酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第12話 飲食店スタッフとして働いていた時の思い出・璃音

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 窓の外で、川面の灯りがゆっくり揺れている。
 「川べり文庫」のテーブルの上には、食べ終えたまかないの皿と、まだ湯気の残るマグカップが並んでいた。
 さっき奏斗が、自分の最初の店の話を終えたところだ。
 「……というわけで、僕は今でも、帳簿の余白にメモを残したくなるんです」
 奏斗がそう締めくくると、テーブルの空気がふっと和らいだ。
 「なんか、想像以上にドラマが詰まってましたね」
 凱理が、スプーンをくるくる回しながら言う。
 「ファミレスの閉店で、そんなに泣ける話が出てくると思わなかった」
 「泣いてはいません」
 「心の中では、ちょっと?」
 「……少しだけです」
 そのやり取りに、笑い声が広がる。
 「じゃあ、次は?」
 花春が、わざとらしく周りを見回した。
 「『マニュアルの海』を泳いできた人の話、聞いてみたいなあ」
 「それ、たぶん私ですね」
 璃音は、自分の前に置かれた空の皿を見つめて、小さく笑った。
 「一番、マニュアルに囲まれてましたから」
 「やっぱり」
 絵斗が、マグカップを持ち上げながら頷く。
 「大手チェーンの香りがするもんね、時々」
 「香りって言わないでください」
 そう返しながらも、璃音の声はどこか楽しそうだった。
 「じゃあ、少しだけ。——私の『マニュアルだらけの店』の話をしてもいいですか」
     ◇
 最初に飲食店で働いたのは、駅ビルの中にあるカフェだった。
 白と焦げ茶の内装。
 窓の外にはホームが見えて、電車が入ってくるたびにガラスがかすかに震える。
 カウンターの奥には、銀色のマシンがずらりと並んでいた。
 エスプレッソマシン、ミルクスチーマー、ブレンダー。
 どれも、決められた順番でボタンを押せば、決められた味が出てくるように設定されている。
 「ここではね、『誰が淹れても同じ味』が一番大事なの」
 初日の研修で、店長がそう言った。
 「だから、自己流は封印。お客さんに出すのは、『あなたの味』じゃなくて『うちの味』。分かった?」
 「はい」
 璃音は、渡された分厚いバインダーを抱えながら頷いた。
 バインダーの中には、すべての作業が細かく書かれている。
 カップの持ち方。
 ミルクの注ぎ方。
 「いらっしゃいませ」に続ける定型文。
 「お待たせいたしました、○○でございます」
 「ご一緒にスイーツはいかがでしょうか」
 「ポイントカードはお持ちでしょうか」
 それぞれの台詞のあとには、小さく「声の高さ」「語尾の長さ」まで書き込まれていた。
 (ゲームみたい)
 正直なところ、最初は少しワクワクしていた。
 決められた手順を覚えて、その通りに動いて、うまくいけば「よくできました」と言われる。
 子どもの頃から、そういう「正解のあるやり方」は嫌いじゃなかった。
 接客のロールプレイング。
 提供時間を短くするためのタイムアタック。
 気づけば、マニュアルのページは手垢で少しずつ柔らかくなり、璃音の動きも滑らかになっていった。
 数か月後。
 「璃音さん、接客評価、今月トップだったよ」
 ある日、バックヤードで店長が紙を見せてきた。
 そこには、「提供時間」「追加オーダーの提案数」「アンケートでの『とても満足』の割合」が表になって並んでいる。
 璃音の名前の横には、小さな星印がいくつも付いていた。
 「おめでとう。こういう仕事、向いてるね」
 「ありがとうございます」
 素直に嬉しかった。
 その頃の璃音は、「正解に近づけている」ことが、何よりも安心だった。
     ◇
 そんなある日、開店直後の店に、一人の客が入ってきた。
 平日の朝七時半。
 通勤ラッシュが始まる少し前の時間。
 入口のベルが鳴り、黒いコート姿の女性が静かにカウンターへ歩いてくる。
 「いらっしゃいませ」
 マニュアル通りの笑顔を浮かべると、女性は少しだけ息を吐いた。
 「モーニングセットBを、テイクアウトで」
 「かしこまりました。ホットコーヒーでよろしいでしょうか」
 「ええ」
 短いやり取り。
 決められた台詞。
 トレーにセットを乗せ、「行ってらっしゃいませ」と手渡す。
 女性は小さく会釈して、改札の方へ消えていった。
 翌日も、その翌日も、同じ時間に同じ客が現れた。
 黒いコート。
 疲れた目元。
 注文も、同じ。
 モーニングセットBを、テイクアウトで。
 やがて、ほかのスタッフたちも彼女を「Bセットさん」と呼ぶようになった。
 「今日はBセットさん来るかな」
 「電車遅れてるみたいだから、ちょっとズレるかも」
 それは、静かな朝の合図だった。
 ある雨の日。
 開店からしばらくしても、客はまばらだった。
 ガラスに打ちつける雨の音だけが、店内に響いている。
 そんなとき、いつものように入口のベルが鳴いた。
 「いらっしゃいませ」
 璃音は、カウンターから一歩前に出る。
 黒いコート。
 少し湿った髪。
 いつもより、足取りが重い。
 「モーニングセットBを——」
 そう言いかけた女性の声が、途中で少しだけ揺れた。
 璃音は、ほんの一瞬、マニュアルのページを頭の中から外に押し出した。
 「……ホットですね」
 「ええ」
 「テイクアウトでよろしいでしょうか」
 いつもの流れで確認しながら、紙コップを用意する。
 カップにコーヒーを注ぎながら、ふと口が動いた。
 「今日は、かなり降ってますね」
 マニュアルにはない一言だった。
 女性は、びくりと肩を震わせたように見えた。
 「ええ。最悪です」
 苦笑ともため息ともつかない声。
 「この天気で、客先訪問ですよ。駅から先、ずぶ濡れ確定」
 「それは……大変ですね」
 返しながら、自分でも驚いていた。
 いつもの自分なら、「お気をつけて」とか、「足元にお気をつけください」といった定型文を選んでいたはずだ。
 けれど、このときは、口が勝手にこう動いた。
 「コーヒー、いつもより少し熱めにしておきました。
 すぐ飲めないかもしれませんが、外に出たときに、少しだけ助けになるかもしれないので」
 女性は、紙コップを受け取る手を一瞬止めた。
 「……そういうの、マニュアルに書いてあるの?」
 問いかけは、冗談めいていた。
 「いえ。これは、私の勝手です」
 正直に答えると、女性は小さく笑った。
 「じゃあ、勝手に助けてもらうことにするわ。ありがとう」
 その日から、Bセットさんは、時々一言だけ雑談を返してくるようになった。
 「今日は、会議が三つもあるのよ」とか、
 「このあと、上司の前でプレゼンなの」とか。
 璃音は、それに対して、マニュアルにはない短い言葉を返した。
 「うまくいきますように」
 「帰りに寄れたら、結果教えてくださいね」
 忙しい朝のカウンターで、それはほんの数秒のやり取りだった。
 でも、その数秒が、璃音にとっては、一日の中で一番「人と話した」と思える時間になっていった。
     ◇
 店の評価は、ずっと数字で下された。
 提供時間。
 客単価。
 アンケートの点数。
 新しいシステムが入ってからは、タブレットに表示されるグラフで「今週の自分の成績」が一目で分かるようになった。
 「璃音さん、今月もトップだね」
 店長は、折に触れてそう言った。
 「うちの店、支店の中でも優秀なんだよ。数字だけ見れば」
 「数字だけ見れば?」
 「うん。最近、本社がそれしか見てないからね」
 店長は、タブレットの画面を指で弾いた。
 「顔は、見えない」
 その言い方が、どこか寂しそうだった。
 その少しあと。
 店に、新しい機械が導入された。
 セルフレジ。
 客が自分で画面をタッチして注文を選び、支払いまで完結できる仕組み。
 スタッフは、カウンターの奥でカップを並べ、画面に表示された番号のドリンクをただ黙々と作る。
 「これで、提供時間がもっと短くなる。間違いも減る」
 本社から来た担当者は、誇らしげにそう話していた。
 実際、その通りだった。
 朝の行列は短くなり、クレジットカードのトラブルも減った。
 その代わり——、カウンター越しの短い雑談も減った。
 「今日も雨ですね」
 「お仕事、頑張ってください」
 そういった一言を挟む隙間が、画面と機械に吸い込まれていく。
 Bセットさんも、セルフレジの使い方をすぐに覚えた。
 画面のボタンを迷わず押し、支払いを済ませ、番号札を受け取る。
 カウンターの前で待つ時間も短くなった。
 ある日、いつものようにモーニングセットを用意していると、背後から店長に声をかけられた。
 「璃音さん、ちょっといい?」
 「はい」
 バックヤードで渡されたのは、新しいシフト表だった。
 「今度から、朝の時間帯はキッチンメインでお願いしたいんだ。
 セルフレジになってから、ドリンク作るスピードが大事になってきてね。璃音さん、そこが一番早いから」
 「分かりました」
 納得できなくはなかった。
 朝のラッシュを乗り切るには、確かにスピードが必要だ。
 カウンターに立つ人より、マシンを扱う人の腕の方が重要になっている。
 ただ、頭のどこかで、小さく「Bセットさん」の顔が浮かんだ。
 (あの人、カウンターに誰がいるか、気づいたりするかな)
 考えても、答えは出ない。
 でも、シフトは変わった。
 次の週から、璃音はエスプレッソマシンの前に張り付くようになった。
 客の顔より、画面の番号の方をよく見る毎日。
 「提供時間」の数字は、確かによくなっていった。
 タブレットのグラフは、相変わらず一番上に自分の名前を表示している。
 それでも、胸の奥のどこかで、何かが少しずつ薄くなっていくのを感じていた。
     ◇
 転機が訪れたのは、突然だった。
 ある朝、出勤すると、店長がバックヤードで腕を組んでいた。
 「璃音さん、ちょっと」
 その顔は、どこか落ち着かない。
 「どうかされましたか」
 「朝の常連さんがね。ほら、前に『雨の日は最悪』って言ってた方」
 「……Bセットさんですか」
 「そう、その方」
 店長は、手に持っていた紙を差し出した。
 「さっき、これを書いてくれたの」
 紙は、アンケート用のカードだった。
 『いつも朝、ここでモーニングセットを買って会社に行っていました。
 今日、会社を退職するので、この駅を使うのも最後になります。
 前のレジにいた女性の方に、ずっとお礼を言いそびれていました。
 セルフレジになってから姿を見ないので、もういないのかと思っていましたが、
 今日、奥でコーヒーを作っているのを見て、まだここにいることが分かりました。
 毎朝、「行ってらっしゃいませ」と声をかけてくださってありがとうございました。
 その一言で、「今日もなんとかなるかもしれない」と思えた日が何度もありました。
 これからは別の駅を使うので、もうここには来られません。
 どうか、あの方にも「ありがとう」と伝えてください。』
 読み終わるまでに、少し時間がかかった。
 文字は決して綺麗ではなかったが、一行一行に迷いがなく、はっきりとした筆跡だった。
 「さっき、本人が『急いでるので渡しておいてください』って置いていったんだ」
 店長は、カードを見つめながら言った。
 「レジに立ってた新人が、『たぶんあの人だと思います』って教えてくれてね。
 俺も、『ああ、Bセットの方か』って気づいて」
 「……そうでしたか」
 言葉が、なかなか出てこない。
 「だから、ひとまず俺から代わりに言わせて」
 店長は、璃音の方を見た。
 「いつも、朝の店を回してくれてありがとう」
 不意に、視界がぼやけた。
 「いえ、私は……ただ、マニュアル通り——」
 「マニュアル通りにやるって、案外難しいんだよ」
 店長は、少し笑って肩をすくめた。
 「ボタン押す順番覚えるだけなら誰でもできる。
 でも、『行ってらっしゃいませ』を毎日同じトーンで、同じ温度で言い続けるのは、誰にでもできることじゃない」
 胸の奥のどこかで、何かが少しだけほどける音がした。
 顔の見えない評価表。
 数字だけのグラフ。
 その外側で、自分の声が誰かの朝に積み重なっていたことを、初めて知った。
     ◇
 それからしばらくして、店の運営体制が変わることになった。
 本社が別会社に業務を委託し、スタッフの配置も大幅に変わる。
 時給は上がるが、その代わり、勤務形態はさらにきつくなるらしい。
 新しい契約書を渡されたとき、璃音は一晩持ち帰って、何度も読み返した。
 (ここで働き続けても、多分私は数字は取れる。
 提供時間も、客単価も、きっと上位にいられる)
 それは、悪いことではない。
 むしろ、誇れることのはずだ。
 でも。
 あのアンケートカードの文字が、頭の中に浮かんでくる。
 『どうか、あの方にも「ありがとう」と伝えてください。』
 (私は、多分、ああいう顔の見える「ありがとう」がほしいんだ)
 数字の隣に小さく書き込まれる、誰かの言葉。
 それが、頑張る理由になる場所で働きたい。
 翌日、店長に退職の意思を伝えた。
 「もったいないなあ」
 店長はそう言いながらも、反対はしなかった。
 「うちみたいな店じゃなくて、もっと顔の見える場所で働きたい、って顔してるよ」
 「そんな顔、してました?」
 「してた。タブレットじゃなくて、お客さんの表情見る方が似合ってると思う」
 そこから先の数週間は、忙しさと名残惜しさが入り混じった時間だった。
 セルフレジの横で、新人にマシンの扱い方を教えながら、
 心の中では別のカウンターを何度も思い描いていた。
 小さくて、川沿いで、本と酒があるような場所。
 数字も大事だけれど、それ以上に「今日の一日」を話すことのできるカウンター。
 (そんな店、本当にあるのかな)
 半分は冗談のように、半分は本気でそう思っていた。
     ◇
 話を終えたとき、「川べり文庫」のテーブルには静かな間が落ちていた。
 璃音は、空になったマグカップの底を見つめながら、小さく息を吐く。
 「……以上が、私の『マニュアルだらけの店』の思い出です」
 「なんか、想像してたよりずっと……」
 凱理が、言葉を探しながら首を傾げた。
 「ずっと、ちゃんと人間関係してましたね」
 「どういう感想ですか、それ」
 「いや、もっとこう、ロボットみたいに働かされてたのかなって」
 「ロボットでも、アンケートカードもらったら嬉しいですよ」
 璃音は、少し照れくさそうに肩をすくめた。
 「私、あのカードを見たときに、『もう一回、人の顔がちゃんと見える場所に行きたい』って思ったんです。
 画面越しじゃなくて、席に座っている人の表情が分かる場所に」
 「それで、ここに?」
 阿紗美が尋ねる。
 「はい」
 璃音は、窓の外を見た。
 川の向こうに、駅の明かりがかすかに見える。
 かつて、自分が働いていたカフェが入っていたビルとは別の駅だ。
 「ここなら、多分、『行ってらっしゃいませ』じゃなくて、『お疲れさま』って言えるなって思って」
 その言葉に、花春がふっと笑う。
 「言ってるね、いつも」
 「はい?」
 「カウンターで、『今日はどんな一日でした?』って聞く前に、『お疲れさまです』って必ず言ってる」
 そう言われて、璃音は少し考えた。
 確かに、カウンターに座った客に水を出すとき、自然とその言葉が口をついている。
 「たぶん、あの朝のカウンターの名残なんだと思います」
 璃音は、ゆっくり頷いた。
 「『行ってらっしゃいませ』の代わりに、『お疲れさま』を言う場所を、ずっと探してたのかもしれません」
 「いいね、それ」
 絵斗が、テーブルに肘をつきながら言う。
 「じゃあ、うちのカウンターは、『お疲れさま』と『行ってらっしゃいませ』両方言える場所にしようか」
 「飲みに来た人に、『行ってらっしゃいませ』?」
 「帰るときにさ。『明日も行ってらっしゃいませ』って」
 「それ、ちょっと元気出るかもしれませんね」
 花春が、嬉しそうに目を細める。
 「じゃあ、明日から使いましょう。常連さんに」
 「マニュアルに書きます?」
 璃音が意地悪く聞くと、奏斗がすかさず答えた。
 「書きません。これは、各自の裁量で」
 「珍しく、マニュアル外の運用ですね」
 「たまには、そういう日もあっていいでしょう」
 その言い方は、どこか楽しげだった。
 窓の外では、川面の灯りが少しずつ減っていく。
 終電に向かう人たちの足音が遠くで混ざり合う。
 酒の流れる川のほとりで、マニュアルだらけのカフェからやってきた女性は、
 今日もまた、「お疲れさま」の言い方を一つ、覚え直したところだった。
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