になるかなって」
「真面目にやってないと思ってるんですか」
「真面目にやってるけど、まだまだ」
冗談交じりのやりとりの途中で、ホールから声が飛んだ。
「テーブル四番さん、最初の飲み物もう来てまーす! 前菜、準備お願いしまーす!」
「はーい!」
絵斗は一気に会話を切り上げ、フライパンを持ち上げた。
オイルに香草を投げ入れ、魚の皮目を下にして並べる。
油がはねる音が、さっきまでの言葉をすべてかき消した。
◇
……問題が起きたのは、その三十分後だった。
「すみませーん、四番さんから」
凱理が、半分以上残った皿を抱えて戻ってきた。
ホールのざわめきの中、その皿だけが浮いて見える。
「魚、三つのはずが二つしか来てないって。で、代わりに肉が一つ余ってるって」
「え?」
絵斗は、手にしていたトングを止めた。
「オーダー票」
「これです」
渡された伝票には、確かにこう書いてある。
「魚三、肉二」
だが、絵斗の頭の中では、「魚二、肉三」と変換されていた。
ホワイトボードにも、そう書かれている。
「俺、三つ肉焼いた」
絵斗は、ボードと伝票を見比べて、唇を噛んだ。
「ごめん、完全に俺のミスだ」
「じゃあ、魚もう一つ急ぎで作れます?」
「やるしかないだろ」
絵斗は、すぐに新しい切り身を取り出した。
「時間、どれくらいもつ?」
「『大丈夫です、待ちます』って言ってくれたけど、たぶん本当はそんなに大丈夫じゃない顔でした」
凱理の言葉に、湯気の向こうの空気が重くなる。
「俺、謝りに行きますか?」
「先に皿を出す。謝るのはそのあと」
絵斗は、油の温度を上げるためにフライパンを傾けた。
だが、隣では、璃音が静かに動いていた。
「絵斗さん、魚のタイミングに合わせて、この皿も出しませんか」
冷蔵庫から、小さな前菜の皿を取り出している。
常連用に仕込んでおいた、野菜のマリネだ。
「四番さんに、『お待たせしているお詫びです』って」
「そんなサービス、聞いてないけど」
「今考えました」
璃音は、きっぱりと言う。
「待っている時間を、ただの待ち時間にしないために」
「……さっきのカップルといい、お前、勝手にコース増やしがち」
「増やす分、ちゃんと厨房にも戻ってくるようにします」
璃音は、マリネの皿をトレイに載せ、花春の方へ渡した。
「花春さん、四番さんに、これをお願いします」
「了解。ちゃんと一言添えておくね」
花春がホールへ駆け出していく。
その背中を見送りながら、絵斗は魚の皮目の焼き色を確認した。
「……さっきの図、描き直すか」
ぽつりと呟く。
「どういう図ですか」
「俺の領域図。『予期せぬ一口』って項目、どっかに増やす」
「いいと思います」
璃音が笑ったとき、カウンターの扉が開いた。
「四番さん、追加の前菜、めっちゃ喜んでくれましたよ」
花春が、戻りながら報告する。
「『ミスは誰にでもあるから』って。『その代わり、魚、楽しみにしてるね』って」
「ハードル上げるなあ」
絵斗は、笑いともため息ともつかない息を吐きながら、ソースをフライパンに流し込む。
立ち上る香りは、さっきよりも少し強かった。
◇
魚の皿が無事に運ばれ、客の表情も落ち着いた頃。
厨房の温度が、少しだけ下がった気がした。
閉店後、片付けも一段落した頃に、奏斗がキッチンに顔を出した。
「四番の件、聞きました」
「すみません」
絵斗は、まな板を拭いていた手を止めた。
「完全に俺の読み違いです。ホワイトボードの数字、書き換えるときにやっちゃいました」
「謝罪は、もうお客さんにしましたか」
「はい。魚を出したあと、俺からもテーブルに行って、『オーダーの確認不足で』って」
「そうですか」
奏斗は、頷きながらシンクの横に立った。
「で、厨房では誰を責めましたか」
「……誰も責めてないです」
「本当に?」
静かな問いに、絵斗は顔を上げる。
「自分です」
「それは責めるではなく、反省ですね」
奏斗は、水を止めた。
「反省は必要です。でも、『責任を取る』と『全部自分のせいにする』は違います」
「でも、キッチンのリーダーは俺で」
「リーダーが全部のミスを被る必要はありません。被るべきなのは、出てくる皿です」
絵斗が、意味を測るように目を細める。
「どういう……」
「お客さんが覚えているのは、『誰がミスしたか』ではなく、『最後にどんな皿が出てきたか』です」
奏斗は、ホワイトボードの前に歩み寄り、「魚三、肉二」と書かれた跡を指先でなぞった。
「今日は、魚が一つ足りなかった。でも、最終的には、ちゃんと出した。待っている間に、マリネも出した。お客さんは、きっとその流れごと覚えます」
「……」
「だから、次に活かすなら、『ミスをゼロにする方法』だけじゃなく、『ミスが起きたときにどう立て直すか』も一緒に考えてください」
奏斗は、ボードの隅に小さく「立て直し」と書き込んだ。
「リーダーが決めていいのは、そこです」
「ミスしたやつを、誰かって決めるんじゃなくて」
「ええ。誰のミスかより、ちゃんと出てくるかどうかだよ」
絵斗は、その言葉をしばらく飲み込むように黙っていた。
隣で、璃音がそっと口を開く。
「今日の魚、さっきのより、二枚目の方がおいしそうでしたよ」
「え?」
「皮のパリッと感が、カウンターから見ても分かりました。多分、さっきより少し温度を上げたからですよね」
「まあ……そうかも」
「ミスしたからこそ、二枚目があんなにおいしくなったのかもしれません」
璃音は、淡々と続ける。
「それを食べたお客さんは、きっと『待った甲斐があった』って思ってます」
「……そう思ってくれてるといいけど」
絵斗は、肩の力を少し抜いた。
「俺、ずっと怖かったんだと思う」
言葉が、ぽろりとこぼれる。
「一回ミスしたら、『あいつにキッチン任せちゃダメだ』って思われるのが。
だから、全部完璧に回さないと、リーダーでいる資格ないって」
「完璧な夜なんて、ないですよ」
奏斗が、静かに言う。
「皿が割れる日もあるし、ソースが決まらない日もある。
それでも、店を開け続けるのが、たぶん本当に譲っちゃいけないところです」
その言葉に、絵斗はふっと笑った。
「……ずるいなあ、奏斗さん」
「何がですか」
「そんなこと言われたら、ますますリーダーやめられなくなるじゃないですか」
「やめると言った覚えはありませんが」
短いやり取りのあと、三人のあいだに、小さな沈黙が落ちた。
外では、川の音が変わらず流れている。
提灯の灯りは、少しずつ数を減らしていた。
「じゃ、とりあえず」
絵斗は、シンクの下からボウルを取り出した。
「今日の立て直し、もう一回復習しますか。魚、もう一枚焼く」
「まかないで食べる用ですか」
「そう。四番さんに出したのと同じやつ」
璃音が笑い、奏斗も「興味はあります」と頷く。
コンロに火が灯る。
その音を聞きながら、絵斗は、ホワイトボードの隅に小さな矢印を書き加えた。
コンロから盛り付け台へ向かう線の脇に、「立て直し」の文字。
譲れないものは、変わらない。
ただ、その中に、「ミスの先にある一枚」という新しい場所が、静かに描き足されていた。
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真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
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