酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第4話 リーダー気質のシェフは譲れない

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 金曜日の夜、「川べり文庫」の厨房は、いつもより火の色が強かった。
 コンロにかかった鍋が三つ、フライパンが二つ。オーブンのタイマーが鳴り、オーダー用のプリンターが小刻みに紙を吐き出す。
 その合間を、絵斗の声が切り裂いていく。
 「テーブル三番、前菜出た? まだ? ホール誰ついてる?」
 「はーい、三番は私でーす! 今出しまーす!」
 花春がトレイを手に返事をし、凱理がその横でグラスを拭きながら、「うわ、今日も戦場モードですね」と小さくつぶやいた。
 「戦場とか言わない。うちはレストラン」
 絵斗は、ネギを刻む手を止めずに言い返す。
 まな板の上には、均一な厚さに切り揃えられた緑の輪が、美しく並んでいた。
 壁際のホワイトボードには、今日のオーダーがびっしり書かれている。
 テーブル番号、人数、コースかアラカルトか。
 その横には、絵斗が自分で書いた「キッチン動線図」が貼ってあった。
 コンロからシンク、シンクから盛り付け台、盛り付け台からホールへの受け渡し口まで矢印が引かれていて、そのどこにも「寄り道」は描かれていない。
 「ここからここまでが俺の領域。わかった?」
 仕込みの時間、絵斗はその図を前に、新人の璃音に説明した。
 「盛り付け台に並んだ皿には、俺と奏斗さん以外、基本的に触らない。特にメインと前菜。ホールは『受け取る』だけ」
 「デザートは」
 「デザートは……半分、お前の領域だな」
 絵斗は少しだけ考えてから、ペンで「デザート」の文字を囲み直した。
 「でも、その前に出る皿とのバランスは俺が見る。だから、飾りを勝手に増やしたり、ソースの色を変えたりはしないで」
 「わかりました」
 璃音は、真剣な顔で頷いた。
 その視線は、図よりも実際の動きに向いている。
 ——リーダーでいたい人の線引き。
 そういうものが、線ではなく、手つきににじんでいるのを感じながら。
     ◇
 「テーブル五番、二名様、前菜オールアップ!」
 夜が深まり、通りの提灯の光が一段と濃くなった頃。
 オーダー票の上から赤ペンを滑らせながら、絵斗は声を張った。
 手前のフライパンでは、オイルににんにくと香草が浸かり、小さな音を立てている。
 奥の鍋では、スープ用の野菜が煮え、白い湯気が立ち上っていた。
 「璃音、五番のデザート、例のやつだ。事前仕込みしてたやつ、冷蔵庫の二段目」
 「はい」
 璃音は、冷蔵庫から小さなガラス瓶を取り出す。
 新しく試しているプリンだ。
 絵斗が考案し、璃音が固さや甘さを微調整した。
 ラベルには、小さな文字で「夜の川プリン」と書いてある。
 とろりと揺れる表面を確認しながら、璃音は瓶をバットに並べていく。
 「これ、五番のあと、八番にも出ます?」
 「八番はまだ様子見。酒メインっぽいから、プリンよりつまみ系がいいかも」
 「了解です」
 短い言葉のやり取り。
 そこに、キッチンとホールの境目がある。
 そのとき、プリンターが急に激しく鳴り出した。
 「うわ、きた」
 紙を引き抜いた凱理が、目を丸くする。
 「四番、六名様、ご来店でーす。ミックスでコースと単品、結構頼まれてまーす」
 「見せて」
 絵斗は、濡れた手を布巾で拭きながら、オーダー票を奪い取るようにして目を走らせる。
 「前菜盛り合わせ四つ、単品サラダ二つ、魚三、肉二、パスタ一……バラバラじゃん」
 「会社の飲み会っぽかったよ。女の人もいた」
 凱理が、どこか他人事のような口調で言う。
 「っぽくない。現実」
 「はい現実でーす」
 絵斗は、ホワイトボードに新しいオーダーの塊を書き込むと、ペンでぐるりと囲んだ。
 「四番、優先。前菜を二度に分けると、絶対取りこぼすから、一回で出す」
 「了解」
 「サラダはホールで組んでもらうから、花春さんに伝えて」
 「はーい」
 凱理がホールへ走り出す。
 その背中を見送りながら、絵斗はコンロの火を一段階強くした。
 「璃音、プリンは一旦ストップ。四番の魚の仕込み、手伝って」
 「わかりました」
 いつもなら、ここで質問が飛ぶ。
 どの魚を使うか、ソースはどうするのか。
 しかし、璃音は何も聞かず、冷蔵庫から白身魚のトレーを取り出した。
 「今日の仕込み量から計算すると、四番に出すのはこれですよね」
 切り身の大きさと数を確認しながら、包丁を構える。
 「下処理、俺と同じやり方で」
 「はい」
 鱗を取る音、包丁が骨を避けて滑る感覚。
 隣で同じ作業をしていると、絵斗の癖がよく見える。
 無駄な力を入れず、しかし躊躇もなく。
 迷いが生まれる前に手が動くような切り方だ。
 「ねえ絵斗さん」
 「なに」
 「自分以外に包丁握らせるの、怖かったりします?」
 問いかけに、絵斗の手が一瞬だけ止まる。
 「怖いっていうか……」
 彼は、骨をなぞる指先に視線を落とした。
 「俺がリーダーだろ。キッチンの。
 だったら、出てくる皿の責任は全部こっちにある」
 「はい」
 「だったら、見えてないところで何かされるのは、正直イヤ」
 あくまで淡々とした口調だったが、包丁を置く音が、いつもより少し強く響いた。
 「変だと思う?」
 「変ではないと思います」
 璃音も包丁を置き、手を洗う。
 「ただ、全部一人で背負うのも、大変そうだなと」
 「大変だから、リーダーなんだよ」
 絵斗は、わざと軽く言う。
 「俺が一番大変そうにしてれば、みんな『大変そうだな』って思ってくれて、ちょっとは真面目になるかなって」
 「真面目にやってないと思ってるんですか」
 「真面目にやってるけど、まだまだ」
 冗談交じりのやりとりの途中で、ホールから声が飛んだ。
 「テーブル四番さん、最初の飲み物もう来てまーす! 前菜、準備お願いしまーす!」
 「はーい!」
 絵斗は一気に会話を切り上げ、フライパンを持ち上げた。
 オイルに香草を投げ入れ、魚の皮目を下にして並べる。
 油がはねる音が、さっきまでの言葉をすべてかき消した。
     ◇
 ……問題が起きたのは、その三十分後だった。
 「すみませーん、四番さんから」
 凱理が、半分以上残った皿を抱えて戻ってきた。
 ホールのざわめきの中、その皿だけが浮いて見える。
 「魚、三つのはずが二つしか来てないって。で、代わりに肉が一つ余ってるって」
 「え?」
 絵斗は、手にしていたトングを止めた。
 「オーダー票」
 「これです」
 渡された伝票には、確かにこう書いてある。
 「魚三、肉二」
 だが、絵斗の頭の中では、「魚二、肉三」と変換されていた。
 ホワイトボードにも、そう書かれている。
 「俺、三つ肉焼いた」
 絵斗は、ボードと伝票を見比べて、唇を噛んだ。
 「ごめん、完全に俺のミスだ」
 「じゃあ、魚もう一つ急ぎで作れます?」
 「やるしかないだろ」
 絵斗は、すぐに新しい切り身を取り出した。
 「時間、どれくらいもつ?」
 「『大丈夫です、待ちます』って言ってくれたけど、たぶん本当はそんなに大丈夫じゃない顔でした」
 凱理の言葉に、湯気の向こうの空気が重くなる。
 「俺、謝りに行きますか?」
 「先に皿を出す。謝るのはそのあと」
 絵斗は、油の温度を上げるためにフライパンを傾けた。
 だが、隣では、璃音が静かに動いていた。
 「絵斗さん、魚のタイミングに合わせて、この皿も出しませんか」
 冷蔵庫から、小さな前菜の皿を取り出している。
 常連用に仕込んでおいた、野菜のマリネだ。
 「四番さんに、『お待たせしているお詫びです』って」
 「そんなサービス、聞いてないけど」
 「今考えました」
 璃音は、きっぱりと言う。
 「待っている時間を、ただの待ち時間にしないために」
 「……さっきのカップルといい、お前、勝手にコース増やしがち」
 「増やす分、ちゃんと厨房にも戻ってくるようにします」
 璃音は、マリネの皿をトレイに載せ、花春の方へ渡した。
 「花春さん、四番さんに、これをお願いします」
 「了解。ちゃんと一言添えておくね」
 花春がホールへ駆け出していく。
 その背中を見送りながら、絵斗は魚の皮目の焼き色を確認した。
 「……さっきの図、描き直すか」
 ぽつりと呟く。
 「どういう図ですか」
 「俺の領域図。『予期せぬ一口』って項目、どっかに増やす」
 「いいと思います」
 璃音が笑ったとき、カウンターの扉が開いた。
 「四番さん、追加の前菜、めっちゃ喜んでくれましたよ」
 花春が、戻りながら報告する。
 「『ミスは誰にでもあるから』って。『その代わり、魚、楽しみにしてるね』って」
 「ハードル上げるなあ」
 絵斗は、笑いともため息ともつかない息を吐きながら、ソースをフライパンに流し込む。
 立ち上る香りは、さっきよりも少し強かった。
     ◇
 魚の皿が無事に運ばれ、客の表情も落ち着いた頃。
 厨房の温度が、少しだけ下がった気がした。
 閉店後、片付けも一段落した頃に、奏斗がキッチンに顔を出した。
 「四番の件、聞きました」
 「すみません」
 絵斗は、まな板を拭いていた手を止めた。
 「完全に俺の読み違いです。ホワイトボードの数字、書き換えるときにやっちゃいました」
 「謝罪は、もうお客さんにしましたか」
 「はい。魚を出したあと、俺からもテーブルに行って、『オーダーの確認不足で』って」
 「そうですか」
 奏斗は、頷きながらシンクの横に立った。
 「で、厨房では誰を責めましたか」
 「……誰も責めてないです」
 「本当に?」
 静かな問いに、絵斗は顔を上げる。
 「自分です」
 「それは責めるではなく、反省ですね」
 奏斗は、水を止めた。
 「反省は必要です。でも、『責任を取る』と『全部自分のせいにする』は違います」
 「でも、キッチンのリーダーは俺で」
 「リーダーが全部のミスを被る必要はありません。被るべきなのは、出てくる皿です」
 絵斗が、意味を測るように目を細める。
 「どういう……」
 「お客さんが覚えているのは、『誰がミスしたか』ではなく、『最後にどんな皿が出てきたか』です」
 奏斗は、ホワイトボードの前に歩み寄り、「魚三、肉二」と書かれた跡を指先でなぞった。
 「今日は、魚が一つ足りなかった。でも、最終的には、ちゃんと出した。待っている間に、マリネも出した。お客さんは、きっとその流れごと覚えます」
 「……」
 「だから、次に活かすなら、『ミスをゼロにする方法』だけじゃなく、『ミスが起きたときにどう立て直すか』も一緒に考えてください」
 奏斗は、ボードの隅に小さく「立て直し」と書き込んだ。
 「リーダーが決めていいのは、そこです」
 「ミスしたやつを、誰かって決めるんじゃなくて」
 「ええ。誰のミスかより、ちゃんと出てくるかどうかだよ」
 絵斗は、その言葉をしばらく飲み込むように黙っていた。
 隣で、璃音がそっと口を開く。
 「今日の魚、さっきのより、二枚目の方がおいしそうでしたよ」
 「え?」
 「皮のパリッと感が、カウンターから見ても分かりました。多分、さっきより少し温度を上げたからですよね」
 「まあ……そうかも」
 「ミスしたからこそ、二枚目があんなにおいしくなったのかもしれません」
 璃音は、淡々と続ける。
 「それを食べたお客さんは、きっと『待った甲斐があった』って思ってます」
 「……そう思ってくれてるといいけど」
 絵斗は、肩の力を少し抜いた。
 「俺、ずっと怖かったんだと思う」
 言葉が、ぽろりとこぼれる。
 「一回ミスしたら、『あいつにキッチン任せちゃダメだ』って思われるのが。
 だから、全部完璧に回さないと、リーダーでいる資格ないって」
 「完璧な夜なんて、ないですよ」
 奏斗が、静かに言う。
 「皿が割れる日もあるし、ソースが決まらない日もある。
 それでも、店を開け続けるのが、たぶん本当に譲っちゃいけないところです」
 その言葉に、絵斗はふっと笑った。
 「……ずるいなあ、奏斗さん」
 「何がですか」
 「そんなこと言われたら、ますますリーダーやめられなくなるじゃないですか」
 「やめると言った覚えはありませんが」
 短いやり取りのあと、三人のあいだに、小さな沈黙が落ちた。
 外では、川の音が変わらず流れている。
 提灯の灯りは、少しずつ数を減らしていた。
 「じゃ、とりあえず」
 絵斗は、シンクの下からボウルを取り出した。
 「今日の立て直し、もう一回復習しますか。魚、もう一枚焼く」
 「まかないで食べる用ですか」
 「そう。四番さんに出したのと同じやつ」
 璃音が笑い、奏斗も「興味はあります」と頷く。
 コンロに火が灯る。
 その音を聞きながら、絵斗は、ホワイトボードの隅に小さな矢印を書き加えた。
 コンロから盛り付け台へ向かう線の脇に、「立て直し」の文字。
 譲れないものは、変わらない。
 ただ、その中に、「ミスの先にある一枚」という新しい場所が、静かに描き足されていた。
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