酒の流れる川で君を待つ

乾為天女

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第11話 飲食店スタッフとして働いていた時の思い出・奏斗

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 火曜日の夜、「川べり文庫」はめずらしく静かだった。
 ラストオーダーを終え、最後の客を見送ったあと、店内にはスタッフの足音だけが残っている。
 川沿いの提灯はまだ灯っているけれど、その灯りもどこか遠く、窓ガラス越しに淡く揺れているだけだ。
 「……よし」
 花春が、ホールの照明を一段階落とした。
 さっきまでお客が座っていたテーブルには、まかない用の皿が並び始めている。
 「今日は、ちゃんと座って食べられそうだね」
 絵斗が、スープの鍋を持って出てくる。
 湯気の向こうに、少し誇らしげな顔があった。
 「これ、何スープですか?」
 璃音が椅子を引きながら尋ねる。
 「野菜と鶏のスープ。冷蔵庫の半端なやつ全部入れたけど、ちゃんとおいしくしたから安心して」
 「『半端なやつ』って言わないでください」
 阿紗美が笑いながら、パンを籠ごとテーブルに置いた。
 「でも、間違いなく栄養はありますね」
 凱理は、スプーンを持つ前から椅子に深く座り込んでいる。
 「いただきます、って言う前に魂だけ食べ終わりそうなんですけど」
 「じゃあ、早めに始めよっか」
 花春が両手を合わせた。
 「今日も一日、お疲れさまでした。——いただきます」
 全員の声が重なり、スプーンが皿に当たる音がテーブルの上に広がる。
     ◇
 しばらくは、ただ食べる音が続いた。
 温かいスープが喉を通り、固くなっていた肩がゆるんでいく。
 「……こうして落ち着いて座ると、なんか変な感じですね」
 璃音が、パンをちぎりながら言った。
 「いつもは、お客さんが帰るまで立ってるから」
 「いいじゃない。たまには『閉店後の喫茶店』みたいな空気、楽しもうよ」
 花春が、マグカップを両手で包む。
 「そういえば、この前言ってたでしょ。『飲食店スタッフとして働いていた時の思い出』、いつか話そうって」
 「ああ」
 奏斗は、カウンターの内側からその言葉を聞きながら、空いたグラスをまとめていた。
 「今日くらいの静けさなら、話す時間もありますね」
 「でしょ?」
 花春は、くるりと椅子を回してカウンターの方を見る。
 「せっかくだから、誰か一人ずつ話していかない? 最初に働いた店のこととか、忘れられない夜のこととか」
 「それ、絶対おもしろい」
 凱理が、スプーンをくるくる回しながら乗ってくる。
 「俺、前の店の黒歴史めっちゃありますよ。ドリンク十杯分こぼした話とか」
 「それは、心の準備ができた時に聞くね」
 絵斗が苦笑する。
 「順番、どうします?」
 璃音が周りを見回す。
 「こういうのって、だいたい『話したい人から』ってなるけど……」
 「『話したくないけど、聞いてほしいことがある人』から始めるのはどう?」
 花春が、カウンターの方をちらりと見た。
 「奏斗さん、とか」
 視線が一斉に集まる。
 奏斗は、手に持っていたグラスを一度布巾に戻し、ゆっくりと息を吐いた。
 「……僕ですか」
 「はい」
 花春は、にこりと笑う。
 「いつも『数字』とか『原価』とか言ってる人が、最初にどんな店で働いてたのか、純粋に気になります」
 「私も聞いてみたいです」
 璃音が、スープのカップを両手で持ったまま頷いた。
 「最初からそんなに折り目正しかったのか、それともどこかの店でそうなったのか」
 「失礼な前提ですね」
 そう言いながらも、奏斗はカウンターから出てきて、空いている椅子に腰を下ろした。
 エプロンの紐を少し緩める。
 「……では、少しだけ」
 そう前置きしてから、カウンターの明かりを一段階落とした。
 窓の外の川の灯りが、ほんの少しだけ近くなる。
     ◇
 「最初に飲食店で働いたのは、大学二年のときでした」
 奏斗は、手元のマグカップを一度回してから、遠くを見るように目を細めた。
 「駅前のファミリーレストランです。郊外によくある、駐車場付きの、どこにでもあるチェーン店」
 「ありそう」
 凱理が、さっそく頷く。
 「メニューの写真が大きいとこですね?」
 「そうです。制服のポロシャツとエプロンをもらって、最初の仕事は『水を運ぶこと』でした」
 大学の講義を終え、夕方の電車でその店に向かっていたころの景色が、頭の中に鮮明によみがえる。
 駅から伸びるバイパス沿い。
 ガソリンスタンドとドラッグストアとクリーニング店に挟まれた、そのレストランは、夜になると看板のネオンだけがやたら眩しかった。
 「最初の一週間は、ひたすら『いらっしゃいませ』『お待たせいたしました』の練習でした。
 テーブル番号と席の位置、ドリンクバーの説明の仕方、クレジットカードの通し方。全部マニュアル化されていて」
 「チェーン店っぽいですね」
 璃音が、どこか懐かしそうに笑う。
 「僕は、そういう『決まりごと』が嫌いではありませんでした。
 やるべきことが全部書いてあって、その通りに動けば、店がきれいに回る。数字も、ちゃんとついてくる」
 「数字?」
 「毎日の売上です」
 奏斗は、カウンターの帳簿を軽く指で叩いた。
 「レジ締めを手伝うようになってから、売上グラフをつけるのが密かな楽しみになりました。
 月曜から日曜までの推移、雨の日と晴れの日の違い、クーポンを出した日の伸び方。全部、線になって見えてくる」
 「うわ、出た。今と同じことしてる」
 凱理が、スプーンで机をとんとん叩く。
 「その頃から、数字オタクだったんですね」
 「オタクと言われると少し心外ですが」
 奏斗は、少しだけ口元を緩めた。
 「でも、正直に言うと——、その店はあまり『居心地のいい場所』ではありませんでした」
 少しだけ声のトーンが落ちる。
 「シフトが足りなければ、当然のように連勤になる。客席がどれだけ埋まっていても、『もっと回せるだろう』と言われる。
 売上が前月比を下回ると、エリアマネージャーが来て、ホールとキッチンを『チェック』していく」
 そのときの空気の重さが、今でも身体のどこかに残っている。
 「だからこそ、数字を整えることに必死だったのかもしれません。
 シフト表と売上実績を見比べて、『この時間帯に何人いれば、何分で料理が出せるか』を計算して。
 『これだけやっている』と言える根拠がほしかったんだと思います」
 「それ、今でもやってますね」
 花春が、苦笑しながら相槌を打つ。
 「『この人数でこの売上なら悪くない』って、よく言ってる」
 「はい。その癖は多分、そこからです」
 奏斗は認めるように頷いた。
 「ただ、その店で一つだけ、数字にできなかったものがあります」
 「何ですか?」
 璃音の問いに、少しだけ間を置く。
 「——『ありがとう』です」
     ◇
 その人は、いつも同じ時間に来る客だった。
 平日の夜九時。
 ディナータイムのピークが落ち着き、テーブルの皿が一斉に片付けられていく時間帯。
 レジ横の扉が静かに開き、少し古びたコートを着た女性が入ってくる。
 肩までの髪を後ろでまとめ、手には厚手の紙袋。
 「いらっしゃいませ」
 練習通りに声を出すと、その女性はいつも、少しだけほっとしたような表情を浮かべた。
 「おひとりさまですか」
 「ええ、いつもの席空いてる?」
 そう言うと、店の奥の窓際をちらりと見る。
 そこは、駐車場の向こうにコンビニの看板が見えるだけの席だった。
 特別な景色があるわけではない。けれど、その人はいつも、そこを選んだ。
 「空いています。ご案内しますね」
 その女性——佐江子さんは、必ず同じものを注文した。
 ドリンクバーと、サラダと、ハンバーグのセット。
 ドリンクバーでは、最初にホットコーヒーを一杯だけ入れ、あとはほとんど手をつけない。
 代わりに、サラダをゆっくり時間をかけて食べ、ハンバーグを半分だけ残す。
 残りは、いつも「明日の朝に食べるの」と言って持ち帰りにしていた。
 「もったいないからじゃなくてね」
 ある日、奏斗がこっそり理由を聞いたとき、佐江子さんは笑って答えた。
 「明日の朝、これ温めて食べると、『昨日はちゃんとご飯食べて帰ったな』って思い出せるから」
 「はあ……」
 当時の奏斗には、その感覚がいまいち分からなかった。
 ご飯はその場で食べるもので、翌朝に持ち越すものではないと思っていたからだ。
 「でもさ、ここに来る前は、コンビニのおにぎりだけで済ませちゃう日も多かったのよ」
 佐江子さんは、フォークを皿に置きながら続けた。
 「家帰るとぐったりしちゃってね。誰かに『お疲れさま』って言われる前に布団に倒れ込んじゃうこともあって。
 だから、ここに寄るようになったの」
 「うちに、ですか」
 「ええ。ここに来ると、『いらっしゃいませ』って言ってもらえるでしょ」
 それは、あまりにも当たり前の台詞だった。
 「それから、『ありがとうございました』って言ってもらえる。
 たまに『今日は遅い時間ですね』って言われたり、『いつもありがとうございます』って言われたり」
 佐江子さんは、ドリンクバーのカップを両手で包んだ。
 「お金払ってるのは私なんだけどね。不思議と、『ここに来ると、今日一日頑張ったって認めてもらえた気がする』のよ」
 その言葉は、当時の奏斗には、少しだけ重たかった。
 レジの数字や、客数のグラフのどこにも、その「認められた感じ」は記録されていない。
 シフト表にも、店長の報告書にも、「今日、一人の客が『頑張った気がした』」なんて項目はなかった。
 「……そう言っていただけるのは、光栄です」
 マニュアルにない言葉を探して、なんとかそう返した。
 「こちらこそ、いつもありがとうございます」
 それは、その場しのぎの台詞のつもりだった。
 けれど、そのあとも佐江子さんは何度も通い、そのたびに、少しずつ「ありがとう」の使い方が変わっていくのを見ていた。
 「席空けておいてくれてありがとう」
 「この時間まで開けてくれてありがとう」
 「黙ってゆっくりさせてくれてありがとう」
 どれも、売上には乗らない「ありがとう」だった。
     ◇
 そのファミリーレストランが閉店すると決まったのは、大学四年の春だった。
 郊外の大型ショッピングモールの開業で、駅前の店が軒並み苦戦していた時期だ。
 エリアマネージャーは会議のたびに「効率」「収益」「回転率」という言葉を繰り返し、最後に一枚の紙を出した。
 「この店は、今月末で営業終了です」
 発表は、それだけだった。
 閉店までの一ヶ月、店の空気はどこか浮いていた。
 売上が上がろうが下がろうが、もう関係ない。
 備品の在庫も、最小限に抑えられる。
 「最後の一週間だけでも、客数の記録を更新したい」
 店長はそう言っていたが、その目には疲れが滲んでいた。
 閉店前日。
 その日も、佐江子さんはいつも通り九時に来店した。
 「いらっしゃいませ」
 奏斗は、いつも通りの声で迎える。
 「今日は、いつもの席あいてる?」
 そう聞かれて、どきりとした。
 「……はい。あいています」
 その席には、「閉店のお知らせ」が貼られている。
 窓際のテーブルにも、テーブルごとに小さなカードが立ててあり、そこには「長年のご愛顧ありがとうございました」の文字。
 佐江子さんは、席に座る前にそのカードをじっと見つめた。
 「……そうなのね」
 それだけ言って、いつものように腰を下ろす。
 「ご注文、お決まりですか」
 「いつものセットちょうだい」
 メニューも見ないまま、そう言った。
 キッチンでオーダーを通しながら、奏斗は胸の奥に、何か小さな棘が刺さるような感覚を覚えていた。
 閉店のことは、もっと早く伝えるべきだったのかもしれない。
 でも、「伝えたところで何が変わる」と思ってしまった自分もいる。
 ハンバーグの皿とサラダを運び、テーブルに置く。
 「……ありがとうございます」
 佐江子さんは、いつものようにサラダから一口食べた。
 しばらく沈黙が続いたあと、彼女はぽつりと言った。
 「最後の週に来られて、よかった」
 「……はい」
 「本当はね、閉店の知らせ見た瞬間、ちょっと腹が立ったのよ」
 フォークの先で、サラダの葉を摘まみながら続ける。
 「『なんで先に教えてくれなかったの』って。
 でも、ここに座ってみたら、やっぱりいつもの席で、いつもの店員さんがいて、『いらっしゃいませ』って言ってくれて」
 視線が、奏斗に向けられる。
 「それだけで、『ここがあるうちに間に合ってよかった』って気持ちの方が大きくなっちゃった」
 「……」
 「今さら、文句言ってもしょうがないものね。ここで食べたご飯は、私の体のどこかになってるし」
 佐江子さんは、いつものようにハンバーグを半分だけ食べた。
 「明日の朝も、温めて食べるの?」
 つい、そんなことを聞いてしまう。
 「当たり前でしょ」
 彼女は、笑った。
 「『昨日まで通ってた店、ちゃんと最後まで開いててくれたな』って思い出すために」
 その言葉に、胸の奥の棘が、少しだけ場所を変えた。
 「……ありがとうございます」
 マニュアルには載っていない言い方で、もう一度頭を下げる。
 「長いこと、ご利用いただきまして」
 「こちらこそ、長いこと、毎晩の『お疲れさま』をありがとうございました」
 佐江子さんがそう言った瞬間、レジ横の「閉店のお知らせ」が、急にぼやけて見えた。
 その夜の売上は、特別高かったわけではない。
 数字だけ見れば、「平日の平均」から少し上がった程度。
 でも、レジ締めをしながら、奏斗は初めて、「今日の売上」を帳簿に書き込む手を止めた。
 そして、空いている欄の片隅に、小さくこう書き込んだ。
 「今日、『最後まで開けていてくれてありがとう』と言われた」
 その一行だけは、どんなグラフにも反映されない。
 けれど、その夜以来、彼の中で「数字の横に書き込むメモ」が増えていった。
     ◇
 「それが、最初に『数字では測れないありがとう』を意識した夜です」
 そこまで話して、奏斗はマグカップを一口飲んだ。
 冷めかけたお茶の渋みが、少しだけ現実に引き戻してくる。
 「閉店の日、店長が最後のレジ締めをしている横で、僕は帳簿の余白に、今まで書きためた『ありがとう』のメモを全部読み返しました」
 花春たちは、息を飲むように静かに聞いていた。
 「『席空けておいてくれてありがとう』
 『遅い時間まで開けてくれてありがとう』
 『新人さんに優しくしてくれてありがとう』」
 「そんなにたくさん……」
 璃音が、目を丸くする。
 「売上としては、たぶん『成功した店』ではなかったと思います。
 でも、その余白のメモだけは、『ここで働いていた時間は無駄ではなかった』と思わせてくれました」
 奏斗は、テーブルの木目を指でなぞる。
 「閉店してからしばらくして、『次の店はどうする』と聞かれたとき、僕は『もう一度、数字を整えられる店で働きたい』と思いました。
 同時に、『余白に書き込める店でなければ意味がない』とも」
 「それで、『川べり文庫』に?」
 花春が尋ねる。
 「はい」
 奏斗は、少しだけ照れくさそうに笑った。
 「ここなら、レシピも帳簿も整えつつ、余白を広くとれそうだったので」
 「余白、たしかに多いですね」
 凱理が、自分のまかないの皿を指差す。
 「今日のスープのレシピなんて、絶対どこにも残ってないですし」
 「そこは、もう少し整えてほしいところですが」
 奏斗は、いつもの調子で絵斗に視線を向けた。
 「でも、そのおかげで『今日のまかない、おいしかった』というメモは、ちゃんと増えています」
 「メモってるんですか、それも」
 「頭の中の帳簿に」
 そう言って、少しだけ視線を璃音に向ける。
 カウンターの向こうには、黒い表紙のノートが置かれていた。
 そこには、「君に恋する確率」と書かれている。
 数字の横に、また新しい余白が生まれつつあることを、自分自身が一番よく分かっていた。
     ◇
 「……というわけで」
 奏斗は、少しだけ居心地悪そうに咳払いをした。
 「これが、『飲食店スタッフとして働いていた時の思い出』のうち、一つです」
 「一つってことは、まだあるんですね」
 璃音が、興味深そうに首をかしげる。
 「続きは、また今度で」
 「じゃあ、次は誰にします?」
 花春が、テーブルを見回す。
 「せっかくだから、『マニュアルの海』を経験してきた人の話とか聞きたいなあ」
 「マニュアルの海……」
 その言い方に、璃音が苦笑した。
 「たぶん、それ、私ですね」
 視線が、再び一斉に集まる。
 窓の外では、川面に映る灯りがゆっくりと流れている。
 酒の流れる川のほとりで、閉店後の小さなテーブルは、次の思い出話を待っていた。
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